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2012/07/13

耳嚢 巻之四 神祟なきとも難申し事

 

 

 神祟なきとも難申し事 

 

 是も玄瑞ものがたりけるは、同人壯年の頃、同職の者四五輩打連れて採草に出しが、新田大明神と號する義興(よしおき)の墳墓、今竹の植有(うえある)所にて、召連(めしつれ)し小僧草を取しを、同伴者差留(さしとめ)などせしを不用(もちゐず)、宿に歸りし後彼(かの)小僧の口ばしりて、我住所の草をとれる事憎さよと罵り呼(よばは)りしゆへ、大に家内驚きて右の草を元のごとく戾しければ快全なしける由。英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘す理(ことわり)もあらんか。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医師秋山玄瑞談二連発。

 

・「神祟なきとも」「祟」の音は「スイ」だが、ここは「かみ、たたりなきとも」と読む。

 

・「新田大明神と號する義興の墳墓」「新田大明神」は現在の東京都大田区矢口にある新田義興所縁の新田神社。新田義興(元徳三・元弘元(一三三一)年~正平十三・延文三(一三五八)年十月十日)新田義貞次男。奥州の北畠顕家に呼応して上野で挙兵、北畠の奥州軍に加わわった後、吉野で後醍醐天皇に謁見、元服。父義貞の戦死後は越後に潜伏したと考えられている。観応の擾乱とともに鎌倉奪還を目論見、上野国に於いて北条時行を旗頭として挙兵、正平の一統の破綻後は正平七・観応三(一三五二)年、宗良親王を奉じて弟義宗・従兄弟脇屋義治と再挙兵し、一時、鎌倉を占拠するも尊氏の反攻にあって追われる。尊氏没後の半年の後、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領畠山国清によって送り込まれた刺客竹沢右京亮及び江戸遠江守高良によって、主従十三人とともに多摩川矢口渡で自刃して果てた。享年二十八歳。「太平記」巻之三十三に拠れば、義興の死後、謀殺の下手人であった江戸高良が矢口渡で義興の怨霊に逢い、惑乱狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために「新田大明神」として祀ったと記す(以上は主にウィキ新田義興」を参考にした)。社殿の背後に円墳があるが、これは「御塚」と呼ばれ、新田義興の墓とされる。古くより「荒山」「迷い塚」などとも呼ばれ、ここに入ると必ず祟りがあるとされる。(現在は立入禁止。この部分は「古今宗教研究所」の新田神社」の記載に拠った)これらは明和七(一七七〇)年江戸外記座で初演された江戸浄瑠璃の傑作平賀源内(福内鬼外名義)作の「神霊矢口渡」で頓に知られるものであるが、底本の鈴木氏注には『ただし、義興が憤死した矢口の渡はここではなく、もとの鎌倉街道筋の南多摩郡稲城町矢野口であるという説もある』とも記されている。典型的な「御霊(ごりょう)信仰」である。

 

・「英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘す理もあらんか」前段の如何にも意地の悪い書き方に比してこの素直さ、そして前段の悪意に満ちた表題「痔の神と人の信仰可笑事」と、この「神祟なきとも難申し事」という共感性を比較して見ても、根岸が神道系には(+)のバイアスが、仏教でも日蓮宗系に有意な(-)のバイアスがかかるという私の説を納得戴けるものと存ずる。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 神の祟りが無いとも言えぬ事

 

 これも私の知人、医師秋山玄瑞殿が物語って御座った話である。――

 

……拙者壮年の折り、同じく医業に携わる者四、五人をうち連れて、薬草の採取に出かけたことが御座った。

 

……矢口の渡しの近く、新田明神と号す社の後ろに……ほれ、新田義興の墳墓と伝えるものが御座ろう……さても今となっては、すっかり深き竹藪の植わって御座るところなれど……あの周辺で、採草致いて御座ったのじゃが……たまたま、拙者が召し連れて御座った小僧が……拙者からは大分、離れておった故……他の仲間が止めるのもよう聞かずに……かの古墳の内へと入り込んで、薬草を採ってしもうたのじゃ。……

 

……その日、小僧を連れて屋敷に戻ったのじゃが……夜になると……かの小僧、俄かに大声にて、何やらん、口走り始めた。それを聴くに、

 

「……我が棲家の草を取るとはッ!……そのことの、アアアッ、憎さよッ!……ウワアアアッ!!!」

 

と……これまた、子供の声とは思えぬ、野太き韋丈夫の、そりゃ、恐ろしき声にて御座っての……罵り呼ばわって走り回る……

 

……もう、家内の者も大いに驚き……

 

……ともかくも、かの言に従わんに若くはなしと一同決して、かの神域より採取した草を、元通り、戻いたところが……

 

……これ、何事もなかったかのように、小僧は元の通りに戻って御座ったのじゃ……。 

 

――さても按ずるに――かく、英雄豪傑の類いの怒気というもの――これ、死して後も、そこに凝っと動かず、消えず、しっかと残るものなればこそ――死して後の世に、祟りなす、恐ろしき、神ともなって残る、という道理も――これ、決して――妄説とは言えぬのでは、御座るまいか?――

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