生物學講話 丘淺次郎 第四章 寄生と共棲
第四章 寄生と共棲
前章に述べた所はいづれも生物が各自獨立に生活する場合であるが、なほその外に一種の生物が他種の生物からその滋養分の一部を横取して生活を營んゐることが屢々ある。寄生生活と名づけるのは即ちこれであるが、この場合には、相手の生物に寄縋つて、多少これに迷惑を掛けながら生活するのであるから、獨立生活とは大に趣の異なる所がある。今若干の著しい例によつてそのおもなる相違の點をあげて見よう。
それに就いてまづ斷つて置かねばならぬことは、寄生生活と獨立生活との間には決して判然たる境界のないことである。肉食動物でも草食動物でも、食ふ方の生物が小さくて、食はれる方の生物が遙に大きかつたならば、僅に一小部分づつを食はれるのであるから、大きな方は急に死ぬやうなことがなく、小い方は常にこれに食ひ附いて居ることが出來るが、かやうな場合に小なる方の生物を寄生生物と名づける。しかし大小は素より比較的の言葉で、その間には無數の階段があるから、いづれに屬せしむべきか判然せぬ場合が幾らもある。「いたち」は一度に血を吸つて鷄を殺しこれを捨て去るから、寄生動物とは名づけぬが、假に「いたち」が百分の一の大さとなり、鷄に吸ひ著いたまゝで生活を續けるものと想像すれば、これは確に寄生動物である。かく考へると、寄生動物なるものは畢竟小なる猛獸に過ぎぬ。また如何に小さくとも、常に食ひ附いて離れぬものでなければ寄生動物とは名づけぬ。例へば、蚊は人の血を吸うても普通には寄生蟲とはいはれぬ。これに反して、「あたまじらみ」はつねに人頭を離れぬから、寄生蟲と名づけられる。「のみ」、「しらみ」などはその中間に位する。
されば寄生生活と獨立生活との間には決して判然とした境界があるわけではなく、半分寄生生活を營むものもあれば、ときどき寄生生活を行ふものもある。かやうに程度の違ふ寄生生物を多く竝べて、順々に比較して見ると、獨立生活から寄生生活に移り行く順序も知れ、寄生の程度が進むに隨つて、身體に如何なる變化が現れるかをも知ることが出來る。
[やぶちゃん注:「小い方」はママ。
『「いたち」は一度に血を吸つて鷄を殺しこれを捨て去る』誤り。先行する「五 生血を吸ふもの」の私の注を参照のこと。
「あたまじらみ」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ヒトジラミ科アタマジラミ
Pediculus humanus
humanus。人の頭髪(特に後頭部から耳介後部にかけて。時には眉毛・睫毛にも)に寄生し、皮膚から吸血(人血のみを栄養源とする)、頭髪に産卵する。卵は楕円形で、一本乃至数本の毛髪を束ねてセメント様の物質で堅固に密着させて一個ずつ産みつける。約八日で孵化、幼虫となる(不完全変態)。成虫の寿命は約三〇日とされる。高温多湿を嫌い、主に冬季に繁殖する。人血を吸血するシラミとしてはコロモジラミ
Pediculus humanus
corporis の二亜種及びケジラミ Phthirus pubis がいるが、彼らはその殆どの時期を人体(及びその着衣の中)で過ごす点では丘先生の言うように『「のみ」、「しらみ」などはその中間に位する』というのは、正確ではない。寧ろ、我々がシラミと言う場合のシラミ類は、その多くが動物類にその殆どの時期付着し、血や体液を吸引しており、宿主から離れた場合、次の宿主が見つからなければ死滅してしまう点で「シラミ」は正しく寄生虫であるが、昆虫綱隠翅(ノミ)目 Siphonaptera に属するノミ類は、幼虫はごみや埃の中で育ち(尚且つ蛹を経る完全変態)運動性能が高く、吸血対象から容易に離れ、吸血対象種もシラミほどに限定的でない。飢餓耐性に富み、離れてもすぐには死なないなど、「のみ」類をこそ、「しらみ」類と区別して『中間に位する』生物とすべきではなかろうか?]
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