耳嚢 巻之四 女の髮を喰ふ狐の事
女の髮を喰ふ狐の事
世上にて女の髮を根元より切る事あり。髮切とて代に怪談の一ツとなす。中にも男を約して父母一類の片付なんといふをいなみて、右怪談にたくして髻(もとどり)などを切も多し。然共實に狐狸のなすもあるとかや。松平京兆(けいてう)の在所にて、右髮を切られし女兩三人ありしが、野狐を其頃捕殺して其腹を斷しに、腸内に女の髻ニツ迄ありしと語り給ふ。一樣には論ずべからざる歟。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。終盤に来ると、どうも百話への数合わせの意識が働くのか、関連性のない記事並びという気がする。
・「髮切」本人が気づかぬうちに主に女性の髪を切り落とすとされた妖怪。江戸市中での噂として時期をおいて繰り返し発生しており、所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の古形の一つとして興味深い。以下、ウィキの「髪切」によれば、菊岡沾凉の「諸国里人談」(寛保三(一七四三)年)には、『元禄時代初期には伊勢国松坂(現・三重県松阪市)で、夜中に道を歩いている人が男女かまわず髪を元結い際から切られる怪異が多発し、本人はまったく気づかず、切られた髪は結ったまま道に落ちていたと』あり、『同様の怪異は江戸でもあり、紺屋町(現・東京都千代田区)、下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)でも発生し、商店や屋敷の召使いの女性が被害に遭ったという』。近代に入ってからは明治七(一八七四)年に東京都本郷三丁目の鈴木家でやはり、ぎんという召使いの女性が被害に遭い、新聞記事でも報じられている。頃は三月一〇日、二一時過ぎで、『ぎんが屋敷の便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは驚きのあまり近所の家へ駆け込み、そのまま気絶してしまった。その家の家人がぎんを介抱して事情を聞き、便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。あの便所には髪切りが現れたといわれ、誰も入ろうとしなくなったという』とあるが、これが妖怪髪切の最後の光芒で、これ以降、所謂、『ザンギリ頭が珍しくなくなるにつれ、次第に人々の心から髪切りに対する恐れは消えていったといわれる』とあり、これは文字通り、茨城県古河の蒸気機関車に化けた狸が本物の汽車に轢かれて死ぬという説話同様、文明開化・自然科学による妖怪の抹殺という象徴的事実であると言ってよいだろう。以下、「髪切りの正体」という項では、『大きく分けてキツネの仕業という説と、「髪切り虫」という虫の仕業という説があ』るとし、室町時代の公卿万里小路(までのこうじ)時房の日記「建内記」(応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年)では狐の仕業とされ、幕末の国学者朝川鼎による随筆「善庵随筆」では、『道士が妖狐を操って髪を切らせるものと』ある。また江戸後期の「嬉遊笑覧」では、『「髪切り虫」という虫の仕業とされており、実在の昆虫であるカミキリムシが大きな顎で木などを噛むため、転じて毛髪を噛み切る魔力を持つ妖虫とされた』
と記し、これには『実在のカミキリムシではなく想像上の虫との説』及び『剃刀の牙とはさみの手を持つ虫が屋根瓦の下に潜んでいるともいわれた』と記す(屋根瓦という部分は後述の鈴木氏の注に附した私の記載を参照)。以下、本現象を推理する面白い解説が続く。『文化年間には修験者たちが髪切りを避ける魔除けの札を売り歩いていたため、修験者たちの自作自演も疑われ、一部には実際に自作自演もあったらしい』。『さらに、現代でも女性の髪や服を刃物で切る変質者がいることから、伝承上の髪切りも妖怪ではなく、人間の変質者だったとする説もあ』って、『江戸時代の文化・風俗研究家の三田村鳶魚は著書の中で、実際に髪切り犯が捕らえられた事例』もあったと記し、他にも『何者かに髪を切られるのではなく、自然に髪が抜け落ちる病気との説もあった』とある。他にもカマイタチも考えられようし、最後の部分は、精神的なストレスからの円形脱毛症及びヒゼンダニやアタマジラミの寄生などを考えると、一つの解釈としてはあり得ようが、それならば、江戸の好事家の中に、複数の、それら(カマイタチで人体と一緒に髪が切られるケース及びダニ・シラミの特徴的病態を併記する髪切の記述)を臭わせる記載が頻出しなくてはならず、寧ろ私は、前に記載されているマッチ・ポンプ式の詐欺やフェティシスト(日本人の髪に対するフェティシズムは恐らく世界的に見ても潜在的に高いものと思われる。