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2012/08/31

鎌倉攬勝考卷之五 始動 長寿寺

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之五」を始動。まずは、冒頭の長寿寺まで。本巻を以て「鎌倉攬勝考」本文手テクスト化は、その総てを終わることになる。

生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 四 成功の近道~(3)

 「肝藏ヂストマ」は我が國に最も多い寄生蟲であるが、近年の研究の結果、その幼兒が「もろこ」・「はや」などの如き淡水魚類の筋肉の間に挾まつて居ることが知れた。これを猫か人間かが食ふと、肝臟内に入り込んで忽ち成熟し、日々多數の卵を生むやうになる。「さなだむし」の如く腸の内に居るものとは違ひ、驅蟲藥を用ゐて退治するわけに行かぬから、殆どこれを除く途はない。羊の肝臟に寄生する「ヂストマ」の幼兒は、極めて小さな粒狀なし、牧草の菓に附著して羊に食はれるのを待ち、若し食はれれば直に肝臟に入つて生長する。すべて宿主動物の内部に生活する寄生蟲は、このやうにいつも宿主動物の好んで食するものの内に潜んでこれと共に體内に入り込むのであるが、中には往々意表に出でた手段を取るものがある。その一例を擧げると、木の實を食ふ鳥類に寄生する一種の「ヂストマ」では、その幼兒は「かたつむり」に似た一種の陸産貝類の體内に生活して居るが、恰も「つくね芋」の如き、極めて不規則な形をして且その表面から幾つも長い枝のやうな突起を出して居る。また貝の方は薄い黄色の殼を持ち、頭には「かたつむり」の如くに四本の角があつて、長い二本の尖端には眼があるが、「ヂストマ」の幼蟲の體から生じた枝は、この角の内まで延び入り、太くなつて角を椎の實の如き形までに膨ませ、且赤や緑の色を生じて、極めて目立つやうにする。鳥はこれを見附けて木の實と誤り、角だけを啄み取つて食ふが、角のなかには「ヂストマ」の幼蟲から生じた枝があり、その内には成長すれば「ヂストマ」になれるだけの部分が含まれてあるから、忽ち鳥の腸の内で發育して、何疋かの成熟した寄生蟲になる。また角を食ひ取られた貝の方は一時は角を失ふが、再び、これを生ずる性質があるから、暫時の後には舊に復して角が揃ふ。そして體の内に居る寄生蟲の幼兒の本體からは、更に枝が延びて新しく生じた角の内に入り込み、再びこれを椎の實の如くに膨ませ、且赤と緑との色を生ずると、また鳥がこれを見附けて食ふ。かく一度寄生蟲の幼兒が貝の肉の内に入り込むと、これが基となって何回でも鳥の腸の内にその種類の成熟した蟲が生ずることになるが、これなどは淡水魚類の肉に挾まれて人の體内に入り來る「肝織ヂストマ」等に比して、さらに手段が巧妙である。

Photo

[やぶちゃん注:以下の解説文が図の右側に縦書で入る。]

(イ)「ヂストマ」の幼蟲を含む「かたつむり」 一方の角が太いのはその中に幼蟲の一枝が入つてゐるため

(ロ)右の幼蟲。枝の先の太い處は「かたつむり」の角の中入り込む部分

 

[やぶちゃん注:『その幼兒が「もろこ」「はや」などの如き淡水魚類の筋肉の間に挾まつて居る』現在は「肝臓ジストマ」という呼称自体を用いない。ここで示されたものは吸虫綱二生亜綱後睾吸虫目後睾吸虫亜目後睾吸虫上科後睾吸虫科後睾吸虫亜科 Clonorchis 属のカンキュウチュウ(肝吸虫)Clonorchis sinensis を指している。肝臓内の胆管に寄生する成虫は平たい柳の葉のような形をしており、体長一〇~二〇ミリメートル、体幅三~五ミリメートル。雌雄同体。口を取り囲んで摂食を助ける機能を持つ口吸盤が体の前端腹面にあって直径〇・四~〇・六ミリメートル。体を寄生部位に固定する腹吸盤は体の前半四分の一の腹面にあり、口吸盤とほぼ同じ大きさである。その生活環は、成虫は寄生している胆管内で一日で約七〇〇〇個の卵を産む。卵は胆汁とともに十二指腸に流出、最終的に糞便とともに外界に出た卵は、水中に流出しても孵化せず、湖沼や低湿地に生息するマメタニシに摂食されて初めて消化管内で孵化してミラシジウム幼生となる。ミラシジウムは第一中間宿主であるマメタニシの体内で変態してスポロシスト幼生となり、スポロシストが成長すると体内の多数の胚が発育して口と消化管を有するレジア幼生となり、これがスポロシストの体外に出る。レジアはマメタニシの体内で食物を摂取して成長すると、体内の胚が発育して多数のセルカリア幼生となり、それが成熟したものから順に今度はレジアの体外に出、さらにマメタニシ本体から水中へと泳ぎ出す。セルカリアは活発に遊泳して第二中間宿主となる淡水魚を捉え、鱗の間から体内に侵入して主として筋肉内でメタセルカリア幼生となる。このメタセルカリアが寄生する第二中間宿主の淡水魚はコイ科を中心にモッゴ・ホンモロコ・タモロコなど約八〇種に及び、コイ科以外ではワカサギの報告もある。こうした魚をヒト・イヌ・ネコ・ネズミなどが生で摂取すると、メタセルカリアはその終宿主の小腸で被嚢を脱して幼虫となり、胆汁の流れを遡って胆管に入り、肝臓内の胆管枝に定着する。二三~二六日かけて成虫となると、産卵を開始する。成虫の寿命は二〇年以上に及ぶとされる。ヒトの症状は、多数個体が寄生した場合は胆管枝塞栓を起こし、胆汁鬱滞と虫体の刺激による胆管壁及びその周辺への慢性炎症を引き起こす。更に肝組織の間質の増殖・肝細胞変性・萎縮・壊死から肝硬変へと至るケースもあり、食欲不振・全身倦怠・下痢・腹部膨満感・肝腫大・腹水・浮腫・黄疸・貧血等々の症状を惹起する。但し、少数個体の寄生では無症状に近い(以上はウィキの「肝吸虫」に拠った)。

「もろこ」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科バルブス亜科タモロコ属ホンモロコ Gnathopogon caerulescens の異名。元来は琵琶湖の固有種とされるが、近年では各地に移植されている。京都では高級食材として知られる(以上はウィキの「ホンモロコ」に拠った)。
『羊の肝臟に寄生する「ヂストマ」』二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属 Fasciola。カンテツ(肝蛭)とは厳密には Fasciola hepatica のことを指すが、巨大肝蛭 Fasciola gigantica、日本産肝蛭 Fasciola sp. を含めて肝蛭と総称されることが多い。成虫は体長二~三センチメートル、幅約一センチメートル。本邦の中間宿主は腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科 ヒメモノアラガイ Austropeplea ollula(北海道ではコシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula)、終宿主はヒツジ・ヤギ・ウシ・ウマ・ブタ・ヒトなどの哺乳類。ヒトへの感染はクレソンまたはレバーの生食による。終宿主より排出された虫卵は水中でミラシジウムに発育、中間宿主の頭部・足部・外套膜などから侵入、スポロシストとなる。スポロシストは中腸腺においてレジアからセルカリアへと発育、セルカリアは中間宿主の呼吸孔から遊出して水草などに付着後に被嚢し、これをメタセルカリアと呼ぶ。メタセルカリアは終宿主に経口的に摂取され、空腸において脱嚢して幼虫は腸粘膜から侵入して腹腔に至る。その後は肝臓実質内部を迷走しながら発育、最終的に総胆管内に移行する。感染後七〇日前後で総胆管内で産卵を始める。脱嚢後の幼虫は移行迷入性が強く、子宮・気管支などに移行する場合がある。ヒトの症状は肝臓部の圧痛・黄疸・嘔吐・蕁麻疹・発熱・下痢・貧血などで、現在では、一九七〇年代半ばに開発された極めて効果的な吸虫駆除剤プラジカンテル(praziquantel)がある(以上は主にウィキの「肝蛭」に拠った)。

『木の實を食ふ鳥類に寄生する一種の「ヂストマ」』これは瀬名秀明の「パラサイト・イヴ」(一九九五年角川書店刊)やその映画化(一九九七年東宝)で知られるようになった奇抜な戦略を持った寄生虫であある吸虫綱 Strigeata Leucochloridiidae Leucochloridium属に属するロイコクロリディウム類なのだが、丘先生は大正五(一九一六)年の本書で実に既にそれを記しておられたのである。これは全く以て脱帽と言わざるを得ない。ロイコクロリディウム Leucochloridium は「レウコクロリディウム」とも呼び、カタツムリに寄生し、その触角部分でイモムシのように擬態し、騙された鳥がこれを捕食すると、その鳥の体内で卵を産み、鳥の糞と共に卵が排出、その糞をカタツムリが食べることで再びカタツムリの体内に侵入するという特異なライフ・サイクルを持つ。一般に寄生虫というのは中間宿主にこっそり隠れて、終宿主はこれを気付かず食べる事例が多い。しかしロイコクロリディウムは積極的に終宿主に食べられるように中間宿主をコントロールして餌の真似をさせるところに特異性があると言える(以下に示されるこうした現象を、最近では“Parasitic Mind Control”パラサイティク・マインド・コントロールと呼ぶのが流行りのようだ)。この吸虫の卵は鳥の糞の中にあり、カタツムリが鳥の糞を食べることでカタツムリの消化器内に入り込む。カタツムリの消化器内で孵化して、ミラシジウムとなる。更に、中に一〇から一〇〇ほどのセルカリアを含んだ色鮮やかな細長いチューブ形状スポロシストへと成長すると、カタツムリの触角部に移動する。その状態で膨れたり脈動したりすることで、触角に異物を感じたカタツムリは触角を活発に回転させる(このような動きを見せるのは主として明るい時であり、暗いときの動きは少ない。また、一般のカタツムリは鳥に食べられるのを防ぐために暗い場所を好むが、この寄生虫に感染したカタツムリは脳をコントロールされ、明るいところを好むようになる)。これを餌のイモムシと間違えて鳥が捕食、鳥の消化管内で成虫へと成長、最終的には鳥の直腸に移行して吸着、体表から鳥の消化物を吸収して栄養とする。雌雄同体で、無性生殖の他に交尾も行う。鳥の直腸で卵を産み、その卵が糞とともに排出、再びカタツムリに食べられるという周年生活環である。ロイコクロリディウムに属する種はLeucochloridium caryocatactis Zeder, 1800 を最古として凡そ一〇種ほど、本文で丘先生が『「かたつむり」に似た一種の陸産貝類』と表現しておられるように、例えばロイコクロリディウム・パラドクサム Leucochloridium paradoxum の場合、その中間宿主は腹足綱後生腹足類新生腹足類異鰓類に属する所謂カタツムリやナメクジを含む有肺類 Pulmonata の柄眼目オカモノアラガイ科オカモノアラガイ Succinea lauta の近縁種 Succinea putris を、北アメリカ産のロイコクロリディウム・ヴァリアエ Leucochloridium variae の場合は、オカモノアラガイ科Novisuccinea ovalis をそれぞれ中間宿主とする。このロイコクロリディウムのカタツムリへの寄生と、その触角部分での特異な戦略を非常に分かり易く解説した英語動画“Zombie snailsがあるが、閲覧は自己責任で。虫系がダメな人はまず閲覧しない方が無難。]

耳嚢 巻之五 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事

 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事

 

 東海道三嶋の大工の倅にて、いとけなきより職業よりは和歌をよむ事を好みて絶へず腰折(こしをれ)をつらね心を樂(たのし)ましむ事、年ありしとかや。近頃の事とや、歌を詠ながら未(いまだ)堂上(たうしやう)の點を顧はざる事を頻りに歎きて、何とぞ上京せんと企けれど、もとより貧賤の者なれば、其志しのみにて朽んも殘念也とて、按摩をとり覺へて止宿の旅人の肩をもみ、夫より道中筋は按摩をとりて少しの賃錢を求めて、終に上京なして日野資枝(すけき)卿の亭に至り、しかじかの事をあからさまに申して切に歎きしかば、流石に雲上風雅の心より、深く其誠心を感じ給ひて、是迄よめる歌あらば可入御覧(ごらんにいるべし)とありし故、詠み置し歌又は道中すがらの歌を差出しければ、直しなどありし内、浦の月といへる題にて詠る和歌を深く賞翫ありしとかや。

  名にも似ず床の浦人秋くれば月に寢ぬ夜の數や增さ覧

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。久々の和歌技芸譚。

・「鄙賤の者倭歌の念願を懸し事」「鄙賤」は読みも含めて「卑賤」に同じい。「倭歌」は「和歌」。「懸し事」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「遂(とげ)し事」とする。話柄から「遂げし事」を採る。

・「腰折」「腰折れ歌」のこと。上の句と下の句とがうまく繋がっていない下手な歌。通常は自作の歌の卑称。

・「樂(たのし)ましむ事」ママ。カリフォルニア大学バークレー校版では正しく「楽しましむる事」とする。

・「堂上」公家。古訓で読んだ。後には「どうしょう」「どうじょう」とも読むようになった。

・「點」和歌の批評・添削。

・「日野資枝」(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家。日野家第三十六代当主。烏丸光栄の末子で日野資時の跡を継ぐ。後桜町天皇に子である資矩とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人であり、同族の藤原貞幹(さだもと)・番頭土肥経平・塙保己一らに和歌を伝授した(著書に「和歌秘説」日)。画才にも優れ、本居宣長へ資金援助をするなど、当代一の文化人として知られた(以上はウィキの「日野資枝」に拠った)。先に「近頃」とあり、本巻の執筆推定の寛政九(一七九七)年直近とすれば、彼は六十歳代となる。

・「名にも似ず床の浦人秋くれば月に寢ぬ夜の數や增さ覧」書き直すと、

 名にも似ず床の浦人秋來れば月に寢ぬ夜の數や增さらむ

で、「床の浦」は鳥籠(とこ)の浦。近江国鳥籠(現在の滋賀県彦根市の北東に位置する鳥居本)に近い琵琶湖の湖岸。「日本国語大辞典」によれば『鳥居本の古名を鳥籠といい、古駅が置かれ、付近まで琵琶湖が入江をつくっていたという』とあり、例文に「文明本節用集の『床浦 トコノウラ 江』を引く。「万葉集」の時代からの歌枕。以下、注釈を試みる。

――床の浦という名にも似ず……そこの浦に旅する人は……秋がくると……あまりのその美しい名月がため……床に就けぬ夜が、いや増しに増すことであろう……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 卑賤の者の和歌の念願を遂げし事

 

 東海道三島の大工の倅で、幼き頃より、稼業の大工仕事よりは和歌を詠むことを殊の外好んで、絶えず腰折れを連ねては、心を楽しましむるという塩梅、そんな体(てい)たらくで年月(としつき)を過ごして御座った。

 極、最近のこととか――この男――かくも和歌を詠みながら齢(よわい)を重ねながら――未だ堂上(とうしょう)の点を仰ぐこと、これ、叶えられぬを――日々頻りに、歎くようになって御座った。

 何としても上京せんものと企てたものの、もとより貧賤の身なれば――これ、まず路銀からして――御座ない――

 しかし、

「……心に願うばかりにて……このまま老いさらばえ、朽ち果ててしまうは……これ、残念無念じゃ!」

と、一念発起!

 男は、それから直ぐに按摩の手業(てわざ)を習得致いて――そうして、やおら、上洛の旅に出た。

 それより――宿場宿場の旅人の肩を揉んで――道中の途次――按摩を商売と致いて僅かな日錢を稼いぎつつ――遂にめでたく、上京を果たして御座った。……

……男は――真っ直ぐに――当代の歌人として知られた日野資枝(すけき)卿の御屋敷門前へと至った。……

……そして、門番の者に、己れの身の上より始めて、和歌執心のこと……資枝卿御覧(ぎょらん)発願(ほつがん)のこと……按摩習得と上洛のこと……等々、これ、包み隠さず述べては歎き、空を仰いで腰折れの点を仰がんことを、これ、切に願って御座った。

 門前を梃子(てこ)でも動かぬ体(てい)の男に困り果てた門番は、その訴えの仔細を含め、資枝卿へと申し上げた。すると――

――流石に、雲上風雅のみ心じゃ――卿は、その男の誠心に、そのみ心をうたれなさって、御傍の衆より、

「……これまで詠んだ歌があれば、これ、特別の御計らいにてご覧にならるる、とのことじゃ。」

と、ありがたいお言葉が伝えられて御座った。

 そこで男は、これまでの生涯で詠みおいたこれはと思う歌や上洛の道中すがら羈旅の詠歌をも認(したた)めたものを卿に奉って御座った。

 卿は――それを手ずから点じた上――その中にても――『浦の月』――という題にて詠める和歌を――これ、殊の外、賞美なされたということで御座る。――

 その歌――

  名にも似ず床の浦人秋くれば月に寝ぬ夜の数や増さ覧

酉の市夜の人なか郵便夫 畑耕一

酉の市夜の人なか郵便夫

2012/08/30

鎌倉攬勝考卷之四 全テクスト化注釈完了

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之四」の全テクスト化と注釈を完了した。

耳囊 卷之五 地藏の利益の事

 

 地藏の利益の事

 

 田付(たつけ)筑後守とて近き頃迄御持頭など勤し人の親は、田付安房守といひしが、彼安房守奧方浮腫の病ひにて、諸醫手を盡しぬれど快からず。或夜奧方の夢に地藏菩薩忽然と顯れて、汝が病ひには蟇(ひき)の革をさり黑燒にして用ひば妙なるべしと示現(じげん)すと見て覺(さめ)ぬ。不思議に思ひて安房守にも語りければ、奧久しき病ひなれば用ひ見べきやと、長崎奉行勤ける家なれば醫書抔にも富ける故を尋るに、浮腫の病ひに蟇の黑燒きを用る事ありければ、則黑燒にして用ひけるに、宿病たちまち癒ける故、地藏の利益(りやく)を歡びて、あたり近き地藏へ參詣をなしけるに、爰に不思議なるは、其道におゐて何かかたまりたる物を足に障る儘に取上てみれば、土に汚れてわかり兼しが古き板彫(はんぼり)に有ける故、拾ひ歸りて洗ひ淸めければ地藏尊の板行(はんかう)也。彌々信心をおこして右板行を以(もつて)帋(かみ)におし、田付家は不及申(まうすにおよばず)、知る邊へは施し與へしに、利益大かたならざれば、俗家に置んも如何(いかが)とて、本所中の鄕遽の寺へ納しに、田付地藏とて參詣の者も多かりしと人の咄ける也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:連関を感じさせない。ヒキガエルで六つ前の「怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」と、医事関連で五つ前の「水戶の醫師異人に逢ふ事」及び三つ前の「痔疾のたで藥妙法の事」と繋がる。

 

・「田付筑後守」田付景林(たつけかげたか 宝永六(一七〇九)年~安永七(一七七八)年)。宝暦五(一七五五)年、父の死に伴い田付家を継ぎ、同六年御小性組頭より禁裏附に転じて従五位下筑後守となる。明和六(一七六九)年御持弓頭、安永五(一七七六)年御鎗奉行(底本の鈴木氏注に拠る)。

 

・「田付安房守」田付景厖(たつけかげあつ 天和三(一六八三)年~宝暦五(一七五五)年)。但し、阿波守の誤り(訳は訂した)。享保一七(一七三二)年に御書院番組頭、元文四(一七三九)年には佐渡奉行となり、従五位下阿波守(佐渡奉行は寛保二(一七四二)年三月迄)。次いで本文にあるように長崎奉行に転任(長崎奉行は延享三(一七四六)年迄)、寛延元(一七四八)年西城御留守居。妻は長谷川長貴の娘(主に底本の鈴木氏注に拠る)。本話柄は「長崎奉行勤ける家なれば」とあるから、長崎奉行を終える延享三(一七四六)年前後以降の出来事と考えられる(彼以前に彼の先祖が長崎奉行であったとは思われず、それ以前の長崎奉行に田付姓はない)。なお、田付流の祖である田付兵庫助源景澄(かげすみ)長男景治は鉄砲方として江戸幕府に仕え、景治以降は代々「田付四郎兵衛」を名乗った。その次男正景は大垣藩に砲術を伝授している。

 

・「浮腫」むくみ。一過性のものもあるが、心臓・腎臓・肝臓・甲状腺異常・循環障害・悪性腫瘍などの重篤な病気の症状の一つとしてもしばしば現れる。

 

・「示現」神仏が霊験を示し現す、顕現すること以外に、その霊験や神仏のお告げ自体をも指す。

 

・「奧久しき」底本では、右に『(尊經閣本「かく久しき」)』と傍注。

 

・「醫書抔にも富ける故を尋るに」脱文を感じさせる違和感がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『医書抔にも富ける故、是を尋るに』である。これが正しい。

 

・「腫の病ひに蟇の黑燒きを用る事あり」ネット上の漢方記載に「蝦蟇」(がま)を解毒・腫れ物・腹部腫瘤・浮腫などに用いるとある(抗癌作用も期待されている)。但し、中医での「ガマ」は無尾(カエル)目アカガエル科ヌマガエル亜科ヌマガエル Fejervarya limnocharis であって、耳腺に有毒成分を持つ無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicas などのヒキガエルとは異なるので要注意。

 

・「板行」版木。恐らくは一体一版の地蔵菩薩印仏の版木であろう。御札として大量生産するための木版原版である。

 

・「本所中の鄕」武蔵国の古くからの村名。後に隣接する小梅とともに北本所とも総称された。東京府南葛飾郡中ノ郷村、東京市本所区を経て、現在は東京都墨田区の吾妻橋・東駒形・業平一帯(ウィキの「中ノ郷信用組合」の備考記載に拠った)。

 

・「田付地藏」現存しない。但し、この話は、一読、巣鴨の高岩寺にある、知られた「とげぬき地蔵尊」縁起との酷似を感じさせる。ウィキの「高岩寺」によれば、『江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた』紙一万枚(これが本話の最後に出る版木とその流行と完全に一致する)『を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する』とある。「田付の妻が病」「夢枕」「地蔵」「地蔵の版木」の一致は最早、明白である。また、この現在も配布されている「御影」の版木を献納した田付又四郎とは、正に田付家の分家子孫とされるのである。但し、この高岩寺は慶長元(一五九六)年、江戸神田湯島に創建後、上野下谷屏風坂に移り、明治二四(一八九一)年の巣鴨移転であって、「本所中の郷」にあったことは一度もない。また、この縁起は享保一三(一七二八)年の小石川に住む田付又四郎自筆とされ、そこでは、妻の一件は正徳三(一七一三)年で原因は怨霊とあり、今一つの毛利家の一件の方は正徳五(一七一五)年と記すのである。先に示した本話の年代推定である田付景厖が長崎奉行を終える延享三(一七四六)年前後以降とは、これでは大きく食い違う。嫡流と考えられる田付景厖と、この分家田付又四郎は、親族ではあったが、別人であると考えてよく、これは恐らく「とげぬき地蔵尊縁起」が伝聞される中で、より知られた田付家の嫡流(と思われる)景厖を主人公に代え、場所も別に設定した変形都市伝説ではなかろうか? 実はこの田付地蔵なるもの元々存在しないのではないか、というのが私の見解である。そもそも事実譚ならば、参詣ひっきりなしのはずなのだから、納めた寺の名を伏せる必要が、全くない、根岸も知っていて当然だからである。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 地蔵の利益の事 

 

 田付筑前守景林(たつけちくぜんのかみかげたか)殿と申される、最近まで御持弓頭などを勤められた御方の――その父君は田付阿波守景厖(かげあつ)殿であられた。

 

 その景厖殿の奥方は永らく浮腫の病いを患って御座って、何人もの医師が手を尽くしたけれども、一向によくならなんだという。

 

 そんなある夜、奥方の夢に地蔵菩薩が忽然と現われ、

 

「――汝の病は――蟇(ひき)の皮を取り去って、身を黒焼きに致いたものを用いるならば――これ、ぴたりと――治る――」

 

と示現(じげん)致いたと見るや、ふと、目が覚めた。

 

 奥方は不思議に思って、夫景厖殿にもこれを話したところ、

 

「……もう、えらく永い病い故のぅ……これ、一つ、試してみる……というのも、あり、かのぅ……」

 

と、景厖殿、以前に長崎奉行を勤めらておられた経歴もお持ちなれば、御屋敷の書庫には蘭書・中医を始めとした和漢の医書なども充実しておられた故、このことにつき、調べて御覧になられたところが、確かに――浮腫の病いに「蟇」(沼蛙)の黒焼きを用いること、これあり――と御座った。

 

 そこで早速に皮を剥いた沼蛙を黒焼きに致いて服用させてみたところが――あれほど苦しんで御座った、宿痾と思うた、あの浮腫が――さっと引いたかと思うと――忽ちのうちに癒えた。――

 

 されば、御夫婦は、この地蔵の利益(りやく)に心より喜悦なされ、お住まい近くの地蔵堂へと参詣なされた。

 

……と……

 

……ここに不思議なるは……その帰り道、奥方のおみ足先に……何やらん、固い物が触れた。……

 

……取り上げてみれば……これ、土に汚れて何ものやら、よう分からぬながらも……どうも、これ、ひどく古い、版木のように思われた。……

 

……景厖殿も気になって、そのまま持ち帰り、洗(あろ)うてみた、ところが……これ、何と! まさに地蔵尊を彫った版木で、御座った。……

 

……そこで、いよいよ堅固なる信心をお起し遊ばされて――この地蔵尊御影(みかげ)版木を以て、紙に押し、何枚も何枚も押し摺らせて――田付家は言うに及ばず――知れる人々へも多く施しお与えになられたところが――いや! その地蔵の御利益(りやく)たるや、尋常のものならず!――多くの病者が瞬く間に平癒致いて御座ったという。……

 

 景厖殿は、しかし、

 

「……いや、かくも霊験あらたかなる御影を、我ら如き俗家に置きおくというは……これ、如何なものか……。」

 

との御叡慮によって、その御影版木は、何でも本所中之郷辺りのさる寺へ、これ、納められたとか申す。

 

 今に田付地蔵とて、参詣致す者も、これ、多う御座る。……

 

 以上は、私の知れる人の話で御座る。

 

俳句なんど輕蔑すべくおでん屋へ

   友言へり

俳句なんど輕蔑すべくおでん屋へ

2012/08/29

鎌倉攬勝考卷之四 浄智寺

「鎌倉攬勝考卷之四」を浄智寺まで更新した。

あそこに最後に行ったのは何時だろう……友と行った澁澤龍彦の墓参りか……いや、マラリアで亡くなった永野広務さんら、緑ヶ丘の学年の同僚たちと、丸山亭でフランス料理を食し、源氏山ハイキング・コースを逆に戻って、裏からとっくに閉まっちまった浄智寺に入り込んで、僕が滔々と三世仏なんどを解説しているうちに、寺の女主人に怒られた……あれが最後だったね……永野さん……君が亡くなって、もう7年が経つんだね……

グーグル画像検索の妙味

先日気づいたのだが、グーグルの画像検索で僕の「藪野直史」で検索を掛けると(考えてみれば当たり前のことなんだが)、僕がブログにアップした画像が一ページで閲覧出来る。先程、やって見たが、440枚で、その内、僕と全く無関係なもの(多いのは「直史」という名前の方のもの)は二十枚もない。7年もブログを書いていると、どこにどんな画像を使ったか忘れていて、たまに調べるのにいちいちバックナンバーを閲覧したりしていたのが、これだと一発必中だ。おまけに、嬉しいことに直接画像のリンクの場合は、そのリンク先の画像も表示して呉れるので、それこそ忘却の彼方のリンク画像を見つけて、新鮮な気がしたりもした。皆さんも、やって御覧なさい。面白い。ただ、僕の場合は付会画像は一枚もなかったが、試しに何人かの知人のフル・ネーム検索をしてみたところが、古い教え子の女生徒の名前でやってみた瞬間――彼女の名前の一部が、その、『その手の女優』と似ているらしく――見るもおぞましいアダルト画像が、ナフタリンの鼻を撲つ昆虫標本の如く――ズラリと並んだのには閉口した。……彼女がもし、自分の名を検索したら、と考えると……これは慄っとしない――というか――絶望的に哀しくなる気がする。……女性や未成年の方は、あなたの名前によっては、セーフ・サーチを「中」や「強」にするのをお忘れなく。

「一枚殘りし高麗皿」八句 畑耕一

   一枚殘りし高麗皿(八句)

割りおとす落ちざま重し寒玉子

 

 

 

割おとす手に跳ねてよろし寒玉子

 

 

 

割りおとす寒玉子搖れまた搖れず

 

 

 

寒玉子皿の唐子の三つ隱す

 

[やぶちゃん注:「唐子」は「からこ」で、中国風の髪形や服装をした子供のことをいう。高麗皿に描かれた童子である。]

 

 

寒玉子鼓をうち唐子首浮かす

 

 

 

寒玉子なほ笛吹きて唐子どち

 

 

 

寒玉子あふれんとして唐子舞ふ

 

 

 

皿まろしもつともまろく寒玉子

耳嚢 巻之五 麩踏萬引を見出す事

 麩踏萬引を見出す事

 

 麩踏(ふふみ)は桶に立(たち)て兩手を腰に置て、眼は心の儘に配るもの也。或日夫婦あら世帶にて淺草諏訪町とやらんに、太物(ふともの)の小見世(こみせ)をひらきて手拭など軒に懸けて、商ひ第一と夫婦共買人(かひて)に飽迄愛想の謟(へつら)ひ言などなしけるに、或日相應の裝束にて彼見世に立寄、我等は絹木綿の中買をなし、御屋敷方へも出入(でいる)者也、新見世と見へぬれば致世話可遣(せわいたしつかはすべし)と、いかにも念頃に申ける故、女房は茶をはこび、夫は爲にも成べき客人と思ひて、彼是と愛想を述けるが、彼客人のいへるは、今日屋敷方へ參るに、商人は女中抔への手土産もいたし度間、面白き手拭を調ひ度とて反物なども出させ見候上にて、手拭地二筋づゝを三包の積(つもり)にわけて、糊入紙(のりいれがみ)の上(うえ)水引(みづひき)などを乞ひて、直段(ねだん)をも極め則(すなはち)代銀を拂ひける故、夫婦して勝手より紙水引など取出し候間に、木綿反物四五反を密に懷にして、かさねて來るべしと禮をのべて立出しを、夫婦右反物を盜(ぬすまれ)しをかつて知らざりしが、彼麩踏向うより始終見居たりし故、早速夫婦へ聲を懸、今の買人へは反物を賣りしや、全(まつたく)萬引ならんと言ひし故、夫婦驚きて始て反物盜まれしをさとり、追缺けて貮町程も隔(へだて)、追付きて不屆の由を申ければ、彼者以の外怒りて、何ゆへ跡なき事を申懸るやとて、風呂敷包を解きて見せけるに、最前の木綿反物もありければ、是を盜(ぬすみ)ながらたけだけしきといひければ、いつの間にや符帳を取捨て、是は我等取り賣(うり)仲買ひ等いたし候故、外より持來る品也と、却て逆さまに咎めける處へ、醉狂なる男にや、彼麩踏欠(か)け付(つけ)、始終我等見屆たり、盜人たけだけしとてむなぐらを取引居(とりひきすへ)ける。天命遁れがたくて、彼符牒を取り袂へ入れしと見へて袖より落ければ、あらごう事もならず。しかる所へ外呉服所よりも追欠來(おひかけきた)る人ありて、彼風呂敷の内に有(ある)は我等が鄽(みせ)にて盜(ぬすみ)取りし也とて、散々に打擲(ちやうちやく)して追(おひ)はなしけると也。此頃の事也と幸十郎といへるおのこの語りける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:詐術の詐欺師で直連関。

・「麩踏」生麩(なまふ)を作るに際して、小麦粉を水で捏(こ)ねるために、大桶の中で足で踏むこと。

・「淺草諏訪町」現在の台東区駒形の、諏訪神社を含む隅田川沿いの町。旧駒形町の南側(隅田川下流)。

・「太物」狭義には、絹織物を呉服というのに対して綿織物・麻織物などの太い糸の織物を言った、但し、広義に絹織物も含めた衣服用布地、反物の謂いでも使った。ここは原義でよいであろう。

・「今の買人へは反物を賣りしや」底本ではここの「買人」に「かひて」とルビを振るが、先行する「商ひ第一と夫婦共買人(かひて)に」の位置に移した。

・「積(つもり)」は底本のルビ。

・「糊入紙」色を白く見せるために米糊を加えて漉いた杉原紙(すぎはらがみ)。杉原紙(椙原紙。「すいばらがみ」とも読む)は元来は、古えより播磨国多可郡杉原谷(現在の兵庫県多可町)で漉かれた和紙を言う。奉書紙や檀紙よりも厚さが薄く、贈答品の包装や武家の公文書にも用いられた。京都は杉原谷に近く、大量に製品が流入したことから、比較的低廉であったために高級紙の代用品として盛んに用いられた(以上の杉原紙については、ィキの「杉原紙」を参照した)。

・「二町程」凡そ二一八メートル。

・「符帳を取捨て」「符帳」は正札のこと。岩波版の長谷川氏注に、都の錦(延宝三(一六七五)年~?)作のピカレスク・ロマン、浮世草子「沖津白波」の巻三の四『以後、繰返される話共通の手口』とある。

・「醉狂なる男にや」「醉狂」は「酔興」とも書き、言わずもがな、好奇心から人と異なる行動をとること、物好きなことを言うが、岩波版で長谷川氏は『犯罪の証人になると面倒な掛り合いを生ずるが、それをいとわぬのを酔狂とするか』と注する。そうした訴訟の面倒を知っていればこそ、本話のエンディングでは物が戻ったからではなく、人々は「散々に打擲して追はな」したのだと納得出来る。私はこういう注こそが一級品の価値ある注であると思う。

・「幸十郎」底本鈴木氏の注では、「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人』とある人物と同一人物であろうとされる。彼はこの後も何度か登場する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 麩踏み万引きを見出す事

 

「……麩踏みと申すものは……桶の中に立って両手を腰に置きて……あれで……その眼は無心の心眼となって……これ、自在に四方を見通すものにて御座る。……」

 

 ある日、若夫婦で――浅草諏訪町辺りに――綿やら麻の織物のお店(たな)を出だいて、看板代わりの手拭いなんどを軒に掛け、夫婦ともに『商い第一』を信条に、如何なる客なりとも、愛想笑いを欠かしたことなく、飽く迄、諂(へつろ)うたもの謂いにて、堅実な商いを致いて御座った。

 ある日、相応の形(なり)を致いた御仁が、そのお店に立ち寄って、

「――我らは絹・木綿の仲買人を致いて、御屋敷方へもお出入りさせて戴いて御座る者じゃ。新店(しんみせ)と見たればこそ、一つ、一肌脱いで遣わそうと存ずる。――」

 如何にも勿体ぶったもの謂いなれば、女房は茶を運び、また、夫は『……これは! 向後のためにも、大事なお客人じゃ!……』と思い、あれこれと愛想を述べて御座った。

 すると、この仲買と称する男が、

「……そうさな……今日もこれより、御屋敷方へと参ることとなって御座るが……今日は取り敢えず……女中なんどへの手土産をも、致しとう存ずるによって……一つ、何ぞ面白い手拭いなんどをm取り揃えとう存ずる。……」

と言いつつ、他にも扱いの反物なんどの品定めと称して、出させて見並べ始め、加えて、

「……そうさな……手拭い地は、二筋ずつを三つの山に分けておくんなさい。……それと包みは糊入紙(のりいれがみ)の上、水引(みづひき)を頼んだよ。……」

との注文、而して夫はその値段を決めて、男は即決、その代金を払った。

 ところがその後――夫婦して勝手奥より紙やら水引やらを取り出いて包装を致いておる間に――男は――さり気なく重ねて並べて広げあった木綿の反物――その四、五反を――下からすっ――すっと――実に巧妙に――懐へと隠した。

 男は手拭いの包みを受け取ると、

「また、寄せて貰うよ。」

と礼を述べて店を出て行った。

 夫婦は、かの反物四、五反を盗まれたとは――夢にも知らぬ。

 ところが――ここに若夫婦の店の向かいで、丁度、麩踏(ふふ)みをしておった男が、この一部始終を見て御座った故、直ぐに若夫婦に声を掛け、

「おう! 今の買い手には、反物を売ったけぇい? 売ってねえだ?!――なら! ありゃ、全くの、万引きだゼィ!!」

と教えた故、夫婦も驚いて、広げたものを検(あらた)めて初めて、反物を盗まれたことに気づいた。

 夫は韋駄天の如く後を追って、二町程も追いかけ追いつき、昼日中の路上にて、

「……ま、万引きの、ふ、不届き者めがッ!」

と呼ばわって御座った。

 すると、かの男は、以ての外に怒り出し、

「――何故に!――証拠もなきに! 理不尽なる言い掛かりを附くるかッ!!」

と言うや、持った風呂敷を自ずと解いて見せる。

 ところが――そこには外の絹の反物に交じって――紛うかたなき、最前のおのが店の木綿やら麻やらの反物が――確かに御座った。

「……こ、これが証拠じゃろがッ! こ、こうして盗んでおきながら……ぬけぬけぬけぬけ!……ええぃ! ぬ、盗人(ぬすっと)猛々しいッ!!」

と夫は真っ赤になって叫んだ。

 ところが、男は、

「――これは、の――我ら絹木綿の仲買を致いておればこそ――売らんがために、余所から仕入れた、品、じゃ!」

と、平然と言い放った。

 そう言われて、よく見てみると――いつの間にやら――反物に附けて御座った正札(しょうふだ)が取り捨てられてしもうて御座った。

 俄然、男は逆切れ致いて、

「――天下の大道にて――謂われなき万引き呼ばわりッ! どうして呉れるッ!!」

と咎め立て始める始末……

――と――

――そこへ――

――余程の酔狂なる男ででも御座ったか――先(せん)の麩踏みが、これ、駆けつけ、

「この野郎ッ! 一部始終は、この俺さまが篤(と)くと見届けてるんでィ!! 盗人(ぬすっと)猛々しいたぁ、オ、マ、エ、のこのことでえッ!!!」

と啖呵を切るや、胸ぐらを摑んで地べたへ引き据えると――さても天命逃れがたくして――かの正札を引き千切って己(おの)が袂へ入れておった――それが――ぽろぽろっつと――袖から――落ちた。

 ここに至って男は、最早、抵抗することも出来ず、ただ、項垂れておる。……

――と――

――そこへ――

――今度は、外の呉服屋よりも追い駆けて参った者も、これ、ここに出食わして御座った。

「……ハッ……ハッ……そ、その風呂敷の中の、き、絹の反物は……わ、わ、我らが店にて、ぬ、盗み、と、取ったもの、にて、御座る……」

ときた。

 かくして――皆して、この男を――散々にぼこぼこに致いて――追い放した、とのことで御座る。……

 

「……ごく、最近の出来事で御座る。……」

と、幸十郎と申す男が、私に語って聞かせて呉れた話で御座る。

2012/08/28

耳嚢 巻之五 商人盜難を遁れし事

 商人盜難を遁れし事

 

 築土(つくど)邊に旅宿いたし候上州桐生(きりふ)より出し絹商人の物語りけるは、去(さる)冬とや、江戸表にて七八拾兩の商を成して、右金子に殘る反物(たんもの)など持て上州へ歸るとて、鴻巣とやらんの定宿(ぢやうやど)に止宿して、例の通金子荷物共宿の亭主に預けて、湯など遣ひ夜食などしたゝめて臥(ふせ)らんとせしに、是も旅商人の由にて大き成柳骨折(やなぎごり)を背負(せおひ)菅笠(すげがさ)をかぶり、脇指一腰を帶したる者旅籠屋(はたごや)へ來りて、上州邊の商人の由にて一宿を乞ひし故、獨(ひとり)旅人ながら先に來る人も商人の事なれば、一所に泊り給はゞ、同國の人なれば則(すなはち)相宿(あひやど)なりと亭主答へければ、幸ひの事也とて是も右柳こりを亭主に預け、湯抔遣ひて彼絹商人の座敷へ通り彼是咄しなどなしけるが、何とやらん疑敷(うたがはしき)事もありし故、上州は何方と尋ければ、館林とやらん相應の事を申(まうす)故、彼是と尋けるに彌々(いよいよ)怪敷思ひければ、江戸の旅宿を尋しに、馬喰丁(ばくらうちやう)にて何屋とか相應の事を申す故、年々幾度となく江戸へ出、馬喰町の事も委しく覺へける事故、旅宿何屋の向ふには何屋あり、こちら隣は誰也(なり)、定(さだめ)て知り給ふらんと委しく尋問けるに、甚困り候體(てい)故全く紛れ者と察しければ、そなたには未(いまだ)度々江戸商ひにも出られずと見へたり、道中は用心第一なり、荷物は宿へ預け給ふや、此宿には岡引(をかつぴき)の何と申者も知人にて、隣宿の何宿には惡業などを搜し覺(おぼえ)し何某と申者あり、是等へ賴まねば度々往來いたし候商人は難成(なんなる)事なりと咄しけるに、右にや恐れけん、暫くありて一寸(ちよつと)用事あれば宿はづれ迄參り歸るべし、甚だ忘れたりとて二階を下りて出行しが、あけ迄不歸(かへらざる)故、扨こそと朝起き出て亭主へ、相宿の旅人はかくかくの次第也(なり)き、柳こりを改見給へとて、則(すなはち)立合(たちあひ)右柳こりをひらきければ、草飼葉(かひば)など計(ばかり)ありて外には何もなし。怖しき目に合しと人に語りけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。絹商人必死の、概ねハッタリの作話(と私は読む)の雰囲気を出すために一部に翻案施してある。例えば、怪しい男の泊まったという馬喰町「××屋」という言葉への返し、「旅宿×△屋にては御座らぬか?」は彼の引っ掛けで、実際には「旅宿×△屋」などという旅籠はない、という部分などは私の創作部である。こうすれば、早くもこの瞬間に絹商人は、この相手が真正の騙り者と確信出来るという寸法にしてあるのである。

