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« 火野葦平 河童曼陀羅 テクスト化始動 | トップページ | カテゴリ 畑耕一句集 蜘蛛うごく 創始 »

2012/07/21

石と釘 火野葦平

石と釘

 

鍛冶屋はいそがしかつた。汗を垂らしてまつ赤に灼(や)けた鐵を打つた。火花が散つた。鞴(ふいご)が喘息(ぜんそく)のやうな聲で鳴り、小きさい空氣窓を、ぱくりぱくりと動かしてゐた。

「ごめんよ。たのみごとがあるんぢやが」

 一人の乞食のやうな山伏が表に立つた。

「たのまれんよ。いま仕事がいつぱいだ」

 鍛冶屋はふりむきもせず答へた。

「釘を一本つくつて貰ひたいのぢやが」

「釘なら釘屋に行きなさい」

「そんな釘ぢやない。一尺くらゐの犬釘ぢやが」

 鍛冶屋はふりむいた。

「なんするんぢや」

「河童を封じるんぢやが」

ほうろく言ふとけ」

 鍛冶屋は唾(つば)を吐いた。まつ赤な鐵を打つた。火花が散つた。

[やぶちゃん注:「ほうろく」は「日本国語大辞典」によれば、名詞で、『間抜けなこと。つまらないこと。』とあって、方言で採取地は新潟県中頸城郡とする(但し、本話の舞台は「三」で分かるように北九州である)。なお、まさにこの「石と釘」のこの部分がその使用例文として示されてある。]

 

          二

 

「ごめんよ、たのみごとがあるんぢやが」

その翌日も山伏は一本齒をひきずつて釆て、鍛冶屋の表に立つた。赤鼻に水ばなを垂らして山伏は嗄れ聲で言つた。鍛冶屋は相手にしなかつた。その翌日も山伏はやつて來た。その翌目も山伏はやつて來た。鍛冶屋は灼(や)けた鐵を冷すよごれた水をぶつかけた。その翌日も山伏はやつて來た。鍛冶屋は灼けた鐵を埋める砂を浴びせた。その翌日も山伏はやつて來た。鍔冶屋は立ち上り、向かふ槌をふり上げて山伏を打つた。打たうとした。すると彼の手は痺れて向かふ槌はかへつて彼の頭を打つた。鍛冶屋は水ばなを垂らした蒼白の山伏のために、丹念に鍛へた一本の釘を作つた。

[やぶちゃん注:「向かふ槌」相槌。原義は、刀鍛冶が刀を鍛える際の師の槌を打つ合間に入れる弟子の槌打ちを言った。鉄板を伸ばすための金属製の大槌。]

 

          三

 

 喊聲(かんせい)をあげて、河童の群は香木川(かうぼくがは)の土堤(どて)のかげから、手に手に葦の葉を太刀のごとくひらめかして飛立つた。天に高く上るにつれてそれは無數の蜻蛉(せいれい)の群のごとく見えた。やがて星のない夜空の中に吸ひこまれ見えなくなつた。まもなく空間にあつて異樣な物音が起つた。ひようひようと風の音のごとく、藤の實の啄(ついば)まれて裂ける音のごとく、硝子のかち合つて破れる音のごとく、鳥の羽ばたきのごとく、さまざまの音が起つた。地上にあつてこの物音を聞いた人々は、そらガアツパさんの合戰だといつて、仕事をしてゐるものは仕事をやめ、話をしてゐるものは話をやめて、その音の止むのを待つた。

 島郷(しまがう)の河童群と修他羅(すたら)の河童群とが時折繩張爭ひのため空中で戰鬪をまじへた。征霸(せいは)の心に燃える傳説の動物達は、その果敢なる攻撃の精神をみなぎらせて、空間を飛び、ひるがへり、たたかつた。

「またやられてゐるぞや」

 朝になつて、百姓達はきまつてさう呟(つぶや)きながら、彼等の耕地にやつて來る。

 田や畠の中に、例のごとく點々と靑苔のやうなかたまりが出來てゐた。折角丹精こめて作つた野菜畠の中の各所に、どろどろの靑い液體が一間四方位に流れ淀み、鼻をさす臭氣を放つてゐた。それは昨夜の空中戰鬪で戰死した河童が地上に落ち、靑い水になつて溶けてしまつたあとである。かくして河童の合戰のたびに農作物の被害はおびただしいものであつた。

[やぶちゃん注:「島郷」「修他羅」は現在の北九州市若松区にあった村名。冒頭の「香木川」は不詳。北九州市河川一覧にはない。]

 

          四

 

「申しあげます。申しあげます」

 一匹の河童が嘴を鳴らし息を切つて注進して來た。當時、島郷軍の部隊長は筑後川に棲んでゐた頭目九千坊の二十七騎の旗頭であつた。彼は九州永遠の平和のためには、どうしても修多羅軍を壓倒殲滅(せんめつ)しなければならないと確信してゐるのである。

「なにごとぢや」

「實はたいへんなことを聞き及びました。堂丸總學(だうまるそうがく)といふ破れ山伏が、小癪にも、我々河童を法力をもつて地中に封じてしまふ祈禱(きたう)をはじめたさうでございます」

「それは大變だ。あいつは先年日向(ひうが)の名貫川で、我々一族の目痛坊(めいたばう)をちまの葉でまきこんだ男だ。同文同種の河童同士で戰爭をしてゐる場合でない」

 そこで、修多罪、島郷、兩河童軍の和平聯合が成立した。彼等は大根と胡瓜(きうり)と茄子(なす)とをさかなにその和睦の式典をすませ、彼等の新しい共同の敵への鬪志をはらんで、おのおのの頭の皿にまんまんと水を滿たした。