何を隠そう、私にもその傾向がある)などの異常性欲者及び本文にあるような目的を持った自作自演というのが案外、多くの真相であったのではなかろうかと考える。底本の鈴木氏の注では山岡元隣の俳文の濫觴と評される「宝倉」(寛文一一(一六七一)年)に『寛文十四年の頃かに、髪切虫という妖蘗』(「ようはく」と読み、「禍い」の意)『の風評がしきりで、何処の誰それが切られたというはっきりした事実はないのだが、女たちあ上下とも恐れあった。そのうち「異国より悪魔の風の吹きくるにそこ吹き戻せ伊勢の神風」という歌を門口に貼ったり、簪に巻付けたりしたが、うわさは消えず、またどこからともなく髪切虫は剃刀の牙、はさみの手足、煎かはらの下に隠れているといいふらされ、あちこちで家の前にそれらの物を投げ出し、通行人もびっくりするような事態が起こったと』記されているとある(この『煎かはら』とは火にかけてものを煎るのに用いた土鍋、焙烙(ほうろく)のことである。この記載から、私は先のウィキにある『屋根瓦』という伝承は、元は、この『煎瓦(いりがわら)』の誤りであったのではないかと推測するものである。そもそも女性をターゲットとする髪切が潜む場所は、女性がその禍いに遭いそうな場所や道具でなくてはおかしい。そうした観点に立てば、屋根瓦よりも煎瓦の方が遙かにしっくりくるではないか)。以下、鈴木氏は、上の「宝倉」の寛文十四(一六七四)年に始まる江戸期の髪切出現を、風聞の発生を記した諸書名を挙げながら、延宝五(一六七七)年の夏(於筑前福岡)、先に挙がった「諸国里人談」の元禄初期(元年は西暦一六八八年)、明和四(一七六七)年、文化七(一八一〇)年にそれぞれあったことを記しておられる。これに本話の記載(執筆推定の寛政九(一七九七)年)と、その最後と思しい東京に出現した明治七(一八七四)年を加えてみると、最古の記載に属すると考えられる「建内記」からは、
●応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年
《スパン凡そ二五〇年前後》
●寛文十四(一六七四)年
《スパン三年》(この場合、周期というより江戸から福岡への、当時の流言飛語の伝播時間を示す興味深い事実と私は考える)
●延宝五(一六七七)年夏(於筑前福岡)
《スパン凡そ一〇年》
●元禄初期(元年。一六八八年)
《スパン凡そ七〇年前後》
●明和四(一七六七)年
《スパン三〇年》
●寛政九(一七九七)年
《スパン一三年》
●文化七(一八一〇)年
《スパン八四年》(ここを埋め得るデータは恐らく数多あると思われる)
●明治七(一八七四)年
となる。髪切は凡そ四五〇年以上もその種を秘かに保存してきたのであり、これは妖狐の類いと考えたのは、実に相応しい。また、これは都市伝説の特徴である周期的発生を裏付けるところの極めて興味深いデータでもあるのである。最後にウィキにあるパブリック・ドメインの佐脇嵩之(晩年の英一蝶に師事した江戸中期の江戸出身の画家)の「百怪図巻」の「かみきり」の図を示して終わりとする。
・「松平京兆」既出。松平右京亮輝和(まつだいらうきょうのすけてるやす 寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行、大坂城代。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている(京兆(けいちょう)は左京職(しき)・右京職の唐名)。根岸御用達の情報屋的存在である。
・「腸内」底本には右に『(尊本「腹内」)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
女の髪を喰う狐の事
世上にて――女の髪を、根本からすっぱり断ち切る――という珍事件の噂が、これ、後を絶ち申さぬ。
「髪切り」と称して、世間に怪談の一種としても流布しておることは、これ、周知のことで御座ろう。
ただ、按ずるに、そうした被害に逢った称する手合いの中には――父母や一族の者が無理矢理に嫁に行かせんとするを拒み、こうした怪談に託して、自ら髻(もとどり)を、根からばっさり切った――という娘の話なんどの類いも、これ、実は多いので御座る。
然れども、実際に狐狸の成す場合も、これ、あると申す。
旧知の松平右京亮輝和殿におかせられては、
「……拙者の在所、上野国高崎にて、この髪切に逢(お)うて髪を切られた女が、これ、都合三人も御座った……が……その当時のこと、ある者、野狐を捕殺致いて、その腹を割いてみた……ところが……その腸(はらわた)の内には、これ、塊となった女の髻が……それも二つも……これ、御座ったのよ!……」
とお話になられたことが御座った。
かくなればこそ、一概に、ただの狂言なんどと論断してよいものでも、これ、御座らぬものか。