・「築土(つくど)」現在の東京都新宿区筑土八幡町にある産土神及び江戸鎮護の神とされる筑土八幡神社周辺をいう。神楽坂の北、現在の飯田橋駅北西直近。

・「上州桐生」現在の群馬県東部に位置する桐生市。古えより絹織物の産地として繁栄、開幕とともに天領とされた。

・「鴻巣」現在の埼玉県北東部に位置する鴻巣市中心街。中山道の宿場町として発達した。

・「柳骨折」底本には右に『(柳行李)』と傍注。柳行李(やなぎごうり)は正しい歴史的仮名遣では「やなぎがうり」。双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科コリヤナギ(行李柳) Salix koriyanagi の枝の皮を除去して乾燥させたものを、麻糸で編んで作った行李。「やなぎごり」「やなぎこり」とも呼んだ。

・「紛れ者」事につけこんで、また、事の勢いで何かを謀らんとする不埒者。

・「岡引」町奉行所や火付盗賊改方等の警察機能の末端を担った非公認の協力者。全くの無給、若しくは同心からの私的な駄賃を得るに過ぎない存在であった。正式には江戸では「御用聞き(ごようきき)」、関八州では「目明かし」、関西では「手先(てさき)」あるいは「口問い(くちとい)」と呼んだりした。本来、この「岡引(おかっぴき)」という呼称は彼らの蔑称であって、公の場所では呼ばれたり名乗ったりすることはなかったとされる。平安期に軽犯罪者の罪を許して検非違使庁が手先として使った放免を起源とする(以上はウィキの「岡っ引」に拠った)。

・「惡業などを搜し覺(おぼえ)し」この「覺ゆ」は「学んで知る・習得する」の意で、所謂、そこから名詞化したものと思われる「腕に覚えがある」という「自信がある」の意で、犯罪者の捕縛では腕に覚えがあるもの、辣腕の捕り手の岡っ引きという意味で用いていると考えられる。

・「飼葉」牛馬などに与える餌の牧草。干草・藁・麩(ふすま:小麦を挽いて粉にする際に残る皮の屑。)など。馬草。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 商人の盗難を免れた事

 

 築土(つくど)辺りに旅宿しておった、上州桐生(きりゅう)から江戸へ上っておった、さる絹商人の物語った話である。

 

 去年の冬のこととか、江戸表にて七、八十両の商いを致いて、その売上げの大枚と残った反物なんどを携えて上州へ帰る途次、鴻巣辺りの定宿に止宿、何時もの通り、金子・荷物ともに宿の亭主に預け、湯など遣い、夕飯(ゆうめし)なんども済ませ、さて、横にならんと致いた頃合い――これも旅商人とのことにて、大きなる柳行李を背負い、菅笠を被り、脇差し一振りを佩いた者が――その旅籠屋(はたごや)の暖簾を潜り、上州辺の商人と名乗って、一宿を乞うた。亭主は、

「お独りの旅にて御座いまするか? いや、丁度、今、泊まっておられる御仁も――ご同様の旅商人の――同じ上州のお方なればこそ――これはもう、相宿(あいやど)でよろしゅう御座いましょう。」

と答えたところ、二つ返事で、

「それは、もっけの幸いじゃ。」

とて、この男も、その荷った柳行李を亭主に預け、湯など遣った上、先に絹商人の座敷へと上がって、かれこれ、世間話なんどを始めた。

 ところが……この男――同じ上州産の、同じ江戸廻りの旅商人と申すにしては――これ、どうも、話が合わず、如何にも、怪しい。

 そこで、

「――上州は何処(どちら)で?」

と問えば、

「……館林、辺りで御座る……」

と、如何にも尤もらしく答えたのであるが、なおも、

「――館林の何処で?」

と訊ねると、口籠って、はっきりした村里も答えねば、いよいよ、これ、怪しい。

 そこで、話を変え、江戸での旅宿を訊ねてみたところ、

「……ああ、馬喰町の……××屋が定宿(じょうやど)で……」

と、また如何にも尤もなる答えを申した。

 ところが、この絹商人は毎年江戸へ上って、商人宿の多かった馬喰町は、これ、己れの庭のようなもので御座ったが故、

「――そうで御座るか! いや、我らも、あの辺りは定宿とする旅籠が多く御座っての。――××屋――はて? おかしいな、そんな旅籠が御座ったか、の? もしや、旅宿×△屋にては御座らぬか?――おぉ、やはり、の!――そうで御座ったか。いや、あそこも我らの定宿の一つで御座っての。――あの辺りでは、そうさ、◎屋、◎屋の向かいには□屋が御座って、また、その隣には、博労町では名の知られた○○殿が住もうて御座る。――定めて――ご存知のことで、御座ろうの?」

と話を向けると、男は見るからに、困惑閉口致いておる体(てい)なれば、

『――この者――全くのやさぐれ者に、これ、相違ない!――』

と察した。

 そこで、

「――はて。そちらさまには――江戸商いに出でて――これ、未だ日が浅(あそ)う御座る、とお見受け致いた。では、一つ、心得を御伝授致そうかの。まずは――何より、商人一人旅の道中は――これ、用心が第一、で御座る。荷物は宿へ預けなされたか?――おう! それは、重畳!――実はこの宿場には――岡っ引きの●●――という知人が御座っての――それから、隣の宿場の■■宿には、これ、悪党なんどを捜してはからめ捕るを、三度の飯より好きじゃと豪語致す、手練(てだ)れの捕り手――岡っ引きの▲▲――と申す、これまた我らが悪友も御座るじゃ――いや、もう、こうした者どもを、今日のような道中の日々の頼りと致さねば――我らの如き、頻繁に往来致いて御座る旅商人と申すものは、これ、とてものことに――難儀なることにて、御座る。――」

と話したところ、流石、このはったりに恐れをなしたものか、男は暫く黙って膝を見つめておったが、急に、

「……あっ……ち、ちいと、用を思い出だいたわ。……済まぬが……宿場の外れまで……いや、忘れものを致いたによって……その、それを取りに参って、いやいや、すぐに帰りますれば……へい、ちょいとばっかり失礼致しやす……」

などと妙にへり下って言うと、あたふたと部屋を出でて、

「……いや、いや……ああ、あれは……そうさ、あそこ辺りに忘れた、の。……」

などと、如何にも聞こえよがしの独り言を呟きつつ、二階を降りて行く。

――ところが、男はそのまんま――明け方になっても帰って来なかった。

「さても――当たり、じゃ!」

 かの絹商人、翌朝、早(はよ)うに起き出でて、階下にあった亭主に、

「……かの相宿の旅人じゃがの。昨夜、しかじかの次第にて御座った。手ぶらにて出でたように察すればこそ、一つ、預けある柳行李、これ、検(あらた)めて見なされ。……」

と告げ、すぐさま、亭主立ち会いの下(もと)、かの男の柳行李を開いてみれば、

――これ、中身は――

――雑草やら飼葉やらが――

――ただただ――ぎゅう詰めになっておるばかり――

――外には何も――入っておらなんだ。……

 

「……はい。……いやあ、もう、まっこと、怖ろしき目に合(お)うて御座いました。……」

とは、その絹商人が私の知れる者に語った、とのことで御座る。

天井に手を牡蠣舟の座をさだむ 畑耕一

天井に手を牡蠣舟の座をさだむ

2012/08/27

生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 四 成功の近道~(2)

 鼠を解剖して見ると、殆ど毎囘肝臟の中に碗豆位の白い柔な嚢が幾つも埋もれて居るのを見出だすが、これを取り出して切り開いて見ると、中から「さなだむし」の幼蟲が出て來る。長さは時によつて違ふが、大きいのは延すと〇・三米にも達する。しかしこれは幼蟲であつて、そのまゝ鼠の體内に止まつて居たのでは、いつまで待つても生長せぬ。若し猫がこれを食ふと、腸の中で成熟して「ふとくびさなだ」〔猫条虫〕と名づける猫に固有の「さなだむし」となる。また鰹の刺身を食ふと、往々肉の上を白い蟲の匐ふのを見ることがある。極めて柔い蟲で、頭から四本の細い角を出したり、入れたりするが、これも「さなだむし」の幼兒で、若し「さめ」がこれを食へば、その腸の中に行つて成長した「さなだむし」となる。寄生蟲は宿主動物が死ぬと、自身も暫時の後には死ぬもの故、この蟲の生きて匐ひ廻つて居るのは鰹の肉の新しい證據で、古い肉に蛆の生じたのとは全くわけが違ふ。鰹の盛に獲れる地方では人が皆この事を知つて居るから、生きた寄生蟲が匐うて居なければ鰹の刺身を褒めぬ。人間の腸・胃に入れば、この蟲は忽ち死んで消化せられるから少しも心配は要らぬ。
Niberin
[魚さなだ〔ニベリン条虫〕]

[やぶちゃん注:「ふとくびさなだ」は猫条虫のことと思われる。真性条虫亜綱円葉目テニア科テニア属ネコジョウチュウ Taenia taeniaeformis の成虫は体長一五〜六〇センチメートル、体幅三〜五メートル、頭節に四個の吸盤と額嘴を有す。中間宿主は齧歯類、終宿主はネコ・キツネ。猫条虫の虫卵は糞便とともに外界へと排出され、中間宿主が虫卵を摂取することにより中間宿主の腸管で六鉤幼虫に発育した後。肝臓へ移動、帯状囊尾虫(Cysticercus fasciolaris)に成長、それが終宿主に摂取されて原頭節が小腸粘膜に吸着、成虫へと成育する(以上はウィキ条虫」を参照した)。但し、昨今の愛猫家の間で話題になっているサナダムシ瓜実条虫は、これとは違う。あれは円葉目ディフィリディウム科(新科名である)ウリザネジョウチュウ Dipylidium caninumであって、これは別名「犬条虫」と呼ぶ。こちらはノミを中間宿主とする。だってあなた、考えてもみなさいよ、……あなたの猫はもう、ネズミ一匹、捕らんでしょうが!

「鰹の刺身を食ふと、往々肉の上を白い蟲の匐ふのを見ることがある。きわめて柔い蟲で、頭から四本の細い角を出したり、入れたりする」は、図のキャプションで「魚さなだ」と呼称されいるが、これは現在の真性条虫亜綱四吻目触手頭条虫科ニベリン属 Nybelinia surmenicola ニベリンジョウチュウ(ニベリン条虫)である。「水産食品の寄生虫検索データベース」の解説及び画像(頭部の四本の吻)で本種に同定した。当該HPはリンクの設置の連絡を義務付けているので、リンクを張らず、以下に当該ページのアドレスを表示しておく。

http://fishparasite.fs.a.u-tokyo.ac.jp/Nybelinia/Nybelinia.html

そこには『人間には寄生しないので食品衛生上の問題はない。まれに、吻がヒトの喉に引っかかる事例がある。しかし、ピンセットで簡単に除去できる』とあり、他の水産ページなどではしばしば苦情の対象となる、とある。カツオのたたき命の私は「ノー・プロブレム!」]

鎌倉攬勝考卷之四 寿福寺

「鎌倉攬勝考卷之四」を寿福寺まで更新した。待望の実朝供養塔「唐草窟(やぐら)」の図や、恐らくは殆んど誰も見たことがない(僕も未見)本尊胎内から出た「腹こもりの観音」像の図もアップしてある。本巻はあと、浄智寺と浄妙寺を残すのみとなった。そして次は――遂に最後の未テクスト巻――「巻之五」である。

耳嚢 巻之五 痔疾のたで藥妙法の事

 痔疾のたで藥妙法の事

 

 石見川(いしみかは)といへる草に、白芷(しろひぐさ)を當分に煎じ用ゆれば奇妙のよし。吉原町の妓女常に用(もちゆ)る由、吉原町などの療治をせる眼科長兵衞物語也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:恐らくこの「眼科長兵衞」、前話の話者「眼科」の医師と同一人物で話者連関としてよい。また前の「卷之四」の掉尾から二つ前の「痔疾呪(まじなひ)の事」でカミング・アウトしたように、根岸は寛政八(一七九六)年、満五十九歳でかなり重い痔を発症していた。その一連の痔療治シリーズでもある。根岸にしてはしかし、実証部分がない。あれば彼の性格から推して、間違いなく記載する。あまり効かなかったか。根岸の痔が切れ痔などではなく、内痔核などの、それも難性のものででもあったからも知れない。

・「たで藥」岩波の長谷川氏の注に、『患部を湯で蒸し温めるのに使う薬』とあり、ネット上でも双子葉植物綱タデ目タデ科 Polygonaceae の生薬を用いた調剤物について、患部を湿らせ温めるとあり、他にも皮膚の抵抗力を向上させる、スキンケアに効果があるとある。

・「石見川(いしみかは)」は底本のルビ。タデ科イヌタデ属イシミカワ Persicaria perfoliata。蔓性一年草。和名には「石見川」「石実皮」「石膠」の字が当てられるが、何れが本来の語源かは不明(鈴木氏注には、「和漢三才図会」の折傷金瘡の要薬で骨を接ぐこと膠の如くであることから「石膠」と言ったものが「ニカワ」→「ミカワ」と訛ったとする説、「和訓栞」の河内国石見川村〔現・大阪府河内長野市内〕の産とする説を載せる)。漢名は杠板帰(コウバンキ)。東アジアに広く分布し、日本では北海道から沖縄まで全国で見られる一年草。林縁・河原・道端・休耕田などの日当たりがよくやや湿り気のある土地に生える。茎の長さは一~二メートルに達し、蔓状、葉は互生し葉柄は長く葉の裏側に附く。葉の形は三角形で淡い緑色、表面は白い粉を吹いたようになっている。さらに丸い托葉が完全に茎を囲んでおり、あたかも皿の真ん中を茎が突き抜けたようになっているのが特徴である。他の種にも類似した托葉はあるが、本種は特に大きいためによく目立つ。茎と葉柄には多数の下向きの鋭いとげ(逆刺)が生ずる。七月から十月にかけて薄緑色の花が短穂状に咲き、花後の五ミリメートルほどの果実は熟して鮮やかな藍色となり、丸い皿状の苞葉に盛られたような外観となる。この藍色に見えるものは、実は厚みを増して多肉化した萼で、それに包まれて、中に光沢のある黒色の固い実際の痩果がある。つまり、真の果実は痩果なのだが、付属する器官も含めた散布体全体としては、鳥などに啄まれて種子散布が起こる漿果のような形態をとっている。漢方では全草を乾かして解熱・止瀉・利尿などに効く生薬として利用する。蔓状の茎に生えた逆刺を引っ掛けながら、他の植物を乗り越えて葉を茂らせる雑草で、特に東アジアから移入されて近年その分布が広がりつつある北アメリカでは、その生育旺盛な様子から“Mile-a-minute weed”(一分で一マイル草)、あるいは葉の形の連想から“Devil's tail tearthumb”(悪魔の尻尾のティアトゥーム:“tearthumb” はタデ属 Polygonum thunbergii に近縁なタデ科の草)などと呼ばれ、危険な外来植物として警戒されている(以上は、非常に優れた記載であるウィキの「イシミカワ」を大々的に参照させて頂いた)。

・「白芷(しろひぐさ)」は底本のルビ。音は「ビャクシ」。双子葉植物綱セリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ(鎧草)Angelica dahurica の根の生薬名。消炎・鎮痛・排膿・肉芽形成作用及び皮膚の掻痒感を鎮める。日本薬局方にも記載されている。血管拡張と消炎の作用から、肌を潤し、浮腫(むく)みを取るとして、古来、中国の宮廷の女性達により美容にも用いられてきた。ヨロイグサは高さ一~二メートル、茎は太く中空で、上部で枝分かれする。葉は羽状複葉。夏、白色の小花を散形に附け、外見はセリ科シシウド Angelica pubescens に似る。分布は東シベリア・中国北東部・朝鮮半島・本州西部・九州(以上はウィキの「ビャクシ」に拠った)。

・「吉原町の妓女常に用る由」この叙述から、吉原には優位に痔に悩んでいる妓女が多かったことを示す。売春行為と痔疾、頻繁な性行為と痔との間に有意な因果関係があるとは考えられまいか(何となく、ありそうな気はするのだが)? それとも、もっと別な原因に基づく妓女の職業病であろうか? 識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痔疾のタデ薬妙薬の事

 

 石見川(いしみかわ)という草に、鎧草(よろいぐさ)の根からとった白芷(ビャクシ)を等量加え、それを煎じたものを痔に用いると、驚くほど、効くという話である。吉原町の妓女なども愛用しておるとのこと、吉原町などを中心に療治をして御座る眼科医の長兵衛の話である。

寒の水五句 畑耕一

渾身のあかるく寒の水啖ふ

[やぶちゃん注:「啖ふ」は「くらふ」と読む。「喰らう」である。]

寒の水地になげうつて飲みあます

寒の水のんどを落つて地の底へ

寒の水玻璃の底なる天遠し

寒の水あふり晴天われ叫ぶ

2012/08/26

生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 四 成功の近道~(1)

    四 成功の近道

 

 一旦宿主動物の體内に入つた後は寄生蟲の生活は餘程安樂であるが、そこへ入り込むまでは容易なことではない。宿主動物の外部に吸ひ著くだけならば敢て困難といふ程ではないが、その腸・胃・肺・肝などの内まで入り込まうとするには、尋常一樣の手段では成功が覺束ない。如何なる動物でも、自分の體内に敵の入り來るのを防がずに居るものはなく、そのために何らか相當な仕掛けが具はつてあるから、寄生蟲は正體を現したまゝで正々堂々と表門から入り込むことは到底出來ぬ。例へば「ヂストマ」でも「さなだむし」でも蛔蟲でも、そのままの蟲形で口・鼻若しくは肛門から入つて、腸まで無事に達することは無論望まれない。尤も十二指腸蟲や、その他の若干の寄生蟲は、幼蟲時代の極めて微細なときに水の中に游いで居て、もし人が皮膚を露出してかやうな水に觸れると、直接に皮膚に潜り入つて血液・淋巴などの通路に達し、それから迂囘して腸に到るものであるが、これらの例外を除けば、大概の寄生蟲は皆口から入り込んで來る。俗に「病は口から」といふが、寄生蟲の場合には實際口から起るのが常である。しからば如何にして人に知られぬやうに口の關門を通過するかといふに、これは卵または小さな幼蟲の時代に食物などに混じて入り來るのであるが、次に二、三の例によつてその經過の筋道を述べて見よう。

[やぶちゃん注:「十二指腸蟲や、その他の若干の寄生蟲は、幼蟲時代の極めて微細なときに水の中に游いで居て、もし人が皮膚を露出してかやうな水に觸れると、直接に皮膚に潜り入つて血液・淋巴などの通路に達し、それから迂囘して腸に到るものである」第二章の「一 個體の起り」の注で記した、経皮感染する寄生虫類を指す。一部の鉤虫の一種でアフリカ・アジア・アメリカ大陸の熱帯地方にいるアメリカ線虫門有ファスミド綱円形線虫亜目円形線虫上科アメリカコウチュウ Necator americanusは経皮感染が主で、同科のズビニコウチュウ Ancylostoma deodenale (インド・中国・日本・地中海地方に棲息)も経皮感染をする場合がある。これらは肺炎や腸炎を引き起こし、人の皮膚下で幼虫移行症(皮膚の下をその幼体が移行するのを視認出来るという「エイリアン」並に慄然とする症状)を示す。腸に寄生して自家感染し、長期に及ぶ慢性的な下痢症状を呈する Strongyloides stercoralis による糞線虫(熱帯地方に広く分布し、本邦では南九州以南にみられる)症も経皮感染をする。「十二指腸蟲」という呼称は、このズビニコウチュウ Ancylostoma deodenale の別名で、偶々十二指腸で発見されたことに由来するだけで、実は小腸上部に寄生することが多いものの、その一部である十二指腸への寄生は、実際にはあまり多くない。]

Jyoutyuuyoutyuu

[「さなだむし」の幼蟲]

Mizosanada

[「みぞさなだ」の幼蟲]

 

[やぶちゃん注:「みぞさなだ」は本文の『「さけ」・「ます」の肉の間にある』条虫、注で示す日本海裂頭条虫 Diphyllobothrium nihonkaiense の幼虫である。]

 

 普通に人間の腸に寄生する「さなだむし」は三種類あるが、その中二種は相似たもので、兩方とも節は縱に長い長方形で、成熟すると一節づつ離れて出るが、ほかの一種は節の幅が廣くて縱は甚だ短く、且幾節も連續したまゝで排出される。我が國で最も多いのはこの方である。これらの「さなだむし」が人體内に入り込むのは、無論その形の甚だ小さいときであるが、前の二種の中の一種は豚肉の間に、一種は牛肉の間には挾まり、後の一種は「さけ」や「ます」などの肉の中に隱れ、いづれも肉と共に食はれて人の腸・胃に達する。豚肉の間に挾まれて居る「さなだむし」の幼兒は直徑一糎許りの卵形の嚢で、その表面の一點から内へ向つて「さなだむし」の頭が、恰も手袋の指を裏返しにした如くに裏返しになつて著いて居る。嚢の内には水があるから、かやうな嚢蟲を指に摘んで、力を加減しながら稍々強く壓すると、頭部が飛び出て「さなだむし」の頭の通りになる。嚢狀の部は後に必要のない處で、食はれる際に嚙み破られても何の差支もない。たゞ頭さへ無事で腸に到著すれば、直に吸盤を以て腸の粘膜に吸ひ著き、速に生長して一箇月の後には大きな「さなだむし」になり終る。牛肉の間に挾まつて居る方は、これよりも小さいから見逃し易いが、その構造には殆ど變りはない。また「さけ」・「ます」の肉の間にあるのは形が細長く稍々太い木綿絲の如くで、伸びれば三糎位にもなる。これらはいづれも柔い蟲で、火で熱すれば忽ち死ぬから、牛、豚肉でも魚肉でも十分に煮るか燒くかして食へば、決して「さなだむし」が生ずることはないが、とかく肉類は中央が少しく生で赤色を帶びて居る位の方が味が良いので十分に火の通らぬものを食するから、よく「さなだむし」が出來るのである。

[やぶちゃん注:「さなだむし」これも既出であるが、扁形動物門条虫綱単節条虫亜綱 Cestodaria 及び真正条虫亜綱 Eucestoda に属する寄生虫の総称である。ここで丘先生が挙げておられるのは、順に、

1 条虫綱真正条虫亜綱円葉目テニア科テニア属ムコウジョウチュウ(無鉤条虫)Taenia saginata(中間宿主:ウシ)

2 同テニア属ユウコウジョウチュウ(有鉤条虫)Taenia solium (中間宿主:ブタ)

3 真正条虫亜綱擬葉目裂頭条虫科コウセツレットウジョウチュウ(広節裂頭条虫)属ニホンカイコウセツレットウジョウチュウ(日本海裂頭条虫)Diphyllobothrium nihonkaiense(第一中間宿主:ケンミジンコ → 第二中間宿主:マス・サケ・カマス・スズキ等)

の三種である。広節裂頭条虫は永く本邦に分布するものも標準種 Diphyllobothrium latum (Linnaeus, 1758) Lühe, 1910 と同一種とされてきたが、分類学的研究によって Diphyllobothrium nihonkaienseYamane, Kamo, Bylund et Wikgren, 1986 として別種に認定された(日本寄生虫学会用語委員会「暫定新寄生虫和名表」二〇〇八年五月二二日による)。図のキャプションにある「みぞさなだ」という和名異名は「溝真田」で、彼らが宿主の腸粘膜に吸着するために用いる頭節の一対の吸溝に由来する。こちらも成虫の体長は五メートルから十メートルに達する(なお学術文庫版は「みそさなだ」と誤植している)。

「糎」は「センチメートル」と読む。]

鎌倉攬勝考卷之四 円覚寺 完全終了

「鎌倉攬勝考卷之四」は塔頭を含め、総ての円覚寺の項を終了した。

耳嚢 巻之五 貮拾年を經て歸りし者の事

 

 貮拾年を經て歸りし者の事

 

 江州八幡(がうしうやはた)は彼國にては繁花成る町場の由。寬延寶曆の頃、右町に松前屋市兵衞といへる有德成(うとくなる)者、妻をむかへて暫く過しがいづちへ行けん其行方なし。家内上下大きに歎き悲しみ、金銀を惜まず所々尋けれども曾て其行方知れざりし故、外に相續の者もなく、彼妻も元々一族の内より呼(よび)むかへたる者なれば、外より入夫して跡をたて、行衞なく失ひし日を命日として訪(と)ひ吊(とむら)ひしける。彼(かの)失ひし初めは、夜に入(いり)用場(ようば)へ至り候とて下女を召連、厠の外に下女は燈し火を持待居(もちまちをり)しに、いつ迄待てども不出(いでず)。妻は右下女に夫の心ありやと疑ひて彼かわや[やぶちゃん注:ママ。]に至りしに、下女は戶の外に居し故、何故用場の永き事と表より尋問しに一向答なければ、戶を明け見しにいづち行けん行方なし。かゝる事故其砌は右の下女など難儀せしと也。然るに貮拾年程過て、或日彼かわやにて人を呼び候聲聞へし故至りて見れば、右市兵衞、行方なく成し時の衣服に少しも違ひなく坐し居し故、人々大に驚きしかじかの事也と申ければ、しかと答へもなく、空腹の由にて食を好(このむ)。早速食事など進けるに、暫くありて着し居候(をりさふらふ)衣類もほこりの如く成て散り失て裸に成し故、早速衣類を與へ藥杯あたへしかど、何かいにしへの事覺へたる樣子にも無之、病氣或は痛所抔の呪(まじなひ)などなしける由。予が許へ來る眼科の、まのあたり八幡の者にて見及(みおよび)候由咄しけるが、妻も後夫(うはを)もおかしき突合(つきあひ)ならんと一笑なしぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:俗にこうした現象を「天狗の神隠し」と言った。天狗連関。彼の記憶喪失は逆向性健忘でも、発症――失踪時――以前の記憶の全喪失+失踪の間の記憶喪失にあるようだ。一過性のものであることを祈る。――服がみるみる埃りのように裸になるところが、いいね! 最後の附言などからは、私は根岸は本話を信じていない、という気がする。

 

・「江州八幡」近江商人と水郷で有名な現在の滋賀県近江八幡市。

 

・「寬延寶曆」西暦一七四八年~一七六四年。その二十年後となると単純に示すなら明和四年(一七六八)年~天明四(一七八四)年となり、執筆推定の寛政九(一七九七)年からは凡そ三十年から十三年程前のやや古い都市伝説となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川強氏の附注に『夫失跡、妻再婚、前夫帰還の話は西鶴ほか先行例があり、これに神隠しを結びつけた』話柄と解説されている。インスパイアされた都市伝説の一種である。

 

・「松前屋市兵衞」不詳。何に基づくのか分からないが、ネット上のある梗概抄訳では反物商とする。

 

・「厠」底本では「廚」で右に『(厠カ)』と傍注する。直前に「用場」(便所)ともあり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「厠」であるから、明らかな誤りと見て訂した。

 

・「予が許へ來る眼科」根岸の友人には医師が頗る多い。

 

・「後夫(うはを)」「ごふ」とも読む。

 

・「突合」底本では右に『(附合)』と傍注。

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 二十年を経て帰って来た者の事 

 

 江州八幡は――近江商人発祥の地として知られるだけに――彼の国ではとりわけ繁華な町場の由。

 

 寛延・宝暦の頃とか、この町の松前屋市兵衛と申す豪商、妻を迎えてそれほど立たぬうちに、一体、何処へ行ったものやら、突如、失踪致いた。

 

 家内は上へ下への大騒ぎ、悲嘆に暮れ、金銀を惜しまず、あらゆる所を捜し歩いたものの、その行方は杳(よう)として知れなんだという。

 されば――未だ子もおらず――他に家を相続する者とてなく――かの妻も、元々一族の内より迎え入れた者で御座ったによって――外(そと)より聟(むこ)を入れて跡目を立て――行方知れずとなった、その日を命日とし、懇ろに弔(とむろ)うて御座った。 

 

 さても、その失踪の様子は、以下のような奇怪なもので御座った。

 彼は、その夜(よ)、

 

「便所へ参る。」

 

と、下女を召し連れて行き、厠の外にて、下女は、燈し火を持って待って御座った。

 

 ところが何時まで待っても――主人は、出てこない。

 

 一方、妻の方は――当時、日頃より、夫が常に傍に置いて用立てさせるところの――この年若い下女と夫の仲を疑って御座った故、長く厠から戻らぬ二人に、悋気(りんき)を起こし、厠へと駈けつけてみた――ところが――下女は、厠の戸の前に、一人ぽつんと立って御座る。

 

 されば妻は、厠に向かい、

 

「……もし! あまりに長き用場なれば……何ぞ御気分でも、悪うなされましたか?……」

 

と声をかけた。

 

……が……

 

……一向、返事がない……

 

……思い余って、戸を開けてみたところ……

 

……何処へ行ったものか……

 

……市兵衛の姿は……

 

……忽然と消えていた。……

 

――時に……こういった次第で御座ったれば……その失踪当時、この下女なんどは、種々と穿鑿され、疑いをも掛けられ、いやもう、ひどく難儀致いた、とのことで御座った。……これはさて。閑話休題。 

 

 ところが、それから二十年程経った、ある日のことで御座る。

 

――かの厠にて、誰ぞが人を呼んでおる声が致いた。……

 

……家人が行って戸を開けて見ると……

 

……そこには……

 

……かの市兵衛が……

 

……行方知れずなった折りの衣服と寸分違(たが)わぬものを、これ、着(ちゃく)し……

 

……座り込んで――御座った――

 

 人々、吃驚仰天、口々にあれこれと話しかけてみたものの……市兵衛は、これ、呆(ほう)けた顏で一向に要領を得ぬ。そうして唯、

 

「……は、ハラ……へった……」

 

と、蚊の鳴くような声で食い物を求めるばかり。

 

 早速に食事なんどを出だしやり、一心に飯を掻き込んでおるその姿を見守っておると……

 

……暫くして……

 

……豚のように食うておる……そのそばから……

 

……着ている衣類が……

 

……細かな細かな……

 

……埃の如くになって……

 

……崩れ落ち……

 

……市兵衛は、これ……

 

……素っ裸かに……なっていた。

 

――素っ裸かの市兵衛は――それでも一心に飯を掻っ込んでいる――

 

 そこで、早速に衣類を着せ、在り合せた薬なんどをも与えてはみたけれども……

 

……市兵衛、これ、いろいろ訊ねてみても……

 

……出生以後のことは総て……

 

……妻のことも、失踪の前後の出来事も勿論、失踪していた間の記憶も一切合財……

 

……どうも全く……

 

……これ、覚えて御座らぬような様子であったそうな。……

 

……今は……そうした物忘れの病いに効くと申す薬やら……或いは、頻りに体の随所を痛がる風なれば……鎮痛の呪(まじな)いやらを施してやったる由に御座る。…… 

 

 以上は、しばしば私の家に参る眼科医――まさに八幡生まれの者にて御座る――が、この市兵衛を見、また、その家人より聞いた話なる由。

 

 我ら聞き終えて、

 

「……いや、何より、その妻も、その後から入った聟殿も……何ともはや、おかしくも困った付き合いを……その後に致さねばならぬ仕儀と相いなったものじゃの。」

 

と、彼とともに一笑致いて御座った。

夜業人立ちあがらする地震ありぬ 畑耕一

夜業人立ちあがらする地震ありぬ

2012/08/25

耳囊 卷之五 水戶の醫師異人に逢ふ事

 

 

 水戸の醫師異人に逢ふ事

 

 水戶城下にて原玄養精と一同(いつとう)、當時行(おこなは)れ流行なせる醫師の、名は聞違(たが)ひけるが、彼醫者の悴にて、是又療治を出精して在町(ざいまち)を駈步行(かけありき)て療治をなしけるが、或日途中にて老たる山伏に逢しが、其許(そこもと)は醫業に精を入給ふ事なれば、明後日彼町の裏川原へ何時に罷越待(まかりこしまち)給ふべし、我等傳授いたし候事ありと言ける故、承知の旨挨拶して立別れけるが、一向知る人にも無之、名所(などころ)も聞ざれば如何せんと宿元へ歸り咄しけるに、夫は怪敷事也、いか成失(なるしつ)あらんも難計(はかりがたし)とて親妻子も止めける故、期に至りても行ざりしが、又明けの日途中にて彼山伏に逢し故、何故約束を違ひしやと申ける故しかじかの事故と斷りしに、又明け夜は必川原へ來り給へと期を約し立別れし故、宿元へ歸りてしかじかの事と語りて今宵は是非罷るべきと言ひしを、兩親其外親族など打寄、夫は俗にいふ天狗などゝいふものならん、かまへて無用也といさめ止めしかど、彼醫師何分不得心の趣故、其夜は兩親及び親族打寄て不寢(ふしん)抔して止めけるが、深更にも及び頻に睡(ねぶり)を催す頃、彼醫師密に眼合(まあひ)を忍び出て約束の河原に至りければ、山伏待居て五寸計(ばかり)の桐の新らしき小箱を與へける故持歸りければ、家内にては所々尋て立騷ぎ居し事故、大に悅びて如何成事也と尋れど、彼山伏人にかたる事なかれと切に諫ける事故くわしき譯も語らず。扨又箱の内に藥法を認(したため)し小さき書物あり。其奇效(きかう)尤(もつとも)と思はざるもあれど、右の内丸藥の一方を試に調合なしけるに、不思議なる哉(かな)、右丸藥を求めんとて近國近在より夥しく尋來りて、右藥を買求ける事誠に門前に市をなし、僅の間に數萬の德付けるが、其外の藥法ども見しが格別の奇法とも思われねば、絕て信仰の心もなく過(すぎ)しが、右は正二月の比の事也しに、三月とやらん近所へ療治に出しが、湯を立ける故入り給へと彼亭主の馳走に任せ、懷中物と一同彼箱入の書物も座敷に殘し置しに、勝手より火事出來て早くも彼懷中物差置し場所へ火移り、一毫(いちがう)も不殘(のこらず)焦土と成し故、彼醫師右の奇物を惜しみ火災の場所を搜しけるに、不思議に右桐の箱土瓦の間に殘り居し故、嬉しくも早々取上見しに、箱はふたみ共に別條なけれど、合口(あひくち)の透(すき)より火氣入り候樣子にて、箱の内の奇書は燒失けると也。右箱を頃日(けいじつ)江戶表水府(すいふ)の屋敷へ持參して、見し者ありけると人の語りける。寬政八年の春夏の事なるべし。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に連関を感じさせない。著名な医師のその同僚のその倅という設定は、如何にもな古典的都市伝説のパターンである。なお、私には風呂を勧められる場面が今一つリアルでないと感じられたので、翻案した箇所があることをお断りしておく。

 

・「原玄養」原南陽(宝暦三(一七五三)年~文政三(一八二〇)年)の誤り。彼は名を昌克、通称玄与と称したので、この「玄与(げんよ)」を「南陽(なんよう)」の音と混同して勝手に漢字を当てたものであろう。水戸藩医昌術の子として水戸に生まれ、父について学んだ後、京都へ赴いて古医方や産術等を修得、安永四(一七七五)年、帰郷して江戸南町(小石川)に居住した。医書の字句や常則に拘泥せず、臨機応変の治療をすることで知られた。御側医から、享和二(一八〇二)年には表医師肝煎となった。著作に「叢桂偶記」「叢桂亭医事小言」「経穴彙解」、軍陣医書(軍医の戦場医術心得)の嚆矢として知られる「戦陣奇方砦草(せんじんきほうとりでぐさ)」や鼠咬毒について論じた「瘈狗傷考(けいくしょうこう)』など多数(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。但し、お分かり頂いているとは思うが、本話の主人公は、この原南陽では、ない。あくまで『原南陽の同僚医師某の倅某』が主人公の医師である。お間違えのなきように。

 

・「裏川原」村の周縁に位置し、民俗社会に於ける異界や異人(被差別民を含む。だからホカイビトたる流浪の旅芸人は河原や橋の下に停留して河原乞食と呼ばれた)との通路でもあった。

 

・「絕て信仰の心もなく過しが」とあるが、彼は箱ごと本書を常に携帯していたことが最後のシチュエーションから分かる。それは恐らく、「肌身離さず持って他言するなかれ」といった山伏の禁止の呪言があったからと推測される。本書を霊験の書とは認識していなかったものの、例の当たった丸薬一つの処方で、どこかで『いい金蔓』と考えて、惜しんででもいたのではなかったか? それこそが本書の喪失と関係があるように私には思われる。さらに問題は、恐らく次の本書喪失のシーンで彼が箱入りの本書を座敷に置き、有意に離れた場所の風呂へ入ったことも問題ではなかったか? 彼はこの桐の箱に入れたまま、湯殿へ持ってゆくべきであった(恐らく自宅ではそうしていた)。つい、いい加減に放置したことが、『いい金蔓』という邪悪な意識とともに(そう考えると風呂を勧められるこの患者の屋敷は相当な金持ちに読める。この頃、主人公の医師は丸薬のヒットで初心を忘れ、貧者の医療なんどをおろそかにしていたようにも私には読めるのである)本奇書の所持者としての資格を彼が失う原因になったものと考えられる。即ち、私は、この如何にも唐突な出火と屋敷の全焼も、偶然ではなく、不思議な奇書喪失とひっ包めて、かの山伏、若しくは奇書そのものが持っている意志によって引き起こされた確信犯の必然であったととるのである。

 

・「江戶表水府の屋敷」小石川門外にあった水戸藩江戸上屋敷。現在の後楽園が跡地。

 

・「寬政八年」西暦一七九六年。底本の鈴木棠三氏の解説によれば本巻の執筆内容の下限は寛政九(一七九七)年春である。一年余り前の比較的新しい都市伝説であった。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 水戸の医師異人に逢う事

 

 水戸城下の知られた医師原南陽の同僚で、同じように当代に名が知れ渡るほど、名医の誉れが御座った医師の――『名医』と申しおいて失礼乍ら、姓名を聞き漏らして御座るが――まあよろし、また、その人本人ではなくて――その医師の、倅、の話で御座る。

 

 彼もまた、医術修業に精出して、周辺の村在や市街を駆け巡っては、貧富を問わず、病める者の治療に勤しんで御座った。

 

 ある日、そうした往診の途中、一人の老いたる山伏に出逢(お)うたが、その者が彼に面と向かうと、

 

「――其処許(そこもと)が日頃より医業に精進されておらるること、これ、重畳(ちょうじょう)――明後日、この町の裏の河原へ、×時(どき)に参られ、お待ち頂きたい。――我ら、伝授致したき儀、これ、御座る――」

 

と申す故、承知の旨、挨拶して立ち別れたものの、一向に知らぬ御仁にて、名も住所も聞かずに過ぎた故、自邸へ帰ってから、

 

「……という妙なことが御座ったのですが……これ、如何致いたらよろしいもので御座いましょう……。」

 

と家人に相談致いた。

 

「いや! それは怪しきことじゃ! 如何なる難儀に逢(お)うとも限らぬ! 捨て置くに若くはない!」

 

と、親はもとより妻子まで、口を極めて止(とど)めた故、その期日となっても出向かずに過ぎた。

 

 すると、その翌日、往診の途次、またしても、かの山伏に出逢(お)うた。

 

「――何故(なにゆえ)に約束を違(たが)えたのじゃ?――」

 

ときつく質された。後ろめたくも御座った故、正直に訳を述べて、破約の許しを乞うた。すると、

 

「――そのような気遣いは無用のことじゃ。安心なさるるがよい。――ともかくも――明日の夜には、必ず、先の河原へ参られよ。――」

 

と、またしても期を約して立ち別れた。

 

