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2012/07/26

耳嚢 巻之四 藝には自然の奇效ある事

 藝には自然の奇效ある事

 

 文昭院樣御代(みよ)、桐の間を勤し祐山(いうざん)は亂舞の名人にて、今も諷本(うたひぼん)抔にも祐山の章とて彼道に志す者は重寶(ちようほう)となしぬ。祐山の能を見し人の語りけるは、いづれ上手とも名人とも見へしが、或時夜討曾我を舞ひけるに、右能は端能(はのう)にて初心童蒙(どうもう)の舞ふ事なるに、祐山のシテにて、右切の太刀かい込んで立たりけりといへる所のあるよし、さしたる仕打(しうち)もなき所ながら、見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し由。老人の語りけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:喜多流第九代古能(ひさよし)から第七代宗能(むねよし)祐山へ、乱舞名人芸譚、そのドゥエンデで直連関。

・「文昭院」第六代将軍徳川家宣(寛文二(一六六二)年~正徳二(一七一二)年)。

・「桐の間を勤し」江戸城桐之間に詰めた新番と呼ばれた警護衆。実際には、楽人や舞方を中心に、大名・旗本・公家の美童どころを集めたものであった。

・「祐山」喜多七大夫宗能(むねよし 慶安四(一六五一)年~享保一六(一七三一)年)の号。従五位下丹波守。江戸生。喜多流第二代宗家喜多十大夫当能(まさよし)の養子で寛文(一六六五)五年に三代目を継いだ。当初、第四代徳川家綱(寛永一八(一六四一)年~延宝八(一六八〇)年)に仕えたが勘気を蒙り、鎌倉に蟄居、次いで第五代将軍徳川綱吉(正保三(一六四六)年~宝永六(一七〇九)年)の指南役となるも、再び貞享三(一六八六)年に改易される。翌年に許され、中条嘉兵衛直景と改名して出仕、御廊下番・桐之間番から宝永六(一七〇九)年桐之間番頭となった(綱吉の没年である)。加増相次ぎ、正徳元(一七一一)年には九百石となり、同五(一七一六)年致仕とあるから(家継の没年である)、次代の家宣、夭折した少年将軍第七代家継まで出仕は続いた。享年八十二歳、実に四代の将軍に仕えた舞人であった。なお、養子十大夫長寛が七大夫となって喜多流第四代を継いでいる(以上は底本鈴木氏注及び講談社「デジタル版日本人名大辞典」等を参考にした)。

・「諷本(うたひぼん)」は底本のルビ。

・「章」謡本に書き入れた音譜のこと。

・「夜討曾我」宮増作か。曾我十郎裕成(ツレ)・五郎時致(ときむね:シテ)兄弟は頼朝の催した富士の巻狩に紛れて、父の仇工藤祐経を討とうと富士の裾野に赴く。兄弟は従者の鬼王(ツレ)と団三郎(ツレ)兄弟を呼び寄せて真意を打ち明け、自分達の母への形見を彼らに託すが、彼らは主君と最後をともにしたい、それが許されないとならばとて、二人は刺し違えて死のうとする。十郎が驚いてこれを押し止めて、説き伏せた上、兄弟して母に文を認め、形見を託して、団三郎・鬼王兄弟を故郷へと送り出す(ここまでが前段)。後、二人は祐経の寝所に忍び込んで本懐を遂げる。中入り後は、その後の場面で、既に十郎は討たれており、五郎(シテ)は剛勇古屋五郎(ツレ)を真二つに斬って奮戦するも、女装した五郎丸(ツレ)に捕らえられて、頼朝の御前に引き立てられていくまでを描く。

・「端能」軽い能。謡曲としての「夜討曾我」は曽我物語を題材とした中でも最も劇的で大掛かりな曲で(観世流小書「十番斬」では間狂言と後場の間に時致と新開忠氏及び祐成と仁田忠綱の斬り合いの場面が挿入される)、アクロバティックであるが故にかく言ったものか。――関係ないが、現代では「端能」と書くと、物質が放射線を出す能力を言う。何と、無粋で哀しいことか。――

・「初心童蒙」能の初心の、それも青少年の演じるものという意。家宣が将軍となった時点でも、祐山喜多七大夫宗能は既に六十歳であった。

・「切」能の終曲部分。以下に「夜討曾我」の中入り後の後段総てを示す(キューブアキ氏の「夜討曽我」から引用させて頂いたが、一部の漢字を正字化、それに伴って注を省略した部分がある)。