[やぶちゃん注:「ちま」これは私の推測であるが、「チマキグサ」の略で、これは水辺に群生するイネ目イネ科のマコモ Zizania latifolia の北九州方言ではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

         五

 

 高塔山(たかたふやま)の頂上に風が荒れた。雨に朽(く)ちた御堂の中に石の地藏尊があつた。山伏堂丸總學はその前に端坐し、護摩(ごま)をたき、狂人のごとく身體をふるはせながら、高らかに經文を誦した。この赤鼻の修驗者(しゆげんじや)は石の地藏の冷い體軀を豆腐のごとく柔軟にするために祈禱してゐるのである。彼は汗にぬれ、眼は血走つた。彼は立ち上り、地藏尊に手をふれた。地誓は冷く堅かつた。彼は吐息をついてまた坐つた。またはげしい祈りが始まつた。しばらくしてまた立ち上り、地藏にふれた。地藏は柔くなつてゐなかつた。このやうにして山伏の祈禱はくりかへされ盡きることがなかつた。日は上り、沈み、また上り、また沈み、彼はなにも食べなかつた。

[やぶちゃん注:「高塔山」現在の修多羅の北に位置する、洞海湾を見下ろす標高一二四メートルの山。中世、北遠賀郡を領有していた麻生氏家臣大庭隠岐守種景の居城跡で、山麓にある安養寺には作者火野葦平の墓がある。なお、この山は昭和六(一九三一)年七月に久留米工兵第十八大隊が山麓から頂上までの登山道路を三日で開鑿した。翌昭和七(一九三二)年二月の上海事変の際、上海郊外で一等兵三名が破壊筒を抱いて敵陣を破壊するために自爆し、所謂『肉弾三勇士』と呼ばれる『英霊』となったが、彼等が所属していた部隊こそ、この工兵第十八大隊であった(北家登巳HP北九州のあれこれ」高塔山公園の記事を参照した)。現在は公園となっており、この本話に示される仏像が「河童封じの地蔵」として現存し、夏祭りでは盛大なカッパ祭りがおこなわれているという。但し、正確には地蔵菩薩ではなく、虚空蔵菩薩である。参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」カッパ封じ地蔵にある写真(『大雪の兄』氏がパブリック・ドメインとしての使用を許可されているのに甘えることとする)を掲げさせて頂く。

①「河童地蔵尊」御堂

Img103
②「河童地蔵尊」

Img102
③本話に登場する背後に菩薩像の背に打たれた大釘

Img104

④高塔山公園の案内板と思われるもの

Img105

④には御堂近くにある作者の句碑らしきイラストと、

 泥によごれし

   背嚢にさす

  一輪の

   菊の香や

       葦平

と碑文が示されているのが読める。]

 

          六

 

 河童の中から優秀なる連中が選拔され、祈禱の妨害が始まつた。經文の威力にとりまかれてゐる總學に對して、河童連は手をふれることが出來かつた。術を好くするものが窈窕(ようちよう)たる美女となり、ふくらはぎをあらはにして山伏の面前を徘徊した。金銀を積み立てその黄金の光を山伏の眼の前に浴びせた。怪異なるものの形になり、山伏の周りを飛び交うて恫愒(どうかつ)した。はては、數百の河童が山伏の周圍にくまなく糞尿垂れながし、そのたへがたき臭氣の中に山伏をつつんだ。しかしながら、堂丸總學はみぢんも動搖せず、祈禱をつづけたのである。

 

          七

 

 何日かが過ぎ、山伏は線香のごとく瘦せ細つたが、そのはげしい祈禱の精神は毫(がう)もひるまなかつた。また、河童たちの必死の妨害も止むことがなかつた。

 何千べん目かに堂丸總學が立ち上つて石の地藏の肌にふれた時、石は山伏の指の下にへこんだ。山伏の顏が朝日のごとくかがやいた。彼は膝の前においてあつた一本の釘と金槌とを取り上げた。さうして、地藏の背後に廻り、その釘を背にあてた。この時、今まで彼の手から離れることのなかつた經文が下に置かれた。經文を持つてゐたために近づくことの出來なかつた河童たちが、その際をうかがつて山伏のからだに群がりついた。山伏は金槌をふるつて釘を打ちこんだ。その手に河童たちはすがり、他の河童は山伏の身體にするどい爪を立てた。或る者は嘴をもつてその肉を啄(ついば)んだ。山伏は血にまみれ、傷だらけになりながらも、必死に經文を唱へ、釘をちようちようと打つた。一尺の釘がやうやく半分入つた時、山伏は力つきてそこにたふれた。しかしながら、もはや彼の一念は成就してゐたのである。山伏がたふれるとともに、多くの河童たちも地藏尊のまはりにはらはらと木の葉のごとく落ちてたふれ、靑いどろどろの液體となつて溶(と)けながれた。

 

          八

 

 私は高塔山に登り、その頂上の石の地藏尊の背にある一本のさびた釘に手をふれる時には、奇妙なうそざむさを常におぼえるのである。さうして、その下に無數の河童が永遠に封じこめられてゐるといふ土の上に、やうやく萌えはじめた美しい靑草をつくづくながめるのである。

[やぶちゃん注:本作は彼の故郷である北九州若松に伝わる河童伝承に基づいて昭和十五(一九四〇)年に「伝説」と題して発表されたもので、単行本化された際、「石と釘」に改題している(本作品集がそれかどうかは不明)。当時、彼は三十三歳、六月から七月にかけて報道班員として宜昌作戦に従軍している。彼の戦後の履歴を知る私は――本作の隠喩に何か不思議な由縁を感じるのであるが――皆さんは、如何であろう?]

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