 さればこそ、用心して自宅へ戻っても、平生と変わらぬ風を装って家人には何も告げず、翌朝になってから、

 

「……という次第なれば、今宵は如何にしても参ろうと存ずる。」

 

と告げた。

 

 すると、またしても両親その他、近在に住まう親族までもがうち寄って参り、

 

「……いや! それは俗に言う天狗なんどという『あやかし』の類いに違いない! 決して逢(お)うては、ならぬ!」

 

と一同口を酸っぱくして頻りに諫めたけれども、この度は、かの医師、いっかな、納得致いたようには見えずあったればこそ、両親その他親族一同うち寄って談合の上、寝ずの番なんどまで致いて、かの者の外出を止(とど)めんと致いた。

 

 ところが、深更にも及び、見張りの者の頻りに眠気を催した頃合い、かの医師は、隙を見て、家(や)を忍び出でて、約束の河原へと至った。

 

 そこにはかの山伏が待っており、携えて御座った五寸ばかりの桐の新しき小箱を彼に与えて別れた。

 

 屋敷に戻ってみれば、家内は彼の失踪に上へ下への大騒ぎで御座った故、彼の無事な姿を見ると、皆、大喜び。而して、

 

「……して、一体、何が御座った?」

 

と質いたが、彼は、

 

「……かの山伏に……『一切語ることなかれ』と切(せち)に諫められて御座いますれば……」

 

と、口を濁し、詳しいことは――何が語られたかも、桐の箱のことも、はたまた、その箱の中に何があったかも――一切を語ろうとはしなかった。……

 

 さて、実は、この箱の内には薬の処方――しかし悉く聴いたこともない奇妙なる処方――を認(したた)めた小さき書物が入っていたのである。

 

 その奇体な調合と薬効についての叙述は、彼の既存の知識から推しても、とても効果がありそうにも思えぬ『まやかし』としか思えぬものが多かったが、その中に書かれていたある丸薬の処方を、試みに調合なして、とある患者に処方してみたところ――いや、これ、不思議なるかな!――即効完治の絶妙の丸薬で――あれよあれよと言う間に――この丸薬を求めんがため、かの医師の元へは、近在近国より夥しい者どもが列を成して尋ね来ることとなり、これ、門前に市をなすが如し――という有様――ほんの一時の間(ま)に、数万金の利を手に入れた。

 

 但し、その奇書に書かれた他の処方なども見てはみたものの、やはり、格別の奇法とも思われず、効験も如何にも怪しいもの故、彼の触手は動かず、かの丸薬一つを、瓢箪から駒の見(め)っけ物(もん)と心得て、全く以て、霊験によって得た医書なんどといった崇敬の念は、これっぽちも持たずに日はうち過ぎた。…… 

 

 さても、以上の出来事は、その年の――寛政八年の正月から二月頃へかけてのことであったが、その三月とやらのこと、近所に往診に出でた折り、療治を終えると、患者であった主人より、

 

「拙宅にて丁度、風呂を沸かしました故、不浄なる病める我らにお触れになったればこそ、どうぞ、お入りになって清められたがよろしゅう御座る。」

 

と誘われるまま、懐中の物と一緒に、かの箱入の書物も表座敷に残しておいて入湯致いたところが、突如、勝手より出火、瞬く間に、かの懐中の物をさしおいてあった座敷へと燃え広がり、その屋敷は、あっという間に毫毛(ごうもう)も残らぬ焦土と化してしまったのであった。

 

 裸同然で逃げ出したものの、医師は幸いにして怪我一つしなかったのだが、翌日、かの奇書を惜しみ、火事場の、かの座敷辺りと思しい場所を捜してみたところ、不思議なことに、かの桐の箱は土瓦の間に無傷で残っていた。

 

 歓喜して、即座に取り上げてみたところ、箱は確かに蓋・身ともに別条なくあったものの、その蓋と身のごく僅かな隙間からか、火が入(い)ったものかと思われ、箱の中の奇書は、完全に焼失して灰となっていた――

 

との由に御座る。……

 

……また、何でも、かの医師、この箱を、最近になって江戸表の水戸藩上屋敷へ持参致いたとか……また、その箱の実物を実際に実見致いた者がおるとか……

 

 以上は、知れる人々が語って御座った話を纏めたもので御座る。この事件は寛政八年の春から初夏にかけての出来事であったようである。

懷爐二句 畑耕一

懷爐ほこほこ漫畫シネマのよくうごく

 

[やぶちゃん注:サイト「KINO BALÁZS archives(キノ・バラージュ アーカイヴ)の日本漫画映画発達史のページによれば、本邦で初めてアニメーションが公開されたのは明治末期で、フランス人のエミール・コールが制作した短編シリーズ「凸坊新画帖」を嚆矢とする。この人気に目をつけた天然色活動写真株式会社(通称・天活)が下川凹天(おうてん)なる人物に漫画映画を製作させ、「凸凹新画帖・わんぱく小僧の巻」を製作(大正六(一九一七)年)、これが日本最初の国産アニメーションといわれる(一部の記載が明瞭さを欠くが以上のように当該ページを私は読んだ)。その後、影絵映画「お蝶夫人の幻想」(昭和一五(一九四〇)年、傑作として名高い「くもとちゅうりっぷ」(昭和六(一九四一)年)、戦争のプロパガンダ映画でもあった「桃太郎の海鷲」(昭和七(一九四二)年)などが挙げられているが、本句集の刊行が昭和六年であることを考えると、前者のフランス版「凸坊新画帖」か国産「凸凹新画帖・わんばく小僧の巻」若しくはその模倣作の可能性が高いか。畑は後に松竹キネマ企画部長となっている。]

 

 

 

胃と錢のにほうて來たる懷爐かな

2012/08/24

サンダーバード・コーポレーション 取締役 ブラジル支社赴任

やっと納得出来る国に赴任したぜ! 毎日、ジョアン・ジルベルトの家に押しかけ、彼のギターに飽きたら、カナバルの丘にオルフェオとユリディスの恋の歌を聴きに行けばいいさ! ♪ふふふ♪

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信じていいのは女性陣のミンミン(チンチン)とペネロープ(ペネレロペ)、そしてブレインズ(彼は多分ユダヤ系と思われる)だけだった。「免許皆伝」たぁ、ジェフ社長! 有り難い!

僕たちは――

僕たちはまだ――間違っていないのだ

だから――

いつもでも

一緒に

いよう!

鎌倉攬勝考卷之四 円覚寺寺宝 終了

「鎌倉攬勝考卷之四」は円覚寺寺宝を終了した。少なくともこの辺り、植田孟縉の杜撰な「新編鎌倉志」の引き写し(それも重大な植田のミスだらけ)には、怒りを通り越して、何とも……哀しくなってきた……。

耳嚢 巻之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事

 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事

 

 或人の云、蟇はいかやう成る箱の内に入れ置(おき)ても形を失ふとかたりしを、若き者集りて、一疋の蟇を箱の内へ入て夜咄(よばなし)の席の床上に置て、酒など飮みて折々彼箱に心を付居たりしが、酒も長じて心付(こころづか)ざる内に拔出(ぬけいで)しや、二間程隔し所に下女の聲して驚(おどろけ)る樣子故、いづれも彼所へ至りみれば、最所(さいしよ)の蟇ありける故、これは別なる蟇成(なる)べしとて最初の箱を見しに、いつ拔出しや箱のむなしかりければ、又々右の箱の内へ入て、此度は代る代(がは)る眼も放さず守り居しに、夜も深更に及び何れも眠(ねぶり)を催す頃、箱の緣より何か淡(あは)出けるが、次第に淡も多く成ける故、いかなるゆへならんと見る内、一團の淡みる内に動きて消(きえ)ける儘、何れも目ざめしもの共立(たち)より箱の蓋を取て見しに、蟇はいづち行けん見へず。さては淡と化して立去りしならんと、何れも驚しと予が許へ來る者のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇談直連関。ヒキガエルが泡と変じて姿を消すというのはしばしば耳にする動物奇譚で、私はこの伝承が遙かに息継ぎ、特撮映画やウルトラ・シリーズで妖怪や怪獣が泡となって消失・死滅するルーツとしてあるように思われる。ヒキガエルの話は既に「耳嚢 巻之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」で語られているが、根岸はどうもヒキガエルの怪異妖力に関しては信じていたらしい節がある。まあ、当時の多くの人々が信じていたのだから無理もない(以下の「蟇」の注を参照)。

・「蟲類」古くは昆虫だけではなく、人や獣や鳥類及び水族の魚介類以外の節足動物などの動物全般(想像上の動物や妖怪をも含む)かなり広範囲に総称する言葉であった。

・「蟇」は「ひき」と読む。一般にはこの語は大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエルBufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科Bufonidaeの多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから分泌する際には激しい噴出を示す場合があり、これが例えば「卷之四」の「三尺程先の」対象を「吸ひ引」くと言ったような口から怪しい「白い」気を吐く→白い泡の中に消える妖蟇のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥(せんそ)」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し幻覚症状を起こし(これも蝦蟇の伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」の妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波のガマの油売りで知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、ここにあるような超常能力を持ったものとしてよく引き合いに出されるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来する。

 付け加えて言うならば、私はヒキガエル→「泡を吹く」→ヒキガエルに咬みついて毒成分にやられ「泡を吹く」犬を容易に連想する。当時の人々はたかが蟇とじゃれただけの犬が苦悶して泡を吹けば、驚き泡、基、慌てる。どうしたどうしたと犬に気をとられているうちに蟇は逃げおおせ、ふと気が付けば――蟇は、いない。そこには――泡を吹いて苦しむ犬がいるばかりである。――これは咬みつかれた蟇が、この「泡」に化けたのだ――と考えたとしても、私はおかしくないと思うのである。「泡」のまがまがしさは、案外、こうした異様なシーンから引き出されたものなのかも知れない。

 博物学的には、葛洪の「枹朴子」(三一七年頃成立)の「第十一」に「蟾蜍(せんじょ)」として現われるのが古く(原文は中文サイトの簡体字のものを正字に加工した)、

〇原文

肉芝者、謂萬蟾蜍、頭上有角、頷下有丹書八字再重、以五月五日日中時取之、陰乾百日、以其左足畫地、即爲流水、帶其左手於身、辟五兵、若敵人射己者、弓弩矢皆反還自向也。

〇やぶちゃんの書き下し文

肉芝とは、萬歳の蟾蜍を謂ふ。頭上に角有り、頷下に八の字を再重せるを丹書せる有り。五月五日の日の中時を以て之を取り、陰乾(かげぼし)にすること百日、其の左足を以て地に畫すれば、即ち流水を爲し、其の左手を身に帶ぶれば、五兵を辟(さ)け、若し敵人の己れを射る者あれば、弓弩(きうど)の矢は皆、反(かへ)つて自らに還り向ふなり。

とその仙薬としての強大なパワーを叙述する(「再重」は、「八」の字を更に重ねて「八」と記したような真っ赤な模様がある、という意味であろう)。

 李時珍の「本草綱目」の「蟾蜍」の項には、正に本書に現れる現象が記されている(原文は中文サイトの簡体字のものを正字に加工した)。

〇原文

着密室中之、明旦自解者、取爲術用、能使人亦自解。

〇やぶちゃんの書き下し文

密室中に縛り着けて之れを閉づに、明旦、自から解くを視るは、術用を取り爲して、能く人の縛を亦、自から解かしむるなり。

とある。本話のルーツと見てよい。更に正徳二(一七一二)年頃版行された(本話が記載される九十年近く前である)寺島良安の「和漢三才図会 巻五十四 湿生類」の冒頭を飾る「蟾蜍」の最後に注して(原文は原本画像から私が起こした)、

〇原文

△按蟾蜍實靈物也予試取之在地覆桶於上壓用磐石明旦開視唯空桶耳又蟾蜍入海成眼張魚多見半變

〇書き下し文(良安の訓点に基づきつつ、私が適宜補ったもの)

△按ずるに蟾蜍は實に靈物なり。予、試みに之を取りて地に在(を)き、上に桶を覆ひて、壓(をも)しに磐石を用ゆる。明旦、開き視れば、唯だ空桶のみ。又、この蟾蜍、海に入りて眼張(めはる)魚に成る。多く半變を見る。

とある。彼はヒキガエルが海産魚であるカサゴ目メバル科メバル Sebastes inermis に変ずるという化生説を本気で信じていた。実際、「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「眼張魚」の項には以下のようにある(〔 〕は私の注)。

めばる 正字、未だ詳らかならず。

眼張魚【俗に米波留と云ふ。】

△按ずるに、眼張魚、状、赤魚に類して、眼、大いに瞋張(みは)る。故に之を名づく。惟だ口、濶大ならず。味、【甘、平。】。赤く、緋魚に似たり。春月、五~六寸、夏秋、一尺ばかり。播州〔=播磨〕赤石〔=明石〕の赤眼張は、江戸の緋魚と共に名を得。

黑眼張魚 形、同じくして、色、赤からず、微に黑し。其の大なる者、一尺余。赤・黑二種共に蟾蜍の化する所なり。

この良安の叙述は実に実に頗る面白いのである。特に「蟾蜍」の叙述の最後の下り、『多く半變を見る』というのは、これ、条鰭綱アンコウ目カエルアンコウ科 Antennariidae のカエルアンコウ(旧名イザリウオは差別和名として亜目以下のタクソンを含めて二〇〇七年二月一日に日本魚類学会によって変更された。)を良安はそれと見間違ったのではあるまいか?(スズキ目イソギンポ科の Istiblennius enosimae でもいいが、私はメバルの手前の異形の変異体としては断然、カエルアンコウ(何てったって「カエル」だからね!)

   *

★やぶちゃんの脱線

「イザリウオ」が「カエルアンコウ」に変わったお蔭で――この、私が主張することは利を得たと言える……が……私は一言言いたい。

――では、二枚貝綱異歯亜綱バカガイ上科バカガイ科バカガイ Mactra chinensis 当然の如く、変えねばなるまい!

――「~モドキ」例えば甲殻綱十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニ属イバラガニモドキもとんでもない差別命名だろ?! スズキモドキ君という名前を人間は附けるか! 「マグマ大使」の人間モドキじゃあるまいし!

――スズキ目イボダイ亜目イボダイ科のボウズコンニャク Cubiceps squamiceps なんて余りに可哀そうじゃねえか! 頭は坊主みたいに丸いが、そんな魚はごまんといるぞ! だいたいそんなに不細工でなし、癖はあるが、私は食うにとても好きな魚だ! 蒟蒻だってイボダイ亜目のハナビラウオなどと合わせて総称する「コンニャクウオ」という同族総称を安易にくっ付けただけだろうが! 本人(本魚)が日本語を解する能力があったらゼッタイ、アムネスティ・インターナショナルに提訴すると思うがね! いや……この私の発言は、植物差別和名撤廃論者から言わせれば、本物の単子葉植物オモダカ目サトイモ科コンニャク Amorphophallus konjac に対する謂われなき差別に繋がると批判されるであろう。

――それに、これで最初に附けた和名が絶対優先権を持つというルールも反故になったということが分かったから(名前を永遠に変えないことが学名が学名である最も大事な部分である。私はそれが和名にも準じられねばならないと思う。いつか日本や日本語が滅びかけた時、イザリウオとカエルアンコウは多くの日本人が別な魚だと思わないと保証出来るのか?)、生きた化石腹足綱古腹足目オキナエビス超科オキナエビスガイ科オキナエビスガイ属オキナエビスガイMikadotrochus beyrichii に特定宗教の神「戎」を名前に持たすたあ、とんでもないことだから(一神教の他宗教の信者のことを考え給え!)、別名として差別された、本種の生貝を捕獲した、私の尊敬する明治の三崎の漁師で三崎臨海実験所採集人であった青木熊吉さん所縁の「チョウジャガイ」にしよう!――明治 九(一八七七)年、以前からドイツからの依頼で探索を命じられていた新種とピンときた熊さんが捕獲後、東大に即座に持ち込み、四〇円(三〇円とも。年代も明治一〇年とも)を報奨金として貰って、「長者になったようじゃ!」と答えたことから標準和名としようとしたが、天保一五(一八四三)年の武蔵石壽「目八譜」に絵入り記載があり、和名異名となった経緯がある。「エビス」なんか目じゃねえ! やっぱ「チョウジャガイ」だべ!――いや、やっぱりダメか?! 長者は貧者を連想させるからだめだろ!

――ええい! いっそ、生物和名をぜえんぶ、『差別のない』『正しい』お名前にお変えになったら如何どす?……★

   *

 閑話休題。「差別和名撤廃物言」脱線支線から「蟾蜍博物史」本線に戻す。

 他にも後の、根岸を超える奇談蒐集癖を持った肥前国平戸藩第九代藩主の松浦(まつら)清(号静山)の随筆集「甲子夜話」(起筆の文政四(一八二一)年一一月一七日甲子の夜から静山没の天保一二(一八四一)年までの記録)にも、彼が寺島と同様にメバルへの化生を信じていた記載(七六・一一項)、江戸下谷御徒町に住む御茶坊主の屋敷の庭の手水鉢の下から白い気が三日に亙って立ち上ったため、堀り起こしたところ大蟇が現れたから、誠に蟇は気を吐くものである(続篇二九・三項)という話、夏の夜に人魂と称して光り物が飛ぶのは実は蟾蜍が飛行しているのであり、江戸本郷丸山の福山侯の別荘で光り物を竹竿で打ち落としたところ蟾蜍であった(五・一〇項)という話が所載する(以上、「甲子夜話」を私は現物を持っているが、時間的な節約のために一九九四年柏美術出版刊の笹間良彦「図説・日本未確認生物事典」の「蟾蜍」の項にある「甲子夜話」の訳を参照して纏め、原文の確認は行っていない。暇を見つけて現認し、書き直そうと考えている。た)。【2018年8月9日変更・追記:総て「甲子夜話」で確認したが、書き直す必要を認めなかった。】

・「怪蟲淡と變じて」底本では標題の「淡」の右に『(泡)』と傍注する。

・「最所」底本では右に『(最初)』と傍注する。

・「何か淡出けるが」底本では「淡」の右に『(泡)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪しき虫類の泡と変じて身を遁れた事

 

 ある人の曰く、

「……蟇(ひき)というものは如何に頑丈なる箱の内に入れおいても、きっと姿を消してしまうもので、御座る……」

と語り出した。……

 

……若き同輩どもが集まり、一匹の蟇を箱の内へ入れて夜咄しの席の床(ゆか)に置き、酒なんど呑みながらも、折々かの箱には気をつけておりましたが……酒杯も重なり、酔うて気づかぬうちに……これ、隙間からでも逃げ出したものか……二間ほど離れた所で、下女の声がし、何やらん、驚いている様子故、皆してそこへ駆け寄ってみると……あの……蟇が――居りました。

 ある者は、

「……これは庭からでも這い上がった、別の蟇ででも御座ろう。……」

と言うので最初の箱を開けて見ました。……ところが……何時、抜け出したものやら……箱の中は――

もぬけの空。――

 そこで、またしても元の箱の内へその蟇を入れて、この度は、代わる代わる目を離さずに、見守って居(お)ることに致しました。……

……夜も深更に及び、いずれの者も眠気を催す頃のこと……

……箱の縁より……

……何か、この、泡のようなものが……出始めました。……

……泡は……蠢き、膨れ上がって、一団の塊りの如(ごと)なったかと思うと……

……これ、みるみるうちに……消えました。……

 その時、その場で起きておりました者どもは皆、奔り寄り、即座に、かの箱の蓋を取って、中を見ました……ところが……蟇は何処(いずこ)へ行ったものやら……またしても――

もぬけの空。――

「……さては……泡と化して立ち去ったものかッ?!……」

……と……誰もが……心底、驚きまして御座いました……。

 

――とは、私の元へよく訪ねて来る者が語った話で御座る。

榾煙くぐつて税吏歸ける 畑耕一

榾煙くぐつて税吏歸ける

 

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」「ほた」と読み、薪(たきぎ)のこと。通常、囲炉裏や竈で焚く小枝や木切れなどを言うが、ここは焚き火であろう。]

2012/08/23

生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 三 生殖器の發達

    三 生殖器の發達

 

 かくの如く寄生蟲類では運動の器官と感覺の器官著しく働きには、滋養分を集めて溜める方と、これを費して捨てる方とがあるが、消化は滋養を取る方であり、運動と感覺とはこれを費す方に屬する。これを簿記の帳面に記入するとすれば、消化吸收は入の部で、運動と感覺とは出の部に書き込まねばならぬ。若しも或る動物が毎日食つただけの滋養分を運動と感覺とによつて全く費してしまふならば、その動物の體重は殖えもせず減りもせず、丁度出入平均の有樣に止まる。成長した人間の體量が著しく増減せぬのは、かやうな狀態にあるからである。これに反して、生まれて間のない赤ん坊は、たゞ乳を呑むだけで、碌に動きもせずに眠つて居るから、滋養分の輸入超過のために盛に成長し、僅四箇月で體重が二倍になり、一箇年で三倍にもなる。また學校へ行く頃になると、運動が劇しくなつて、滋養分費やすことが頗る多く、これを補つてなほその上に成長せねばならぬから、食欲の盛なことは驚くばかりである。所が、寄生蟲は如何にといふと、宿主の外面に吸ひ著いて居るものでも、滋養分に不足はなく、體内に居るものの如きは、全身滋養液に浸されて居るために、消化器の必要がない程であるが、運動も感覺も殆どせず、滋養分を使つて減らすことが極めて少いから、たゞ溜まるの外はない。そして滋養分が多くあるときには、繁殖の盛になるのは動物の常であつて、人間の如くに隨意の生活をするものでも、統計を取つて見ると豐年には子の生れる數が増え、凶年には子の生れる數が減る。寄生蟲の如きは、滋養分の出納がいつも不平均で、入の方が遙に多いが、これがすべて繁殖の資料となるから、この方面に於ては全動物界中に寄生蟲に匹敵するものは決してない。試に一疋の産む卵の數を算へても、億以上に及ぶものは寄生蟲のみである。また胎生するものでは、この差は更に著しい。犬・豚などは隨分子を産むことの多い方であるが、一囘に十疋産むことは稀であり、鼠の如きも、十二疋以上産むことは殆どない。しかるに豚の肉から人の腸に移りくる「トリキナ」〔トリヒナ〕という寄生蟲などは、親と同じ形狀の胎兒を一度に二千疋も産む。かく多數の卵を産み、多數の子を生ずるには、無論卵巣や子宮などの如き生殖器官が大きくなければならぬが、獨立生活をする動物に比べて如何程大きいかは、同じ組に屬する蟲類で、獨立せるものと寄生せるものとを竝べて見ると明瞭に分る。例へば前に名を掲げた「ふなむし」と鯛の口の中にいる小判蟲〔タイノエ〕とを比べて見るに、「ふなむし」の方が體が稍々扁平で身輕に出來て居るが、小判蟲の方は丸く肥つて頗る厚い。そして、この丸く肥つた身體の内部を充して居るのは主として卵巣である。

[やぶちゃん注:「トリキナ」線形動物門双器綱エノプルス亜エノプルス目旋毛虫上科トリヒナ Trichinella spiralis。所謂、人獣共通感染症としての旋毛虫症・トリヒナ症を引き起こす。感染種は本種以外にも Trichinella britoviTrichinella nativaTrichinella nelsoniTrichinella pseudospilaris などが挙げられる。以下、東京都福祉保健局「食品衛生の窓」の「食品の寄生虫 旋毛虫」を参照して記載する。雄虫約一・五ミリメートル、雌虫約三~四ミリメートル、体幅〇・〇四から〇・〇六ミリメートル。人体への感染源は以下の動物肉の筋肉内被嚢幼虫。米国では不完全調理の豚肉・ソーセージなど、東欧・中央アジアでは馬肉・鹿肉等のゲームミート(牛・豚・鶏・羊以外の主に狩猟によって得られる肉のこと)。日本の場合はツキノワグマやエゾヒグマの刺身による感染者が出ている(私の知っているものでは、国外のケースでハンバーグ用の豚挽肉を生食した――豚の生肉は確かに実は美味い――成人男性二名の死亡例、本邦のケースで猟で撃ち獲ったツキノワグマの肉を生食、脳に迷走、やはり感染者は死亡。但し、死亡率は非常に低い)。初発症状は発熱・筋肉痛・眼窩周囲の浮腫であるが、虫体の発育に従って三期に病態が変化する。

1 成虫侵襲期

感染後一~二週目。成虫が小腸粘膜に侵入して幼虫が産出される時期で、産出の刺激により腹痛・下痢・発熱・好酸球増加などが見られる。

2 幼虫播種期

感染後二~六週目。粘膜内で産出された幼虫が全身筋肉への移行を開始する時期。眼瞼浮腫・筋肉痛・発熱・時に呼吸困難を引き起こす。脳炎・心筋炎等を起こして重篤となるケースもある。

3 幼虫被嚢期

感染後六週目頃。筋肉に移行した幼虫がそこで被嚢する。眼瞼浮腫が一層顕著となり、重症の場合、全身浮腫・貧血・肺炎・心不全等を起こし、死亡に至る場合もある。

但し、軽い症状で固定してしまう場合もあり、本邦での感染例は少ない。感染予防のためには約六〇度以上で、充分に加熱調理する(マイナス三〇度で四ヶ月保存したクマ肉により発症したケースや北極圏のアザラシにも寄生しており、トリヒナは低温に強い)。二〇〇四年には北海道のペットのアライグマから検出されている。]

 

[「ヂストマ」の生殖器]

Jisutomakaibouzu

[(い)卵黄巣 (ろ)卵巣 (は)ラウレル管 (に)睾丸 (ほ)子宮 (へ)受精嚢 (と)排泄管 (ち)睾丸]

[やぶちゃん注:「卵黄巣」寄生虫の解剖所見にしばしば見られる器官で、以下の本文に現れる「卵黄腺」と同義か、それに付随した卵黄を蓄えておく器官であろう(学術文庫版図版では「卵黄腺」とある)。「ラウレル管」(Laurer's canal)同じく吸虫の解剖所見にしばしば見られる器官であるが、不詳。英文のウィキ“Laurer's canalでは擬似的な膣とする。同種の器官とも思われるメーリス腺(Mehlis'gland)についてウィキの「メーリス腺」には『吸虫および条虫の卵形成腔を取り囲む単細胞腺の集合。かつては卵殻腺と呼ばれていた。卵殻の形成に何らかの関与があると考えられているが、その真の役割はわかっていない』とある。なお、学術文庫版(第一刷)では「フウレル管」と誤植している。]

 

 「ヂストマ」の如き眞の内部寄生蟲であると、消化の器官は極めて小さく簡單で、内臟といへば殆ど生殖器のみである。その代り生殖器は頗る複雜で、睾丸もあれば卵巣もあり、輸精管、輸卵管、成熟した卵を容れて置く子宮を始め、卵の黄身を造るための卵黄腺、これから卵黄の出て行く卵黄管、卵の殼を分泌するための殼腺などがあつて、殆ど體の全部を占めて居る。それ故「ヂストマ」の解剖といへば、即ちその生殖器の解剖ともいふべき程で、それがまた一種毎に細かい點で相違して居るから、「ヂストマ」の種類を識別するには、まづその生殖器を調べなければならぬ。これを以ても寄生蟲の身體では生殖器官が如何に重要な位置を占めて居るかが分る。

 

[「さなだむし」片節二種]

Jyoutyuuhen

[(イ)豚肉より來るもの (ロ)牛肉より來るもの]

 

 更に「さなだむし」の類になると、消化器は全くなく、吸著の器官も頭の端だけに限られてあるから、一節づつを取つて見ると、その内部は悉く生殖器官のみで滿されて居る。卵の熟する頃のものは、生殖器は頗る複雜で、恰も「ヂストマ」と同じく種々の部分から成り立つて居るが、卵が熟し終ると、たゞ子宮のみが殘つて、卵巣・睾丸・卵黄腺など殘餘の部分は晰漸消えてしまふ。その代り子宮は段々大きくなつて、殆ど一節の大部を占めるやうになる。牛から來る「さなだむし」でも豚からくる「さなだむし」でも成長したものは、長さが七米以上もあつて節の數が一千を超えるが、後端に近いところでは節が皆大きくて、生殖器官は子宮ばかりとなつて居る。一節づつ離れて、大便とともに出て來るのはかやうなものに限る。

 前に例を擧げた「かに」の腹に著いて居る袋狀の寄生蟲〔フクロムシ〕なども、生殖器官ばかりが大きく發達して、その他の内臟は殆ど何もない。この蟲は頭部が樹の根の如き形に延びて、「かに」の全身に蔓(はびこ)り滋養分を吸ひ取ることは已に述べたが、殊に卵巣や睾丸の處から滋養分を絞り取るとるから、「かに」はそのため全く生殖力を失つて子を産むことが出來なくなる。その代り、寄生蟲の方はそれだけの滋養分が廻つて來ること故、卵が非常に多く出來て、身體は恰も無數の無數の卵粒を包んだ嚢の如くになつてしまふ。實にこの蟲などは理想的の寄生生活をなすものというて宜しい程で、「かに」に稼がせてその滋養分を吸ひ取り、しかもこれを殺すまでには絞らず、たゞ子を産むといふ如き贅澤をさせぬ程度に止めて置いて、自身は運動の器官も持たず、感覺の器官も具へず、吸ひ取つた滋養分は全部生殖の資料に用ゐて限りなく子を産んで居るのである。

[やぶちゃん注:『「かに」はそのため全く生殖力を失つて子を産むことが出來なくなる。』これは厳密には正しくない。先に注したこの寄生性甲殻類であるフクロムシ類は、カニのオスに寄生した場合、宿主のオスガニは寄生去勢といって生殖能力を失って第二次性徴は間性を示すが、メスの場合はメスのままで立派に卵を持てるようである。これは「モクズガニのフクロムシのホームページ」(御名前は明記されておられないが、兵庫県豊岡市のコウノトリ市民研究所事務局長の方のページである)の知見を参照させて頂いたのだが、同HPの「フクロムシとは」には、その奇抜なライフ・サイクルが分かり易く示されているので引用させて頂く。節足動物門、殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱根頭上目Rhizocephala のケントロゴン目 Kentrogonida 及び アケントロゴン目 Akentrogonida のフクロムシ類は『十脚甲殻類、等脚類、シャコ類、フジツボ類などの腹部あるいは体表に寄生する袋状の甲殻類である。/外套膜で覆われた袋状の部分は体外部(externa)で、中身はほとんど卵巣で占められる。外套口を有し、そこから幼生を放出する。/体外部は宿主の外皮を貫き、体内部(interna)とつながっている。植物の根のように宿主の体内に侵入し養分を吸収する。体内部は根系とも呼ばれる。付属肢や消化器官は全く無い。/卵は体外部の中で孵化しノープリウスあるいはキプリス幼生の形で放出される。しばらくの間フクロムシは水中で自由生活をしている。このあたりはフジツボ類に近い。/メスのキプリス幼生は宿主に付着し根頭類特有のケントロゴン幼生に変態し、キチン質の注射針のような筒を出し、宿主の外皮を突き破り体内に細胞塊を注入する。この細胞塊が宿主の体内で成長し、根系を発達させ、やがて宿主の表皮を突き破り体外部を形成する。/オスのキプリス幼生は処女状態のメスの体外部に付着侵入し、精子細胞に分化する。すなわちメスとオスは合体し、あたかも雌雄同体のような状態となる』とある。寄生去勢を起こさせる、そのグロなエイリアン(私が前注で述べた如く、この専門家の方もそう呼称している)のようなフクロムシは、実は自分自身がジェンダー・ハイブリッド・エイリアンであった訳である。なお、同HPには「モクズガニフクロムシを食べる」もある。こうして写真で見て、指摘されると気味が悪くなる御仁もいようが、恐らくは我々も知らずにカニの一部として食していることは、これ、間違いない。]

耳囊 卷之五 始動 / 鳥獸讎を報ずる怪異の事

「耳嚢卷之五」のブログ公開を始動する。


 

 鳥獸讎を報ずる怪異の事

 

 寬政八辰の六月の頃、武州板橋より川越へ道中に白子村といへるあり。白子觀音の靈場に、槻(つき)とやらん又は榎(えのき)とも聞しが、大木ありしに數多(あまた)の鼬(いたち)あつまりて、右大木のもとすへよりうろの内へ入りて數刻群れけるが、程なく右うろの内より、長さ三間計りにて太さ六七寸廻りのうはばみのたり出て死しける故、土地の者共ふしぎに思ひて駈(かけ)集りしに、鼬はいづち行けんみな行衞なし。さるにてもいか成語なるやと彼(かの)うろをも改めしに、鼬の死したる一ツありしとや。月頃彼うはばみの爲に其類をとられしを恨みて、同物をかりあつめ其仇(あた)を報ひけるやと、彼村程近き人の咄しける也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:「卷之四」末との連関は認められない。似たような動物執念譚を巻頭に掲げるものに「卷之十」の「蛇の遺念可恐の事」がある。但し、こちらは燕の子を狙った蛇が下僕に打ち殺されるた後、その以外に群れた無数の蟻が蛇の遺恨を持って燕の巣を襲ったという変形の異類怨念譚である。ヘビという共通性では「卷之二」巻頭の「蛇を養ひし人の事」が挙げられ、「卷之三」巻頭の「聊の事より奇怪を談じ初る事」がハチ、「卷之四」巻頭の「耳へ虫の入りし事」及び二番目の「耳中へ蚿入りし奇法の事」でコメツキムシとムカデ、「卷之六」の二番目には「市中へ出し奇獣の事」ではリスに似た雷獣と噂される未確認生物(図入り)の記事、「巻之八」の二番目「座頭の頓才にて狼災を遁し事」三番目「雜穀の鷄全卵不産事」はオオカミにニワトリと、有意な頻度で動物が現れ、根岸の動物奇談好きが見てとれる。

 

・「讎」「仇」「讐」「敵」などは古語では「あた」と清音で読む。空疎・虚構・不信実の意を元とする「徒(あだ)なり」(儚い・不誠実だ・無駄だ・いいかげんだ・無関係だ)の意の「あだ」とは全くの別語である。

 

・「寬政八辰の六月」寛政八(一七九六)は丙辰(きのえたつ)。旧暦寛政八年六月一日はグレゴリオ暦の七月五日。

 

・「白子觀音」埼玉県和光市白子にある臨済宗建長寺派福田山東明寺(とうみょうじ)。康暦二(一三八〇) 年開山。第七世常西和尚が伝行基作赤池堂観世音を境内に安置、旧地名をとって「吹上観音」として知られる。

 

・「槻」欅。バラ目ニレ科ケヤキ Zelkova serrata

 

・「榎」バラ目アサ科エノキ Celtis sinensis。東明寺HP外、いろいろ検索を掛けてみたが、いずれかは不詳。

 

・「数刻」二、三時間から五、六時間。中を採って四時間ぐらいが話柄としても飽きないであろう。「程なく」という謂いからもそれを越えるとは思われない。

 

・「長さ三間計りにて太さ六七寸廻り」体長約五・四五メートル、胴回り約二〇センチメートル前後。本邦産の蛇としては信じ難い大きさである。

 

・「のたり出て」うねるように這って出て来て。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 鳥獣(ちょうじゅう)が讎(あだ)を報ずる怪異の事

 

 

 寛政八年丙辰(きのえたつ)の六月の頃、武蔵国板橋より川越へ抜ける街道筋に白子村という所が御座って、そこに祀られておる白子(しらこ)観音の霊場東明寺に――欅(けやき)とも、又は榎(えのき)とも聞いて御座るが――ともかくも、一本の巨木が御座った。

 

 ある日のこと、数多の鼬(いたち)が寄り集(つど)って、その大木の根本から、するすると登ったかと思うと、幹に出来た洞(うろ)の内への陸続と入ってゆく。……

 

 数刻、これ、五月蠅く群れておったが、程無(の)う、その洞の内より――何と、長さ三間ばかり、胴回りは、これ、六、七寸になんなんとする蟒蛇(うわばみ)が這い出して――死んだ――。

 

 そこで、村人ども、不思議に思うて駈け集(つど)って参ったところが、鼬は、何処(いずこ)へ行ったものやら、影も形も見えずなっておった。

 

「……それにしても……これは如何なることで御座ろうか?……」

 

と、かの洞の内を検(あら)め見たところ――そこは死んだ蟒蛇の棲家と思しく――その底の方に――鼬の骸骨が一つ――転がっておったとか申す。……

 

「……先頃、かの蟒蛇のために、その一族の者を奪い捕られたを恨んで、同族を駆り集め、その仇(あだ)を討ったものでも御座ろうか?……」

 

とは、かの白子村に程近き人の、話したことで御座る。

火鉢二句 畑耕一

刈りたての髮のざわめき炭熾る

 

[やぶちゃん注:「熾る」は「おこる」と読む。]

 

 

 

活字みな匂うて來たる火鉢かな

2012/08/21

サンダーバード・コーポレーション 取締役 サンマリノ支社赴任

教師早期退職後4箇月、「サンダーバード・コーポレーション」入社後1ヶ月で取締役に抜擢、今日、サンマリノ支社に赴任致しました。今後ともよろしく御鞭撻の程、お願い申し上げます。

名刺の交換を――
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サンマリノ支店への出発の際の本社社屋前での記念写真です――偽物じゃありません! クレジット入りのジェフ・トレーシーのサイン入りですから!
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今回は兄弟のアランと、ブレインズ、それに僕が秘かに愛しているミンミン(本当はチンチンと邦訳するのが正しいのですが)にミッションを助けて戴きました。バージルはちょいと心配だったのでしょう、こっそり、着陸指示に手助けして呉れました。ありがとう! バージル!

