鎌倉攬勝考 鶴岡八幡宮 北斗堂跡
これを記したのは、注を読んで戴きたいからである。実朝暗殺の黒幕の一人と僕が踏んでいる人物について、である……
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北斗堂跡 社地に今其舊跡しれず。此所に始て別當の勸請せし堂なり。此後仁治年中、將軍家〔賴朝〕勸請の堂は大倉に祀り給ふ由【東鑑】に見ゆ。同書に建保四年八月十九日、鶴岳の宮の傍に、別當定曉僧都建立北斗堂、今日供養、小河法印忠快導師也、尼御臺御參云云、同十月廿九日、將軍家〔實朝〕爲御願、於鶴岡北斗堂有一切經供養、導師三位僧都定曉、將軍家御出、御臺御同車也、相州等扈從、廣元朝臣爲奉行云云、或記にいふ應永年中再興せしことあれば、其後廢したるべしともいえり。
[やぶちゃん注:「仁治年中、將軍家〔賴朝〕勸請の堂は大倉に祀り給ふ由【東鑑】に見ゆ」とあるのは、仁治元(一二四〇)年十月十九日の条「十九日己酉。天晴。大倉北斗堂地曳始事。佐渡前司。兵庫頭等可奉行之云々。」(十九日己酉。天晴。大倉の北斗堂地曳始めの事、佐渡前司、兵庫頭等之を奉行すべしと云々。)を指す。
「定曉」「ぢやうぎやう(じょうぎょう)」と読む。本件とは全く無関係であるが、私はこの鶴岡八幡宮別当阿闍梨定暁なる人物にある疑念を抱いている(尊暁と同一人物とする記載がネット上に散見されるが、これは誤りである。尊暁は定暁の前の鶴岡八幡宮別当であり、定暁は彼から建永元(一二〇六)年五月三日に別当職を委譲されている)。着目すべきは建暦元(一二一一)年九月十五日に頼家の子善哉十二歳が、彼の下で出家している事実である。かれの法名は公暁――彼は公暁の師なのである。園城寺系の僧で、同年九月二十二日には公暁を伴って園城寺にて授戒するために上洛もしており、その関係は如何にも親密なのである。建保五(一二一七)年五月十一日に定暁は腫物を患って入滅するが、翌六月二十日には即座に、園城寺より帰った公暁が彼を継いで鶴岡八幡宮別当に就任する。――そして――翌々年の建保七(一二一九)年一月二十七日のカタストロフへと雪崩れ込んでゆくのである。――公暁の実朝暗殺に於いて、私は十代の終りから、この「定暁」なる人物がキー・パースンなのではないかと秘かに疑り続けてきた。定暁の出自……また、曾て調べた折りには、同名異人で定暁なる人物が見つかり、その人物がまた、本暗殺に繋がるような非常に興味深い人物であったと記憶する(資料を散佚したため、残念ながらこれ以上は書けない)……これは管見する限りでは誰も問題にしていないはずである。……しかし、もう、私の貧しい知見では、この問題をディグすることは不可能かも知れぬ。どなたかに衣鉢を嗣ぎたいと思う。
「或記にいふ應永年中再興せしこと」応永は三十五年続き、昭和・明治に続く三番目の長きに亙った元号である。西暦一三九四年から一四二八年まで。この「或記」とは「鎌倉市史 社寺編」によって十四世紀の鶴岡社務記録である「鶴岡事書日記」を指すものと思われる。そこには応永四(一三九七)年に北斗堂造替が決まり、同年七月十六日に立柱上棟が行われたと記されているらしい(「鎌倉市史 社寺編」の「五 室町時代」に拠った)。]
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