火野葦平 河童曼陀羅 テクスト化始動
火野葦平の43篇からなる河童作品集「河童曼陀羅」のテクスト化を始動する。
現在、5本目のアンガジュマン(自己拘束)である。
[やぶちゃん注:本作品集は火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなるものである。四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行された。底本は昭和五九(一九八四)年国書刊行会が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を用いた。上に示した作品表題は後書きによれば武者小路実篤の筆になるものである。
火野葦平は福岡生まれ。戦前、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向、昭和十二(一九三七)年の日中戦争出征前に書いた「糞尿譚」で翌年の第六回芥川賞を受賞、報道部へ転属となる。戦地から送った従軍記「麦と兵隊」で一躍人気作家となり、太平洋戦争中も各戦線で従軍作家として活躍した(攻略直後の南京入城ではそこに至る進撃路に於いて捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いているという)。戦後は戦犯作家のレッテルを貼られ公職追放、戦争責任を厳しく追及されたが、自伝的長編「花と竜」、自らの戦争責任に言及した「革命前後」等で再起、再び流行作家となった。昭和三五(一九六〇)年一月二四日、自宅書斎で心臓発作により死去と報ぜられた。しかし、十二年後の昭和四七(一九七二)年の十三回忌の際、遺族によりアドルムによる睡眠薬自殺であったことが以下の遺書ととともに公表された(近親や弟子らは自殺であることを知っていた)。
死にます。
芥川龍之介とはちがうかもしれないが、或る漠然とした不安のために。
すみません。
おゆるし下さい。
さようなら。
昭和三十五年一月二十三日夜。十一時。あしへい。
沖仲士玉井組組長『男の中の男』玉井勝則、享年五十三歳の自死であった。
高血圧症による右目眼底出血などから鬱病を発症していたとされるが、彼の自殺は六〇年安保に向けて騒然としていた世情とも関係があると言われている(以上の彼の事蹟の記載についてはウィキの「火野葦平」や嵐山光三郎「追悼の達人」などを参考にした)。火野葦平の著作権は既に消滅している。ブログ版では傍点「ヽ」は下線に代えた。一部篇末に私の注を附したものがある。]