耳嚢 卷之四 全一〇〇話公開

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に根岸鎭衞「耳嚢 卷之四」全一〇〇話を公開した。

ブログ・カテゴリ「耳嚢」は引き続いて、「卷之五」へ入る。

耳囊 卷之四 雷を嫌ふ者藥の事 / 耳囊 卷之四  根岸鎭衞 やぶちゃん注訳注 完

 

 雷を嫌ふ者藥の事 

 

 予が一族の内に小普請組石河(いしこ)壹岐(いき)守支配有りしが、右相(あひ)支配に多門孫右衞門といへる人の家傳に、雷を嫌ふ者へ與ふる藥あり。尤(もつとも)呪法同樣の藥にて、雷のする時心穴(しんけつ)へ當(あつ)る事の由。奇怪のやう成るが、畢竟其心を定め靜(しづむ)るの藥のよし。嫌ひしものへ與ふるに驗妙ありと人もいゝける由。予が一族も彼藥貰ひしと語りしを爰にしるし置ぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:感じさせない。二つ前の「痔疾呪の事」に続き、「卷之四」は本巻に多く見られる呪(まじな)いシリーズで大団円となった。最初の「耳へ虫の入りし事」は今の我々から見れば、立派な医学的処置であるが、当時の感覚ではこうした医療処置と呪(まじな)いの類の明確な線引きはなく、医術も広義の呪術と考えてよいから、本巻は巻頭掉尾に呪術群があって綺麗な額縁を形成していると言える。なお、本話は根岸も指摘している通り、一〇〇%典型的プラシーボである。なお、当初、話柄の中間部は、その根岸の一族の者の直接話法にして訳そうと思ったのだが、ここには実はそれを聴いた後の根岸の冷静な分析が随所に含まれているため、かえっておかしな訳になってしまうことから、断念した。

・「石河壹岐守」石河貞通(宝暦九(一七五九)年~?)は底本鈴木氏注に、『天明五年(二十七歳)家を継ぐ。四千五百二十石。寛政元年小普請支配、九年西城御小性組小性番頭。』とある。ネット上には下総小見川藩第六代藩主内田正容(うちだまさかた 寛政一二(一八〇〇)年生)なる人物の記載に、彼の父を『大身旗本で留守居役を務めた石河貞通(伊東長丘の五男)の三男として生まれる』とする(例えばウィキの「内田正容)。同一人物と考えて間違いあるまい。「寛政譜」を見ると石河(いしこ)家は清和源氏頼親流石河冠者有光を祖とし、関ヶ原で東軍についた貞政以降は嫡流が常に「貞」を名に使用している模様である。

・「多門孫右衞門」不詳。因みに多門氏は嵯峨源氏渡辺綱を祖と称し、三河国額田郡大門に住し、大門を名乗ったが、後に多門氏に改姓したとする。二人とも姓がそれほどオーソドックスではないので、嫡流家系について示しおいた。

・「心穴」漢方で「心穴」というと、左右の掌側の中指の指先に近い方の関節中央に位置するツボをいうが、呪物を当てるには如何にもな場所である。岩波の長谷川氏の注、『心窩と同じく、みぞおちをいうか。』に従う。

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 雷を嫌う者の妙薬の事 

 

 私の一族の内に、小普請組石河(いしこ)壱岐守貞通殿御支配の者が御座るが、彼の言によれば、彼の同僚に多門孫右衛門という者がおり、その多門家に、家伝として『雷を嫌う者へ与えるに効ある薬』なるものがある由。

 

 尤も全く古典的な呪法同様の薬で――雷が鳴っている際、その『薬』を、鳩尾(みぞおち)へ当てる――ということらしい。

 

 如何にも奇怪(きっかい)なる話では御座るが――これ、よく効くのじゃそうな――畢竟、動揺する心持を鎮静致すところの心理的な効果を狙った類いの『薬』であろう。

 

 雷嫌いの者へ与えると絶妙の効験(こうげん)ありと、専らの噂との由。

 

 彼――私の一族であるかの者――も、その薬を貰ったと語ったので、ここに記しおく。

 



耳囊 卷之四  根岸鎭衞 やぶちゃん注訳注 完

暖爐三句 畑耕一

夜の薔薇石油暖爐に風起る

 

 

 

瓦斯暖爐ぽんともして戀ひわたる

 

 

 

   Ecce Homo 再讀

瓦斯暖爐眞赤死ぶときかなニイチエ

 

[やぶちゃん注:「Ecce Homo」は 「この人を見よ」でニーチェ(Friedrich Nietzsche  一八四四年~一九〇〇年)が発狂する一八八八年の前年一八八七年秋に書いた自伝。一九〇八年に妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェが出版した。なぜ自身が賢いのかなど、皮肉を交えた自画自賛が綴られると同時に、「悲劇の誕生」や「ツァラトゥストラはかく語りき」など、それまでに出されたニーチェの著作を自ら総括している。題名のラテン語“Ecce homo”は「ヨハネによる福音書」の第一九章第五節から引用されたもの(以上はウィキの「この人を見よ」に拠った)。]

2012/08/20

日向ぼこ侏儒の心にしばしある 畑耕一

日向ぼこ侏儒の心にしばしある

耳嚢 巻之四 忠信天助を獲る事

本話は99話。後、1話で「卷之四」を完成する。



 忠信天助を獲る事

 

 或る御旗本の勝手不廻(ふまは)りにて、寛政の比(ころ)公儀の御貸附金を借りて急用を賄ひしが、同辰の年右御返納金とて知行より金三拾兩借て、其納期日迄仕廻置(しまはしおき)しを、盜賊入て盜取れ誠に當惑の由、所々才覺をなし知行へも申遣しけれど、兼て不勝手の事なれば可調(ととのふべき)樣もなく、家内愁ひもだへしに、程無(ほどなく)期日も來りしにいかにとも詮方なし。然るに彼許(かのもと)に幼(をさなき)より勤めて、右主人の影を以(もつて)、今は組付の同心とやらん輕き御家人有りしが、此事を聞て色々心を碎き相談もなしけれど詮方なく立戻りて、夫婦も恩義有(ある)元主人の難澁(なんじふ)、誠に一命をかけても此難義を救はんと色々工夫して、今年十五六才になれる娘あれば、渠(かれ)を賣りて此急難を救はんと、夫婦相談の上娘に語りしに、娘も誠有(まことある)心にや其心に隨ふ儘、心安き町人を賴てしかじかの譯かたりしが、これも其志のあはれを感(かんじ)ぬれど詮方なければ、渠がしれる女衒(ぜげん)淺草邊にあれば、是へ連行て相談せんとて、三人打連れて女衒の元へ至りてしかじかの譯かたりしに、鬼神も哀とや思ひけん、氣の毒成事なれ、然し請人(うけにん)人主(ひとぬし)其外其許々(もともと)を糺して、しかとしたる書付もとらざれば望に任せかたし、急ぐ事とて其職分の掟(おきて)あればとて、急に埒明(らちあき)候事とも見へざりしが、其席に居合せし町人躰(てい)の者、それは氣の毒成事也、某(それがし)心當りあれば深川八幡前迄來り給へと言(いふ)故、聊(いささか)力を得て右町人に附て娘を連、八幡前一ツの住家(すみか)へ立寄しに、苦しからざる住居にて年頃三十計(ばかり)の男ありて、委細の始末を聞、夫は氣の毒成事也、急に金子入用を達せんとても、何方(いづかた)にても請(うけ)ごふ者有べからず、我等引受て世話可致(いたすべし)、然し證文もなくては難成(なりがたし)とて、彼召連し女衒へも談じて預り候趣の書付いたし、右娘子は預り可申迚(まうすべしとて)、簞笥(たんす)やうの内より金三十兩出して與へければ、いづれ才覺の調ひし事を歡びて、厚く禮謝して右の許を立出しが、さるにてもあまりたやすく出來し事の疑しさに、若(もし)似せ金にてはなきやと右町邊の兩替屋へ立寄り、右金子を貮朱判(にしゆばん)歩判(ぶばん)に兩替なし給はるべしと賴しかば、番頭ふうの者右の金を改めて驚きたる躰(てい)にて、傍の者にも見せ何か不審の躰故、若(もし)如何成(いかなる)金にもありや、譯有事哉(わけあることや)と尋ければ、聊(いささか)此金に怪しき事不審成(なる)事もなけれど、此金子は何方より御手に入りしや承り度(たし)とて念頃(ねんごろ)に尋し故、隱すべきにあらねばしかじかの事也と初終(はじめおはり)をかたりければ、右番頭手を打て左こそあるべき事、右深川の若き人は何を隱さん此家の息子なれど、放埒不束(はうらつふつつか)にて舊離(きふり)して今勘當(かんだう)の身なれど、折節内々よりの無心合力(むしんかふりよく)あまたゝびの事也、よからぬ身持なれば、御娘子も慰ものとして果(はて)はいか成(なる)所へか賣渡(うりわたし)なん、此方より御志を感じ金子は御用立可申(まうすべき)間、此金子は早々御返し有て娘子を連戻り給へ、此金も昨日合力を乞ひし故與へたる金也と咄しける故、大に悦び忝(かたじけなき)由厚く禮を述(のべ)て早速深川へ立戻り彼金子を返し、いなみけれど娘を無理に請取(うけとり)連歸り、主(あるじ)用を足して娘にも愁ひをかけざるは、誠に天の加護ならんと人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。久々の長めの話柄である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には底本附註として『主人のために娘を売り、その金の出所詮議からめでたい結末に至ること、類話多し。』とあるが、こういう話が盛んに語られるのは、実は、身売りし、苦界へと落ちて、儚くなっていった無数の女の悲劇があったからこそである。話柄のハッピー・エンドの、その彼方の真実の闇をこそ見据えなければなるまい。

・「獲る」は「うる」と読む。

・「同辰の年」寛政八(一七九六)年丙辰(ひのえたつ)。

・「組付の同心」常備兵力として旗本を編制した部隊である五番方(小姓・書院番・新番・大番・小十人)といった組配下の同心。

・「女衒」女性を遊廓に売る際の仲介斡旋業者。中世の「人買い」に発し、江戸時代になると「人買い」「口入れ」「桂庵」(けいあん。「慶庵」とも書く)といった周旋業者がこれを兼ねてもいたが、特に関東で娼妓を周旋する者を女衒と俗称した。語源は定かでないが、女の容姿を見極めるの意の「女見(じょけん)」から転訛したものとも言われる。今も秘かに続く人身売買ブローカーで、誘拐同様の犯罪行為にも手を染めて暴利を極めた者も多かった。江戸幕府は誘拐や人身売買を禁止してはいたものの、本話直近の寛政五(一七九三)年には女衒渡世の禁止を発令するも直ぐに廃令とし、女衒の請判(うけはん:保証印。)の禁止と吉原内居住を義務付けたに留まった。以上は平凡社「世界大百科事典」を主に参照したが、ウィキ「女衒」には『江戸時代も中頃までは遊郭に対する取り締まりが緩慢で、悪徳女衒の検束はあまり行われなかったらしい』とあり、老中松平定信の時、寛政七(一七九五)年の吉原規定証文作成励行の以前、寛政四年五月、『女衒禁止令ともいうべき法文を発布、これを以て女衒を単に遊女奉公の口入れにとどめ、証書の加印を廃止し、廓内に居住させ名主がこれを監督するという条件で許可を得て存続させた。その一方で加印のある証書は遊女の親族にあらため、女衒の慣習上の権利を剥奪したらしい』と記し、やや記載内容にずれがある。いずれにせよ、本話柄は時期的にはそれから四年後のことで、女衒の取り締まりが表面上厳しかった時期と読め、女衒の台詞にも、その辺りの不如意な制約による処理の難しさが語られているのが、如何にもリアルである。直ウィキは以下、『しかしこのような取締令も一時しのぎに過ぎず、すでに廓内外に根を張っていた女衒は法の網をかいくぐって悪事を尽くし、天保年間には新吉原関係の女衒だけでも廓外の浅草田町や山谷付近に十四、五軒の女衒が家を構えた。その中でも山谷の近江屋三八なる者は十余人の子分を使って各地方の玉出しと結託し、婦女を誘拐。また自ら各地を奔走し、その結果身売りさせた遊女は数百人にのぼったと』され、『江戸城下の女衒は、現在の東京都の台東区と荒川区をまたにかける山谷地区に多く点在していた』とある(引用に際し、アラビア数字を漢数字に代えた)。

・「請人」広く奉公人の保証人をいう。

・「人主」保証人である請人戸時代と並んで奉公人の身元を保証した連帯保証人。通常の奉公人の場合は父兄や親類がなった。

・「深川八幡」現在の江東区富岡にある東京都最大の八幡社富岡八幡宮の別名。建久年間(一一九〇年~一一九九年)に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(現在の横浜市金沢区富岡に所在)の直系分社。日本最大の神輿・水かけ祭りや大相撲発祥の地として知られる。

・「置文」約款の類いを認(したた)めた証書。

・「若(もし)」は底本のルビ。

・「右町邊」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『石町(こくちょう)辺』とある。それだと現在の東京都中央区の日本橋本石町周辺を指す。

・「貮朱判」銀貨。明和南鐐(なんりょう)二朱判と思われる。以下、ウィキの「南鐐二朱銀」によれば、良質の銀貨で『形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は』九八%で『当時としては極めて高いものであった』とある。

・「歩判」金貨。一歩金と二歩金の総称。一歩金は『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されて』おり、額面は一分で、一両の四分の一、四朱に相当する(以上はウィキの「一歩金」の記載)。二歩金は『形状は長方形短冊形である。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「二分」の文字、 下部に五三の桐紋が刻印されている。裏面には「光次」の署名と花押が、種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されて』おり、額面は二分で、一両の二分の一、また八朱に相当する(以上はウィキの「一歩金」の記載)。これらの記載によって、三十両をこれらで両替した時のイメージが出来よう。

・「舊離」「久離」とも書く。不身持ちのために別居又は失踪した子弟に対し、親や目上の親族が連帯責任を免れるために親族関係を断絶すること。「欠け落ち久離」とも。

・「勘當」親が子の所業を懲らすために親子の縁を絶つこと。武士は管轄の奉行所へ、町人は町奉行所へ登録した。この登録のない私的なものは「内証勘当」と言った。「追い出し久離」とも。広義には主従・師弟関係を絶つことにも用いた。

・「合力」「耳嚢」では既出でしばしば用いられるが、金銭や物品を与えて助けることをいう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 忠信の天の助けを得る事

 

 とある御旗本、手元不如意にて――近時、寛政の頃のことで御座る――御公儀の御貸付金を借りて急場を凌いで御座ったが、寛政八年丙辰(ひのえたつ)の年、その御返納金として所領から金三十両を借り、その返納の期日まで保管致いて御座ったところが、盗賊が押し入り、丸々盗み取られ、かの御旗本、途方に暮れて御座ったと申す。

 あちこちに借金を頼んでは、知行地へもその訳を言い遣わして窮状を訴えたが、かねてよりの窮迫なれば、鐚(びた)一文調えようも、これ御座なく、家中は苦悶の只中に陥っておったが、程無(の)う、返済の期日も迫ったに、如何ともしようがない。

 ところがここに、かの御当家に幼きころより勤めて、その主人のお蔭を以て、今は組付きの同心とやらになった、身分の低い御家人が御座ったが、この主家の事態を聞くに、いろいろと心を砕き、何かと主人の相談にも乗って方途を練ってはみたものの、これ、如何ともし難き儀と相い成って御座った。

 この同心は妻子持ちで御座ったが、

「……恩義ある元主人の難渋……これ、まっこと、一命に懸けても、この難儀、救わずんばならず!……」

と、いろいろと思案工夫致したが――遂に――彼らに今年十五、六才になる娘があったれば、

「……この娘を……売って……この急場を救わんとぞ思う……」

と夫婦相談の上、娘にこのことを語って聞かせた。

 すると、娘も武家の子としての誠心故か、その父の苦渋の思いに、黙って従って御座った。

 そこで親しいとある町人を頼って、しかじかの訳を語ったところが、この者も、かの同心の覚悟と娘の哀れに感じ入った。……なれど、やはり如何ともしようがない。

 「……我らが知れる女衒(ぜげん)が浅草辺りに居りますれば、そこへ連れ行きて、まずは相談致いてみましょうぞ……。」

とて、かの同心と娘に町人、三人うち連れて、その女衒の元へ参り、しかじかの訳を語って御座った。

 すると、鬼神の如き生業(なりわい)の、その女衒にても、哀れと思うたものか、

「……気の毒なことなれど……昨今は、請人(うけにん)や人主(ひとぬし)を定め、その外、相手の身元なんどを細かに調べ尽くした上、しっかとした正式な証文をも、これ、事前に準備致さねばならず……お望みを叶えること、これ、難しゅう御座る。……急がずんばならざる趣き、これ、重々分かっては御座るが……我らが、この女衒の職分にても、内々の様々な掟が御座っての……直近にては、これ……」

と、とてものことに即座に埒のあくようにも見えぬ様子。……

 すると、女衒の仲間内と思しい、その場に居合わせた町人体(てい)の者が、

「……そいつぁ、気の毒な話じゃねぇか。……おう! 儂(あっし)に心当たりがある!一つ、これから深川八幡宮前まで来てくんない!」

と申した。

 そこで、聊かその言葉に力を得、今度は、その別な町人体の者について、娘を連れ、八幡前にある一つ家(や)へと参った。かの女衒も一緒で御座った。

 そこは如何にも小綺麗な家で、年の頃三十ばかりの男が住んでおった。

 その男は、同心から委細顛末を聴くと、

「……それは実に気の毒なことで御座る。しかし、お話を伺うに……失礼ながら、急にかような額の金子(きんす)を、これ、用立てんとさるるも……いや、何方(いづかた)にても……請け負うて呉れよう者は、これ、御座るまい。……分かり申した。我ら、これ、お引き受け致し、お世話致しましょうほどに……しかし、証文も、これ、なくてはまずう御座るな……。」

と、その男、かの同行して来た女衒と、何やらん相談の上、面前にて、娘を確かに預かった旨の書付をものした。

「……さても。この御娘子、確かにお預かり申しました。……」

そう言うと、男は小洒落た簞笥風の内より、金三十両を出して同心に渡した。

 一同いずれも、算段の成ったを歓んで、厚く礼を謝して、男の許を辞した。……

……が……同心は一人となってとぼとぼと行くうち、ふと、

『……それにしても……あまりに容易く仕舞わしたものじゃ……』

との、疑いが心に射した。

『……もしや!……これ……偽金にては、あるまいか?!……』

と思うや、その近場に御座った両替屋に立ち寄り、

「……この金子を、二朱判(にしゅばん)と歩判(ぶばん)に両替して下されい。……」

と頼んだ。

――すると――案の定――番頭風の者が、この金子を仔細に改め――如何にも驚いて御座る様子である。……

――傍らにいる店の者にもその小判を見せては――何か不審を抱いている様子……

 同心は、てっきり

『やはり! 贋金かッ!』

と思い、

「……もし!……何ぞ、『おかしな金子』にても御座るか?! 何ぞ『不審なるところ』の……これ、御座るかッ?!……」

と訊き質いたところ、

「……い、いえ……聊かもこの金子に、これ、怪しいところも、不審なるところも御座いませぬ。……なれど、失礼ながら……この金子は……何方(いづかた)より御手に入れなさったもので御座いましょうや?……よろしければ、承りたく存じますので……はい……。」

と、番頭が如何にも丁重に尋ねた故、

『……我らがことにあらず、主家の窮状を救わんがための仕儀なればこそ、隠さねばならぬことにても、これ、御座ないことじゃ……』

と決して、しかじかのことにて、と一部始終を語って御座った。

 すると、その番頭、

――ポン!――

と手を打ち、

「――やはり! そうで御座いましたか!

……いえ、実は……その深川の若い御仁と申されますは……何を隠そう、この家(や)の息子で御座います。……なれど、放埒にして不束(ふつつか)の極みなれば、御主人様、旧離の上……今はもう、勘当の身の上にて御座います。……が……御主人様には内緒ながら……折節、こっそりと、我らが店内(みせうち)へと無心に参ること、これ、数多たび、御座いまする。……いや!……そういったよからぬ身持ちの者にて御座いますればこそ……お侍様の御娘子も……これ、慰みものと致いた上……果ては如何なるところへと売り渡さぬとも限りませぬ!……一つここは……手前どもも、お侍様の御主家への厚き志しに感じ入って御座いますればこそ……そのご入用の金子、これ、手前どもでご用立て申し上げまする故……この金子は早々にお返しあって、急ぎ、御娘子を連れ戻しなさいませ!……へえ、この金も……実は昨日、金をせびりに参った故、与えましたところの金子、そのままの包みにて、御座いますればこそ……。」

と告げた。

――ここに――新たなまっとうなる三十両を手にした同心、大いに悦んで、

「――忝(かたじけ)いッ!」

と厚く礼を述べるや、早速に深川へととって返し、かのドラ息子に金子をたたき返し、如何にも鼻の下を長(なご)うして渋っておる男から、無理矢理、かの証文を取り返した上、娘を連れ帰った。

 これにて、かの主家入用にも足り、娘にも苦界の愁いをかけずに済んだは、これ、まことに天の御加護があったもので御座ろうと、人々は語り合ったと申す。

2012/08/19

鎌倉攬勝考卷之四 円覚寺へ

「鎌倉攬勝考卷之四」は円覚寺に突入した。「梅花無尽蔵」を、著作権侵害で悪名高いグーグル・ブックスで、文字通り、辛うじて管見出来、注釈に生かせた。有り難かった。

耳嚢 巻之四 痔疾呪の事

 痔疾呪の事

 

 寛政八年予初めて痔疾の愁ひありて苦しみしに、勝屋何某申けるは、小兒の戲れながら胡瓜を月の數もとめて、裏白(うらじろ)に書状を認(したた)め姓名と書判(かきはん)を記し、宛所(あてどころ)は河童大明神といへる狀を添て川へ流せば、果して快氣を得と教しが、重き御役を勤る身分姓名を、右戲れ同樣の中に記し流さんは不成呪(ならざるまじなひ)事也と笑ひしが、三橋何某も其席に有て、我も其事承りぬ、併(しかしながら)大同小異にて、胡瓜ひとつへ右痔疾快全の旨願を記し、河童大明神と宛所してこれも姓名は記す事也といひ、何れも大笑ひを成しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前「疝氣呪の事」に続く呪いシリーズ。根岸が満五十九歳にしてかなり重い痔疾を発症していたことが分かる。

・「寛政八年」当時(一七九六年)の根岸は公事方勘定奉行九年目。この書き方から、本巻のこの辺りは、明らかに寛政八年よりも後の執筆、私の執筆推定の翌寛政九(一七九七)年であることがはっきり分かる。

・「月の數」一年の月の数。旧暦では一年が十三箇月となる閏年が凡そ三年に一度あった。

・「勝屋何某」底本で鈴木氏は勝屋豊造(とよなり 元文二(一七三七)年~?)と推定されておられる。宝暦五(一七五五)年御勘定、同八年関東諸国河川普請で出役、安永元(一七七二)年三十六歳で遺跡相続、同六年御勘定組頭(これのみ長谷川氏注)とある。根岸と同年である。

・「裏白」本来なら裏の白い紙であるが、ここは岩波版長谷川氏の注するように、このシーンの最後の映像を先取りして、書信用の紙を二つ折りにして表書きだけを記し、裏に書信の内容などを何も書かない(白いままに残す)ことを言うか。

・「河童大明神」河童を痔の神様とする信仰は広く知られている。恐らくは河童が人の尻子玉を抜くと言われたことと関係しよう。尻子玉とは人の肛門付近に存在すると考えられた想像上の臓器で、恐らくは水死体が腐敗し、肛門部の粘膜が開き、脱肛している様から誤認されたものと考えられるが、実際の内痔核疾患をも連想させ、如何にも分かり易い伝承発祥とは言えるように思われる。陸奥国一宮、現在の宮城県に本社のある各地の塩竈(しおがま)神社などにこの河童信仰が習合している。「痔プロcom.」の「痔の散歩道」の「痔の神様 愛知県編」に名古屋市中川区の西日置商店街にある鹽竈神社に祀られている河童神の無三殿大神(むさんどのおおかみ)についての詳細なデータと画像がある(この「痔の散歩道」は侮れない。私も何度も資料として――痔の必要からではなく歴史資料としてである――参照した必見のサイトである)。そこには例えば、「根抜きの神様」として『昔からむさんど(山王橋の西北角)の橋から、すそを端折って、お尻を川に映すと痔の悪い人は川神様が直してくれると言い伝えがあり』、『胡瓜、西瓜をお供えし、お願いすると霊現あらかたなりと言われてい』ると記されてある(昔の和服では、こうすることはそう大変なことでもなく、今どきの軽犯罪になることでもなかったであろう。痔に悩む人が橋で尻をからげて一心に祈願している姿は――私には何か懐かしいほっとするものを感じる)。同ページに引用されている昭和九(一九三四)年建立になる「無三殿神石之由來」の石碑の記載を本来の正字に直して以下に示しておく。

無三殿神石之由來

無三殿主神ト刻ス

無三殿杁江ハ往時尾張名勝ノ一ニシテ堀川ノ西日置古渡ノ境ニ在リタリ當時江川笈瀨川ノ用水路アリテ此ノ所ニ會セリ然レドモ水位高低甚ダシキヲ以テ合流スル能ハズ仍チ樋ヲ笈瀨川ノ上ニ架シテ江川ヲ南流セシメ笈瀨川ハ樋下ヲ東流シ河口ノ水門ヲ過ギテ堀川ニ通セリ今ノ松重町南端一帶ノ地ハ即チ此ノ流域ニシテ里人無三殿ト呼ビタル杁江タリシ所ナリ延寶ノ頃松平康久入道無三此ノ江北ノ地ニ住セリ江名之ヨリ起ルト江水淸澄ニシテ深カラズト雖古來靈鼈ノ潛ム所ナリト稱シ畏敬汚潰ス者ナシ樋邊一巨石アリ

痔疾ニ靈驗者シト病者頻リニ來リテ治癒ヲ祈リ捧グルニ白餠ヲ以テシ或ハ之ヲ水中ニ投ズルノ風アリ遠近相傳ヘテ其ノ名大仁著ハル

星霜變轉神石影ヲ沒スルコト多年偶江川改修工事ノ際靈夢ヲ得タル者アリ乃チ發掘シテ之ヲ水底ヨリ求メ得タリ暫ク町神トシ近隣ニ奉祀センガ神慮ヲ畏レ當鹽釜ノ社頭ニ遷祀シタルモノナリ今歳昭和甲戌當神社社殿造營ノ擧アリ規模大イナルコト前古ニ比ナシ記念トシテ碑ヲ神石ノ側ニ建テ由來ヲ記シテ不朽ニ傳ウルモノナル

昭和九年十月

「杁江」は「いりえ」と読み、入江のこと。「延寶」は西暦一六七三年から一六八一年。「松平康久」は尾張藩家臣。「靈鼈」は「れいべつ」と読み、巨大な霊亀のことであるが、河童と同一視された。「汚潰」は「をくわい(おかい)」と読むものと思われ、見慣れない熟語であるが、「潰」には堤防が崩れて水があふれ出る、決壊するの意があるので、河川の汚損や破壊を意味するものと思われる。「樋邊」は不詳、「靈驗者」の「者」はページ製作者の「有」の誤読と思われ、「大仁」も「大(おおい)に」であろう。「偶」は「たまたま」。「傳ウル」は「傳フル」が正しい。

・「三橋何某」底本で鈴木氏は寛政八(一七九六)年当時、御勘定吟味役であった三橋成方(なりみち)と推定されておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痔疾の呪いの事

 

 寛政八年、私は初めて痔疾に罹り、筆舌では尽くせぬ苦しみを味わって御座ったが、職場の部下との談話の折り、尾籠ながら、このことを少しばかり漏らしたところ、その場に御座った勝屋某が申すことに、

「……児戯に類するものにて恐縮で御座るが……胡瓜を、その年の月の数だけ手に入れまして、書状を――裏白のままに――表には姓名と花押(かおう)を認(したた)め、宛名は『河童大明神』と記した状袋に入れて川へ流せば、これ、ぴたりすっきり快気致しますぞ。」

と教えて呉れたが、

「……なるほど。しかし、重い御役を勤むるところの身分姓名を、『河童大明神』への痔疾快気請願書状と申す、これ、戯れ同様の中(うち)に認めた上に、これまた、普通の川に流すは……いや、出来ざる呪(まじな)いじゃのぅ……」

と笑ったところが、その場に同席して御座った三橋某も、

「……拙者も、そのこと、承ったことが御座る。併しながら――大同小異にては御座るが、ちと違(ちご)うて――胡瓜は一本だけ。その胡瓜へ、具体に痔疾全快祈願の旨認めた文を、これまた、『河童大明神』と宛名した添え状を用いまする。なれどこれも、やはり、本人の姓名は記さずんばなりません。」

と言い添えので、三人して大笑い致いたことで御座った。

嚔四句 畑耕一

嚔うつて冬木のなかへ日を落す

[やぶちゃん注:「嚔」は「くさめ」と読ませていよう。以下、同じ。くしゃみのこと。]

冬木一本應ふるものに嚔うつ

銀座の燈眼にもどりたる嚔かな

つつがなき嚔と知りぬまた嚔

2012/08/18

芥川龍之介 「我鬼窟日錄」より

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介『「我鬼窟日錄」より』(+同縦書版)を公開した。

本作は、現在、ネット上に存在しない芥川龍之介のテクストである。

……しかし……これが、先日言った僕の芥川龍之介中毒症の『治療』――なのでは――ない――

現在、僕はこの原典である「我鬼窟日錄」の詳細注釈附テクストに取り掛かっている。

……屹立する垂直な崖のような冷巌なる数行の日記に……錆びたハーケンと擦り切れそうなザイルで息を切らしながら登攀中まだ二合目にも至ってない……何故なら自ら回る必要のないルートをわざととって……しんどいハングを多変数の注釈でフリー・クライムしているから……

……気長にお待ちあれ――

耳嚢 巻之四 老人へ教訓の哥の事

 老人へ教訓の哥の事

 

 望月老人予が元へ携へ來りし。面白ければ記し置ぬ。尾州御家中横井孫右衞門とて千五百石を領する人、隱居して也有(やいう)と號せしが、世上の老人へ教訓の爲七首の狂歌をよめり。

  皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる

    是人の見ぐるしき知るべし

  手は震ふ足はよろつく齒はぬける耳は聞へず目はうとくなる

    是人の數ならぬを知るべし

  よだたらす目しるはたえず鼻たらすとりはづしては小便もする

    これ人のむさがる所を恥べし

  又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしやれ言

    是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし

  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる

    これ人の嘲をしるべし

  身にそふは頭巾襟卷杖眼鏡たんぽ温石しゆびん孫の手

    かゝる身の上をも辨へずして

  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる

    是を常に姿見として、己が老たる程をかへり

    見たしなみてよろし。然らば何をかくるしか

    らずとしてゆるすぞと、いわく

  宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたらぬ身は

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。

・「望月老人」根岸のニュース・ソースの一人で詩歌に一家言持った人物。「卷之五」の「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも和歌の薀蓄を述べている(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる誤用で「瑾」は美しい玉の意である)。

・「横井孫右衞門」「也有」俳文「鶉衣(うずらごろも)」などで知られる著名な俳人横井也有(よこいやゆう 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)。尾張藩士横井時衡(ときひら)長男。本名は時般(ときつら)、通称で孫右衛門(横井氏は北条時行の流れを汲むと称す)。二十六歳で家督を相続後、御用人・大番頭・寺社奉行などの藩の要職を歴任、武芸に優れた上に儒学をも深く修める一方、各務支考一門として早くから俳人としても知られ、特にその絶妙の文才から、俳文の大成者とされる。宝暦四(一七五四)年、五十三歳で病を理由に致仕、城南前津(現・名古屋市中区前津一丁目)の草庵知雨亭に隠棲、以後三十年、八十二歳で没するまで、俳諧・詩歌・狂歌・書画・謡曲・茶道等々、風雅三昧の生活を送った。彼の「鶉衣」、私はいつかテクスト化したいと思っている。

・「ゆるすぞと」底本「ゆるぞと」で、右に『(尊本「ゆるすぞと」)』と傍注がある。尊経閣本でないと意味が通じないので、そちらを本文採用した。

・「たらぬ身は」底本には右に『(尊本「立られぬ身は」)』と傍注する。私は尊経閣本の句形も捨てがたいがやはり字余りが気になり、ここはすっきりと底本で示した。

・以下の狂歌の内、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と異なる表記(後書・前書きを含むが句点の有無は無視し、中黒やルビ、最後の前書を除く岩波版の句点は除去した)を持つものについて、正字化したものを並置させておく。なお、ここに示された狂歌群については、岩波版長谷川氏注に、「身にそふは」以外の歌は小異はあるものの、也有の狂歌集「行々子(ぎょうぎょうし)」(但し、写本による伝来)に見える、とある(私は未見)。

   *

 皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる

   是人の數ならぬを知るべし

 皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白く成る(バークレー校版)

    是人の數ならぬを知るべし

   *

 よだたらす目しるはたえず鼻たらすとりはづしては小便もする

    これ人のむさがる所を恥べし

 よだたらす目しるはたらす鼻たらすとりはづしては小便ももる(バークレー校版)

    是人のむさがる所をしるべし

[やぶちゃん注:バークレー校版の方が秀逸。]

   *

  又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしやれ言

    是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし

  又しても同じ噂に孫自漫達者自じまんに若きしやれごと(バークレー校版)

    是人のかたはらいたく聞にくきを知るべし

[やぶちゃん注:岩波版では「漫」の右に「慢」の誤字であることを示す注を附す。]

   *

  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる

    これ人の嘲をしるべし

  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる(バークレー校版)

    是人の嘲を知るべし

[やぶちゃん注:歌は同じ。]

   *

    かゝる身の上をも辨へずして

  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる

    かゝる身の上をもわきまへずして

  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる(バークレー校版)

[やぶちゃん注:歌は同じ。]

   *

    是を常に姿見として、己が老たる程をかへり

    見たしなみてよろし。然らば何をかくるしか

    らずとしてゆるすぞと、いわく

  宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたらぬ身は

    是をげに姿見として、己が老たる程を顧みた

    しなみてよろし。然らば何をか苦しからずと

    してゆるすぞと、いわゝ、

  宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたゝぬ身は(バークレー校版)

[やぶちゃん注:岩波版では「ゝ」の右に「ば」の誤字であることを示す注を附すが、寧ろこれは「く」の誤字とすべきではないか。バークレー校版の方が秀逸だね。……何故かって? 「立たぬ」がゼツミョウだからに、決まってるじゃん! ♪ふふふ♪]

・詩歌はなるべく原文を提示することを自身のポリシーとしてきたので、以上の原文には手を加えていない(最後の一首の前書はブラウザ上の不具合を考えて字数を制限して改行した)ので、以下に、読み易く新字体化し、読み(これは歴史的仮名遣とした)を加えて整序したものを示し、語注を附す。

 

  皺(しは)は寄る黒子(ほくろ)は出来る背は屈(かが)む頭は禿(は)げる毛は白ふなる

    是人の見苦しき知るべし

  手は震(ふる)ふ足はよろつく歯は抜ける耳は聞へず目はうとくなる

    是人の數ならぬを知るべし

  涎(よだ)たらす目汁(しる)は絶えず鼻垂らすとりはづしては小便もする

    これ人のむさがる所を恥づべし

[やぶちゃん注:「よだ」はよだれのこと、「とりはずしては小便もする」とはこらえ切れずに、若しくは知らぬ間に失禁してしまう、の意。]

  又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若き洒落言(しやれごと)

    是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし

  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる

[やぶちゃん注:「かたはらいたく」他人から見て如何にも見苦しい、みっともないの意。]

    これ人の嘲(あざけり)を知るべし

  身にそふは頭巾(ずきん)襟卷(えりまき)杖(つえ)眼鏡(めがね)たんぽ温石(をんじやく)尿瓶(しゆびん)孫の手

[やぶちゃん注:「たんぽ」湯たんぽ。「温石」冬、軽石などを焼いて布などに包み、懐に入れたりして体を温めるもの。焼き石。「尿瓶(しゆびん)」尿瓶(しびん)。]

    かゝる身の上をも辨(わきま)へずして

  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話焼きたがる

[やぶちゃん注:「ともながる」そうすることを希望しないことを意味する「たくもない」→「たうもない」→「とうもない」→「ともない」に接尾語「がる」が附いたもので、動詞の連用形に付いて「~したくないと思ってそれを言動に表わす」の意を表わす。]

    是を常に姿見として、己が老たる程を顧み嗜

    みてよろし。然らば何をか苦しからずとして

    許すぞと、曰く、

  宵寝(よひね)朝寝昼寝物ぐさ物忘れ夫(それ)こそ良けれ世に足らぬ身は

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老人の教訓の狂歌の事

 

 馴染みの風流人、望月老人が私の元へ携えて参られ、披見させて貰(もろ)うたもの。面白いので、以下に記しおく。

 

 尾張藩御家中、横井孫右衛門とて千五百石を領した御仁、隠居致いて也有(やゆう)と号して御座ったが、世の老人への教訓のため、七首の狂歌を詠んだとのこと。

 

  皺はよるほくろは出来る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる

    これ、人の見苦しきことなりと――知るべし!

  手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞へず目はうとくなる

    これ、既に人の数に入らぬ存在ならんことと――知るべし!

  よだたらす目しるをたえず鼻たらすとりはづしては小便もする

    これ、常に人に虫唾(むしず)を走らせんことを――恥ずべし!

  又しても同じ噂に孫自慢達者じまんに若きしやれ言

    これ、人が如何にもみっともないとウンザリしておることと――知るべし!

  くどふなる気短に成る愚痴になる思ひ付くこと皆古ふなる

    これ、人が心底、嘲(あざけ)っておることと――知るべし!

  身にそふは頭巾襟巻杖眼鏡たんぽ温石しゆびん孫の手

    ……さても……かくなる身の上をも弁えずして、

  聞きたがる死にともながる淋しがる出しゃばりたがる世話やきたがる

    ……それがお主(ぬし)じゃ!

     *

    以上を常に己(おの)が鏡と致いて――

    己が老いの身の程を顧み――

    それを分(ぶん)として弁えてこそ――

    よろし!――

    されば……一体、どんなことならば苦しからずとて許さるるか、とな?

    曰く、

  宵寝朝寝昼寝物ぐさ物わすれそれこそよけれ世にたらぬ身は

菊人形二句 畑耕一

菊人形煌煌見あげおそろしき

土黝し菊人形のまたたかぬ

[やぶちゃん注:「黝し」は「くろし」と読む。本来は「あをぐろし」であり、青みを帯びた黒色をいう。]

今朝の朝焼け 4:50

20120818045547_2




2012/08/17

Ars longa vita brevis やぶちゃん訳

Ars longa vita brevis.

