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2012/08/05

生物學講話 丘淺次郎 七 共食ひ

       七 共食ひ

 

 動物の中には同一種族のものが互に食ひ合ひ、同胞を殺して自身が生活する者が幾らもある。一寸考へると、かやうな共食ひは生存競爭の極端な場合で、普通の食物が皆無になつたときにのみ行はれる非常手段のやうに思はれるが、少しく注意して見ると常々澤山にあることで決して珍しくはない。今こゝに二、三の最も普通な例を擧げて見よう。

 獸類を獸類が食ひ、魚類を魚類が食ふといふ如き、同部類に屬するものの相食ふことまでも共食ひと見なせば、その例は頗る多くなるが、かやうなものを除き、眞に同一種の共食ひだけとしても、相應に例を擧げることが出來る。昆蟲などでも同一種のものを一つの籠に澤山入れて置くと、共食ひを始めるものが隨分多い。「いなご」・「ばつた」なども共食ひをするが、「かまきり」の如き常に肉食するものでは特に甚しい。食物を十分に與へて置いても、やはり共食ひを始める。魚類にも一つの鉢に一所に入れておくと、大きい方が小さい方を食つてしまふ如きものは澤山にある。卵から孵つたばかりの小さな幼魚などは、注意して別に離して置かぬと大概は親に食はれる。大きな蛙が同種の小さな蛙をのむことのあるのは、これまで度々見た人もあるが、日本に有名な大「さんせううを」も盛んに共食ひをする動物で、嘗てオランダヘ雌雄二匹送つたものなどは、途中で雄が雌を食つてしもつて、雄一匹だけが肥って先方に著した。

[やぶちゃん注:『「かまきり」の如き常に肉食するものでは特に甚しい』とあるが、種によって異なるものの、最新の知見ではその頻度は必ずしも高くはないという。私は、カマキリの交尾時には、種によっては高い頻度でオスがメスに食われ、それはカマキリが近眼で、交尾時でも通常の際と同様に動くものを反射的に餌として捕食してしまうものと認識していた(実際、私は小学生の時に頭部を交尾をしたカマキリで、一方の(オスの)頭が失われているのを見たことがあったし、サソリのある種ではメスが頭胸部の下方に無数の子供を抱いて保育するが、落下して母親の視界に入ってしまうと、彼らは近眼であるために大事に育てているはずの子供を食べてしまう映像を見たことがある)。また、正上位での交尾ではそのリスクが高まるため、近年、オスのカマキリの中には後背位で交尾をする個体が見られるようになったという昆虫学者の記載を読んだこともあって、かつて授業でもしばしばそう話したのを記憶している諸君も多いであろう。しかし今回、ウィキの「カマキリ」の「共食い」の記載の見ると、幾分、異なるように書かれてある。一応、以下に引用しておきたい。『共食いをしやすいかどうかの傾向は、種によって大きく異なる。極端な種においてはオスはメスに頭部を食べられた刺激で精子嚢をメスに送り込むものがあるが、ほとんどの種の雄は頭部や上半身を失っても交尾が可能なだけであり、自ら進んで捕食されたりすることはない。日本産のカマキリ類ではその傾向が弱く、自然状態でメスがオスを進んで共食いすることはあまり見られないとも言われる。ただし、秋が深まって捕食昆虫が少なくなると他の個体も重要な餌となってくる』。『一般に報告されている共食いは飼育状態で高密度に個体が存在したり、餌が不足していた場合のものである。このような人工的な飼育環境に一般的に起こる共食いと交尾時の共食いとが混同されがちである。交尾時の共食いも雌が自分より小さくて動くものに飛びつくという習性に従っているにすぎないと見られる。ただしオスがメスを捕食することはなく、遺伝子を子孫に伝える本能的メカニズムが関係していると考えられる(すなわちメスを捕食してはDNAが子孫に伝わらなくなる)。また、このような習性はクモなど他の肉食性の虫でも見られ、特に珍しいことではない』『また、それらの雌が雄を捕食する虫の場合、雄が本能的にいくつもの雌と交尾をし、体力を使いすぎて最後に交尾した雌の餌になっている場合もある』。私の話はカマキリの種によっては誤りではない、と一応の附言はしておきたい。]

Hebhebi

[蛇を呑む蛇]

 蛙や「さんせううを」の卵を飼つておくと、幼兒は澤山に生まれて出るが、暫く飼つて居るうちに段々數が減じて、始め數百匹いたものが、後には僅か數匹になることがあるが、これも主として共食ひの結果である。或るとき「さんせううを」の幼兒を澤山飼つて置いたまゝ、二週間許り旅行して歸つて見たら、たゞ一疋だけ非常に大きくなつて殘つて居た。かやうな例は他の動物に就いても屢々經驗するところである。「かに」類も多く共食ひをするが、海岸の淺い處に普通に居る「やどかり」なども、一疋がその腹部を介殻から拔き出した所を他のものが見付けると、直に走り寄つてこれを挾み切り食ひ始める。それ故、身體の成長につれて小さな介殻を捨てて大きな介殻に住み換へる必要のあるときにも、極めて用心して傍に他のものが居るときには決して拔けて出ない。

