耳嚢 巻之四 曲禪弓の事
曲禪弓の事
寛政七八年の比、曲禪弓とて代に其(その)業をなしけるが、弓法の家にも不傳(つたへず)、古實家(こじつか)にも其傳なし。其形は李蔓弓(りまんきゆう)を建弓(たてゆみ)になし、丸き尻籠(しりこ)の如きものへ半弓(はんきゆう)貮張或は一張を建(たて)、矢を傍(かたはら)に建し物也。其起立(きりふ)不分明事(のこと)故、或人穿鑿なしけるが、近き比の事なるとや、靱師(ゆぎし)庄左衞門といへる者工夫して、李蔓弓へ趣意模樣を附て用ひしが、此庄左衞門、甚(はなはだ)右(みぎ)半弓の名人にて百發百中の術を盡せし故、其最寄の武家抔にも其術を傳へて、一兩輩も稽古せし儘、右庄左衞門は至(いたつ)て文盲なる者にやありけん、曲げものゝ如く矢を建(たつ)る所圓(まどか)なるゆへ曲の字を置(おき)、彈は彈丸の字理も有べき故彈弓と云べきを、彈のだんをゼンと覺(おぼえ)、禪字を書(かき)誤りて曲禪弓と唱へしと見へたりと、座中一笑をなしける。
□やぶちゃん注
○前項連関:役場中間の滑稽なる誓文から、文盲の名工の文字誤読滑稽譚で連関。「曲彈弓」と名付けるところを、字を誤って「曲禪弓」と誤って命名したというのだが……志賀直哉の「小僧の神様」に食ってかかって、「小僧に寿司奢って、何が面白い?!」と指「弾」した太宰治じゃないが、『「彈」を「禪」と誤ったのが、そんなに面白いか?!』と言いたくなる……私はこういうことで、一座の者と笑い合う根岸が――私の好きな根岸が――どうも私が臍「曲」りなんだろうか?――ここに限って何故か、不快なんで、ある……。こんなことだから、私には友だちが少ないのかも、知れないな……。ともかくも、今回は、そうした話し手聴き手の持つ不快な悪意を抉り出すような現代語訳を心掛けた。
・「李蔓弓」「利満弓」「李万弓」とも。携帯用・非常用の弓の一種。底本の鈴木氏注では朝鮮の利満子によって伝えられたとあり、須川薫雄氏の「日本の武器兵器」の「弓の種類」の「李満弓」によれば、紀州の林李満と言う兵法家の作ともある(こちらの人物も姓名からは半島からの渡来人のように思われる)以下、そこから引用する。『小型で既に弦が掛けた
状態で保持されており、緊急の際に取り出しそのまま矢をつがえて発射出来る。籠弓ともいう。弓と矢は一つの入れ物に一体となり設置されている。材料は弓本体も入れ物も鯨の髭(実際は歯)水牛の角、などを膠(これも鯨の髭から作る)と卵白で接着したものと言われている。矢は十一本が収納されそのうち一本は矢羽四枚あり大きな鏃が付いている。完全に台が設置型のものも存在する。床の間などに置いたのであろう』とある(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。リンク先に画像があり、根岸の謂いが分かる)。
・「建弓」本体として使用する弓のこと。
・「半弓」和弓の長さによる分類名。六尺三寸(約一九一センチメートル)が標準とされ、通常の和弓である大弓の七尺三寸(約二二一センチメートル)よりも短い。
・「尻籠」「矢籠」「矢壺」とも書く。矢(この場合は弓本体も含む)を収納するための収納用具の一種。葛藤(つづらふじ)の蔓や竹で編んだ簡略なもので、整理収納や携帯用のもの。
・「靱師(ゆぎし)」「靱」は「靫」とも書き、「箙(えびら)」と同じで、矢を入れて肩や腰に掛け、携行するための用具で、それを作る職人のこと。
■やぶちゃん現代語訳
曲禅弓の事
寛政七、八年のことである。
「曲禅弓」と如何にもな名を附け、代々、それを家宝と致し、特別なる弓術として伝えておる家もあるようにて御座るが、如何なる由緒正しき弓法家の家にも、これ、伝わっておらず、また博覧強記の古実家にも、そのような弓名弓術のあること、これ、伝わって御座らぬ。
その形状を管見致すに、李蔓弓(りまんきゅう)を建弓(たてゆみ)と致し、丸(まある)い尻籠(しりこ)の如きものへ、半弓を二張、或いは一張建てて、矢をその傍らに建て並べた代物にて御座る。
その濫觴が不分明である故、ある人が穿鑿致いてみたらしいのであるが……
「……まず、これ、古いものにては御座らぬ。……至って近き頃のこととか……靱師(ゆぎし)の庄左衛門とやら申す者の考案になるものにて、李蔓弓にちょちょいと工夫意匠を施したものに、これ、過ぎぬもので御座る……が、この、庄左衛門なる職工風情……何でも、この半弓の恐るべき達人との触れ込みにて――己れが儲けんものと改造したものなればこそ、上手は、これ、当たり前にて御座ろう程に……それこそ、射らば百発百中の術を尽いたとか――さても、これも手前味噌の眉唾めいて聴こえ申す……まあ、その風聞故、最寄りの武家なんどの者の、いらん興味を掻き立て、不遜にも庄左衛門直々に、その弓術とやらを御伝授とやら……またまたその中(うち)の好き者数人が、これまた、この弓を好んで、稽古と称して流行らせるという始末……それが、まあ、「曲禪弓」と申す謎めいた名にて、恰も、古秘の弓術の如、伝わって御座った……というのが、真相で御座る……
……付け加えて申すなら、この庄左衛門――どうせ賤しい出自なれば……これ、とんでもない文盲で御座ったものらしく……その矢を建てた尻籠のところが、これ、安っぽい曲わっぱの如く円(まある)くまがっておる故、単純に『曲』の字を配し――これはまだしもにて御座るが……次の字は、矢弾(やだま)の『弾』の字義にて『弾弓』とせんはずのところで御座ったに……これ、何と……『彈』の「ダン」と申す読みを……「ゼン」と誤って読んで……ご丁寧にも『禪』の字に書き誤って、これ、偶然、謎めいた『曲禪弓』と、胸張って偉そうに唱えておったものと、これ、見えまする……。」
とのことなれば、座中、大笑いとなって御座ったよ。