僕にはやりたいことが腐るほどある――

しかし――

その前に――

僕の脳味噌と肉は――

腐ってしまうのだ……

花氷言葉をつなぎ燈をつなぐ 畑耕一

   ある晩餐會

花氷言葉をつなぎ燈をつなぐ

北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈 二 辜鴻銘先生 T.S.君探勝詳細写真附報告追加

「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「二 辜鴻銘先生」の辜鴻銘の注に、私の教え子で中国在住のT.S.君が探査した詳細な写真附き報告を追加した。

畑耕一 恐ろしき電話 (+同縦書版)

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に畑耕一の「恐ろしき電話」(+同縦書版)を公開した。

句集「蜘蛛うごく」の電子化プロジェクトをしながら、畑氏の怪談が僕のHPにないというのも淋しいので昨日より、急遽、国立国会図書館のデジタルライブラリーを用いてテクスト化した。

最後に附した僕の注より(ネタバレしないように伏字とした)。

……あの正直な×が×の××にされて殺される残酷で大嫌いな民話の『×××××』に比して、本話は、遙かに、ずーうっと心地よい怪談であると言える。

いや、これは本当に心底思うのである……

香水や驟雨襲へる展望車 畑耕一 + 浅草の観覧車詳細注

香水や驟雨襲へる展望車

 

[やぶちゃん注:これは推測であるが、浅草六区にあった観覧車ではなかろうか? 以下、「元東京もやしっ子」氏の「探検コム」本邦初の観覧車を見に行く」に詳しい解説と写真があり、以下の記載もその内容を参照させて戴いた。当初は明治四〇(一九〇七)年四月に上野で開催された東京勧業博覧会の目玉として建造されたもので、電動、高さ約三〇メートル、一つの観覧車に五人から一〇人程度の客を収容出来た。小栗虫太郎の「絶景万国博覧会」には当時の様子を描写して、

『そのように、可遊小式部の心中話が、その年の宵節句を全く湿やかなものにしてしまい、わけても光子は、それから杉江の胸にかたく寄り添って階段を下りて行ったのだった。然し、一日二日と過ぎて行くうちには、その夜の記憶も次第に薄らぎ行って、やがて月が変ると、その一日から大博覧会が上野に催された。その頃は当今と違い、視界を妨げる建物が何一つないのだから、低い入谷田圃からでも、壮大を極めた大博覧会の結構が見渡せるのだった。仄(ほん)のり色付いた桜の梢を雲のようにして、その上に寛永寺(かんえいじ)の銅(あか)葺屋根が積木のようになって重なり合い、またその背後には、回教(サラセン)風を真似た鋭い塔の尖(さき)や、西印度式の五輪塔でも思わすような、建物の上層がもくもくと聳え立っていた。そして、その遥か中空を、仁王立ちになって立ちはだかっているのが、当時日本では最初の大観覧車だったのだ。』(引用は青空文庫版を用いた)

但し、これ、「元東京もやしっ子」氏も指摘されている通り、当時、明治三四(一九〇一)年生まれの小栗は当時六歳であるから、実景の描写とは考えにくい。同時代批評としては、「元東京もやしっ子」氏が次に引用する夏目漱石の「虞美人草」で、主人公が師事した井上孤堂を、皮肉たっぷりに描写するのに観覧車がメタファーとして用いられているが、「虞美人草」の起稿は正に明治四〇年の六月四日で、脱稿は同八月三一日から九月二日の間であるから(ロンドンでの管見はあったかも知れないが)、恐らくはこの隠喩の観覧車のイメージは、アップ・トゥ・デイトに実見した、この観覧車と考えてよい。

『径(さしわたし)何十尺の円を描(えが)いて、周囲に鉄の格子を嵌(は)めた箱をいくつとなくさげる。運命の玩弄児(がんろうじ)はわれ先にとこの箱へ這入(はい)る。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。

 英吉利式(イギリスしき)の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い髯(ひげ)に、世を佗(わ)び古りた記念のためと、大事に胡麻塩(ごましお)を振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片々(かたかた)が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。

 昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、降(くだ)りつつ夜に行くものの前に鄭寧(ていねい)な頭(こうべ)を惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。

「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。』

東京勧業博覧会閉幕後、この観覧車は浅草六区の南に移設されるが、明治四四(一九一一)年には解体され、後地には大正の浅草オペラの牙城となった活動写真館金龍館が建てられた。なお、引用元には福井優子「観覧車物語」に拠って、前年の明治三九(一九〇六)年の大阪に於ける日露戦争戦勝紀年博覧会場に建造された蒸気機関による「展望旋回車」を本邦観覧車の嚆矢とする旨の記載があるが、漱石はこの年、大阪に行った形跡はない。]

耳嚢 巻之四 疝氣呪の事

 疝氣呪の事

 

 京極備前守殿、久世丹後守疝積(せんしやく)を愁ふるを尋て、けやけき事にて取用ひも有之間敷(これまるまじき)事ながら、松平隱岐守在所の詰(つめ)の家來□□□□といへる者奇妙の呪(まじなひ)をなす由、岩國紙(いはくにがみ)一枚へ拾貮銅を添(そへ)遣せば、あの方(かた)にて呪ひ、右紙を差越、勿論白紙の由、是を懷中なすに疝氣の愁ひなしといへる儘、備前殿も六ケ敷(むつかしき)事ならねば是を求め給ひしに、其後疝氣を不覺(おぼえざる)由咄されしと、丹州語りける故、予も此病あれば切に尋しに、幸ひ寛政卯の夏江戸詰なせしと聞儘、名前幷(ならびに)求めかたを糺(ただ)し呉(くれ)候樣丹州へ賴置(たのみおき)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。七つ前の「津和野領馬術の事」の話者である久世広民の話で連関。本巻お馴染みの呪(まじな)いシリーズ。

・「疝氣」「疝積」は近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷(けつれい)シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、津村淙庵の「譚海」(寛政七(一七九五)年自序)の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである)。

・「京極備前守」京極高久(享保一四(一七二九)年~文化五(一八〇八)年)は丹後国峰山藩第六代藩主。本話柄当時は若年寄。ウィキの「京極高久」には以下の記載がある。『高久の官位が備前守であることや、火付盗賊改・長谷川宣以(平蔵)の上司に当たるため、「京極備前守」の名で池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』にも登場し、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として描かれている。テレビドラマ『鬼平犯科帳』では田島義文、平田昭彦、仲谷昇がそれぞれ演じた』。『池波は、長谷川平蔵の立場を理解し、なにくれとなく援助し、かばってくれる理想的な上司として京極高久を描いており、平田昭彦の演じた京極高久を非常に褒め、「江戸時代の殿様らしい、上品な味わいが演技に出ていた」と述べている』。『ただ、このような長谷川平蔵の理解者としての京極高久像は、池波の創作の可能性もある。『鬼平犯科帳』研究を行い、史実との照合を行っている西尾忠久は、「京極高久は史実では長谷川平蔵と対立した森山孝盛の側の人物であったのではないか。長谷川平蔵の庇護者は実際には水谷勝久ではないか」と論じている(西尾『鬼平を歩く』光文社知恵の森文庫)』とある。私は「鬼平犯科帳」のファンではないが、東宝特撮映画に欠かせない田島義文と平田昭彦のファンであるからここに附記しておきたい。

・「久世丹後守」前出。久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行。当時は勘定奉行兼関東郡代。根岸の盟友にして「耳嚢」のニュース・ソースの一人。

・「けやけき」原義は、普通とは異なっていることを意味し、ここでは、異様な、の意。

・「松平隱岐守」松平定国(宝暦七(一七五七)年~文化元(一八〇四)年)。伊予国松山藩第九代藩主。御三卿田安徳川家初代当主田安宗武六男で、将軍徳川吉宗の孫、寛政の改革を主導した松平定信の実兄であるが、兄弟仲は険悪であった。当時は侍従、左近衛権少将。

・「□□□□」底本には右に『(約四字分空白)』と傍注する。個人名の明記を避けた意識的欠字。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『何某』とする。

・「岩國紙」岩国半紙。周防国岩国(現岩国市)地方で生産される半紙。天正年間(一五七三年~一五九二年)から作られており、コウゾを原料とする。

・「拾貮銅」銭十二文。岩波の長谷川氏注にこの金額は寺社への『賽銭の定額』である旨の記載がある。従って、これは何らかの神仏の祈禱を受けた呪物であることが分かる。何らかの薬物を液体か気体で染み込ませたものである可能性もあるが、まずは、かなりシンプルなプラシーボ(偽薬)と見る。

・「求め給ひしに」これは間接話法と直接話法がない交ぜになった文章で、実際には久世の直接話法の中の松平の間接話法部分に相当している。即ち、京極の話の引用なのであるが、引用している勘定奉行の久世から見れば、京極は上役の若年寄で年長であるため、尊敬語を用いているのである。高校古典で出題するならば、敬意の関係は「丹州(久世広民)→京極備前守(京極高久)」となる。現代語訳では京極の直接話法に変えて読み易くしたため、この部分や伝聞表記の箇所が逐語訳にはなっていないので注意されたい。

・「寛政卯」寛政七(一七九五年)。乙卯(きのとう)。

・「丹州へ賴置ぬ」とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこれに更に続けて『其後丹州も身まかり、其事を果さず。』とあって終わる。従って根岸はこの呪(まじな)いの紙を実見していない。但し、久世の逝去は寛政十一年であるから、本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年の二年後のことであるから、このバークレー校版の最後は遙か後年に根岸によって加筆されたものであることが分かる。訳すなら、

『後日追記:残念なことに、その後は連絡もなきままに丹後守殿は身まかり、この願いは果たせぬままに今日に至って御座る。』

……きっと根岸、この紙、とっても欲しかったんだなあ……。根岸の疝痛は、それだけ、強烈だったということ。新事発見!――『根岸鎭衞は頗る附きの疝気持ちであった!』――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疝気の呪いの事

 

 若年寄京極備前守高久殿は、勘定奉行久世丹後守広民殿が疝癪(せんしゃく)に悩んで御座るのを気に掛けて下さり、

「……いかにも奇体なることにて、まあ、とてものことに、まともに取りあう気にもならざるやも知れぬことにて御座るが……侍従松平隠岐守定国殿の在所伊予国松山に詰めて御座る家来の、何某という者、これ、奇妙なる呪(まじな)いを致す由にて……何でも、岩国半紙一枚へ銭十二文を添えて、かの者に渡さば、自ずと呪いをかけ、その紙を返して寄越すとのこと……いやいや、紙はまっさらにて白紙のままじゃ……なれど……これを懐中致すに、これ――ぴたりと――疝気の治まって愁いなし、と聴き及んだ故……身共も、岩国紙に十二文とは、これ、如何にも容易いことなれば、試しに、定国殿へお願い致いて、この紙を入手、懐中致いたところが、これ、その後は――ぴたりと――疝気治まって『痛(ツウ)』とも來(こ)ずなって御座る。」

との話が御座ったという。――この話、私は当の丹後守殿から聞いたので御座るが――実は私も疝気持ちで御座る故、丹後守殿に、さらに詳しい話を切に、と願ったところ、後日、丹後守殿より、かの隠岐守殿御家来衆何某なる人物は、これ幸い、寛政七年の夏に江戸詰めとなって御座る由。そこで現在は、追ってその御家来衆の姓名並びにかの呪いの紙の求め方を調べて下さるよう、丹後守殿へ依頼しておいて御座る状態にある。

2012/08/16

耳嚢 巻之四 女の髮を喰ふ狐の事

 女の髮を喰ふ狐の事

 

 世上にて女の髮を根元より切る事あり。髮切とて代に怪談の一ツとなす。中にも男を約して父母一類の片付なんといふをいなみて、右怪談にたくして髻(もとどり)などを切も多し。然共實に狐狸のなすもあるとかや。松平京兆(けいてう)の在所にて、右髮を切られし女兩三人ありしが、野狐を其頃捕殺して其腹を斷しに、腸内に女の髻ニツ迄ありしと語り給ふ。一樣には論ずべからざる歟。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。終盤に来ると、どうも百話への数合わせの意識が働くのか、関連性のない記事並びという気がする。

・「髮切」本人が気づかぬうちに主に女性の髪を切り落とすとされた妖怪。江戸市中での噂として時期をおいて繰り返し発生しており、所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の古形の一つとして興味深い。以下、ウィキの「髪切」によれば、菊岡沾凉の「諸国里人談」(寛保三(一七四三)年)には、『元禄時代初期には伊勢国松坂(現・三重県松阪市)で、夜中に道を歩いている人が男女かまわず髪を元結い際から切られる怪異が多発し、本人はまったく気づかず、切られた髪は結ったまま道に落ちていたと』あり、『同様の怪異は江戸でもあり、紺屋町(現・東京都千代田区)、下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)でも発生し、商店や屋敷の召使いの女性が被害に遭ったという』。近代に入ってからは明治七(一八七四)年に東京都本郷三丁目の鈴木家でやはり、ぎんという召使いの女性が被害に遭い、新聞記事でも報じられている。頃は三月一〇日、二一時過ぎで、『ぎんが屋敷の便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは驚きのあまり近所の家へ駆け込み、そのまま気絶してしまった。その家の家人がぎんを介抱して事情を聞き、便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。あの便所には髪切りが現れたといわれ、誰も入ろうとしなくなったという』とあるが、これが妖怪髪切の最後の光芒で、これ以降、所謂、『ザンギリ頭が珍しくなくなるにつれ、次第に人々の心から髪切りに対する恐れは消えていったといわれる』とあり、これは文字通り、茨城県古河の蒸気機関車に化けた狸が本物の汽車に轢かれて死ぬという説話同様、文明開化・自然科学による妖怪の抹殺という象徴的事実であると言ってよいだろう。以下、「髪切りの正体」という項では、『大きく分けてキツネの仕業という説と、「髪切り虫」という虫の仕業という説があ』るとし、室町時代の公卿万里小路(までのこうじ)時房の日記「建内記」(応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年)では狐の仕業とされ、幕末の国学者朝川鼎による随筆「善庵随筆」では、『道士が妖狐を操って髪を切らせるものと』ある。また江戸後期の「嬉遊笑覧」では、『「髪切り虫」という虫の仕業とされており、実在の昆虫であるカミキリムシが大きな顎で木などを噛むため、転じて毛髪を噛み切る魔力を持つ妖虫とされた』 と記し、これには『実在のカミキリムシではなく想像上の虫との説』及び『剃刀の牙とはさみの手を持つ虫が屋根瓦の下に潜んでいるともいわれた』と記す(屋根瓦という部分は後述の鈴木氏の注に附した私の記載を参照)。以下、本現象を推理する面白い解説が続く。『文化年間には修験者たちが髪切りを避ける魔除けの札を売り歩いていたため、修験者たちの自作自演も疑われ、一部には実際に自作自演もあったらしい』。『さらに、現代でも女性の髪や服を刃物で切る変質者がいることから、伝承上の髪切りも妖怪ではなく、人間の変質者だったとする説もあ』って、『江戸時代の文化・風俗研究家の三田村鳶魚は著書の中で、実際に髪切り犯が捕らえられた事例』もあったと記し、他にも『何者かに髪を切られるのではなく、自然に髪が抜け落ちる病気との説もあった』とある。他にもカマイタチも考えられようし、最後の部分は、精神的なストレスからの円形脱毛症及びヒゼンダニやアタマジラミの寄生などを考えると、一つの解釈としてはあり得ようが、それならば、江戸の好事家の中に、複数の、それら(カマイタチで人体と一緒に髪が切られるケース及びダニ・シラミの特徴的病態を併記する髪切の記述)を臭わせる記載が頻出しなくてはならず、寧ろ私は、前に記載されているマッチ・ポンプ式の詐欺やフェティシスト(日本人の髪に対するフェティシズムは恐らく世界的に見ても潜在的に高いものと思われる。何を隠そう、私にもその傾向がある)などの異常性欲者及び本文にあるような目的を持った自作自演というのが案外、多くの真相であったのではなかろうかと考える。底本の鈴木氏の注では山岡元隣の俳文の濫觴と評される「宝倉」(寛文一一(一六七一)年)に『寛文十四年の頃かに、髪切虫という妖蘗』(「ようはく」と読み、「禍い」の意)『の風評がしきりで、何処の誰それが切られたというはっきりした事実はないのだが、女たちあ上下とも恐れあった。そのうち「異国より悪魔の風の吹きくるにそこ吹き戻せ伊勢の神風」という歌を門口に貼ったり、簪に巻付けたりしたが、うわさは消えず、またどこからともなく髪切虫は剃刀の牙、はさみの手足、煎かはらの下に隠れているといいふらされ、あちこちで家の前にそれらの物を投げ出し、通行人もびっくりするような事態が起こったと』記されているとある(この『煎かはら』とは火にかけてものを煎るのに用いた土鍋、焙烙(ほうろく)のことである。この記載から、私は先のウィキにある『屋根瓦』という伝承は、元は、この『煎瓦(いりがわら)』の誤りであったのではないかと推測するものである。そもそも女性をターゲットとする髪切が潜む場所は、女性がその禍いに遭いそうな場所や道具でなくてはおかしい。そうした観点に立てば、屋根瓦よりも煎瓦の方が遙かにしっくりくるではないか)。以下、鈴木氏は、上の「宝倉」の寛文十四(一六七四)年に始まる江戸期の髪切出現を、風聞の発生を記した諸書名を挙げながら、延宝五(一六七七)年の夏(於筑前福岡)、先に挙がった「諸国里人談」の元禄初期(元年は西暦一六八八年)、明和四(一七六七)年、文化七(一八一〇)年にそれぞれあったことを記しておられる。これに本話の記載(執筆推定の寛政九(一七九七)年)と、その最後と思しい東京に出現した明治七(一八七四)年を加えてみると、最古の記載に属すると考えられる「建内記」からは、

●応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年

《スパン凡そ二五〇年前後》

●寛文十四(一六七四)年

《スパン三年》(この場合、周期というより江戸から福岡への、当時の流言飛語の伝播時間を示す興味深い事実と私は考える)

●延宝五(一六七七)年夏(於筑前福岡)

《スパン凡そ一〇年》

●元禄初期(元年。一六八八年)

《スパン凡そ七〇年前後》

●明和四(一七六七)年

《スパン三〇年》

●寛政九(一七九七)年

《スパン一三年》

●文化七(一八一〇)年

《スパン八四年》(ここを埋め得るデータは恐らく数多あると思われる)

●明治七(一八七四)年

となる。髪切は凡そ四五〇年以上もその種を秘かに保存してきたのであり、これは妖狐の類いと考えたのは、実に相応しい。また、これは都市伝説の特徴である周期的発生を裏付けるところの極めて興味深いデータでもあるのである。最後にウィキにあるパブリック・ドメインの佐脇嵩之(晩年の英一蝶に師事した江戸中期の江戸出身の画家)の「百怪図巻」の「かみきり」の図を示して終わりとする。

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・「松平京兆」既出。松平右京亮輝和(まつだいらうきょうのすけてるやす 寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行、大坂城代。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている(京兆(けいちょう)は左京職(しき)・右京職の唐名)。根岸御用達の情報屋的存在である。

・「腸内」底本には右に『(尊本「腹内」)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 女の髪を喰う狐の事

 

 世上にて――女の髪を、根本からすっぱり断ち切る――という珍事件の噂が、これ、後を絶ち申さぬ。

 「髪切り」と称して、世間に怪談の一種としても流布しておることは、これ、周知のことで御座ろう。

 ただ、按ずるに、そうした被害に逢った称する手合いの中には――父母や一族の者が無理矢理に嫁に行かせんとするを拒み、こうした怪談に託して、自ら髻(もとどり)を、根からばっさり切った――という娘の話なんどの類いも、これ、実は多いので御座る。

 然れども、実際に狐狸の成す場合も、これ、あると申す。

 旧知の松平右京亮輝和殿におかせられては、

「……拙者の在所、上野国高崎にて、この髪切に逢(お)うて髪を切られた女が、これ、都合三人も御座った……が……その当時のこと、ある者、野狐を捕殺致いて、その腹を割いてみた……ところが……その腸(はらわた)の内には、これ、塊となった女の髻が……それも二つも……これ、御座ったのよ!……」

とお話になられたことが御座った。

 かくなればこそ、一概に、ただの狂言なんどと論断してよいものでも、これ、御座らぬものか。

箱釣に來て宮戸座の役者かな 畑耕一

箱釣に來て宮戸座の役者かな

[やぶちゃん注:「箱釣」 は「はこづり」で、祭礼や縁日などの露店で浅い水槽の中の鯉・鮒・金魚などを紙の杓子や切れやすい鉤(かぎ)などで捕らせる、金魚掬いの類い。夏の季語。「宮戸座」現在の東京都台東区浅草三丁目、浅草公園裏にあった常設の芝居小屋。明治二〇(一八八七)年に吾妻座として開場、二九(一八九六)年、宮戸座と改称した。この座名は隅田川の古称「宮戸川」に因むとされる。山川金太郎が座主になってより隆盛、小芝居を代表する劇場となった。明治末期から大正にかけて全盛となって、主に歌舞伎芝居を上演していたが、新派の俳優による興行もあり、有名どころの俳優は宮戸座の舞台を踏まぬものはないとされたほど、四世沢村源之助・三世尾上多賀之丞など、多くの名優がここから巣立ってゆき、別名「出世小屋」と呼ばれた。大正一二(一九二三)年の関東大震災で焼失、同年一二月三一日には仮小屋で開場、昭和三(一九二八)年に再建復興したが、昭和一二(一九三七)年二月に廃座している。本句集公刊は昭和一六(一九四一)年、既に宮戸座は追憶の彼方となっている。]

2012/08/15

伏龍――死ハ鴻毛ヨリモ輕シト覺悟セヨ――

Hukuryu_2

君たちはこんなおぞましい兵器とも呼べぬ肉弾兵器があったことを知っているか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E7%AB%9C

http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/fukuryu-ken.htm
...

http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/fukuryu-his.htm

そして君らが恋を囁いたかも知れない鎌倉の稲村ケ崎にその秘密基地あったことをご存知か?
http://www.geocities.jp/skegfirst/inamuragasaki2.html

軍事オタクでもない限り、知っている人は少ないはずだ……へたな怪談を読むより――慄(ぞ)っとする……

耳嚢 巻之四 剛氣其理ある事

 剛氣其理ある事

 

 備前の松平新太郎少將の時、國中銅鐡の佛具類鑄潰しの儀申付られしに、ある撞鐘(つきがね)名物の由にて色々すれ共不解由訴(どもとけざるよしうつたへ)ければ、山崎にてなかりしか、名は忘れたり、其此新太郎に隨身(ずいじん)しける家來、我等鑄潰させ可申迚、頓(やが)て彼鐘の有所へ至り、立ながら右鐘へ小便をしかけける上、さらば鑄潰せとて火をかけしに何事もなく解(とけ)しとかや。愚按(ぐあん)ずるに、愚民は名物と聞て佛意を怖れし心より、火をかけても解(とけ)ざるや、又は惜しみて解(とか)ざると空言(そらごと)を唱へけるや。右を計りて尿(いば)りを爲しけるは頓智英才ともいふべき歟。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。これも厭な話柄である。これ、仏具類の鋳潰しであるところから見て、実用的な目的を持ったものではなく、水戸藩などが行った、明治初年の廃仏毀釈政策と同じものである(次注参照)。宗教政策であったと同時に社寺の経営整理を目的としたものであったと思われるが、明治のそれが多くの文化財の消失と国外流出を招いたのと同様、全く以て愚かな行為であったと言わざるを得ない。我々はバーミヤンの仏像を爆破した彼らを野蛮とは言えないのだ。つい先日まで、我ら日本人とて、宗教的ファンダメンタリズムの狂気の中に生きていたではないか。いや、この阿呆さ加減は、今も以て変わらないという気がする――。根岸はこれまでの叙述からも熱心な神儒一致思想の持ち主である。こういう仕儀を手放しで褒め称えるのも、訳のないことでは、これ、ないが……根木さんよ、あんた、やっぱり一般大衆を「愚民」の輩と、思うておったんやねえ……

・「松平新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)のこと。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主。儒教を信奉した彼は寛永九(一六三二)年に岡山藩藩主となるや、陽明学者熊沢蕃山を招聘、寛永一八(一六四一)年には全国初の藩校花畠教場(はなばたけきょうじょう)を開校、寛文一〇(一六七〇)年には日本最古の庶民のための学校として閑谷学校(しずたにがっこう)をも開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし、「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水、産業振興の奨励など、積極的な藩政改革を行った(このことから光政は水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並ぶ江戸初期の三名君と称せられる)。光政は幕府が推奨し、国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として、陽明学に於ける自律的思考とその実践を旨としていたが、これは藩政の宗教面に於いても発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする神仏分離政策を採った。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入、儒学的合理主義に基づいて淫祠・邪教を排して神社合祀及び寺院整理を行っている(本話柄はその一エピソードである)。彼は、当時、同藩金川郡において隆盛を極めていた、国家を認めない日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派の弾圧も行って、備前法華宗は壊滅している。以下、参照したウィキの「池田光政」によれば、『こうした彼の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山』藩が『安泰であったのは、嫡子・綱政が親幕的なスタンスをとったこともあるが、光政の政治力が幕府から大きな評価を得たためではないかと考えられる。光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。また、庶民の奢侈を禁止した。特に神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物の料理となっているばら寿司(ちらし寿司の一種)の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという』。――大した名君じゃないか……しかし私には……積み上げられ打ち捨てられる野仏の累々たる山や……小便をかけられて鋳潰される鐘の映像が、拭っても拭っても脳裏から消え去らぬのだ……

・「山崎」岩波版の長谷川氏注には『光政の下、寛文六年(一六六六)より寺の整理、僧の還俗の策を講じた熊沢蕃山を誤るか』と記す。熊沢蕃山(くまざわばんざん 元和五(一六一九年)年~元禄四(一六九一)年)は陽明学者。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改め、蕃山及び息遊軒と号した。正保二(一六四五)年に岡山藩に出仕(それ以前、光政の児小姓役として出仕していた経験がある)、陽明学に傾倒していた光政は、近江聖人と称えられた中江藤樹門下の蕃山を重用、花畠教場を中心に活動し、慶安四(一六五一)年には庶民教育の場となる閑谷学校の前身である花園会の会約の起草も行っている(閑谷学校の創立は蕃山の致仕後の寛文一〇(一六七〇)年)。承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際には光政を補佐し、飢民の救済に尽力、治山治水等の土木事業による土砂災害の軽減や農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革が守旧派の家老らとの対立をもたらし、また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったために、保科正之や林羅山らの批判をも受け、岡山城下を離れた和気郡蕃山村(しげやまそん。現在の岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされ(彼の号蕃山はこの地名に由来)、明暦三(一六五七)年、幕府と藩内の反対派の圧力によって、岡山藩を去っている。(以上はウィキの「熊沢蕃山」に拠った)。「山崎」――反幕的思想家であったが故に、根岸は遠慮して、わざと「山」を入れて誤ったのであろう。――確かに、自律禎な徹底した反骨の儒者だ……しかし鐘に小便して庶民の罪なき信仰の対象を鋳潰す彼に……私は「頓智英才」の賛美を送りたいとは、これ、思わぬよ……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛気にもその理りのある事

 

 備前岡山藩藩主松平新太郎少将光政殿の治世、国内(くにうち)の銅鉄仏具類鋳潰しの命が発せられた折り――ある撞き鐘、名物の由にて、これ、如何に致いても、いっかな熔(と)けざるの由、訴えが御座った。

 確か山崎とか申す姓で御座ったか――名は忘れてしもうたが――その頃新太郎殿に随身(ずいじん)して御座った家来が、

「――我らこと、美事、その鐘、鋳潰してご覧に入れましょう。」

と言うが早いか、かの鐘のある寺へと至り、突っ立つたまま、平然と――この鐘に小便をひらかした。――

「――されば――鋳潰せ!」

とて、火をかけたところが、鐘はあっけなく熔けた、と申す。――

 

――拙者の思うに、愚民は名物と聞いて、その仏罰を畏れる心がため……何と、その「ありがたい仏縁」に依りて、火をかけても熔けなかったと申すものか?……いやいや……これは又、ただ、さもしくも、名物の鐘のなくなるを惜しみて、「熔けざる」と、底の見え透いた空言を吐いて御座ったに過ぎぬのでは、これ、御座るまいか?……そうして……それと察して、山崎、鮮やかに鐘に尿(いば)りをひったは――これ、まっこと、美事なる頓知英才の極み、とも申すべき者にては――御座るまいか?

ハンモック二句 畑耕一

ハンモツクあなうら遠くねむり入る

ハンモツク雲の言葉を考ふる

2012/08/14

芥川龍之介中毒症禁断症状発症による「或るテクスト」化始動告知

同時代人の芥川評や宇野浩二の「芥川龍之介」全テクスト化、『支那游記』群の注釈追加と、芥川龍之介の周辺にはずっと触れてきてはいるものの、暫く、肝心の芥川龍之介自身のテクストに――触れていない――多分、最後は去年の11月17日、ブログ330000アクセス記念の「素描三題 附草稿(「仙人」)」が最後だ……
現在、本ブログで更新している5つのテクスト、「耳嚢巻之四」「河童曼荼羅」「鎌倉攬勝考巻之四」「畑耕一句集 蜘蛛うごく」「生物学講話」の他、気の遠くなるような「道成寺現在鱗」(未だ一段さえ打ち終えていない)の、都合6種を同時進行のアンガジュマン(自己拘束)としているが……
どうも鬱々としてきたのだ……
いけない……
先月ぐらいから、宿痾の……
芥川龍之介中毒症の……その禁断症状がはっきりと現れてきたのだ……
こればかりは……僕の糖尿病と同じだ……
対症療法しか――ない――

本日より――
芥川龍之介の――「或るテクスト」化に――入ることとする――

この症状には、ある特徴があるのだ……
ネット上に存在するテクストと類似のものを(但し、これは僕の絶対のポリシーであるが、僕の殆んど総てのテクストは、その公開時点に於いて、既存のネット上テクストに同じものはないことを断言しておくが)、譬え、存在しない正字正仮名遣テクストにしたり、僕のオリジナルな注釈を施したり、草稿や未定稿、典拠原典を附したりしても……
直きに、症状が戻ってくるのだ……寧ろ、悪化すると言ってもよい……
だから……
無論、ネット上には現存しないもの……とだけ申し上げておこう……
……ゆるりと……お待ちあれ……♪ふふふ♪

耳嚢 巻之四 田鼠を追ふ呪の事

 田鼠を追ふ呪の事

 

 寛政七卯年濃州の田畑に鼠多く出て荒けると言る咄合の節、或人の曰く、田鼠を追ふ呪(まじなひ)には、糠にて鼠の形を拵(こしら)へ、板などに乘せて惡水堀(あくみづぼり)などへ流すに、田鼠(でんそ)ども右につきて行衞なくなるとかや。虛實は知らねどもかゝる事も有べきや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。呪(まじな)いシリーズの一つ。農村での習俗として興味深い。

・「田鼠」こう書くと、アカネズミ・ハタネズミ・ヤチネズミなどの野鼠やクマネズミを指す場合があり、他にもクマネヅミの別名としても用いられるが、ここに記された習俗からは哺乳綱トガリネズミ目モグラ科 Talpidae のモグラと採っておきたい(岩波版の長谷川氏の注もモグラとする。但し、これが実際のネズミ類であると解釈出来ない根拠はない)。本邦には四属七種(更に複数の亜種を含む)が棲息する。参照したウィキの「モグラ」によれば、『古くはモグラのことを「うころもち」(宇古呂毛知:『本草和名』)と呼んでいた。また、江戸時代あたりでは「むくらもち」もしくは「もぐらもち」と呼んでいた。なお、モグラを漢字で「土龍」と記すが、これは本来ミミズのことであり(そのことは本草綱目でも確認できる)、近世以降に漢字の誤用があり、そのまま定着してしまったと考えられる』とあり、『日本各地で小正月には、「烏追い」と並んで土龍追い(もぐらおい)・土龍送り(もぐらおくり)・ 土龍打(もぐらうち)などと呼ばれる「農作物を害するモグラを追い出し、五穀豊穣を祈る神事」が行われ、その集落の子どもたちが集まり、唄を歌いながら、藁を巻きつけた竹竿などで地面を叩き練り歩くものである』と記す。これ以外にも、京都・滋賀及び東北の一部など比較的広範に見られる小正月の行事の一つとして「海鼠曳き」と称するものがあり、これはモグラが嫌うとされるナマコを引き回すというものである。実物の海鼠を藁苞(わらづと)に入れ、長い繩の先に結んで曳いて歩き、「もぐらもち内にか、なまこどんのお通りだ」などと唱えるものである(実物を引き回す場合もあるが、多くは棒や束ねた藁の代替物を用いるらしい)。但し、モグラによる農作物の「食害」については、『畑にモグラのトンネルが現れた際にトンネルと接触した農作物の根が食害を受けることがあり、「モグラにかじられた」と言われる事がある。だが、モグラは動物食であるためこれは誤りで、実際に食害しているのはモグラのトンネルを利用したネズミなどによるものである』とある。田の畔を壊したり、畑地の陥没や隆起による被害は勿論、甚大であったに違いないが、嘗ての分類で食虫目とされたように、彼らはミミズや昆虫の幼虫などを主な食物としているから、「食害」に関しては、少なくとも永い冤罪であった訳である。因みに、あまり知られていない事実としてはモグラが神経毒(咬毒)を持っていることである。日常的にはモグラに咬まれるケースは稀であり、注入される量も人体に比して微量であるから、人への毒性は問題がないらしいが、小動物などはイチコロである。

・「寛政七卯年」は乙卯(きのとう)。西暦一七九五年。

・「惡水堀」水田の不要になった滞留水を流すための河川等に繋がる側溝。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 田鼠を追い払う呪いの事

 

 寛政七年卯年のこと、美濃国では田畑に田鼠(もぐら)が多量に発生、農地が大いに荒されたという話を致いて御座った折り、ある人の語ることには、

「……田鼠を追い払う呪(まじな)いには、米糠にて田鼠の形を拵え、板なんどにこれを乗せて、田の悪水堀(あくみずぼり)辺りから流し出だしまする――すると、田鼠どもは、その跡について、これ、すっかり、居なくなって、御座る。……」

とのこと。

 真偽のほどは定かならねど、そういった事実も、これ、御座るのであろうか。

日傘の港の女 二句  畑耕一

舷梯を高くためらふ日傘あり

[やぶちゃん注:「舷梯」は「げんてい」と読み、ふなばしご、タラップのこと。「タラツプ」と読んでも面白いが、畑がそのつもりならルビを振るはずである。]

日傘蒼く不敵に笑まふ眼を見たり

2012/08/13

昇天記 火野葦平

   昇天記

 

 草の葉にまかれた生(なま)ぐさい一通の手紙を、私はひらく。

 

        ―――

 

 あしへいさん。

 とつぜんの手紙であなたはおどろくかも知れませんが、わたしは白魚川(しらうをがは)の底に棲んでゐる河童です。古くは、芥川龍之介さんや、小川芋錢(うせん)さん、今では、西田正秋さんや、清水昆さんや、原田種夫さんや、あなたがわれわれ河童のよき理解者であり、知己(ちき)であることは、われわれ河童仲間でも常に話題の種であり、また、うれしく思つてゐることです。そこで、いろいろとお話ししたいこともたくさんあるんですが、それはまたの機會にして、實は、今日は、あなたにわたしの書いた小説を讀んでもらひいと思つて、手紙をさしあげた次第です。われわれ河童の文章といふものは、天草の川にゐたゲタルといふものが江戸時代に創始した文體以來、少しも進歩してゐないので、あなたにはこの原稿が讀みにくいかも知れませんが、まあ、ひとつ、讀んで下さい。

[やぶちゃん注:「白魚川」不詳。江戸時代から白魚漁が盛んな福岡市の博多湾に注ぐ室見川があるが、ここか?

「西田正秋」昭和初期の美術学者。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授。美術解剖学や人体美学を講義した。河童との関連は不詳。

「原田種夫」(明治三四(一九〇一)年~平成元(一九八九)年)は作家・詩人。福岡市生。大正末頃から詩を書き始め、詩誌『瘋癩病院』『九州詩壇』等を創刊するが、次第に小説を志向し、火野葦平らと昭和一三(一九三八)年に第二期『九州文学』を発刊。昭和一五(一九四〇)年には「風塵」が芥川賞候補、その後も「南蛮絵師」や「竹槍騒動異聞」が直木賞候補となった。後年は「西日本文壇史」「黎明期の人びと」等の九州文壇史の研究に力を注ぎ、「九州最後の文士」と呼ばれた九州文壇のリーダー的存在。

「天草の川にゐたゲタル」不詳。原典・原話伝承若しくはモデルと思しいものをご存知の方は御教授を乞うものである。芥川龍之介の「河童」の世界の名としてもありそうな感じがする。

次の表題の「小説」は底本ではポイント落ち横書きの右書きである。傍点「ヽ」は下線に代えた。]

 

       小説「昇 天 記」

 

 昔々のことでおぢやる。白魚川となん水の流れに、河童ども、たむろなし、くくひなし、もどろなしつつ、あまた棲んでゐたと申す。

[やぶちゃん注:「くくひなし」河童語(?)。「日本国語大辞典」に副詞「くくう」があり、鳥などの鳴き声を表す語とする。この動詞化したものか?

「もどろなし」河童語(?)。「もどろく」(斑く)という古語の動詞には「船が行き悩んで進まなくなる」の意があるが、これを他動詞化したものか?]

 はやばしる流れにいでて浮(う)いつ沈(しづ)うつ、昇(のぼ)つつ降(くだ)つつ、嘴(くち)鳴らし、眼きやらせ、夜晝を分たず、戲れてをつたところで、或るとき、ひとりの河童の、仔細らしう申すは、われら、つね日頃、水の流れにあれど、陸(くが)にもあがり、陸の始終はよほど見あいた、すでに珍しう心ぎぎがることも御座ない、ただ、われら、望むことは、天空(あまぞら)の世界にのぼらんことぢや、もろもろのはなしや、書(ふみ)に、天のこと、いららしく、うちくしく、いと崇(け)高うに書きあらはいてござる、また、龍も年を經(ふ)つて位にのぼれば昇天するためし、われら河童といへど、など昇天の機の無からうずる筈はおざない、この儀はなんと、と、いへば、並ゐる河童ども、口を揃へて、その儀異議あるはない、贊成(さんしよう)贊成、と叫(をめ)き、また、なのめならず喜うだ。さうあるところで、ひとりの河童、昇天のこと、われら分別はしたれど、そのやうに目算もなう、ざつといひだいて、はたして然らば、空かける手段(てだて)はいかに、われら水にすみ、地に潛(くぐ)ることは知れど、空飛ばす術(すべ)は知らぬ、このことなくばおのおのめ昇天の儀も、種まかずして柿の生(な)るを待つと同然ぢや、とあれば、いひだいたる河童も明(あか)らめ申すこともかなはで、顏よごいて、とちめき、噤(つつく)すんだ。河原に市をないたる河童どもも、顏見合はせ、ひたすらどしめくによつて、更に效驗(かうげん)のあらうやうはおざない。この時、また、ひとりの河童、高聲(かうしやう)に叫き(をめ)きて申すは、昇天ののじみ絶ちがたけれど、空飛ばす術知らぬわれらがいかに論定(ろんぢよう)するも詮ないことでおぢやる、聞くところに依れば、千軒岳(せんげんだけ)に巣まふ河童たちは、いかがして會得したるにや、自由に飛行(ひぎやう)をなすと聞えた、これに就いてその術を習得(じゆどく)するが肝要と思ふがどうぢや。これを聞いて集るもの、ことごとくその議にまかなび、一定した。

[やぶちゃん注:「いららしく」河童語(?)。古語の動詞「いららぐ」には「鳥肌が立つ」の意があり、恐ろしいまでに、の意か?

「千軒岳」不詳。]

 さうあるところで、この土地の寶生(ほうしやう)などあまた貢(みつぎ)なして、千軒岳なる河童を飛行(ひぎやう)の師に賴うだ。師の河童よう心得、それよりは夜晝を分たず、河原に群衆(ぐんじゆ)して、飛行の術を傳授することぢや。飛行のこと習はんと出で立つもの、限りもなうて、河原に市をないた。抑(そもそも)、食(たう)ぶるものからして異なるに依つて、先づ、あまたの腹下しを出だいた。そぢやいげと申す木の根の腐らいたるを三升がほども一日に嚥(の)み干すことは、え叶はいで、もはや昇天の心失せぬと、思ひさだめる河童もあつた。稱(とな)ふる呪文(じゆもん)は、ばね、おぷ、うん、ぐる、さん、みとぼ、えしてぷ、くねる、あんね、と申す。こは昇天の途次、危害を加ふる雷神を防がうずる氣配(けばい)といふことぢや。この呪文、どうして憶ゆること得せぬ河童もおぢやつたといふは、曲もないことぢや。さて、師の河童おぞがらい者にて、聲高に叫(をめ)けば山呼(さんこ)おこり、葦の鞭振らへば風おこり、なかなかに籠者(ろうしや)しやうものでもおざない。さうあるところで、あまたの河童、長月の修行の甲斐あつて、昇天の術を漸くにも習得(じゆどく)したと申す。

[やぶちゃん注:「ぞじやいげ」河童語(?)。漢方では下剤に用いる植物の根茎類は数多ある。近似するものを知れる方は御教授を乞う。

「おぞがらい」河童語(?)。恐ろしいの意の「おぞし」+酷いの意の「からし」で、恐ろしいまでにむごいがらがら声を言うか?

「籠者(ろうしや)しやうものでもおざない」「籠者」は牢に入れられている囚人を言うが、意味が通じない。後掲される用法と考え合わせると、文脈からは囚われ人のような「憐れむべき者」「あまりに哀れな者」の意であると通じるが……。河童語学者の御教授を乞う。]

 されば、練習(れんじゆ)が肝要なりとて、ことさらに鋭(するど)な岩のあたりに群衆して、月の出づるを待つて飛うだ。呪文を間違へれば、われは飛行する目算なるが、ただ陸(くが)ばかりを走りぢだめく。少(すこう)し飛うだるが、中途よりべらんと落ち放いて、甲羅を打ち挫き、足を折る。昇つつ、降つつ、おひやらめき、くくひなし、叫(をめ)きあらび、その仰(ぎやう)らしいありさまは、寔譬(まことたとへ)を取るに例(ためし)もないほどであつたと申す。師の河童は高座にありて、葦を振らひ、山呼(さんこ)する高聲(かうじやう)にて、笑ひはためいてをつたといふことぢや。

[やぶちゃん注:「ぢだめく」河童語(?)。「地駄めく」で地面の上を河童らしくなく、勢いをつけて走り廻ることか?

「おひやらめき」河童語(?)。内心軽蔑しながら、表面ではおだてることを「おひゃらかす」と言うが、これと同族の語か? ようやっと飛行し、内心はひどくびくつき恐れながら、表面では嬉しそうにしている、といった謂いであろうか?]

 かやうの次第によつて、いよいよ難行苦難(ぐなん)の果に、漸く飛行の途(みち)を得たれば、師の河童は千軒岳に去(い)んだ。さて、吉日を撰(えら)うで、いよい昇天することに一定した。河童ども喜びはためき、市をないて集り、どしめき、或る者は一念の叶ひたるをぎがんで、泣く者も少々ではなくおぢやつたと申す。

 さて、初め昇天の儀を申しいだいたる河童の音頭をもつて飛び出だいた。それは、數も知らぬあまたの蜻蛉(せいれい)が、群ないて飛ぶに似てをつたといふことぢや。滿月のきらめく空の上に、ひゆうひゆうと鳴りはためいて、あまたの河童は、瞬きする間もなく、消えて行つたと申す。

 白魚川の河原には、不甲斐あらず、呪文憶ゆることを得せぬ河童、修行(じゆぎやう)中途にて、甲羅を打ち挫(くじ)き、或ひは足を折りたる河童など、少(すこう)しゐて、友達(ともだち)の昇天するを眺め羨んでをつた。これどもの申すやうは、われらは陸(くが)にて生(しやう)を終らうずること、曲もなう、どぐめきことなれど、詮ないことなれば分別あれかし、とて、水を破りて沈うだ。

[やぶちゃん注:「どぐめき」河童語(?)。華やかに栄えた人生を送るの意の、「ときめく」の意を、「どく」(毒)で否定したものの形容詞化「どぐめし」で、人生の悲惨で哀れなさま、の意か?]

 然るに、二三日を經(ふ)つた後(のち)のことでおぢやる。河原の岩に異形(いぎやう)の音を放いて落らたと思ふに、何かはよからう、忽ちに命果てた者がおぢやつた。流れの底に(ねぶ)眠らうて居つた河童、仰天し、いで立ちて觀るに、少し前に昇天した河童の一人(いちにん)ぢや。既に甲羅も潰れ、頭の皿は干(ひ)て、塀も挫けて飛うだれば、命あらうやうもおざない。その實否(じつぷ)はいかにと、怪しう思ひ居る折柄、又しても、物の落つる氣配(けばい)して、どうと落ちたものがあつた。それも、先頃昇天したる河童ぢや。これもたまらず果てた。何たる籠者(ろうじや)かと驚き入るところで、それより次々に落ちる者、數を知らぬありさまぢや。後ほど果つる者は數を減らいたが、天より歸り來る河童は、どれやうも、悉く、色靑ざめ、くばめき、ひなびき、河原に下りる時より、噤(つつく)すんで阿呆のやうにおぢやる。いかやうなことかと問ひかくるも、物敷いへる者がおざない。されば、流れの水を汲(く)うで打ちかくるに、漸くに眼をくりまき、嘴をわらかす始末ぢや。次に、一段と高聲(かうしやう)に叫(をめ)いても、何も聞えぬ始末ぢや。又、息吹き返した後に、果つるもあり、氣狂(きぐる)ひたるごとく、異形の聲を發して陸を這ひぢためくもある。流れに飛び込(こ)うで、われは河童の生(しやう)なるに、溺れて果つるもある。打ち倒れて、落ち窪うだ兩(ふた)つの眼(まなこ)ばかりぎゆるめかすもある。その慘忍のありさまは、寔(まこと)、譬(たとへ)をとるに例(ためし)もないほどであつたと申す。

[やぶちゃん注:「くばめき」河童語(?)。火に入れて焼くの「くぶ」(焼ぶ)に接尾語「~めく」がついた、火に焼かれたような、悲惨な姿になって、の意か?

