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2012/07/27

「耳嚢 巻之四 藝には自然の奇效ある事」についての質問への教え子の返信

昨日公開した「耳嚢 巻之四 藝には自然の奇效ある事」は能の話であった。僕は能に暗い。されば、僕に能の素晴らしさを教えて呉れた教え子に、僕の注の不確かさを検証してもらうように昨日メールを送ったところ、即座に返信を呉れた。以下に示して「耳嚢 巻之四 藝には自然の奇效ある事」の補注としたい。



先生、もう能の稽古から遠ざかって25年経ちますので、どうかあくまで根拠のない個人の感想としてお読みください。
 
能で「キリ」といえば、習い始めの初日から必ず接する言葉です。曲の中から切り取られた文字通り「キリの良い」最後の一部分であり、そこだけを仕舞として習います。同様に「クセ」というのもあり、これは曲の中間のクセ舞の部分です。例えば、金春流の仕舞を習い始めた際に私が始めて教わったのは、「紅葉狩のクセ」でした。その後、師匠のご判断で「羽衣のクセ」「羽衣のキリ」「葛城のキリ」それから「蝉丸の道行」など、多くの仕舞を学ぶことができました。例えば「羽衣のキリ」は「東遊びの数々に~」とシテが謡い、同じ文句を地謡が引き取ってから最後までの部分を指します。「葛城のキリ」は「高間の原の岩戸の舞」とシテが謡い、同じ文句を地謡が引き取ってから最後までの部分を指します。私は「夜討曽我」を学んだことはないのですが、シテがまず謡い、そこを地謡が復唱して引き継ぐということから見ると、シテの「あらものものしやおのれ等よ」から最後までが「キリ」であっても、不思議でないような気がします。
 
それから、「端能」という言葉、私は初めて接しました。第一印象では、比較的初心者でも学ぶことが許される軽い曲という意味ではないかなと思いました。学習者にとっての曲の軽重については、以下のHPが参考になるかもしれません。私が初めて学んだ「紅葉狩のクセ」は学習という観点から言えば、軽い曲だったのかもしれません。

HP「鎌倉能舞台」 の「謡」の等級について
ただし、HPにも出ているように、これは所作が簡単であるなどという意味ではないようです。初学者が学ぶ曲を、仮に名人が舞うと、同じ動作なのに全く異なる芸事のように感じられ、芸能の深淵を見る思いがするものです。そうですね、グールド演奏のBWV828のサラバンドを初めて聴いたときに覚える衝撃と、何か似たようなものかもしれません。
 
確信犯の引用であるとの先生の推定、素晴らしい! その通りですね。これで文章にウィットが付加されます。仮にもし著者がそれに気づいていなかったとしても(その可能性もありだと思います)、文章はそうすることによって生命力を増すと思います。

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