   《引用開始》

一セイ

後ツレ「寄せかけて、打つ白波の音高く、閧を作って、騷ぎけり

後シテ「あら夥しの軍兵(ぐんびょう)やな

   「我等兄弟討たんとて、多くの勢は騷ぎあひて、此處を先途と見えたるぞや。十郎殿、十郎殿。何とてお返事はなきぞ、十郎殿。宵に仁田(にった)の四郎と戰ひ給ひしが、さてははや討たれ給ひたるよな。口惜しや、死なば屍(かばね)を一所とこそ、思ひしに

   「物思ふ春の花盛り、散り々々になって此處彼処に、屍を曝さん無念やな

 地 「味方の勢はこれを見て、味方の勢はこれを見て、打物の、鍔元(つばもと)くつろげ時致を目がけて懸りけり

シテ 「あらものものしやおのれ等よ

 地 「あらものものしやおのれ等よ。前(さき)に手練(てなみ)は、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ。かヽりける處に、御内方(みうちがた)の古屋五郎、樊噲が、怒りをなし張良が祕術を(と)盡しつヽ、五郎が面に斬って懸る。時致も、古屋五郎が抜いたる太刀の、鎬(しのぎ)を削り、暫しが程は戰ひしが、何とか斬りけん古屋五郎は二つになってぞ見えたりける

   「かヽりける處に、かヽりける處に、御所の五郎丸御前に入れたて叶はじものをと、肌には鎧乃袖を解き、草摺輕(かろ)げに、ざっくと投げ掛け上には薄衣(うすぎぬ)引き被(かづ)き、唐戸(からと)の脇にぞ待ちかけたる

シテ 「今は時致も、運槻弓の

 地 「今は時致も、運槻弓の、力も落ちて、眞(まこと)の女(じょ)ぞと油斷して通るを、やり過し押し竝(なら)べむんずと組めば

シテ 「おのれは何者ぞ

五郎丸「御所の五郎丸

 地 「あら物々しと綿嚙(わだがみ)摑(つか)んで、えいやえいやと組み轉(ころ)んで、時致上になりける處を、下よりえいやと又押し返し、その時大勢おり重なって、千筋(ちすじ)の繩を、かけまくも、忝(かたじけな)くも、君の御(おん)前に、追っ立て行くこそ、めでたけれ

   《引用開始》

「運槻弓」は「運、つきゆみの」と「運尽きる」に掛ける。「綿噛」は鎧の胴を肩から吊す革。本文の引用は前の方の地歌の『あらものものしやおのれ等よ。前に手練は、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ』の部分に相当する。確かにここは見せ場であるが、えらく前の部分ではある。「切」という言葉は、狭義の最後のシーンを指すものではなく、謡曲の後半シークエンス全体を漠然と指すものなのであろうか。私は寧ろ、この話者の老人が、続く台詞の『譽めぬ人こそなかりけれ』に引っ掛けて、『見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し』と語るための、確信犯の引用ではなかろうかという気がしている。訳ではそのように訳した。

・「仕打」俳優が舞台でする演技。仕草・こなしの意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸には自然神妙の技ある事

 

 文昭院様の御世、桐之間番を勤めた祐山喜多七大夫宗能殿は、これ、乱舞(らっぷ)名人で御座った。

 今に通行(つうぎょう)する謡本(うたいぼん)などにもても、『祐山の章』と呼ばれる祐山殿直筆の書き入れが残っており、これらを、かの道を志す者は重宝(じゅうほう)と致いておる。

 祐山の能を見たことがある、さる御仁の話によれば――確かに世間で言うところの『上手』とも『名人』とも言われん舞人であったとのことで御座るが――これ、ただの『上手』『名人』では御座らなんだ、という……

 

……ある時のことじゃ、祐山殿が「夜討曾我」を舞って御座ったが……まあ、この能、端能(はのう)で御座って、の……謂わば、そのシテ五郎時致(ときむね)は、まず、初心者、少年の舞うものと相場が決まって御座る……それを既に齢(よわい)六十を越えた御大祐山が舞(も)うたのじゃ……かの切りにはの、

「――太刀取り直し、立ったる気色――」

というシテ五郎の、とびきりの見得を切る見せ場が御座るのじゃが……祐山殿のそれは、さしたるこなしとも見えなんだにも拘わらず……見物の輩、皆……思わず知らず心打たれての、

――『これを譽めぬ人こそなかりけれ』と――

一同、感嘆の声を、挙げてござったじゃ……

 

……と、その老人の語って御座った由。

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