「ひなびき」河童語(?)。「鄙びく」で、しょぼくなる、の意か?]

 水を皿にかくれば、漸くに口を開くものがいだいたれば、仔細(しさい)をきくにかうぢや。おのおの喜び勇うで昇天はしたが、高う上るにつれて、何處まで飛うでも空ばかりで何もおざない。高う高う、うち連れて上るところで、腹は減る。寒さはいごい。それでも飛ぶうちに、夜さが明け、また日が暮れ、何日も飛うだ。なんぼ高う上つても、何もおざないのは一つぢや。されば、遂に力竭(つ)き果つる者が落らた。力の殘る者は我慢強う昇つて行つたが、いづれまで上つても、何もないのは必定(ひつぢやう)ぢや。考へもなう、不埒(ふらつ)のことをしてのけた、といふ次第でおぢやる。

[やぶちゃん注:「いごい」これは河童語というよりは、「えぐい」「えごい」などと同じく、各地に認められる「ひどい」「凄い」の意の方言かと思われる。]

 されば、この時あつてから後、白魚川の眷族(けんぞく)は、飛行の術をえ憶えぬ愚の河童ばかりとなりたと申す。

 

        ―――

 

 どうです。あしへいさん。傑作ではありませんかね。ひとつ、この「昇天記」で、芥川賞をもらつて下さい。

 

[やぶちゃん注:この「天草の川にゐたゲタルといふものが江戸時代に創始した文體」は、私には何やらん、非常に親しいものを覚えた。母方が九州の鹿児島の産であればこそ、私はこのゲタルの血を引いた河童族の末裔なのかも知れない。また、この文体は芥川龍之介の「奉教人の死」や「きりしとほろ上人伝」の文体との強い親和性を帯びてもおり、私はこれを大衆の前で私独特の演出を施して朗読したい強い願望を禁じ得ない。芥川龍之介も河童族の末裔であったのだ!――だからこそ私は芥川龍之介が好きなのだ――そんな深い感懐の中に――今――私はいる――]

英語翻訳の次は河童語解読か?!

今、火野葦平の「昇天記」のテクスト化と注釈作業を終えた。まさか……英文和訳「破られし約束」の次が河童語の解読――とは思わなかった!――校正後、今日の夜、公開予定!――乞うご期待!

生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 二 消化器の退化

   二 消化器の退化

 

 寄生動物は獨立に生活するものとは違ひ、他の動物が食物を消化してその滋養分を濾し取つた液を吸ふのであるから、自分で更にこれを消化する必要がない。それ故寄生動物では消化の器官は退化するばかりで、特に他動物の腸の中に寄生するものの中には、全く消化器官のない種類もある。宿主動物の外面に吸ひ著いて居る寄生蟲は、血液を吸ひ取るに適した特殊の口がなければならぬが、宿主動物の内部に住んで居る寄生蟲は、全身滋養液の中に浸されて居ること故、皮膚の全面からこれを吸收さへすれば、別に口がなくとも差支はない。

 一體動物の消化器官の發達は食物の如何によつて大に違ふもので、腸の長さなども肉食動物と、草食動物とでは非常な相違がある。羊とヘウ〔ヒョウ(豹)〕とは略々同大であるが、豹の腸は體の長さの三倍よりないのに、羊の腸はその二十七八倍もある。かやうに長い腸が狹い腹の内に藏つてあるから、勢ひ何囘も曲りくねつて居る。支那人が屈曲した山道を形容して「羊腸」といふのは尤もな語である。動物園へ行つて見ても、「へう」〔ヒョウ(豹)〕の腹はいつも小さいが、山羊の腹は太鼓のやうに膨れて居る。これも腸の長短とその内容物の多少とによつて起る相違である。何故草食動物は腸が長くて、肉食動物は腸が短いかといふに、草の葉には滋養分が少くて滓が多いから、これを消化して吸收するには餘程手間が掛かるが、肉の方は滋養分に富んで居て、溶けて濃い液となり、速に吸收せられるからであろう。人間でも植物を多く食ふ國の人は腸が長く、肉を多く食ふ國の人は腸が短い。且その排出する糞便も肉食の人は少量であるが、植物のみを食ふ人のは太くて見事である。されば腸の長さを測れば、それでその動物が肉食性のものか、草食性のものかおよその判斷が出來る。

Jisutoma

[ヂストマ]

 

 動物の中で滋養分の最も多い不消化物の最も少い、贅澤な食物を取るのは寄生蟲である。寄生蟲の食物は多くは宿主動物の血液か、または組織を濕す淋巴液などであるが、これらは、その動物が食物を消化してその滋養分だけを吸收して造るもの故、殆ど滓含まぬ純粹な滋養物である。それ故、これを吸つて居る寄生蟲には肛門のないものが幾らもある。蛔蟲〔カイチュウ(回虫)〕は人の腸の内に居て腹の内容物を食うて居るから、口も食道も腸も肛門もあるが、肺や肝の内に寄生する「ヂストマ」の類になると、口と腸とはあるが、その先は行き止りになつて肛門はない。恐らく、これらの蟲は生まれてから死ぬまで食物を食ふだけで、決して、糞便を排出することはないのであらう。また「さなだむし」の類は常に腸の内に住んで、溶けた滋養分の中に漬けられて居るから、たゞ全身の表面からこれを吸收するだけで、特に體内の一箇所へ吸ひ入れるといふことはない。それ故この類には口も腸胃も肛門もなく、消化の器官は影も形もない。このやうなことは外界に獨立生活する動物では夢にもあり得べからざることである。生活するには食はねばならず食ふには消化器を要することは、獨立生活する動物の通則であるが、寄生動物は、食つて消化することは宿主動物にさせて置き、出來上がつた滋養分を分けて貰ふのであるから、自身に消化器がなくとも生活出來る。

Hukuromusi

[「かに」とその寄生蟲

 (イ)根狀の頭の基部 (ロ)生殖孔]

 

 全く消化器を持たず、しかも宿主動物の身體の全部から滋養分を吸ひ取りながら、自身は宿主動物の外面に付著して居る面白い寄生蟲がある。海岸の岩の間を走つて居る「かに」を捕へて見ると、往々腹に丸い團子の如きものの著いて居るのを發見するが、この圓いものは一種の寄生蟲で、卵から孵化したときの姿を見ると「ふぢつぼ」、「かめのて」などの仲間であることが確に知れる。この蟲は蟹の俗に褌と名づける部の根元に附著し、全身が現れて居るが、その吸ひ著いて居る部を探つて見ると、長く「かに」の體内に入り込み、恰も樹の根の如くに枝に分かれ無數の細い絲となつて、内臟は素より足の爪の先から眼の中、鋏の末端までも達して居る。これを用ゐて「かに」から滋養分を吸ひ取る有樣は、全く樹木が根によつて地中から養分を吸ひ込むのと同じである。そして根の如き形をして居るのは、實はこの蟲の頭部に當るからこの類を根頭類と名づける。

[やぶちゃん注:本段落に示された蟹の寄生虫は顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱根頭上目Rhizocephala のケントロゴン目 Kentrogonida 及び アケントロゴン目 Akentrogonida に属する他の甲殻類に寄生する寄生性甲殻類であるフクロムシ類である。本邦での分類学的研究は昭和一八(一九四三)年以降、殆んど行われていないが、ここで丘先生が挙げておられるのは、日本固有種で主にイワガニ類に寄生するケントロゴン目フクロムシ科ウンモンフクロムシ Sacculina confragosa と考えてよい。多くの人は卵を持った蟹と誤認しているケースが多いと思われる(後述するようにその付着部位や見た目の形状・色彩が個体によって蟹の抱卵する卵塊と酷似する場合があるからである)。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(保育社)の記載によれば、空豆形で、個体によって白・黄・茶色などの多彩な色を持つ。柄は短く、外套口(丘先生の図で矢印(イ))は中央にあり、突出する。表面には棘を欠き、一面に波模様の隆起を持つ。周囲も波形に縁どられている。大きさは宿主の腹部の大きさによって変化し、長径五ミリメートルから三〇ミリメートル前後と幅がある。複数個体が附く場合も稀ではない。――本文記載を読んだ方は気がつかないか? ――私は最初に映画の「エイリアン」を見た時――あの幼虫期の寄生性のエイリアンの寄生形態は――フクロムシがヒントだな――と思ったものである――]


Toubu2_2

[やぶちゃん注:左に『「とんぼ」の頭部』の、右に『「かめむし」の頭部』のキャプション。]

 

 動物が運動するのも感覺するのも、一は餌を取るためであるが、寄生動物は餌を求め歩く必要がないから、運動の器官が退化すると同時に感覺の器官も段々衰へる。獨立動物と寄生動物とを比較して見ると、寄生動物のほうは運動の器官が退化して居ることは前にも述べたが、感覺の器官もこれと同樣で、「ヂストマ」や「さなだむし」などの如き模範的の寄生蟲には、眼も耳も鼻も全くない。一體動物の感覺器の發達は餘程まで、その動物の運動の速さに比例するもので、運動の速い動物では一刻毎に今まで遠く離れて居た新たな外界に接すること故、前以てこれに應ずる手段として視覺などは特に發達する必要がある。鳥類の飛翔は、すべての動物中で他に類のない速な運動法であるが、これに伴ふ鳥類の視力の鋭さは他動物の遠く及ぶ所ではない。されば運動せずに固著して生活する寄生動物には、比較的感覺器の發達せぬのは當然のことと思はれる。昆蟲などでも、速に飛ぶ「とんぼ」、運動の遲い「かめむし」、犬・猫の毛の間に住む「のみ」と順を追つて比べると、眼の段々小さくなることが知れるが、「のみ」の或る種類になると眼は全くない。これを見ても運動の必要のない寄生生活をする動物では、感覺器及び神經系が次第次第に退化するものであることは確である。

耳嚢 巻之四 曲禪弓の事

 曲禪弓の事

 

 寛政七八年の比、曲禪弓とて代に其(その)業をなしけるが、弓法の家にも不傳(つたへず)、古實家(こじつか)にも其傳なし。其形は李蔓弓(りまんきゆう)を建弓(たてゆみ)になし、丸き尻籠(しりこ)の如きものへ半弓(はんきゆう)貮張或は一張を建(たて)、矢を傍(かたはら)に建し物也。其起立(きりふ)不分明事(のこと)故、或人穿鑿なしけるが、近き比の事なるとや、靱師(ゆぎし)庄左衞門といへる者工夫して、李蔓弓へ趣意模樣を附て用ひしが、此庄左衞門、甚(はなはだ)右(みぎ)半弓の名人にて百發百中の術を盡せし故、其最寄の武家抔にも其術を傳へて、一兩輩も稽古せし儘、右庄左衞門は至(いたつ)て文盲なる者にやありけん、曲げものゝ如く矢を建(たつ)る所圓(まどか)なるゆへ曲の字を置(おき)、彈は彈丸の字理も有べき故彈弓と云べきを、彈のだんをゼンと覺(おぼえ)、禪字を書(かき)誤りて曲禪弓と唱へしと見へたりと、座中一笑をなしける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:役場中間の滑稽なる誓文から、文盲の名工の文字誤読滑稽譚で連関。「曲彈弓」と名付けるところを、字を誤って「曲禪弓」と誤って命名したというのだが……志賀直哉の「小僧の神様」に食ってかかって、「小僧に寿司奢って、何が面白い?!」と指「弾」した太宰治じゃないが、『「彈」を「禪」と誤ったのが、そんなに面白いか?!』と言いたくなる……私はこういうことで、一座の者と笑い合う根岸が――私の好きな根岸が――どうも私が臍「曲」りなんだろうか?――ここに限って何故か、不快なんで、ある……。こんなことだから、私には友だちが少ないのかも、知れないな……。ともかくも、今回は、そうした話し手聴き手の持つ不快な悪意を抉り出すような現代語訳を心掛けた。

・「李蔓弓」「利満弓」「李万弓」とも。携帯用・非常用の弓の一種。底本の鈴木氏注では朝鮮の利満子によって伝えられたとあり、須川薫雄氏の「日本の武器兵器」の「弓の種類」の「李満弓」によれば、紀州の林李満と言う兵法家の作ともある(こちらの人物も姓名からは半島からの渡来人のように思われる)以下、そこから引用する。『小型で既に弦が掛けた 状態で保持されており、緊急の際に取り出しそのまま矢をつがえて発射出来る。籠弓ともいう。弓と矢は一つの入れ物に一体となり設置されている。材料は弓本体も入れ物も鯨の髭(実際は歯)水牛の角、などを膠(これも鯨の髭から作る)と卵白で接着したものと言われている。矢は十一本が収納されそのうち一本は矢羽四枚あり大きな鏃が付いている。完全に台が設置型のものも存在する。床の間などに置いたのであろう』とある(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。リンク先に画像があり、根岸の謂いが分かる)。

・「建弓」本体として使用する弓のこと。

・「半弓」和弓の長さによる分類名。六尺三寸(約一九一センチメートル)が標準とされ、通常の和弓である大弓の七尺三寸(約二二一センチメートル)よりも短い。

・「尻籠」「矢籠」「矢壺」とも書く。矢(この場合は弓本体も含む)を収納するための収納用具の一種。葛藤(つづらふじ)の蔓や竹で編んだ簡略なもので、整理収納や携帯用のもの。

・「靱師(ゆぎし)」「靱」は「靫」とも書き、「箙(えびら)」と同じで、矢を入れて肩や腰に掛け、携行するための用具で、それを作る職人のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 曲禅弓の事

 

 寛政七、八年のことである。

 「曲禅弓」と如何にもな名を附け、代々、それを家宝と致し、特別なる弓術として伝えておる家もあるようにて御座るが、如何なる由緒正しき弓法家の家にも、これ、伝わっておらず、また博覧強記の古実家にも、そのような弓名弓術のあること、これ、伝わって御座らぬ。

 その形状を管見致すに、李蔓弓(りまんきゅう)を建弓(たてゆみ)と致し、丸(まある)い尻籠(しりこ)の如きものへ、半弓を二張、或いは一張建てて、矢をその傍らに建て並べた代物にて御座る。

 その濫觴が不分明である故、ある人が穿鑿致いてみたらしいのであるが……

「……まず、これ、古いものにては御座らぬ。……至って近き頃のこととか……靱師(ゆぎし)の庄左衛門とやら申す者の考案になるものにて、李蔓弓にちょちょいと工夫意匠を施したものに、これ、過ぎぬもので御座る……が、この、庄左衛門なる職工風情……何でも、この半弓の恐るべき達人との触れ込みにて――己れが儲けんものと改造したものなればこそ、上手は、これ、当たり前にて御座ろう程に……それこそ、射らば百発百中の術を尽いたとか――さても、これも手前味噌の眉唾めいて聴こえ申す……まあ、その風聞故、最寄りの武家なんどの者の、いらん興味を掻き立て、不遜にも庄左衛門直々に、その弓術とやらを御伝授とやら……またまたその中(うち)の好き者数人が、これまた、この弓を好んで、稽古と称して流行らせるという始末……それが、まあ、「曲禪弓」と申す謎めいた名にて、恰も、古秘の弓術の如、伝わって御座った……というのが、真相で御座る……

……付け加えて申すなら、この庄左衛門――どうせ賤しい出自なれば……これ、とんでもない文盲で御座ったものらしく……その矢を建てた尻籠のところが、これ、安っぽい曲わっぱの如く円(まある)くまがっておる故、単純に『曲』の字を配し――これはまだしもにて御座るが……次の字は、矢弾(やだま)の『弾』の字義にて『弾弓』とせんはずのところで御座ったに……これ、何と……『彈』の「ダン」と申す読みを……「ゼン」と誤って読んで……ご丁寧にも『禪』の字に書き誤って、これ、偶然、謎めいた『曲禪弓』と、胸張って偉そうに唱えておったものと、これ、見えまする……。」

とのことなれば、座中、大笑いとなって御座ったよ。

鎌倉攬勝考卷之四 建長寺 終了

「鎌倉攬勝考卷之四」の建長寺の塔頭を更新、「新編鎌倉志卷之三」では行わなかった各塔頭の開基の事蹟注を附して、本文を概ね「鎌倉志」から引用している植田に対し、僕の注の「鎌倉志」との差別化を心掛けた。これを以って建長寺の項は総て終了した。

卷四も半分強が終わった。後余すところ卷五一巻と半分か……遂に……ゴールが見えてきたな――

今日の蜩の一斉鳴動4:35

プレ鳴動は
4:28
鈴の音が水面に広がるように辺りの丘陵一帯の美しい一斉鳴動になったのは7分後の
4:35
だった――僕はこの肌に痺れるように沁み渡ってくる音(ね)の中に凝しているのが――好きだ――

4:40
朝焼けの明るい空が雲間から現れた。
おっと――無粋なミンミンゼミが一匹すぐ前の木で高らかに押しつぶした渋声で鳴きやがった――
4:43
静寂(しじま)の終わりの蜩の水紋のコーダが――近い……

4:24のフライング蜩

今朝のフライング蜩は
4:24
だったが、最近、ミンミンゼミ鳴動が同時にあるために聞き取りつらい。

それにしても――昨日までは僕の視界に入る向かい下のマンションと左手丘の100世帯近くのマンションはパッチワークのように煌々としていたのに――この曙――明かりがついているのはたった一部屋だけ――

3:28の蜩

たまたま目覚めて書斎から聴いていると
3:28
に一匹の蜩が鳴き出した。しかしこれは以前に私がフライングと称して「4:25以前に鳴動する蜩は戦略家か?」で書いたものとは全く異なる鳴き方で、間欠的であり、遙かに弱弱しい。そうして今さっき、40分後の
4:08
にも全く同一の場所から(私の家はこの鎌倉市植木界隈では高層マンションを除けば、最も高い場所に立っており、私の書斎の正面の窓は久成寺を中心とした雑木林を180度見下ろしている。暁の闇の中、エアコンのない書斎で、窓を開けきって一人でいると、目を瞑ればそれが同一の箇所かどうかははっきりと分かるのである)約2分間に渡って鳴いた。

恐らくは、彼は今日地面から抜け出て羽化したのであろうと推測される。3:28の鳴きはフライングではなく、彼のこの地上での、鳴き初めであったのだ――

さあ、頑張り給え――君

水泳二句 畑耕一

泳ぐ子にひとひら日のひるがへる

うなぞこのたちまち昏き泳ぎかな

2012/08/12

ブログ390000アクセス突破記念「破られし約束 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳」への教え子からのオード「鈴の音」

これは僕の「破られし約束 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳」を読んだ教え子の呉れたオード――「鈴」に纏わる、所謂、心霊的なる――ちょっといい話……である……

  鈴の音   T・S生

 私は幼い頃、両親に仕事があったので、日中だけ、母方の祖父母のもとに預けられておりました。そのため、祖父母にとって私は、一等かわいい特別な孫のようなものでした。
 夜、何かが原因で母に叱られ閉め出されると、決まって坂を上がって数分の、その祖父母の家によく泣きながら逃げ込んだものです。
 祖父は私が中学に入った年に亡くなりました。
 その後も私は、まるで自分の家に帰るように頻繁に祖母を訪ね、布団を並べて眠ったものでした。
 祖母は私が社会人になってからでも、顔を見るたびに、満面の笑みを湛えては、
「よく来ましたね」
と言って、嬉しそうに私の名を、呼びました。

 彼女が老衰のため、自宅の畳の上で亡くなったのは、私が結婚し、子供も生まれた後のことでした。

 朝、職場で訃報に接した私は、祖母の家に駆けつけました。
 そして、もう何ももの言わずなってしまった、彼女の、その顔――その顏を凝っと見つめながら、私は、心の中で――詫びました。

 葬儀の日取りが数日後に決まり、その小さな亡骸は、白い布に包まれ、葬儀を営む者たちの、あの手際よい仕儀によって、運び出されていきました。……

 その日の夜、遅くのことです。
 もう、とっくに子供たちは寝静まっておりました。
 テーブルを挟んでお茶を飲み交わしながら、私と妻は、静かに向き合っておりました。
 さっきから私の瞼には、今日見た祖母の、その穏やかな白い顔が、ずっと浮かんでいます。
 それは恰かも、小さな鋭い棘で胸を刺されるのに似ていました。
 私は、前の日に会いに行かなかったことを、悔いていました。

 思い返せば、昨夜のこと、私は、不思議な深い淋しさを感じたのです。
 例えば――永遠に朝が来ない夜に、異国の貨物の居並ぶ埠頭を、たった一人で彷徨っている――そんな感じのする、淋しさを。
 それは、祖母の心から発する――何かの知らせ――だったのかもしれません。
 これが愛する者の死を迎えねばならぬ私にとって、確かな真実であった証拠に……私は昨夜のこと、妻に、
「……何か、ものすごく……淋しい気持ちが、する。胸が締め付けられるようだよ……」
と、語りかけていたことを、思い出したのです。……
 私は、その折の、全く以って尋常でない淋しさを、冷静に汲み取ることが出来ずに、ただただ、立ち竦んでおりました。……
 ですから、その時の私には『罪滅ぼし』という意識が強く働いていたことをはっきりと自覚致します。
 自分の妻に、祖母がどんなに大切な人だったか、そして、祖母にとって、どんなに私は特別な孫だったかを、ゆっくりと静かに、語り始めたのです。
――その瞬間でした。
……チリリリリン……
食卓の脇の、腰ほどの高さの飾り棚に、何気なく置いてあった小さな鈴が、何の前触れもなく、風もないのに、棚から床に転がり落ちて、涼しい音(ね)を、部屋に木霊させたのは……
 私は流石に一瞬、身を固くしました。
 ほんの少しですが、怖いと感じたことを自白します。
 しかし、すぐに気を取り直しました。そうして――ありきたりではありますが、
『祖母が、来てくれたに違いない。』
と思いました――いや、そう信じたかった。……
……そうして、暗がりに、テーブルだけが明るく浮かび上がった深夜の居間を見回しながら……大切な祖母に向かって私は、心の内に、限りない謝罪と感謝の言葉を、つぶやいていたのでした。……

ブログ・アクセス390000突破記念 OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN / 破られし約束 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳+同縦書版

ブログ390000アクセス記念として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、

“OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN”(英語原文)

及び

「破られし約束 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳」



同縦書版を公開した。

僕の最も愛する八雲の小説の、僕の渾身の邦訳である。

過去の英文学者の既訳とは、何れとも異なる、オリジナルなものであることを不遜にもここに表明させて頂く。

是非、お読みあれかし!

ブログアクセス290000突破

昨夜から――凝っと静かに――お待ちしておりました。……

一時間程前、8時18分58秒に「Blog鬼火~日々の迷走: トップページ」をマックでご覧になられた、あなたが――

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来――

延べ290000人目――

の来訪者でした。

向後とも、よろしく、お願い申し上げます。あなたに幸いの訪れますように――



では、290000アクセス突破記念テクスト公開に移ります(既に殆んど完了しておりますので数分で終わります)――

耳嚢 巻之四 賤夫奇才の事

 賤夫奇才の事

 

 火消屋敷の役場中間といへるは、無類不法の者にて、朝に食して夕べに食なきを不知(しらざる)の者成(なる)が、寛政丙辰(ひのえたつ)の春室賀兵庫役場中間に安五郎と言る者、櫻田の火事に怪我なしける時書(かき)たりしと、其頃もてはやす儘爰に記(しるし)ぬ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げであるが、無視し、「*」を附して区別した。]

   *

愚なる身體、國に有ては父母のもの也、武家に仕へては君のもの也。ましてや惡行の勤たるといへ共、二十年來道に入て命を繫(つな)ぐ。時に丙辰の春、近火有て我過(あやまり)て惣身(そうみ)の骨を碎(くだき)て、九牛が一毛、君恩此時に送る。殊に本道の名醫骨繼(ほねつぎ)の良醫貮人遣され、塵芥の如き下々たる我に難有事(ありがたきこと)言葉に不及(およばず)。寔(まこと)に此(これ)君に奉仕(つかへたてまつり)ては、火に入(いり)一炎(いちえん)の烟と成(なる)とも可也。難波(なには)の芦(あし)の折れたるも、所替れば葭(よし)ともならんや。人間萬事塞翁が馬と云々。寄春火(はるのしゆつかによす)

棚引し霞が關のひまよりも燃出(もへいづ)る火は花の櫻田

 

■やぶちゃん現代語訳

○前項連関:特に感じさせない。

・「火消屋敷」武士によって組織された武家火消の内、幕府直轄で四、五千石クラスの旗本が担当した定火消(じょうびけし)の役宅を言う。府内に十数か所あった。配下には与力六騎、同心三十名程が付き、火災時には彼らが「臥煙(がえん)」と呼ばれた渡り中間の火消人足(各定火消三百人)を指揮して消火活動に当たった。本話を読むと、誰もが時代劇「暴れん坊将軍」の町火消の「松五郎」を連想されるであろうが、この「臥煙」は消防のために武家火消の定火消に雇われた専門職であって、平常時に鳶などの本業を持っていた、あの町火消の火消人足とは異なる者たちであるので注意されたい。主に参照したウィキの「火消」によれば、本文で「無賴無法」と記されるように、真冬でも法被(はっぴ)一枚で過ごし、『全身に彫り物をしたものが多かった。普段は火消屋敷の大部屋で暮らしていたが、博打や喧嘩で騒動を起こすこともあった。 臥煙は必ず江戸っ子でなければ採用されず、頭は奴銀杏(やっこいちょう)という、特殊な粋な結い方をした。 出動の時には、白足袋に、真新しい六尺の締め込みをつけ、半纏一枚だけで刺し子すらも着ない』。『また、町に出ては商家に銭緡(ぜにさし)』(銭の穴に通して束ねるのに用いた紐。主に麻や藁で出来ていた)『を押し売りし、購入しなかった商家に対しては報復として、火事のときに騒動に紛れその家屋を破壊するなど、町人には評判の悪い存在であった』とある。なお、本話の安五郎は一命をとりとめたのであるが、不幸にして『火事場で死亡した臥煙は、四谷にあった臥烟寺(現存していない)に葬られた』 とある。

・「役場中間」この場合の「役場」とは、実務「役」として火災現「場」で消火に当たる「中間」の謂いであろう。

・「無類不法」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『無頼無法』。「無賴」の誤りと採る。

・「寛政丙辰」寛政八(一七九六)年。鈴木氏注に、『この春、特別の大火があったわけではない。』と記す。

・「室賀兵庫」室賀正繩(まさつぐ 宝暦三(一七五三)年~?)。天明二(一七八二)年遺跡五千五百石を継ぎ、同七(一七八七)年に定火消となっている。

・「櫻田」江戸城南端にある桜田門橋一帯の地名。現在の東京都千代田区霞が関二丁目付近。古くは桜田郷と呼称した。

・「九牛の一毛」圧倒的多数の中で、極めて少ない部分の譬え。また、比較にならないほどつまらぬことの譬え。男性生殖器を截ち斬られる屈辱的宮刑(腐刑)を受けた司馬遷が友人に宛てた悲痛なる返書「報任少卿書」(任少卿(じんしょうけい)に報ずる書)で、『假令僕伏法受誅若九牛亡一毛』(假令(たとひ)、僕、法に伏し、誅を受くるも、九牛の一毛を亡ふごとく)と、世人は私がこのような冤罪によって刑に処せられたことを意に介していないであろう、という文脈を原拠とする。この安五郎の使い方は少々おかしい感じがするが、恐らくは九死に一生というところを、わざと九牛の一毛と変えて、自己卑小化を示した味な仕儀と考えられる。

・「本道」漢方で内科をいう。

・「難波(なには)の芦(あし)の折れたるも、所替れば葭(よし)ともならんや」「芦の折れたる」は、安五郎が臥煙としての消火作業中に足(だけではないようであるが)を骨折したことに掛ける。以下の「芦」も「葭」も同じ単子葉植物ツユクサ類のイネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ Phragmites australis を指す。標準和名「ヨシ」は「アシ」が忌み言葉としての「悪し」に通じるのを嫌って、逆の意味の「良し」と言い替えたものが定着したもの。但し、関東では「アシ」、関西では「ヨシ」の呼称が一般的で、ここでもその違いを掛詞とした。また、この「ヨシ」原は難波潟の景の名物でもあった。

・「棚引し霞が關のひまよりも燃出(もへいづ)る火は花の櫻田」火事場であった霞が関及び桜田郷の地名を詠み込み、「關」の縁語で「ひま」(隙)を引出し、「燃出(もへいづ)」に桜の花の「萌え出づ」を掛ける。ハ行音の多様によるリズムが面白い狂歌である。以下、通釈する。

……霞棚引く霞が関……ああ、その隙間より……ちろちろと……燃え出でたかとみた、その火……ありゃ、火には御座いません……いやさ、お江戸の桜田の……桜の花にて御座います――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 匹夫奇才の事

 

 火消屋敷の役場中間と申すは、これ、無頼不法の者どもにて、朝に一食、食ったきり、夕べになればものをも食わず、ただただ酒に浸り切り、といった不埒なる輩ではある。

 寛政八年丙辰(ひのえたつ)の春、定火消で御座った室賀兵庫殿配下のその役場中間、安五郎と申す者、桜田辺の火災あって、その火消に当たっておるうちに、重傷を負ったという。その際に書き置いたと申す文(ふみ)が、これ、近頃、もて囃されて御座る故、ここに引き写しておく。

   *

……愚なるはこの身体(からだ)、国にあっては父母のもの、武家に仕はば君(くん)のもの。……ましてや、火消の役場中間……悪行三昧の勤めといえど……二十年来、この渡世、入(い)って一命、辛くも繋(つな)ぐ。……時は丙辰(ひのえのたつ)の頃……この春つ方、近火のあって、その火事場にて、我らこと……ちょいとしくじり致いてもうた……総身(そうみ)の骨をぼきぼきと……すっかりいみじう砕いてもうた。……ところがどっこい、九牛の、一毛にして九死の一生……殿の御恩を、これ、授かる。……殊に内科の名を立つるお医者一人に、骨接ぎの、これまた良医と、これ、二人、主(あるじ)直々お遣わし下され……塵芥(ちりあくた)の如き、この下々の者たる我らには……重ね重ねの、ありがたきこと……これ、言うに及ばず。……まっこと、殿に、仕え奉りては――飛んで火に入り、一炎(いちえん)の――儚き煙(けぶ)りとなるも、よし!――難波の潟の――折れたる蘆(あし)も――ところ変われば、これまた葭(よし)――そうともならんことなれば! 人間万事、塞翁が馬!……

   ――春の出火(でび)に寄せて――

棚引きし霞が關のひまよりも燃へ出づる火は花の櫻田

蹴る足を魍魎襲ふ泳ぎかな 畑耕一

蹴る足を魍魎襲ふ泳ぎかな

2012/08/11

死後の世界を信じる信じない県民性と国民性

本で死後の世界を最も信じている県民の多い県は?
世界で一人として死後の世界を信じない人がいない国は?
その逆に死後の世界を信じていない人間が最も多い国は?

答えは↓

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3996.html

そうなんだろうなあ……って納得する――

僕は?

怪談蒐集癖がありながら……実は信じていないかも……

耳嚢 巻之四 俄の亂心一藥即效の事

 俄の亂心一藥即效の事

 

 予が許へ來る木村元長が方へ數年出入せる者、元長親の印牧玄順が隱宅へ見廻に、元長が方の僕と連立て行しが、夜に入り歸りて我宿へも皈(かへ)り又來りけるが、眼血走り顏色殊外靑く不常(つねならざる)事のみいひ罵りける故、元長全(まつたく)の亂心と思ひける故、紫雪(しせつ)を貮三匁(もんめ)呑(のま)して無理に臥らせけるが、翌朝に至りて平日の如く也しとかや。留守見廻(みまひ)に至りて酒をものみけるが、藥は町家の手代をいたし重立取計(おもだちとりはから)ひし者ながら、主人の弟近比來りて同居をなして殊外不知(ことのほかしらず)なれば、兼て逆上の上に、酒を呑て一旦精神を失ひし故、逆上おさへるは黄金の氣に右藥を合せたる紫雪なれば、さも有べき事也と爰に記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。これは呪(まじな)いの類ではなく、当時としては立派な処方箋で、本巻冒頭の「耳に虫の入りし事」から続く(それ以前の巻にもまま見られた)、一連の医師処方譚である。なお、本話は精神医学的な観点からも面白い内容で、心理学好きの私としては、各所にリアルな解釈を付加した翻案をさせて貰った。本話を読むと私は「日本の法医学鑑定」(みすず書房)で読んだケース(しばしば授業で心神喪失無罪の例として挙げた話で覚えている生徒諸君も多いであろう)、自身がアルコール不耐症であることを知らずに酩酊、理由なく愛妻にガソリンをかけて焼殺した昭和四一(一九七六)年に東京都文京区で起こった事件を思い出した(因みに今日、この精神鑑定書を読み返してみると、判決の心神喪失による無罪は問題ないとしても、事件の細部は、教え子に話したほどには単純ではなかったことが分かった。しかし、実に不幸な事件ではあった)。

・「木村元長」小児科医。「卷之五」の「疱瘡神といふ僞説の事」に登場、『予が許へ來る木村元長といへる小兒科』とある。

・「印牧玄順」医師。馬場文耕「当代江都百化物」(宝暦八(一七五八)年序)に玄順の未亡人のゴシップ記事「鳴神比丘尼ノ弁」が載るが(リンク先はサイト「海南人文研究室」内資料。この話自体、大変面白い。剃髪した貞女は実は不倫関係の永続を求めてのことであったというとんでもない話である)、これを読むと「印牧玄順」と言う名跡は代々継がれていることが分かり、時代的にもこの中に載る『玄順病死シテ高根玄竜事、今ハ印牧玄順ト改名シケリ』という人物よりも、一~二代後の「印牧玄順」であると思われる(宝暦八年では本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年よりも凡そ四十年も遡ってしまうからである)。「デジタル版 日本人名大辞典」に江戸後期医師で、文政元年に伊予松山藩に招かれて侍医となり、「霊医言」などの医書を残した脇田槐葊(わきたかいあん)という人物の解説中に、彼が印牧玄順に学んだとある。しかし、この槐葊の生年は天明六(一七八六)年で今度は少々若過ぎる感じで、この槐葊の師である「印牧玄順」かその先代という感じである。う~む、今少しなのだが、むず痒い。

・「眼血走り顏色殊外靑く」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「靑く」が『赤く』とある。ヒステリー症状からは赤熱した状態の方が自然であるようにも思えるが、急性アルコール中毒からのチアノーゼの症状として、蒼白でもおかしくない。

・「紫雪」紫雪丹。鉱物性多味配合薬。――多くの辞書には、加賀地方に江戸時代から伝承される家庭薬で、内服用の練り薬で熱病・傷寒・酒毒・吐血・食滞などのときに用いる、とある。アルジャーノン・ミットフォードの「英国外交官の見た幕末維新」によれば、慶応三(一八六七)年にイギリス人外交官であったミットフォードとアーネスト・サトウが立ち寄った金沢城下に別れを告げる下りで、『八月十四日の朝、再来を請う人々の声に送られて、名残を惜しみながら別れを告げ、再び旅の途についた。宿の主人は自分の義父がやっている薬屋に立ち寄って、あらゆる病気に効く万能薬で、硝石と麝香(じゃこう)から作った紫雪(しせつ)という素晴らしい薬を買うように勧めた現れた』。『当時は、まだ漢方の医学が全盛の頃で、なかでも鍼療法や灸治療が痛いけれどよく効くとされていたのだが、我々としては、その治療を、あえて受ける覚悟はできていなかった。そこで我々は、謝意を表し、治療を受けない口実として健康には全く心配ないと申し立てた」(第三章「加賀から大坂への冒険旅行」より。但し、柴崎力栄氏のブログ「研究と教育」の「ミットフォード、金沢で鍼灸と紫雪丹を勧められる」からの孫引き)とある。――しかし、例えば底本の鈴木氏は「本草」を引用、『唐代には臘日に群臣に下賜された』中国伝来の漢方医薬とする(「臘日(ろうじつ)」とは中国の習慣で、年末に行われた祖先と神との祭祀を合同させた「臘祭」を行った日。「臘」は「猟」に通じて猟で得た獣を祭壇に生贄として供えたとされる)。――中国三千年の妙薬と加賀石川の家庭薬……何だ? この極端な差は?――そこで更に調べてみると――この中医薬としての「紫雪丹」は高熱・筋攣縮・意識障害・煩躁などに処方し、清熱鎮痙の効果を有するとするものの(本話のような突発的な癲癇性発作を含むと思われる精神障害寛解に一致している)、その調合素材に至っては――牛黄を始めとして、石膏・寒水石・滑石・磁石・甘草・芒硝・硝石・丁香・沈香・麝香・犀角・羚羊角などなどといった素材が並んでおり(漢方関連サイトの記載により異なる)、町方の医師が、緊急救命時に簡単にぽんと調合可能な素材群とはとても思えない。牛黄や沈香・麝香・犀角・羚羊角などに至っては稀品にして高価なことこの上あるまい。こんなものを下僕の発作の緊急治療薬に簡単に配合するとは――私は――思えないのである。――そこで、更に拘って検索をかけてみると――出た! 安土桃山時代の医師で吉田宗恂(そうじゅん 永禄元(一五五八)年~慶長一五(一六一〇)年)という人物が挙がってくる(彼の、京都の土倉業の実家を継いだ兄は、琵琶湖疏水の設計者として、また、戦国期の京都の豪商として知られる角倉了以(すみのくらりょうい)である)。当初は侍医として豊臣秀次に仕え、後陽成天皇の病気に献薬して奏効を示して法印に叙せられている。後に徳川家康に召されて東下、家康が好んだ本草研究をも助けた。博覧強記で、南蛮船がもたらした珊瑚枝についての御下問には、侍医の中で宗恂だけがその名称と産地及び採取法を即答し、これを賞した家康はその一枝を下賜したとされる。また、家康の命で紫雪(鉱物多味配合薬)を製薬、諸侍医もこれに習った。京都で没し、嵯峨二尊院に葬られている(以上の事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。――如何であろう? これこそが、本話の「紫雪」であると、私は確信するものである。――勿論、それは中医漢方薬や、その後に生まれたものと考えられる加賀の家庭薬と成分は重なるであろうが――私が言いたいのは――ここの「紫雪」の注として附せらるべきものは――御大層な本草書から引用や唐の皇帝の話でも――また、加賀地方の解熱剤の家庭医薬の「紫雪丹」でも――なく、この吉田宗恂が練った新薬の話でなくてはならない、ということである。――注とは、生没年や生地や出身大学などの無味乾燥な「事実」では毛頭なく――更に言えば、百科事典や常識一般や周辺や類似の教授ではなく(一般を知らぬ者に対してはそこから入らねばならぬものの)――その対象の核部分の「真実」を――簡明にして剔抉した説明でなくてはならぬという考え方を私は持っている(私の注は「簡明」とは言い難いが)。――「紫雪」の注は「吉田宗恂」を語ってこそ附して価値ある「注」であると私は思う。

・「貮三匁」約七・五~一一・二五グラム。

・「留守」外出の意。

・「黄金の氣に右藥を合せたる紫雪」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「右藥」が『石薬』とある。右では意が通らない。「石藥」として採る。但し、この「黄金の氣」は「石藥」と同義的に見えるのでやや不審ではある。「黄金の氣」とは五行の「金(ごん)」に分類されるもので「黄色を示す素材」と言う意味か。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 俄かの心神異乱に対する一薬即効の事

 

 私のもとへしばしば出入りする小児科医木村元長(げんちょう)殿の方へ、数年出入り致いておる××××と申す者があった。

 ある日、元長の従僕と連れ立ち、元長の親で、やはり医師であった、今は隠居して御座る印牧玄順(いんぼくげんじゅん)殿の隠居宅を見舞って、その夜のこと、××××は一度、自宅へ帰った後、再び、元長の屋敷を訪れて御座ったが、昼間、送り出した際とは別人の如く――眼が血走り、顔色は殊の外に蒼白、尋常ならざることを罵り喚き始めた故――元長は、これは突発性の真正の心神異乱に相違なしと見立てて、即座に紫雪丹を調合、二、三匁(もんめ)を口を強引に開かせて服用させた上、人をつけて横臥させておいたところ、翌朝に至って、××××は何時もと変わらぬ様子にで起きて参ったということである。

〔付属資料〕

 

   ●医師木村元長のカルテ

 

 診断の結果、本発作を起こした××××の病態の発生は、以下の経緯に基づくものと考えられた。

 

〇発作の外的誘因

 第一に、

・××××は生得的にアルコールに対する抵抗力を持たない体質、アルコール不耐症である

点を挙げておかねばならない。そしてその彼が、

・当日の外出して玄順宅を見舞いに行った際、振る舞いとして出された酒を勧められるままに強いて飲んで、いつになくひどく酩酊していた

ことが、従僕の証言からも明らかである。但し、自分の体質を認識していたはずの彼が、何故にそのような行為に及んだかについては後に分析する。

 

〇発作の主因と発症と病態

 彼は、

・町家の手代を勤め、その商家の家政一般・商取引の主要なパートを担当していた

が、近年、彼の身辺に於いて、

・主人の弟が移り住んで主家へ同居するようになった

という急激な変化が起こり、また、

・この弟がことあるごとに、今まで彼が取り仕切って順調になされていた家計や商法に口を出ようになった

結果、

・彼とこの主人弟との人間関係が頗る悪化した

そこでは、付随的に、

・この弟の行為言動に対して、今まで彼が信頼し、彼もまた信頼されていた主人であるところの兄が、悉くそれ容認し、また、彼の主張が容れられない状況に、彼は激しい不満を募らせていた

と考えてよい。そうした状況下、その日は、

・日頃の溜まりに溜まった主人弟及びそれを許して彼の言を聴き入れようとしない主人への極度の鬱憤と絶望とが頂点に達しているところの、謂わば「逆上」寸前の状態にあった

ものと思われる。彼は自身のアルコール不耐症を認識していながら、その見舞い先で振る舞われた、

・本来なら飲めない酒を、珍しく優しく玄順から勧められて、自身の孤独感から半ば依存的に、半ば自棄的に、飲酒行為に及んだ

と推定される。その結果として、

・アルコール性抑鬱状態から速やかに急性アルコール中毒へと移行した

もので、

・重度の充血及びチアノーゼ・恐らくは幻視幻聴を伴った関係妄想による驚愕性のヒステリー発作を呈した

ものである。私の観察では

・発作時には既に見当識が殆んどない
ように見受けられた。

 

〇処方

 以上のような病因と病態を勘案の上、この病態はあくまで、

・心因性の主因に、飲酒によるアルコール性精神病様症状が合併して発症したもの。

と診断の上、種々の状況から××××の内因性精神病としての難治性の遺伝的要素を含む精神障害の可能性を排除出来るものと考え、突発性興奮を鎮静させるための処方を判断した。

・黄金〔五行の金(ごん)に分類される黄色を示す生薬〕の気(薬理作用)に、石薬〔鉱物性生薬〕を主として調合した

◎「紫雪」

であれば、速やかに症状を鎮静恢復させ得るものと判断し、その場で調合の上、即座に拘束した上、強制服用させた。

 

〇予後

 翌朝には恢復したが、問診したところ、自身の前日の病態は勿論のこと、玄順宅からの帰り以降の記憶を、殆んど喪失していた。アルコール不耐症には普通に見られることである。

 

   以下、余白。

走馬燈四句 畑耕一

走馬燈魚をゆがむる浪ゆけり

しらしらと朝風にあり走馬燈

走馬燈まはりはじめしひともどり

抱ける子の瞳の中の走馬燈

2012/08/10

鎌倉攬勝考卷之四 建長寺寺宝 或いは やぶちゃん遂に著者植田孟縉に怒る!