 女の子供が玩ぶ「うみほほづき」は螺の類の卵嚢であるが、その中には始め卵が十個も二十個もある。始はみな同じやうに揃うて發育するが、その中に段々相違が生じて大きな強いものと、小さな弱いものとが出來、小さなものは大きな方に食はれてしまふから、生長して卵嚢から出る頃には數が著しく減ずる。これなどは臨時に起ることでなく、産卵毎に必ず行はれるのであるから、その種族の豫定の仕事で、恰も鷄の雛が卵殼内で黄身を吸つて生長するのと同じく、少數の幼兒に十分の滋養物を與へる方便とも見なすことが出來る。

 共食ひの中で一種異なるのは、自身の一部を自身で食ふことである。「たこ」は腹が減ると自分の足を先の方から一本づつ食ふとは漁夫等の常にいふ所であるが、あまり妙なこと故眞僞の程を疑うて居たが、十年許り前に小さな「たこ」を半年許り飼つて置いたら、終に自分の足を三本食つて五本だけになった。かやうな例は他の種類の動物では餘り聞かぬが、よく調べて見たらなほ幾らもこれと似たことがあるかも知らぬ。

[やぶちゃん注:丘先生の本段落の記載には反論したい。タコは腹が減って足を食うのでは、ない。現在の知見では、それは狭い水槽で飼育するために生じるストレスから生じた自傷行為と考えられている(軟体動物でもイカ・タコの類はナイーヴで、水族館でも飼育しづらい生物である)。さらに彼らはウツボやクジラ類などの外敵に襲われると、自らの足を切って逃走する。所謂、自切である。今一つ、別な観点から言うと、オスのタコは交接腕という特化した触手を持ち、交尾の際にはその先端の吸盤のない溝の部分に精子の入った精莢(せいきょう)を挟み込んで、その腕をメスの生殖孔に突き刺す(この際、メスはかなり暴れるので相当な痛みがあるものと思われる)。その後、交尾を完全なものとするために、オスはその先端部を、やはり自切するのである(因みに、この交接腕の先端断片をタコの解剖中に発見したフランスの博物学者キュビエは、これをタコに寄生する寄生虫の一部と考え、ご丁寧にHectocotylus Octopodis(ヘクトコチルス・オクトポイデス:百疣虫)と学名まで附けてしまった。現在でも生物学では交接腕をヘクトコチルスと呼んでいる)。これらのことから、漁師たちは、捕食されて触腕を噛み切られた個体、自切した個体、奇形によって腕の数が足りない個体(頭足類の腕数の増減奇形は必ずしも稀ではない)、更にヘクトコチルスを切り離したオスの個体を見たことで、彼らが自然界で容易に自分で自分の足を食うと錯覚したものと私は判断する。漁師のタコに纏わる生物学的都市伝説は実は多く、千葉県の一部漁師の間などでは、現在でも、タコは夜になると海岸から有意に離れた陸上に這い上がってきて、畑の芋類などを摂餌すると信じられているという(これは支持する向きもあるが、たまたまそう見えるシチュエーションを以って創り上げられた、かなり古い伝承のようで、生物学的には私は全く信じられない)。以上の話もしばしば授業で(私を知らない読者のために言っておくが、私は生物の教師ではない。国語の教師である。これらは総て私の国語の授業の脱線の内容であった。脱線の方が授業より長い授業の、である)。最後に言っておくと、タコには再生能力があり、自切したケースでは腕は再生可能である、但し、ストレスによって自食した場合は再生しないらしい。実にデリケートである。]

 以上はいづれも眞の共食ひの例であるが、共食ひといふ言葉の意味を少しく緩くすれば、その範圍は極めて廣くなる。もしも生物が生物を食ふことも共食ひと名づけるとすれば、生物の生命は大部分共食ひによつて保たれるといはねばならぬ。無機物から有機成分を造るのは緑色の植物のみであるから、その他の生物はすべて直接または間接にこれを食つて居る。肉食でも、草食でも、寄生でも共食ひでも、皆甲の生物の肉であつた物質が、乙の生物の肉に姿を變へるに過ぎぬから、生きた物質の總量を勘定すれば、別に増減も損得もない。かやうに廣く論ずると、共食ひは生物の常態とも見えるが、同一種類内の共食ひは一定の度を超えると、生き殘つた少數のものが、食はれた多數のものに代るだけの働きをなし得ず、そのため種族に取つては頗る不利益なことになるを免れぬであらう。

[やぶちゃん注:この七章全体を読んでいて、ふと慄っとしてくる方はいないか? 読んでいるうちに――これは実はヒトの文明の隠喩(メタファー)なのではないか、と私などはブルッとくるのである……]

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