「鎌倉攬勝考卷之四」を建長寺寺宝の最後まで更新した。

余りにも杜撰にしていい加減な植田孟縉(もうしん)の「新編鎌倉志」からの引用に――遂に僕は注で、大魔神のように怒ってしまった!……

耳嚢 巻之四 津和野領馬術の事

 津和野領馬術の事

 

 津和野領は西國にて長崎往來の場所に候所、嶮岨(けんそ)の難所多き所、久世丹州長崎往來の節右邊にては領主より物頭(ものがしら)など案内いたし候處、先乘(さきのり)をして右の嶮岨を鼻皮(はなかは)かけて乘下げ乘登(のりのぼり)す由。いらざる事ながら、自慢心にて右の通いたしける事と見へたり。鼻皮をかくるも子細ある事ならんと、丹州物語也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「津和野領」石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。当主は亀井家。執筆推定の寛政九(一七九七)年当時は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)で藩主在位は、天明三(一七八三)年から文政二(一八一九)年であるから、この領主は彼か若しくはその父で第七代藩主であった亀井矩貞(のりさだ 元文四(一七三九)年~文化十一(一八一四)年)である(叙述から見ると後者の可能性が高いように思われる)。但し、岩波版長谷川氏も指摘する通り、位置的に長崎往来との関係が分からない(どう考えても物理的には津和野藩を通らねばならない訳ではない)。識者の御教授を乞うものである。一つ気になるとすれば、ずっと後のことであるが、ウィキ津和野町の歴史の項に拠れば、慶応四・明治元(一八六八)年、長崎の浦上キリシタンが配流され、弾圧されたとあり、各藩の中でも津和野藩の拷問は特に陰惨を極め、外国公使の抗議や岩倉使節団などの理解によって停止するまで続いた(これを「浦上四番崩れ」と呼ぶ)、とあることが何かのヒントか?

・「久世丹州」久世丹後守広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行となった。中国貿易の拡大を図るなど、オランダ商館長チチングが感心するほどの開明的な人物で、長崎で入手した海外情報を懇意にしていた田沼意次に齎し、オランダ人の待遇改善などにも勤めた。天明二(一七八二)年には米価が高騰し、盗賊放火が増えた際には、近隣の諸侯に依頼して米を回漕させて米価を抑えるなど、天明三(一七八三)年九月、江戸に戻る際には長崎町民が、遙か遠方まで見送って報恩に謝したという。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進した。寛政六(一七九四)年には、ロシアの情報を得るため、江戸住みを余儀なくされた大黒屋光太夫のために新居を与えている。寛政九年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代を兼ねていた。根岸のニュース・ソースの一人。寛政九(一七九七)年六月五日致仕(以上は主にウィキ久世広民に拠った)。

・「物頭」弓組・鉄砲組などの足軽の頭。組頭。

・「鼻皮」馬の鼻づらに左右にかける細長い革。通常は馬銜(はみ:馬の轡(くつわ)の口に銜(くわ)えさせる部分)の作用の強化、装飾用などに用いる。この装飾というところが話柄のミソか?――いや、もっと単純に……「鼻をかける」(自慢をする)という皮肉な洒落のように思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 津和野領馬術の事

 

 津和野領は西国にて長崎往来の途中である。至って険阻の難所が多い。

 長崎奉行で御座った久世丹州広民殿が往来の折りには、かの地にては領主自ら乗馬の上、物頭(ものがしら)なんどの先に立って、道案内を致いたとのことで御座るが、何でも、その険阻の地を、領主が馬に鼻革(はながわ)を懸け、騎乗のままに、上り下り致いた由。――まあ、いらざる言いではあるが――一種、馬術達者自慢のため、これ、致すものの如くに見えて御座った由。

「……馬に『鼻革を懸ける』というも……これ、何ぞ、仔細があってのことで御座ろうか、のぅ……馬術の上手さを『鼻をかける』……とか、の……」

とは、丹州広民殿の談話で御座った。

扇風機二句 畑耕一

   ある会議

否と立つわれにめぐり來扇風機

殺し場の幕が降りたる扇風機

生物學講話 丘淺次郎 一 吸著の必要~(3)/了

 「さなだむし」や「ヂストマ」は寄生蟲の模範ともいふべきものであるが、皆固著の器官が發達して居る。「さなだむし」の方には種類によって或は吸盤或は曲がつた鉤、或は吸盤と鉤とが頭の端にあつて、これを用ゐて腸の粘膜に附著して居る。また「ヂストマ」の方は、腹面の前方に二個の吸盤が縱に竝んで居るが、これを以て同じく粘膜などに吸ひつく。漢字で二口蟲と書くのは、二個の吸盤が口の如くに見えるからである。

Saadamusi

[「さなだむし」の頭]

 

[やぶちゃん注:「さなだむし」扁形動物門条虫綱単節条虫亜綱 Cestodaria 及び真正条虫亜綱 Eucestoda に属する寄生虫。名は形状が真田紐に似ていることに由来する。個体によっては一〇メートルを超えるものもいる。本邦では古くは「寸白」(すはく/すばく)と呼ばれていた。目黒寄生虫館大好き人間の私はこの手の真正寄生虫の話を始めると、実は止まらなくなって、本文テクスト化が先へ進まなくなる。意識的にストイックにこの辺で止めるが、一つ面白いサイトを紹介しよう。しばしば聴かれる噴飯の都市伝説である有名女優などがやったとされる「サナダムシ・ダイエット」……ところが……何と! 実際にそのために多節条虫亜綱擬葉目裂頭条虫科 Diphyllobothrium 属日本海裂頭条虫 Diphyllobothrium nihonkaiense の、その幼虫を販売している「サナダムシ復興委員会」なるページが存在した! 中国・ロシア海域のサクラマスから採取した(厳粛なるサクラマス解剖、その採取方法の独立写真入りページもあるぞ!)procercoid プロセルコイド(擬葉目裂頭条虫科の条虫類のライフ・サイクルの一ステージ。前擬尾虫。第一中間宿主であるケンミジンコ内で coracidium コラシジウムが発育してプロセルコイドとなり、第一中間宿主とともに第二中間宿主にこれが摂取されて、第二中間宿主内で plerocercoid プレロセルコイド〔擬尾虫/擬充尾虫〕を経、成虫となる)……そしてその販売価格は――二〇一二年八月現在、何と! 四万八千円也!……更に、おまけを附けた。……この幼虫を実際に購入して『ダイエットのために服用』してみた(!)という夫婦の、写真入り実録顛末物(サイト「探偵ファイル」――このサイト、以前、自殺した少女への性的虐待の疑惑で音楽教師を告発した際には、マジ、リキ、入ってたんだけどなあ……)も発見、最後には目黒寄生虫館の見解(「四万円という額が妥当かどうかは分からないけど、常識的に考えて、売るものではない」「そもそも一匹飲んで、一〇〇%確実に寄生するものではない。そんなに簡単に寄生したら大変」)も示されて、これはもう、必見中の必見だ! 惜しむらくは、カプセルから出して、プロセルコイドを視認した写真が欲しかった!……なお、本邦産のサナダムシはヒトとの共存型で、その形状のグロテスクさに反し、多数個体が寄生しない限りは人体への影響は殆どなく、従って、無論、ダイエットにもならないのである。――丘先生じゃないが、サナダムシこそ真正の『模範的の寄生蟲』とは言えまいか?

「ヂストマ」扁形動物門吸虫綱単生吸虫(単生)亜綱 Aspidogastrea 及び二生吸虫(二生)亜綱 Digenea に属する「吸虫」と呼称される寄生虫類の本邦での総称。本文にある通り、「二口虫」と呼ぶ理由は、口吻を取り囲んである摂餌を助けるための口吸盤と、体を寄生部位に固定するための腹吸盤(体部前方の口吻に近い腹面に位置し、口吸盤とほぼ同じ大きさ)の両方を口と誤認して、“di”(二)+stoma(口)と呼んだもの。但し、英語の“Distoma”は、二生吸虫(二生)亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属 Fasciola に属する肝蛭(かんてつ)類に限って用いる。吸虫類は肺吸虫症・肝吸虫症などを引き起こす厄介な寄生虫である。]

 かくの如く寄生動物には吸著の器官が發達して、如何なることがあつても決して宿主動物を取り逃さぬやうに出來て居るが、その代り運動の器官は甚しく退化するを免れぬ。前に比較した獨立「だに」と「ひぜんのむし」〔ヒゼンダニ〕とでも、「ふなむし」と鯛の口の小判蟲〔タイノエ〕とでも、吸著の仕掛けの進んだ方は運動の力は衰へて居る。蓋し寄生動物は、後生大事に宿主動物にかぢり著いて居さへすれば生活が出來るから運動の必要がないのみならず、少しでも自由の運動を試みれば、宿主動物との緣が切れる虞があって生活上頗る危險であるから、自然必要な器官が發達し、不必要な器官が退化して、爪は大きくなり、足は短くなるといふやうな結果を生じたのであらう。種々の程度の寄生生物を通覧すると、吸著器官の發達と運動器官の退歩とは常に竝行し、兩方とも寄生生活の程度と比例して居るやうに見える。即ちときどき寄生するものや、半ば寄生するものには、運動の器官がなほ具はつてあるが、宿主動物から離れぬやうになれば、吸著の器官が完備して運動の器官がなくなり、「さなだむし」や「ジストマ」の如き模範的の寄生蟲になると、自由運動の力は全く消滅してしまふ。

2012/08/09

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記念テクスト

OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN 藪野直史現代語訳

も、たった今校了――

――仕上げをごろうじろ!♡

お気に入り断捨離

半日かけて、お気に入りの断捨離をした。恐らく、過去6年間は行っていなかった。総ファイル数は5000を越えていた。フォルダ階層分類しており、総てが繋がるかどうかを確認したため結構、時間が掛かった(削除した殆んどはアクセス不能のもの)。現在、ファイル総数2000強。あなたもやってみた方が、いいかも。それから――いつでも見られると思って保存しておかないと――結構、泣きを見ることもあるよ――イコン、じゃない遺恨は――御用達だったロシア語の学習サイトが丸ごと消失していた(泣!)――

生物學講話 丘淺次郎 一 吸著の必要~(2)

Dani

[やぶちゃん注:右の下に「獨立だに」、左の下に「ひぜんのむし」のキャプション。]

 

 「だに」の類には獨立の生活をするものと、寄生するものとがあるが、これも比べて見ると、寄生するもの程、足が短くて爪が鉤狀に曲つて居る。土の上や水の中を自由に運動して居る類では八本の足が皆身體の直徑より長いが、犬や牛などに寄生する類では足は頗る短く、且吻を深く皮膚の中へ差し入れて居るから容易に離れぬ。「ひぜんのむし」〔ヒゼンダニ〕も「だに」の一種であるが、これなどは人間の皮膚の中に細かい隧道を縱横に掘つて住んで居るので、足は極めて短く、殆どあるかないか分からぬ程である。しかし爪だけは明にある。鯉や金魚の表面につく「てふ」〔チョウ〕は「みぢんこ」の類であるが、普通の「みぢんこ」とは違つて左右の上顎が變形して「たこ」の疣の如きものとなり、これを用ゐて確に魚の皮膚に吸ひ著いてゐる。かやうな吸盤は獨立生活をする「みぢんこ」では決して見ることは出來ぬ。蛭は身體の構造からいふと「みみず」と同じ類に屬するが、蛭の中でも魚類や龜などに吸ひ著いて居る種類になると、殆ど一生涯同じ處に吸著して居るから立派な寄生蟲である。年中土を食つて居る「みみず」には、頭から尻までどこにも吸盤も鉤もないに反し、蛭の方には體の兩端に強い吸盤があつて、これで吸ひ著くと如何に魚が悶搜(もが)いても決して離れることはない。

[やぶちゃん注:「だに」節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目Acari に属する動物の総称。昆虫ではない。世界には凡そ二万種いるが、人間生活に影響を及ぼすダニはその中でも極少数で、多くは自然界での土に依存して生きる土壌生物である。

「水の中を自由に運動して居る類」これは少し規定が難しい。節足動物門クモ形綱ダニ目前気門(ケダニ)亜目Prostigmataに属するところのテングダニ類・ハダニ類・フシダニ類・ニキビダニ類の中で水中に生息するミズダニ団 Hydrachnellae(若干の海産種を含み、大部分はこの類)と海産種ウシオダニ科 Halacaridae のウシオダニ類、及び陰気門(ササラダニ)亜目 Oribatida のササラダニ類の一部を総称する呼称(団というのは聴き慣れない言葉であるが、系統学的自然分類群ではなく、水中という棲息域による生態面から纏められた呼称である)。ミズダニ団は世界に十二上科五十一科、約三〇〇〇種が生息、本邦には九上科二十七科約三〇〇種いる。この科数は前気門(ケダニ)亜目に含まれる科の凡そ半数に及んでいる。基本的に節足動物や軟体動物などの無脊椎動物を捕食するか、これらに寄生して生活し、人間生活とは無縁である。以下、僕らと殆んど接点のないミズダニを知るために、主に参考にしたウィキの「ミズダニ」から引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『ミズダニの多くのものは湖、沼、池、その他一時的ではない水溜りを始めとして、河川、渓流、湧泉(ゆうせん)、地下水、海など幅広い水域に生息する。多くの種では成体は肉食性で、ミジンコ、カイミジンコ、ユスリカの幼虫などを捕食する。湖沼性の種類は、水草につかまっているもの、泳ぐもの、水底の泥土上を這うものなどがある。川や渓流の種類は流水中の石面に張り付いている。海産種は、磯の海藻につかまったり、石や死んだ貝の殻についたり、またプランクトンとして浮遊しているものもある。淡水産貝類(ドブガイ、カラスガイ、カワシンジュガイなどの二枚貝やマルタニシ、オオタニシといった巻貝など)に寄生するものは、その外套腔内にすみ、体壁や外套膜の粘液を吸収する』。『下水のような有機物汚濁が著しく、酸素の少ない水中で生活するものは知られていない』(引用元「トブガイ」。訂した)。存外、ミズダニが綺麗好きな種が多いことが分かる。『ダニ類なので成虫では肢が八本である。体は一般に球形、卵形または楕円形のものが多いが、地下水種のバンデシアのようにウジムシ形の種類もある。体の大きさは〇・五~一・五ミリのものが多いが、小さいものは〇・三ミリ、大きいものは五ミリにも及ぶ。体色は褐、黄、青、緑、紫、赤、橙などの美しい種類が多く、地下水性ミズダニ類はほぼ無色または淡黄色のものが多い。海産種は主に赤色である』。『背面の大部分は肥厚板に覆われることが多い。腹面では脚の付け根の基節板と生殖板が硬化している。体表の肥厚部には皮膚腺が発達し、点在している。眼が存在するものでは一対、あるいは二対あり、また黒色の色素とレンズを有する。地下水性の種類では眼は退化して著しく小さいか消失し、そのかわりに感覚毛や触肢が発達している。口器は体の前方腹面にあり、頭状で先端に口が開く顎板の両側に獲物の捕獲に与る触肢が付着し、鋏角は顎板にはまり込んでいる。摂食に与る鋏角は通常完全な鋏状ではなく、可動指は強大な鎌状に発達するが、固定指は短く退化している』。『ミズダニ類は雌雄異体であって、その生活史は大分複雑である。卵は球形の種類が多いが、二枚貝に寄生する種類には楕円形の卵を産むものがある。卵の色は黄色のものが多いが、橙赤色や、煉瓦色のものもある。卵はふつうゼラチン様の膜に包まれていて、水草の茎や葉の表面に産みつけられるものが多いが、泥の中に産むものもある。流水の種類では石の表面や石の面の穴の中に産むものが多い。貝類に寄生している種類は貝の外套膜の組織内に産卵する。卵から六本脚の幼虫、八本肢の若虫を経て成虫になる。多くの場合、若虫と成虫は自由生活で微小な甲殻類や水生昆虫の幼虫などを捕食するが、幼虫はガガンボ、カ、ユスリカ、ブユ、ヌカカ、カワゲラ、トビケラ、コオイムシ、アメンボ、ミズカマキリ、コミズムシ、ゲンゴロウなど水生昆虫の成虫、あるいは幼虫に寄生する。成虫期を陸上で過ごす水生昆虫の成虫に寄生する種の場合、羽化時に取り付き寄生を開始して寄生期間を通じ水を出て生活し、宿主が交尾、産卵のために水辺に戻ってきたときに宿主から離脱し、水中の自由生活に戻る。地下水性種の生活史は全く分かっていない。ミズダニ類の寿命は大体二~三年であると考えられている』。――こうて知ってみると、私は、何となく逢って見たくなるから不思議だ。

「ひぜんのむし」ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis。激しい掻痒感を伴う皮膚疾患である疥癬は本種の寄生によるもの。以下、ウィキの「疥癬」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、単位を日本語化。記号及び本文の一部を変えた)。『ヒゼンダニの交尾を済ませた雌成虫は、皮膚の角質層の内部に鋏脚で疥癬トンネルと呼ばれるトンネルを掘って寄生する。疥癬トンネル内の雌は約二ヶ月間の間、一日あたり〇・五~五ミリメートルの速度でトンネルを掘り進めながら、一日に二個から三個、総数にして一二〇個以上の卵を産み落とす。幼虫は孵化するとトンネルを出て毛包に潜り込んで寄生し、若虫を経て約十四日で成虫になる。雄成虫や未交尾の雌成虫はトンネルは掘らず、単に角質に潜り込むだけの寄生を行う』。『交尾直後の雌成虫が未感染の人体に感染すると、約一ヵ月後に発病する。皮膚には皮疹が見られ、自覚症状としては強い皮膚のかゆみが生じる。皮疹には腹部や腕、脚部に散発する赤い小さな丘疹、手足の末梢部に多い疥癬トンネルに沿った線状の皮疹、さらに比較的少ないが外陰部を中心とした小豆大の結節の三種類が見られる』。『時にはノルウェー疥癬と呼ばれる重症感染例もみられる。過角化型疥癬は一八四八年にはじめてこの症例を報告したのがノルウェーの学者であったためについた名称であり、疫学的にノルウェーと関連があるわけではないので、過角化型疥癬と呼ぶことが提唱されている。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬はせいぜい一患者当たりのダニ数が千個体程度であるが、過角化型疥癬は一〇〇万から二〇〇万個体に達する。このため感染力はきわめて強く、通常の疥癬患者から他人に対して感染が成立するためには同じ寝具で同衾したりする必要があるが、そこまで濃厚な接触をしなくても容易に感染が成立する。患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、カキの殻のようになった角質が付着する』。『中国隋の医師巢元方が著した「諸病源候論」に『疥』として記載がある。また、唐の孫思邈が著した「千金翼方」は、硫黄を含む軟膏による治療法が記載されている。光田健輔によると、昔はらい病と疥癬はよく合併し、光田自身も神社仏閣でよく観察していたという。なお、光田は「令義解」の『らい』が伝染した話は、疥癬があり、伝染したことが観察されたのではないかという。通常の『らい』であれば、伝染する印象はない』(最後の部分はハンセン病の感染力は極めて小さいからである)。……それにしても……過角化型疥癬……一〇〇万から二〇〇万のヒゼンダニが寄生する人体……牡蠣の殻のようになった角質が盛り上がる……こりゃ、凄いわ……。……さてもこの疥癬が原因でヒトが死亡するなんどと言うことが……あり得ようか?……どうも、戦争末期に逮捕され、敗戦に前後して獄中死した西田幾太郎の愛弟子であったマルクス系哲学者の二人、三木清(昭和二〇(一九四五)年九月二十六日於豊多摩刑務所)と戸坂潤(同年八月九日於長野刑務所)の死因は――「疥癬」である――恐らくは、この過角化型疥癬に伴う腎不全だったようである……七転八倒の掻痒と孤独な死……「悲惨」などと容易に口に出せるものではない……。

「てふ」〔チョウ〕節足動物門甲殻亜門顎脚綱鰓尾亜綱チョウ目 Arguloida に属する甲殻類鰓尾類に含まれる一群。主に魚類の外部寄生虫で日本ではチョウ Argulus japonicas が普通種として知られ、別名ウオジラミとも呼ぶ。前出。「五 生血を吸ふもの」の私の注を参照されたい。

「みぢんこ」ミジンコは「微塵子」「水蚤」などと書き、水中プランクトンとしてよく知られる微小な節足動物である甲殻亜門鰓脚綱葉脚亜綱双殻目枝角(ミジンコ)亜目 Cladocera 属する生物の総称。形態は丸みを帯びたものが多く、第二触角が大きく発達して、これを掻いて盛んに游泳する。体長〇・五~三ミリメートル前後の種が多いが、中には五ミリのオオミジンコ Daphnia magna Strausや、一センチメートルに達する捕食性ミジンコのノロ Leptodora kindtii などもいる(以上はウィキの「ミジンコ目」に拠った)。

「悶搜(もが)いても」私は初めて見た漢字表記で、ネット検索をかけても中文サイトでしか引っ掛からない。「廣漢和辭典」にも所収しないが――これ、なんかいい漢字――基――いい感じ、しない? いつか使ったろ、と!]

Tyouhutyaku

[魚に「てふ」の吸ひ著いて居る狀]

耳嚢 巻之四 氣性の者末期不思議の事

 氣性の者末期不思議の事

 

 永井家末期(まつご)に、起上りては布團の間抔搜し尋る樣子なれば、看病の者何をか尋給ふと問しに、首二つ三つ有筈也と言ひし故、婦女の類は恐れ、男子は病勞とかたり合しが、不幸の葬穴を掘しに、石地藏の首を三ツ掘出せし由聞及しと、何某の語りしを大久保側にありて、夫は外の永井なるべし、主膳正は末期迄附添居(つきそひをり)しが聞及(ききおよば)ざる事といゝし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:永井武氏と大久保忠寅絡み怪奇譚二連発。但し、これは近親者であり、事実なら当然知っているはずの大久保忠寅が頑として否認するところから、珍しく最終否認型都市伝説という異形をとる。しかし、こうした末期の脳症による幻覚現象はしばしば見られるものであり、妄想の事実はあったのだが(地蔵の話までが事実なら、寧ろ、前話の様な話を他者に語るを好む大久保ならば、この話は事実であったと、逆に追認するものと思われる)、親族でもあり、友人でもあった彼が、それを武士の名誉のため、全否定したと考える方が自然で、話柄としても面白いと思う。また、表題で「氣性の者末期不思議の事」とした根岸は、信じたかどうかは別として、実は本話が武人永井武氏の逸話としては、よい話だ、と感じたことを示しているように思われる。

・「気性」気が強い、精神がしっかりしている、と言った意味。

・「永井家」永井武氏。前話注参照。彼の逝去は明和八(一七七一)年であるから、執筆推定の寛政九(一七九七)年からは二十六年前のことになる。

・「不幸の葬穴を掘しに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不幸の後葬穴を掘(ほり)しに』とある。これを採る。

・「大久保」大久保忠寅。前話注参照。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 気性のしっかりした者の末期には不思議がある事

 

……先の話に出た永井主膳正武氏(しゅぜんのかみたけうじ)殿は、その末期の砌、やおら起き上がって布団の間なんどを、頻りに捲り上げては、何やらん、探しあぐねて御座る様子なれば、看病の者が、

「……何を、お探しで御座いますか?……」

と訊ねたところ、

「……首が……これ、二つ三つ……あるはずじゃ……」

とおっしゃられた故、その場に御座った婦女なんどは大いに恐れ、男たちも、

「……これ、病いの疲れにても……御座ろうか……」

なんどと語り合って御座った。……

……ところが、

……御逝去の後(のち)、

……菩提寺にて墓穴(はかあな)を掘って御座ったところ、

……土の中から、

――石地蔵の

――首が

――三つ……

掘り出されて御座った。……

 

「……と……聞いて御座る。……」

と、さる折り、某氏が語ったので御座ったが、たまたまそこに、大久保内膳武寅(ないぜんたけとら)殿が居合わせており、大久保殿、矢庭に気色ばむと、

「――それは他の永井のことで御座ろう! 主膳正の末期には拙者も付き添い、葬送にも列して御座ったが――そのようなことは――これ――一切――聞き及んでおらぬ!」

と一蹴なされた。

竹の葉のそよぐ一枚見て昼寐 畑耕一

竹の葉のそよぐ一枚見て昼寐

2012/08/08

母さん……

……母さん……舟乗りって……そんなに……いけないの、かな……絵を描いたり、人を教えたり、金メダルをとったり、凄いもん建てたり、さ――そんなんが――好いのかなぁ……

きっと

世界は「僕らが踏み違えた」――

そして「僕らは踏み違えた」そのことを――

「全く意識していない」……

それだけの――ことなのかも知れないね……

僕の見た君の「淋しい」後ろ姿に……僕は……そう、思ったのだ――

――また、逢おう――愛する友よ――

生物學講話 丘淺次郎 吸著の必要~(1)

    一 吸著の必要

 

 寄生生活に第一に必要なものは吸著の器官である。宿主生物の體の表面に附著する場合にも、腸や胃の内に留まる場合にも、吸著の力が足らぬと忽ち振り離され、または押し出される虞があるが、寄生生活をする生物が宿主から離れたのは、猿が樹から落ちたのよりは遙に憐で到底命は保てぬ。されば、如何なることがあつても宿主に離れぬやうに、確に吸ひ著いて居ることは寄生生活の第一義であるが、そのために用ゐられる器官は吸盤と鉤とである。同じ仲間の動物で獨立の生活をして居るものと、何かに寄生して居るものとを竝べて比較して見ると、後者の方に吸著の器官の著しく發達して居ることが直に知れる。例へば魚類では寄生するものは一般に少いが、「やつめうなぎ」の類は他の魚類の皮膚に吸  ひ著いて肉を食ふから、まづ寄生生活に近いものである。そしてその口は普通の魚類の如く上下顎を具へて嚙むのではなく、單に圓く開いて恰も煙管の雁頸の如く、物に吸ひ著けば、「たこ」の足の疣(いぼ)と同じやうで容易に離れぬ。これを普通の魚類の口の構造に比べると、吸著に適することに於ては雲泥の違ひがある。

Yametuunagi

[やつめうなぎ]

 

[やぶちゃん注:画像のキャプションは「やめつうなぎ」となっている。訂した。

「吸著」今までも出てきているのだが、「著」は嘗ては「着」と同字として用いられることが一般的に行われていた。無論、「著」の音は「チョ」で「チャク」という音はないが、「着」の同字として用いる際には「チャク」と読んだ。

「やつめうなぎ」脊椎動物亜門無顎上綱円口綱ヤツメウナギ目 Petromyzontiformes に属する原始的な魚類の総称。顎を欠き、対鰭を持たず、骨格が未発達である点、通常の魚類やヒトを含む顎口上綱 Gnathostomata の脊椎動物群から見ると「原始的」なのである。図鑑などで、円形のグロテスクな吸盤状口器で魚の腹に吸い付いき吸血をしたり、ヤスリ状の舌で組織を溶かして採餌するまがまがしい印象が強いが、これはカワヤツメ Lethenteron japonicum などの特徴で、実際には成魚になると吸血する種と全く吸血しない種に分かれ、実は多くのヤツメウナギ類は消化管も貧弱で餌を採らない。名称と形状の類似(実際には大いに異なる)からウナギ類と同類と思われがちであるが、ウナギはヒトと同じく顎口類に属する一般的魚類である条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla で、ヤツメウナギとは全く異なった種である。]

 「ふなむし」は海岸の岩の上や船の中などを活潑に走り廻つて容易に捕へられぬ程故、その七對ある足は相應に長いが、尖端が細く眞直であるから物にかぢり著くことは出來ぬ。これに反して、鯛そのほかの大きな魚の口の内などに吸ひ著いて居る小判形の蟲は、「ふなむし」と同じ仲間の動物であるが、足は七對ともに太くて短く、爪は鉤狀に曲つて先が尖つて居るから、しがみ著いて居ると答易には離れぬ。この蟲と「ふなむし」とを竝べて比較して見ると、體の形狀も節の數も足の數も足の節の數もすべて同じであるが、一方は獨立して走り歩き、一方は他動物に寄生して居るだけの相違で、かやうに吸著の仕掛けが違ふ。「ふなむし」の類には種々寄生の程度の異なるものがあるが、これらを順に見渡すと、吸著の裝置が一歩一歩完全になる有樣が明に知られる。

Hunatai_2

[やぶちゃん注:左に「ふなむし」、右に「小判蟲」のキャプション。何れの本種をも知らない読者から見ると、左右は逆の方が親切である。]

 

[やぶちゃん注:「ふなむし」甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ Ligia exotica。因みに、学名の属名“Ligia”はギリシャ神話で岩礁に巣食い舟人を死へと誘い込む半魚人(本来は半鳥人) セイレンの仲間リギアに基づき、種小名“exotica”はラテン語で、異国の、風変わりな、の意。……異形の人魚リギア……いいじゃない!

「鯛そのほかの大きな魚の口の内などに吸ひ著いて居る小判形の蟲」図のキャプションには「小判蟲」とするが、これはご存じない方が多いであろう(人によっては、あんまり知りたくもなく、見たくもないかも知れない)甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ウオノエ科 Cymothoidaen に属する寄生性甲殻類の仲間、中でも本邦では漁師などには比較的知られている種としてのタイノエ Rhexanella verrucosa 及びその仲間、また丘先生のキャプションの「小判蟲」からは同科のウオノコバン属 Nerocila 指している。和名は「魚の餌」「鯛の餌」である。以下、ウィキウオノエ」より引用しておく。『アジ、タイ、サヨリなどの魚の口内やえら、体表面にへばりつき、体液をすう。宿主の魚の口内に入り込む方法として、食料に見せかけて魚に食われたふりをし、口内に入り込み、口内の一部を壊死させそこに住み着き、体液を吸う』。『主の魚が死ぬと離れるため、釣った魚をいれておいたクーラーボックスの水の中で泳いでいるのを見つけることもある。スーパーマーケットに売っている魚でも、まれに口からウオノエが覗いている場合もある。ただし、人の目には気付きにくく、主に魚の口内に入り込んでいるため、誤って食すことも無い。人に寄生することもない』。『日本におけるウオノエの研究はあまり進んでおらず、種類や宿主などについては不明な点が多い。このため、広島大学などではウオノエを見つけたら送ってほしいと呼びかけている』。まんず、海にいるワラジムシ、エビ・カニの遠い親戚だと思えばよい。広島大学の学術的資料の提供のために、一つ、意識的に探してみるのも一興であろう。……だが……魚の口の中にいる画像などは、結構、エイリアンぽい(クリックは自己責任で。とかにある。後者は抽出個体のアップの方が結構、くる、かも。ブログ主も表題で示されているようにこれは明らかにタイノエ Rhexanella verrucosa と思われる)。]

2012年8月過去3か月 検索ワード/フレーズ解析

検索ワード/フレーズ 上位12

解析対象期間: 2012年5月1日(火) ~ 2012年8月7日(火)

集計対象アクセス数 6893

1 契情倭荘子   88 1.3%
2 オオグソクムシ 74 1.1%
3 加藤郁乎     64 0.9%
4 檸檬 梶井基次郎 テスト
                           56 0.8%
5 bnp値             50 0.8%
6 橈骨遠位端骨折 合併症
               46 0.7%
7 筋萎縮性側索硬化症 ブログ
               42 0.6%
8 夏休み 自由研究 4年生
               40 0.6%
9 山本幡男         36 0.5%
10 耳袋 現代語訳
                           35 0.5%
11 自由研究 小学生 4年生
               33 0.5%
12 宮沢トシ     32 0.5%

●やぶちゃんの解析

ブンガク系
1・3・4・9・10・12

セイブツ系(私の当該記事の貝標本から8・11をそう取るが、検索者は何でもよかったに違いない)
2・8・11

ビョウキ系(僕のブログの検索で最も多いスタンダードなグループである)
5・6・7


「国立劇場文楽公演 八陣守護城 契情倭荘子」の批評記事だが、歌舞伎の同外題の検索と合わせ技で、グーグルのウェブ検索で2番目に出ちゃうからアクセスが以上に高かったに過ぎない。


想定外だが、恐らく題名「腕にオオグソクムシが共生する夢」と写真掲載がアクセスを高めたに違いない。


知る人ぞ知る現代前衛俳句の大御所だ。『岩波文庫「芥川竜之介句集」の加藤郁乎氏の解説に限りなく共感せること』で褒めちゃいるが、実のところは『岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること』で批判もしている。この後者の誤謬への主張は僕にはどうしても許し難いものであり、前者を読んでもこっちにアクセスして呉れないのは大いに不満であると言っておく。


前期中間テストの範囲だねえ。そのうち、僕の作った試験問題をアップして上げようか。でもねえ……「暗夜行路」の娼婦の乳房を握っての「豊年だ! 豊年だ!」と「檸檬」を比較する小論文問題とか……普通の国語教師の作るそれとは、似ても似つかぬ「とんでもない」問題だからねえ……僕の授業を受けてないと半分も取れない代物なんだよ……一夜漬けの諸君には、すまんが、全く役にたたんぜよ……。(梶井基次郎「檸檬」授業ノートcopyright 2006 Yabtyan


こりゃなんだな、「義母 血中BNP値 5000pg/dl」という題名見ただけで、吃驚仰天、誤記じゃないかって思わずクリックしちまうんだろうな。義母の担当医でさえ、この数値が出たときにゃ、「洒落にならない数値だ」と呟いちまったぐらいだからね……。


僕のブログの検索ワード/フレーズの永遠のチャンピオン――
……2005年7月21日……この『結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし』この病氣が『私の生活の行路を横切らなかつたならば、恐らくかういふ』私にはなつてゐ『なかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です』……


『筋萎縮性側索硬化症の母に「これで終わりです」という医師の直接告知は妥当であったと言えるか?』はグーグルでも一年以上に亙って検索のトップ・ページに出る。これは今以って――僕にとって内心忸怩たるものを感じる出来事であり――多くのALSの患者家族の方や、何よりも、告知をせねばならない担当医に読んで貰いたい記事である。

8・11
「……小学校4年生の夏休みの自由研究……今から出そう……」このアクセスが夏休みに入る前、5月から(!)もの凄かった。けどさ……やらなきゃならないことに悩んではいけないんだよ……自分が楽しくやれる沢山のものの中から自分が面白いなって思うことをやればいいんだよ……君……


山本幡男先生、先生の完全な句集をHPで作る御約束、忘れておりません――(ブログ・カテゴリ「山本幡男」)

10
日々是更新、近々「巻之四」終了――しかしまだ半分にも満たずか……先は永いなあ……死ぬ前に完成出来るかしらん……(ブログ・カテゴリ「耳嚢」)

12
「宮澤トシについての忌々しき誤謬」は是非、多くの方に読んで頂きたい。賢治の妹トシの為に。嵐山光三郎「文人悪食」の忌まわしい誤謬の当該箇所が改稿されない限り、僕は、僕のこの記事は多くの人に読まれ続けねばならないと真剣に考えていると言っておきたい。

耳嚢 巻之四 怪病の事

 怪病の事

 

 清水の家老を勤し永井主膳正(しゆぜんのかみ)は、大久保内膳など近親也しが、同人妹にて、御奉公などして主膳方に寄宿してありしが、或日急病の由爲知(しらせ)來る故早速罷越(まかりこし)しけるに、外に子細はなし。病氣はさして熱強(つよき)といへるにもなけれども、夜具衣類其外座敷の邊水だらけにて、いか樣井戸へ落しや又は池などへはまりしやうなる事故、當人ヘ承しに、一向前後不覺由也。傍廻(そばまは)り家内の者へも聞しが一向井戸は勿論池抔へ入りし事もなしといゝしが、今に不審不晴(はれず)と語りし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:女性の奇病で「怪妊の事」と連関。発熱による発汗で寝具がぐしょぐしょになるというのはままあることながら、根岸が書き留めるほどだから、これはもう、閨内がびしょびしょになっているとしか考えられない。全身から多量の水分が排出される奇病というのも、私の小学校の頃の少年雑誌の超常現象・奇病の読み物じゃあるまいし……そもそも兄が附き人や家中の者に聞き質した際、本当に彼女が何らかの病気であったなら、病態の遷移、室内が浸水する状況を断片的にでも語り得るはずなのに、一抹もそうした描写がないのも何かおかしくないか?……そうすると……考え得るのは一つしかない……詐病である……奇病の詐病である……こんな気味の悪い病気は、奉公人としては願い下げである。私が主人なら、ゆっくり養生するがよい、と言って体よく里へ帰す……本話ではその辺りが語られないが、私はこの大久保の妹は里に下がったと考える……さすればその真相は――彼女は永井主膳正方から何らかの理由があって下がりたかったのではなかったか?――その確実な方途としてこの『奇病水浸し』を演じたのではなかったか?……下がりたかった理由……それは高い確率で奉公の日常にある……奉公人の間のこと、かも知れない……いや、主人永井主膳正との、何かであったのかも知れぬ……いいや、もしかすると、永井主膳正が家老である清水徳川家当主との間に、何かが、あったのでは? と考えるのは無礼で御座ろうかの?……(次注参照)

・「清水」清水徳川家。御三卿の一つ。第九代将軍家重次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とするが、重好には嗣子がなかったため、空席となり、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。収公は将軍吉宗の遺志に背くものであったため、一橋徳川家第二代当主治済(はるさだ/はるなり)は老中松平信明らに強く抗議している。その後、第十一代将軍家斉(治済の長男)五男の敦之助が、寛政一〇(一七九八)年にわずか数え年三歳で継承するも翌年夭折、再び清水徳川家は当主空席となり、文化二(一八〇五)年になって異母弟の斉順(なりゆき)が継いでいる。従って本執筆時の寛政九(一七九七)年当時は当主不在であった。本話は初代重好の晩年時の話と考えるべきであろう。……してみると、この継子のない清水重好……何となく……臭ってこないか?

・「永井主膳正」永井武氏(元禄六(一六九三)年~明和八(一七七一)年)。大番・御小納戸を経て、宝暦二(一七五二)年に西丸御広屋敷御用人、同七年には清水重好の守役に任ぜられ、後、清水家家老となった。

・「大久保内膳」大久保忠寅(生没年不詳)。役職については寛政二(一七九〇)年勘定吟味役、同六年御小納戸頭を兼ね、同九年に兼役を解く、と底本の鈴木氏の注にあり、「卷之五」の「毒蝶の事」などを見ると寛政九(一七九七)年当時、勘定奉行であった根岸との接点が見える。永井武氏との縁戚関係は不詳ながら、次の話ではその死を看取っていることから、強い縁戚関係にあることは確実。

・「爲知(しらせ)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪病の事

 

 清水家の家老を勤めて御座った永井主膳正武氏(しゅぜんのかみたけうじ)殿は、私も懇意にして御座る大久保内膳武寅(ないぜんたけとら)殿などとは近親に当たられる。

 この武寅殿の妹ごは、清水家に御奉公致し、永井家に寄宿して御座ったが、ある日のこと、その妹ごが急病の由、知らせが参った。武寅殿、急ぎ永井家屋敷へと罷り越したが……

 

……いや、妹の様子は、これ、どうという感じにても、御座らないだ。

……病気、と言うなら……確かに熱は御座ったれど……これもまあ、さして高いというわけにても御座らぬ。

……ところが……その……妹の臥して御座る夜具や衣類やその他もろもろのものが……いや、妹のおる閨の、その座敷中が……これ

――水浸し――

……で御座ったのじゃ。

……言うなら、井戸へ転落したか、池へとどっぷり浸かり込んだ者を、たった今、引き揚げたといった有様故、当人へも、

「……これは如何なことじゃ? お前は誤って井戸へ落ちたか、はたまた、池なんどへでも、はまり込んだのか?」

と訊ねて御座ったところが、

「……一向……何がどうなったやら……妾(わらわ)には、これ、全く覚えが、御座りませぬ……」

と言うばかりで埒開かず……妹お附きの者やら、永井家御家中の者へも聞き質いたれど……

……一向、井戸は勿論のこと、池なんどへも落入ったなんどということ、これ、御座らぬとの由じゃった。

……いや、まっこと……今に至るまでも……不審、これ、晴れ申さぬ……。

 

とは、武寅殿の直談で御座る。

鎌倉攬勝考卷之四 建長寺開山塔まで更新

「鎌倉攬勝考卷之四」を建長寺開山塔まで更新した。

今年、蜩の初音を聴いたのは7月上旬だった。有意に遅かった。この異常気象は彼らにも影響している。

今朝が今年の最も大きな一斉鳴動であったが、時刻は

4:30過ぎ
 
であった。私のブログ記録に拠れば、2009年8月18日の蜩の一斉鳴動は

4:43

であったから、彼らは時間には正確だ(徐々に後ろに下がってゆく)。しかし、夕刻の鳴き方を聴いていると、何かあらゆる世界への苛立ちを感じているような妙に尖ったニュアンスが伝わってくる。

蜩も憂えている――そんな気が僕にはする――

蚊帳三句  畑耕一

わだつみのそこひなき蚊帳に寐落ちける

蚊帳あたらし蒼茫として夢來る

巨き手に魘はれぬ蚊帳は垂れてあり

[やぶちゃん注:「魘はれぬ」は「おそはれぬ」と読む。ラ行下一段活用の動詞「おそはれる」の未然形である「おそはれ」に、打消の助動詞「ぬ」が付いた形。「魘」は通常は、「うなされる」と読むことから分かるように、「おそはれる」は「悪夢を見てうなされる」「怖い夢に苦しめられる」の意。]

2012/08/07

芥川龍之介 芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈 教え子T.S.君探査報告追加

芥川龍之介「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」の六一四号書簡の注に、芥川が北京で泊まった「扶桑館」について、私の教え子で中国在住のT.S.君が探査した詳細な写真附き報告を追加した。古い北京の写真の中に……僕は道を行く芥川龍之介の姿がしっかり見える気が……した……

生物學講話 丘淺次郎 第四章 寄生と共棲

  第四章 寄生と共棲

 

 前章に述べた所はいづれも生物が各自獨立に生活する場合であるが、なほその外に一種の生物が他種の生物からその滋養分の一部を横取して生活を營んゐることが屢々ある。寄生生活と名づけるのは即ちこれであるが、この場合には、相手の生物に寄縋つて、多少これに迷惑を掛けながら生活するのであるから、獨立生活とは大に趣の異なる所がある。今若干の著しい例によつてそのおもなる相違の點をあげて見よう。

 それに就いてまづ斷つて置かねばならぬことは、寄生生活と獨立生活との間には決して判然たる境界のないことである。肉食動物でも草食動物でも、食ふ方の生物が小さくて、食はれる方の生物が遙に大きかつたならば、僅に一小部分づつを食はれるのであるから、大きな方は急に死ぬやうなことがなく、小い方は常にこれに食ひ附いて居ることが出來るが、かやうな場合に小なる方の生物を寄生生物と名づける。しかし大小は素より比較的の言葉で、その間には無數の階段があるから、いづれに屬せしむべきか判然せぬ場合が幾らもある。「いたち」は一度に血を吸つて鷄を殺しこれを捨て去るから、寄生動物とは名づけぬが、假に「いたち」が百分の一の大さとなり、鷄に吸ひ著いたまゝで生活を續けるものと想像すれば、これは確に寄生動物である。かく考へると、寄生動物なるものは畢竟小なる猛獸に過ぎぬ。また如何に小さくとも、常に食ひ附いて離れぬものでなければ寄生動物とは名づけぬ。例へば、蚊は人の血を吸うても普通には寄生蟲とはいはれぬ。これに反して、「あたまじらみ」はつねに人頭を離れぬから、寄生蟲と名づけられる。「のみ」、「しらみ」などはその中間に位する。

 されば寄生生活と獨立生活との間には決して判然とした境界があるわけではなく、半分寄生生活を營むものもあれば、ときどき寄生生活を行ふものもある。かやうに程度の違ふ寄生生物を多く竝べて、順々に比較して見ると、獨立生活から寄生生活に移り行く順序も知れ、寄生の程度が進むに隨つて、身體に如何なる變化が現れるかをも知ることが出來る。

[やぶちゃん注:「小い方」はママ。

『「いたち」は一度に血を吸つて鷄を殺しこれを捨て去る』誤り。先行する「五 生血を吸ふもの」の私の注を参照のこと。

「あたまじらみ」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ヒトジラミ科アタマジラミ Pediculus humanus humanus。人の頭髪(特に後頭部から耳介後部にかけて。時には眉毛・睫毛にも)に寄生し、皮膚から吸血(人血のみを栄養源とする)、頭髪に産卵する。卵は楕円形で、一本乃至数本の毛髪を束ねてセメント様の物質で堅固に密着させて一個ずつ産みつける。約八日で孵化、幼虫となる(不完全変態)。成虫の寿命は約三〇日とされる。高温多湿を嫌い、主に冬季に繁殖する。人血を吸血するシラミとしてはコロモジラミ Pediculus humanus corporis の二亜種及びケジラミ Phthirus pubis がいるが、彼らはその殆どの時期を人体(及びその着衣の中)で過ごす点では丘先生の言うように『「のみ」、「しらみ」などはその中間に位する』というのは、正確ではない。寧ろ、我々がシラミと言う場合のシラミ類は、その多くが動物類にその殆どの時期付着し、血や体液を吸引しており、宿主から離れた場合、次の宿主が見つからなければ死滅してしまう点で「シラミ」は正しく寄生虫であるが、昆虫綱隠翅(ノミ)目 Siphonaptera に属するノミ類は、幼虫はごみや埃の中で育ち(尚且つ蛹を経る完全変態)運動性能が高く、吸血対象から容易に離れ、吸血対象種もシラミほどに限定的でない。飢餓耐性に富み、離れてもすぐには死なないなど、「のみ」類をこそ、「しらみ」類と区別して『中間に位する』生物とすべきではなかろうか?]

詫び證文 火野葦平

   詫び證文

 

 こんな情ないことがあるものか。情ない。情ない。あれからもう一ケ月ほどになるが、まるで今のことのやうに生生しい。實に無念だ。無念だ。思ひだすたび、考へるたび、情なくなつて泣かずにはをられない。もう涙も涸れてしまひさうになつて、眼も焦げつくやうに痛いが、泣くのをやめるわけにはいかない。おれがながした涙で、山國川の水かさがふえたやうだ。おれの悲しみを知つてくれるのはこの川だけだ。……ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチキチキチキチキチ。……

[やぶちゃん注:「山國川」後でルビが振られているが「やまくにがわ」と読み、大分県と福岡県県境付近を流れる川。大分県中津市山国町英彦山(ひこさん)付近を源流とし、上・中流域の渓谷は耶馬渓と呼ばれ、景勝地として知られる。]

 あツ、だれだ? おれの肩をたたくのは?……これはこれは、人間さんでしたか? 仲間だとばかり思つたものですから、無禮な言葉づかひをいたしました。おゆるし下きい。……なにをそんなに泣いてゐるのかと、おききになるのですか?――わけを話せ、都合では力になつてやらぬでもない、との仰せ、ありがたうございます。あんまり情ないので、泣かずにはをられなかつたのですが、あなたのおやさしいお言葉で、すこし胸がなごみました。親切なおたづねに甘えて、ありのままお話し申しませう。一體どちらが正しいか、御判斷下さつて、わたくしのために一臂(いつぴ)の力をおかし下さいますなら、このうへのよろこびはございません。

 わたくしは、この山國川(やまくにがは)に棲んでをりますケンビキ太郎と申す河童でございます。御承知のとほり、山國川の兩岸は耶馬溪(やばけい)の絶勝になつてをり、いまはまたいちだんと美しい紅葉(こうえふ)のさかりですから、これをおとづれる人たちは連日引きも切らぬありきま、きつと、あなたさまも耶馬の探勝においでなさつたのでありませう。わたくしたら河童も美しいものを愛する心に變りはありませんから、毎年、紅葉のころには胡瓜酒(きうりざけ)を、瓢(ひさご)につめて、秋をたのしむ習慣になつてゐるのですが、……今年は、わたくしは、モミヂどころか、人間に父を殺され、その仇を討つこともできず、あべこべに詫(わ)び證文(じやうもん)を書かされる始末で、あまりの情なさに、毎日、泣いてゐるのでございます。

 亡父は辨金太郎と申しまして、由緒(ゆゐしよ)正しい平家の末流でございました。壇ノ浦で源氏から亡ぼされた平家の一門が、男は平家蟹(へいけがに)となり、女は河童となつたといふ傳承については、あるひはおききおよびのことでもありませうか。能登守能經(のとのかみのりつね)の奧方は海御前(あまごぜ)といふ女河童の總帥として、今でも門司の大積(おほづみ)にがんばつて活躍をしてをりますが、男の方はだらしのない蟹になつて、ただ背の甲羅に口惜しげな無念の形相をあらはしながら、關門海峽の海底にうごめいてゐるだけだといはれてゐます。しかし、これはデマなのです。歴史といふものはいつでもさういふたわいもない誤傳によつて眞實を歪めてしまふものだとされてゐますが、たしかにそのとほりです。はしたない平家蟹などになつたのは雜兵小者ばかりでありまして、氣骨ある一方の旗頭、侍大將などはいち早く滅亡の戰場から脱出し、九州各地に散つて、やはり河童となりました。そのうち、山國川の上流、奧耶馬の淵に繁榮した源太郎坊が、わたくしたちの祖先であります。一門は、後年、筑後川、三隈川(みくまがは)、大野川、源左衞門尻などに移り棲んで行きましたが、わたくしの父辨金太郎は、この山國川の頭目として殘され、その勢力もなみなみならぬものがあつたのであります。毎年、秋が深くなり耶馬溪全體の紅葉が火のやうにもえはじめると、父は部下に命じて胡瓜酒をととのへさせ、盛大の宴を張つて、山國川の秋色を滿喫したものでした。……それなのに、その父が、人間のため、思ひもかけず、あへない最後をとげようとは。……

[やぶちゃん注:「大積」現在の門司区大積(おおつみ)。門司区の北東部に周防灘に面した位置にある。古くは荷卸しの港で、壇ノ浦は企救(きく)半島先端部で丁度、反対側に当たる。

「源左衞門尻」は別府にある源左衛門尻川という川の名。永石川。]

 おゆるし下さい。父のことを考へますと、胸がつまつて思はず言葉がとぎれました。苦しい思ひをこらへて、一部始終をお話し申しあげます。

 一ケ月ほど前の、或るよく晴れた日の朝のことでございました。實は恥もなにもお話しいたさなければ、ほんたうのことがわかつていただけませんので、つつみかくしをせず、なにごとも申しあげますが、父辨金太郎が仲間の頭目となつてをりましたとはいへ、やはり内輪もめがなくもありませんでした。いつの世にも絶えないのは嫉妬の爭ひといはれてをります。父が立派でありましたので、表だつてこれに對抗する者はさすがにありませんでしたが、父をしりぞけて自分が支配者の位置にとつてかはらうといふ野心をいだき、ひそかに陰謀をたくらんでゐた者はあつたのです。それが力量識見においてはなんとしても父にかなひませんので、自然に陰謀は惡質になり、暗殺――といつても、正面からの太刀打ちはできないので、毒殺といふやうな、陰險な方法を練つてゐたやうでした。しかし、父はしつかりしてをりまして、そんないやらしい連中の下手な策謀におちいることもなく、長い年月がすぎたのです。なにかの毒を盛つた酒とか、毒汁を注射した胡瓜や茄子とか、あるひは猛毒を持つた魚――たとへば、河豚とかを父のもとにさしだしましても、父は容易にそれを看破することができましたし、また、父に心服してゐる味方もたくさんあつたわけですから、陰謀家どもはけつして成功するといふことがありませんでした。

 わたくしが河童仲間の不統一についてお話しいたしますのは、父のあへない最後が、やはりこのことに關聯してゐたからに外なりません。その日、空はよく晴れてをりましたのですが、父の心は晴れるどころか、ひどく曇つてをりました。肅淸(しゆくせい)しても肅淸してもあとを絶たない野心家、陰謀家、心のひねくれた者ども――そのときの惡漢の大將は堤(つつみ)の四郎といふ、これは頭はすこぶるわるいのですが、膂力(りよりよく)だけは拔群、これまで河童の歴史にも類のなかつた不世出の大男でありまして、これが父の地位を簒奪(さんだつ)しようと狙つてゐたのです。そのころ、わたくしは父の用務を帶びて筑後川の九千坊一族のもとへ旅してをりましたので、父の死に目にあふことができなかつたのでございますが、わたくしにも、今度こそはこの恐しい堤の四郎のために、父は危險にさらされるかといふ豫感はありました。味方のスパイの報告によりますと、四郎は同志のよりあひの席では、大をな嘴をとがらし、大きな皿をたたき、大きな背の甲羅を鳴らして――やがて辨金太郎の命運も盡き、おれの時代ももう近い、と豪語してをつたさうでございます。かれは毒藥などの姑息(こそく)手段によらず、ぢかに腕力をもつて父をたふす考へのやうでありました。

 父がその日くらい心になつてゐましたのは、四五日前から風邪をひいて、熱もあり、食慾がすすまず、體力も衰へてをりましたので、境の四郎とたたかふことに多少の不安を感じてゐたからでした。父は電流よりもするどい直感力を持つてゐましたから、そのとき、敵が父をたふすために近づいて來つつある氣配をさとつてゐたのです。山國川の曲り角、瀨にせせらぐ水のながれの騷がしいところに、大きな岩がいくつも川のうへに露出してをりますが、その岩のひとつに父は横たはつてをりました。場の四郎が近づいて來るにつれて、殺氣のみなぎつた電波がしだいに強く父のからだにひびいて來ます。父は病氣ではあつても境の四郎に負けない自信はあつたのですが、不安でくらい氣持が拔けなかつたといふのは、やはり身體の衰へと不自由さとのため、萬が一の不覺をとりはしないかといふ懸念があつたからでありませう。その萬が一こそは絶體絶命のものです。父は緊張しいつでもたたかへる姿勢をととのへて、堤の四郎の襲撃を待ちました。

 このとき、どこからか飛び來つた小さな石ころが、父の頭の皿にあたつて、ガラスのこはれるやうな音を立てました。頭の皿は河童の生命です。名門平家の末裔(まつえい)として、源太郎坊から由緒ある血筋をひいて來た山國川河童の大頭日辨金太郎は、あつといふ間もなく絶命してしまひました。……實に、實に、無念とも、無念とも、はかり知れぬことでした。こんなばかげたことがどこにあるか。考へるだに、腸(はらわた)が煮えくりかへる。……いや、思はず興奮してしまつてすみません。父の最後を考へると、自省心をうしなつてしまひます。おゆるし下さい。

[やぶちゃん注:「大頭日辨金太郎」の「日」はママ。「目」の誤植であろう。]

 まつたく父の油斷でした。そのとき、父はただ恨むべき仲間の裏切者のことばかり考へてをりまして、人間の方はすこしも氣がむいてゐませんでした。堤の四郎がするどい眼を光らし、大きな頭の皿いつぱいに水をたたへ、棍棒まがひの大きな腕をさすりさすり、近よつて來る、その西の淵の方にばかり氣をとられてゐましたので、東の方のことはお留守になつてゐたのです。父の命とりとなつた石はその東から飛んで來たのでした。不慮の災難とはまつたくこのことでせう。その石を投げたのはなに者だとお考へになりますか?……わからない?……さうでせう。たれにもわかるはずはありません。それまでなんのゆかりもなかつた人間であつたからです。しかも、別に父辨金太郎を狙つたわけではなく、いたづら半分に投げた石がたまたまその方角にゐた父にあたつたにすぎないのです。下手人は川緣にある眞王寺といふ禪寺の小僧惠欣(けいきん)でした。

 これは後でわかつたことですが、まだ十二歳の意欣は腕白ざかりで、和尚のいふことをきかず、お經の勉強もせず、魚釣りやセミとりが好きで、ほとんど寺にゐたことがなかつたので、その日、和何からたいへんなお眼玉を頂戴してゐたとのことでした。覺道といふ住職は鷹揚(おうやう)な人物だつたさうですが、惠欣のあまりの怠けン坊にさすがに堪忍袋の緒が切れたものでせう。小僧をよびつけると、いつにないきつい語調で――そんなことでは先が思ひやられる。心を入れかへて修業しなければ破門する。……そんな風に説教したもののやうです。寺を追ひだされては困るので、惠欣はそのとき素直に詫びをいひ、ともかく和何の許しを得ましたが、鬱憤は消えやらず心内にわだかまつてゐて、それが石投げとなつたらしいのでした。山國川の岸に出て來た惠欣はそこらに落ちてゐる小石をひろつては、やたらに川のなかに投げこみました。大人なら鬱憤晴らしにいつぱい酒でもひつかけるところでせうが、子供ですから、小石をひろつては――エーイ、和尚さんの馬鹿たれ、和尚さんのわからずや、とかなんとか、一番ごとにつぶやきながら、川にむかつて投げてゐたのです。平べたい石だと水面をすべつて、何段にも飛ぶことがある。それに氣づくと、惠欣は小石投げが面白くなつて、今度は水面を何囘とぶかといふやうなことに興味を感じはじめました。氣の變りやすい子供のこと、さうなると、もう鬱憤よりも石投げ遊びに熱中しはじめて、だんだん大きな石、平べたいするどい石をえらぶやうになりました。その一つが父の頭の皿を割つたのです。

 惠欣には河童の姿は見えず、それが死んでからさへも、自分が河童を殺したことを知りませんでした。そして、石投げにも倦きた樣子で、寺に歸つて行きました。

 河童界がこの大頭目辨金太郎の頓死といふ突發事故のために、大騷動をおこしたことは御想像下さいますでせう。私は電報がまゐりましたので仰天して九千坊のもとを辭し、故郷の川へとんで歸りました。父のむざんな屍骸をながめて慟哭いたしましたが、追つつくことではありません。チチシスの電報をうけとつたときは、てつきり堤の四郎が仇だと直感しましたので、歸つて來ても、私は四郎の言動に注意し、彼が父の死について、悔(くや)みの言葉をのべるのを、なにを白々しいことをいつてゐるか、今に復讐してやるぞと腹の内では齒ぎしりをしてをりました。まつたく堤の四郎の愁歎の樣子は芝居じみてゐるとわたくしには考へられ、この惡虐狡猾(くぎやくかうかつ)な男を八ツ裂きにしてやりたいくらゐにいらだちました。ところが、四郎としてもなにか昏迷(こんめい)にさらされてゐました模樣です。今日こそはと日ごろの念願をたくましい腕一本にこめて、辨金太郎に近づいて行つたのに、あつと思つたとたん目的の金太郎は死んでしまつた。善惡はともかく自分が力一杯にたたかふ相手、を持つことは生き甲斐であり、これをうしなふことには氣拔けを感じるものなのでせうか。もともと金太郎をのぞくことを目的としてゐたくせに、たわいもない人間の小僧の手によつて強敵があつけなくたふれてしまつたことを知ると、奇妙な空虛感、えたいの知れぬ寂寥(せきれう)感におそはれたやうに思はれます。それで嫡子たるわたくしが歸つて來ましたときに――かかる不慮の椿事(ちんじ)によつて、辨金太郎をうしなつたことは殘念無念のこと、自分としても生きる張りをなくした、といつたことは本音であつたかも知れません。しかし、なんといつたつて、堤の四郎にとつてはもつけの幸の出來事、タナからボタ餅といふ諺(ことわざ)は彼のためにあつたやうなものでありまして、長年の念願どほり、父歿後は山國川の宰領は四郎がすることになりました。だから、現在の頭目は境の四郎であるわけです。わたくしがもうすこし年をとつてをりましならば、父のあとを繼ぐことができたのですが、掟にさだめた年功に達してゐなかつたため、衆議は四郎を次期の頭目とすることに決しました。膂力は拔群でも頭のわるい堤の四郎を統率者としていただくことには、無論つよい反對もありました。しかし、いつの世でも暴力は價値です。智力に富んだ父に心服してゐた者たちは堤の四郎のやうな荒くれ男の部下となることを好まなかつたにもかかはらず、多數決で敗北しました。このため民主主義に疑ひを生じた者もあつたやうです。數で正邪をきめることが一見正しいやうでありながら、危險至極であることはわたくしも以前感じたことがありました。十人の考へよりも一人の考への方がはるかに正しい場合があつても、多數決になると正しい考へは葬られてしまふ。十人の狂人のなかに一人の正氣な者がをりますと、狂人たちは――

あいつは氣が變だぞ、氣をつけろ、といふのです。父の腹心で、淀淵の七郎坊は智力膽力ともにすぐれ、武勇にも富んでゐたので、わたくしが成年に達するまでの辨金太郎の後繼者は七郎坊だとする聲も高かつたのですが、やはり堤の四郎の無法な暴力をおそれる者の方が壓倒的に多く、彼が當選いたしました。

 ただ、わたくしはかういふ腹の立つ事態の連續のなかにあつても、血のつながりといふことについては多少心なごむものがありました。それは堤の四郎も、父を殺した眞玉寺の小僧惠欣を河童共同の敵として、復讐をするといふ決議はしてくれたからです。

 或る夜、わたくしは眞玉寺をおとづれました。紅葉が燃えるやうに耶馬(やば)の溪谷(けいこく)を染め、枯葉が黄金のやうに散りしいてゐる山の道はうつくしく月光に照りはえてをりましたが、わたくしの心はもはやそんな風景などには向きません。さへづる夜鳥の聲も秋の夜の風情といふよりは――ケンビキ太郎よ、早く父の仇を討て、といふ激勵になつてきこえるほどです。古い由緒を持つ眞玉寺は亭々とそそりたつ杉林のなかにあつて、その杉の暗い梢には寶石をちりばめたやうに梟(ふくろふ)の眼があちこち光つてをりました。その眼さへわたくしには――ケンビキ太郎よ、お前が仇を討つのを見まもつてゐるぞ、といふ風に見えます。

 覺道和尚はあたかも弘法大師を想像させるやうな人品骨柄いやしからぬ僚侶でしたが、わたくしの申し出に對しては、憎々しげに、また、嘲笑するやうに、鼻であしらひました。わたくしはまことを面にあらはし、涙さへうかべて父をうしなつた悲しみを述べたのです。そして申しました――小僧の惠欣をわたくしへおわたし願ひたい。山國川で河童裁判がおこなはれ、殺人ををかした惠欣の處分をすることになつてゐます。いやしくも他人の生命を絶つた者には、それ相應の報いがなくてはなりません。おまけに、惠欣は佛に仕へる身でありながら、……わたくしがここまで申しましたとき、覺道は全身をゆすつて高らかに哄笑(こうせう)いたしました。そして、彼はいひます――辨金太郎が死んだのは天罰ぢや。いや、佛罰かも知れん。大體河童どもは常日ごろ人間に害をなして怪しからん。わしもこの近郊の住民たちからいくたびその苦情をきかされたかわからん。子供を川へ引きこむ。尻子玉(しりこだま)を拔く。ときには馬や牛まで引つぱりこみ、畑を荒し、人間に角力(すまふ)をいどんでこれを不具者にする。近來は河童も助平になりをつて、人間の婦女子にいたづらをする。いまその頭目辨金太郎が、……その方のオヤヂかなにかは知らぬが……わが愛弟子惠欣によつて退治されたるは天命ぢや。それなのに惠欣をわたせなどといふは逆うらみ、絶對にさやうなことはできぬから、早早に立ちかへれ。……かういふ調子でとりつく島もないのです。人間に害をなしてゐるのは下賤の河童どもであつて、いやしくも高貴な平家のながれをくむわれわれ一門は、けつして人間に危害を加へたことはないといくらいつても、和尚はききません。それどころか、あべこべにわたくしを罵倒する始末なので、やむなくその夜は引きあげました。

 このことをかへつて報告いたしますと、仲間もみんな憤慨しました。そして、今後の對策を練つたのですが、甲論乙駁(かふろんおつばく)、容易に結論が出ません。しかし、かういふときにも本心といふものは露出するものとみえ、はじめは父へ同情してゐるかと思はれた堤の四郎一派は、だんだん面倒くさくなつて來た樣子で、一人去り二人去り、最後まで復讐の協議のため、川底にのこつたのは、いつか淀淵の七郎坊一黨だけになつてゐました。でも、このうへ堤の四郎の不信實をののしつてみたところではじまらないことですから、結局氣心の合つた同志だけで、膝つきあはせて案を練つたのです。なかなかうまい方法が見つからず、夜陰をすぎ、いつか明けがたになつてしまひました。天井になつてゐる水面が螢光燈のやうにぼうと靑白くなつて來たので、朝が來たことを知りましたが、そのときになつてはじめて、岩の六郎坊といふ、もう年齡さへわからないほどの元老格の河童が一つの案を提出しました。それは――惠欣をわたさないといふなら、その小僧をわれらの神通力によつて發狂させてしまはうといふのでした。みんなそれに賛成いたしました。

 恥かしながら、わたくしはまだ若くて、人間の神經を狂はせる呪禁(まじなひ)の方法を知りませんでした。いや、わたくしのみではなく多くの者が知りませんでした。ただ賴りは元老の六郎坊です。その翌日からわたくしどもは奧耶馬の白蛇ヶ淵の底にこもり、妖しい祈禱をはじめることになりました。ゲンゴロウ、ミヅスマシ、カブトムシ、カミキリムシなど、そんな尾昆蟲が材料のやうでしたが、六郎坊は奇妙な臭氣のただよふ粉末をこしらへて、それにドロドロした靑苔の汁をそそぎ、これを生きてゐる山椒魚(さんせううを)の背中にのせて、不思議な呪文をとなへるのでした。ただわたくしたちは六郎坊の指示にしたがつたのです。一心不亂でした。とくに、父の仇を討ちたい一念で、わたくしが、夢中だつたことは御推察下さるでせう。仲間も熱心に協力してくれました。一日、二日、三日とすぎました。わたくしは小さいときから六郎坊に可愛がられて來たのですが、このときほど彼を恐しいと思つたことはありません。老いさらばへた六郎坊の皺だらけの顏は、鬼のやうな形相を呈し、だらりとたれた嘴は、巨大なイソギンチヤクのやうに開閉して、不氣味な祈りの言葉をつぶやきます。奧ふかくに光る三角眼はぞつとする靑白い光をたたへ、丼鉢(どんぶりばち)のやうな深く大きい皿には、落葉色の液體がたまつてゐて、祈禱に熱中して頭をふるたび、ドポドポと變てこな音を立てます。これが、わたくしを、おんぶしたり肩車をして可愛がつてくれた好好爺(かうかうや)の六郎坊かと、いくたびとなくわたくしは眼をうたがつたほどでした。正邪は拔きにして、人を呪ふといふ非道の執念が、かういふすさまじい變化をつくりだすのでせうか。わたくしとて自分の姿を想像して、われながら慄然(りつぜん)とする瞬間もありました。

 しかし、わたくしどもの一念は成就したのです。眞玉寺の小僧惠欣は、わたくしどもが白蛇ケ淵にこもりはじめて三日目ごろから、氣が變になりはじめ、囈言(うはごと)をいふやうになりました。わたくしの怨念(をんねん)がのりうつつて――ころした父を返せ、父をころしたのは誰ぢや? お前ぢや。父を返せ。……などと口走つては木魚をたたく撥(ばち)をふりまはして、覺道和尚を追ひまはすやうになつたのです。これが嵩じて行けば發狂し、つひには死にいたることもあるわけですので、わたくしどもの復讐も成就することになります。斥候(せきこう)がつねに偵察に行つては、惠欣の症状を報告して來ます。それをきくと日一日狂態ぶりがはげしくなつてをることが明瞭でしたので、いよいよ白蛇ケ淵では祈禱が本格的になりました。六郎坊はわたくしをふりかへり――ケンビキ太郎よ、安心せよ、憎い仇惠欣を呪ひころせるのももう數日の後ぢやぞ、といひました。わたくしはそれをきいて無論よろこばしいと思ひましたが、それよりもそのときの六郎坊の恐しい形相の方に、ぞつといたしました。さらにニタツと笑はれて、全身が冷えあがる思ひでした。

 はじめ堤の四郎は六郎坊の神通力をばかにしてをつたやうです。あんなオイボレにそんな藝當ができるもんか、あいつは低能で、意氣地なしで、怠け者で、とり得といへば、ただ年をとつてゐるだけだといつてゐたさうです。しかし、案に相違して效果を發揮しはじめたと知ると、急にまたわれわれに近づいて來て、祈禱の仲間に加はりました。大願成就のあかつきに自分たちも協力したといふ證明が欲しかつたのでありませう。しかし、六郎坊をはじめ最初からの同志はもうそんなオポチュストたちには眼もくれず、最後の仕上げのための馬力をかけました。

 ところが、意外のことが持ちあがつたのです。斥候の通報によると、惠欣の狂態がすこしづつ恢復しはじめたといふのでした。そして數日後にはもはやまつたく全快したといふ報告が來ました。六郎坊はいふまでもなく、わたくしたち一同、驚愕と焦躁とに、ゐても立つてもをられぬ思ひでしたが、現實はいかんともすることができません。氣がつくと、いつの間にか堤の四郎一派は消え去つてゐましたので、惠欣快復の原因は不純な四郎一派が祈禱に加はつたからだと激昂する者もありました。わたくしもはじめはさうにちがひないと思ひました。かへすがへすも憎むべき四郎だと齒ぎしりしたのです。しかし、さうではありませんでした。やはり法力の問題なのでした。岩の六郎坊が沈痛な面持で申しました――人間の法力、いや佛法の加持(かぢ)に敗けた。覺道和尚はぼんくらぢやが、眞玉寺の本山、中津にある自性寺の名僧、十三世海門和尚が惠欣のため眞玉寺に出張つて、呪法調伏の加持祈禱(かぢきたう)をはじめた。殘念ぢやが、その高僧の祕法にはかなはん。もはや、わしの力は盡きた。……さういつて泣きだしましたが、わたくしどもも無論これをなぐさめる言葉などあるわけはありません。ただともどもに泣いたのです。……この氣持、おわかりでせうか。河童一同こころから人間を恐れ憎みましたけれども、能力の差は絶對的で、いかんともする術がなかつたのです。

[やぶちゃん注:「自性寺」大分県中津市新魚町にある臨済宗妙心寺派の金剛山自性禅寺。奥平藩歴代菩提寺で、天正五(一五七七)年、三河国に梅心宗鉄禅師を開山として金剛山万松寺として創建された。その後、藩転封に随って移り、享保2(1717)年に現在の地に収まった。延享二(一七四五)年、自性寺に改称している。池大雅所縁の寺で、敷地内には彼の書画を展示した大雅堂がある。

「十三世海門和尚」白隠禅師のであった自性寺十二世堤洲和尚の法嗣。本話のモデルとなった「河童の詫び證文」の伝承で現在も知られる名僧。]

 絶望のはて、わたくしは思慮をうしなひました。なんとしてでも父の仇を計ちたい一念から、つひに意を決して、或る夜、ふたたび單身で眞王寺に乘りこんだのです。前のときはただ話しあひ、惠欣引きわたしの交渉をしに行つたのでありますから、おだやかにわたくしの方も面會し、覺道和尚も表面はなにげない風で迎へてくれましたが、こんどは事情が一變してをります。正面きつたたたかひ、惠欣呪縛(じゆばく)のあとですから、わたくしが惠欣に面會をもとめたところで逢はせてくれるはずはありません。わたくしは夜盜のやうに足音を忍ばせ、そつと庫裡(くり)に近づきました。かねて斥候の報告で、惠欣は外出を禁止され庫裡の一間に寢泊りしてゐることを知つてゐたからです。もはや錯亂にちかい心理状態にあつたわたくしは惠欣を見つけ次第、その場で八ツ裂きにしてやりたいくらゐの瞋意(しんい)の情に燃え狂つてゐたのでした。その夜も生ひしげつた杉林のなかで夜鳥がさへずり、梟が眼を光らせてをりました。そして、その鳥たちは――ケンビキ太郎の間拔け野郎、と嘲笑し、梟はつめたく白い眼つきでわたくしを輕蔑しあざ笑つてゐるやうに思はれました。前のときのやうに月はなく、星も見えず不吉な暗黑の空は重苦しく頭上から壓して來るやうです。

 なんといふ不覺か――いや、不覺ではなく、やつぱり人間の智惠の方が河童よりも上手(うはて)なのか、わたくしは庫裡ちかくにある一本の玉大な蘇鐡のかげからそつと出ようとしたとき、いきなり人間の腕につかまれて地面へおさへつけられてしまひました。おどろきました。身うごきができないのです。わたくしども河童の身體には數ケ所の急所がありますが、生命の根源たる頭の皿以外は、まづ背の甲羅の六枚目です。……これです。ここの甲羅を指でつかまれましたならば、まるで魔法でもかけられたやうに、全然自由がきかないばかりか、長くさうしてをられますと、氣分がわるくなり、嘔(は)き氣がして來て悶絶することが往々あります。わるくするとそのまま絶命してしまふ場合がないとはいへません。しかし、このことは河童の重大祕密に屬することで、人間にわかつてゐるはずはないのですが、どうしてわたくしをとりおさへた人間が知つてゐたのでせうか。わたくしは苦しくなりながらも下からその人間を見あげました。それは覺道和何でなく見知らぬ白眉白髯(はくびはくせん)の老僧でした。ああこの坊主が名僧といはれてゐる海門和尚だなとわたくしは氣づき、六郎坊の呪縛を苦もなくほどいてのけたこの僧をおそれる心がきざしました。この博學廣識の僧侶はたれ知るはずもない河童の急所、六枚目の甲羅のことをふかい學問の末に知悉してゐたものと見えます。わたくしは口惜しく情なく泣きたくなりました。といつて、逃れることも出來ません。

 海門和尚はわたくしの甲羅をにぎつたまま申します――不屈千萬の河童奴、命が惜しいなら、わしのいふことを聞け。いつかお前がやつて來るくらゐのことはこのわしにはわかつてをつたんぢや。今後のこらしめのために待つてをつた。さあ、詫び澄文を書け。そしたら許してやる。わしのいふとほりに書けばええんぢや。……わたくしがなんの惡いことをしたといふのか。惡いのは人間ではないか。詫び證文を書かなければならぬのは人間の方ではないか。こちらが詫び證文を書く理由などはない。あべこべだ。……さうは思ひましたが、お察し下さい。急所をおさへられ、氣分がわるくなり嘔き氣さへして來ましたので、わたくしはつひに海門和尚の理不盡な強請にしたがふほかはなかつたのです。不甲斐のないことですが、命にはかへられませんでした。ちやんと海門和尚は硯(すずり)と紙を用意してゐます。そして、わたくしに筆をにぎらせ――さあ、書けと、その文句を口述するのでした――「自性寺に法華經を上げておくれなさい。此後人に災ひ致すまい。御座敷は不及申、中津中はもちろん山國川べりの人に皆災ひ致すまい。御子供方にも災ひいたすまい。おとなにも致すまい。災ひいたしたる時は如何なる目にあはさるるも苦情はいふまい。天明六年十一月十六日、ケンピキ太郎廿二歳」……

[やぶちゃん注:「不屈千萬」はママ。「不屈」は「不屆」の誤植であろう。]

 お察し下さいませ。こんな情ないことが世にありませうか。理由もない詫び證文を書いてわたくしはやつと釋放されましたが、仲間からはさんざんに嘲笑されました。しかし、河童の生命の急所、甲羅の六枚目をつかまれて、どんな河童が人間の要求をしりぞけることができるでせうか。最近、きくところによりますと、自性寺ではわたくしの書きました詫び記文が評判になりまして、見物が殺到し寺は大儲けをしてゐるとのことです。それまではさびしい寺だつたのに、河童の詫び證文が珍しい觀光資源になつたわけでせう。こんな屈辱があるでせうか?

 あッ、なにをなさるのです?……アイタ、……あ、ウウム、‥…痛い。……放して下さい。…その甲羅の六枚目をつかまれては。……なに?――おれにも詫び澄文を書け? とんでもない。なんのためにあなたに詫びなければならぬことがあるのです?……ア、ア、……ア、ウウム、苦しい。……氣分がわるくなつた。氣が遠くなりさうだ。……書きます。書きます。……これでよろしいですか。……ああ、死にさうだつた。強慾な人間奴、大ゐばりで行つてしまひをつた。きつと、あれを見世物にして一儲けするつもりにちがひない。ああ泣きたい。

 こんな情ないことがあるものか。情ない。情ない。實に無念だ。無念だ。考へると情なくなつて泣かずにはをられない。もう涙も涸れてしまつて、眼も焦げつくやうに痛いが、泣くのをやめるわけにはいかない。おれがながした涙で、山國川の水かさがふえたやうだ。おれの悲しみを知つてくれるのはこの川だけだ。……ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチキチキチキチ。……

 あツ、だれだ? おれの肩をたたくのは?……これはこれは人間さんでしたか? 仲間だとばかり思つたものですから無禮な言葉づかひをいたしました。おゆるし下さい。……なにをそんなに泣いてゐるのかと、おききになるのですか?――わけを話せ、都合では力になつてやらぬでもない、との仰せ、ありがたうございます。あんまり情ないので泣かずにはをられなかつたのですが、あなたのおやきしいお言葉で、すこし胸がなごみました。親切なおたづねに甘えて、ありのままお話し申しませう。一體どちらが正しいか、御判斷下さつて、わたくしのために一臂(いつぴ)の力をおかし下さいますなら、このうへのよろこびはございません。

 わたくしは、この山國川に棲んでをりますケンビキ太郎と申す河童でございます。御承知のとほり、山國川の兩岸は耶馬漢の絶勝になつてをり、いまはまたいちだんと美しい紅葉のさかりですから、これをおとづれる人たちは連日引きも切らぬありさま、きつと、あなたさまも耶馬の探勝においでになつたのでありませう。わたくしたち河童も美しいものを愛する心に變りはありませんから、毎年、紅葉のころには胡瓜酒を瓢につめて、秋をたのしむ習慣になつてゐるのですが……、今年は、わたくしは、モミヂどころか、人間に父を殺され、その仇を討つこともできず、あべこべに、詫び證文を書かされる始末で、あまりの情なきに、毎日、泣いてゐるのでございます。おまけに、いま、また、ひどい目にあひまして。……

 亡父は辨金太郎と申しまして、由緒正しい平家の末流でございました。壇の浦で漁民から亡ぼされた平家の一門が、男は平家蟹となり、女は河童になつたといふ傳承については……

[やぶちゃん注:「亡ぼされた」は底本「亡ばされた」。これはリフレインで誤植が明白なので訂した。

本話のモデルとなった「河童の詫び證文」伝承及