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2012/08/30

耳嚢 巻之五 地藏の利益の事

 地藏の利益の事

 

 田付(たつけ)筑後守とて近き頃迄御持頭など勤し人の親は、田付安房守といひしが、彼安房守奧方浮腫の病ひにて、諸醫手を盡しぬれど快からず。或夜奧方の夢に地藏菩薩忽然と顯れて、汝が病ひには蟇(ひき)の革をさり黑燒にして用ひば妙なるべしと示現(じげん)すと見て覺ぬ。不思議に思ひて安房守にも語りければ、奧久しき病ひなれば用ひ見べきやと、長崎奉行勤ける家なれば醫書抔にも富ける故を尋るに、浮腫の病ひに蟇の黑燒きを用る事ありければ、則黑燒にして用ひけるに、宿病たちまち癒ける故、地藏の利益(りやく)を歡びて、あたり近き地藏へ參詣をなしけるに、爰に不思議なるは、其道におゐて何かかたまりたる物を足に障る儘に取上てみれば、土に汚れてわかり兼しが古き板彫(はんぼり)に有ける故、拾ひ歸りて洗ひ淸めければ地藏尊の板行(はんかう)也。彌々信心をおこして右板行を以(もつて)帋(かみ)におし、田付家は不及申(まうすにおよばず)、知る邊へは施し與へしに、利益大かたならざれば、俗家に置んも如何(いかが)とて、本所中の郷遽の寺へ納しに、田付地藏とて參詣の者も多かりしと人の咄ける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。ヒキガエルで六つ前の「怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」と、医事関連で五つ前の「水戸の醫師異人に逢ふ事」及び三つ前の「痔疾のたで藥妙法の事」と繋がる。

・「田付筑後守」田付景林(たつけかげたか 宝永六(一七〇九)年~安永七(一七七八)年)。宝暦五(一七五五)年、父の死に伴い田付家を継ぎ、同六年御小性組頭より禁裏附に転じて従五位下筑後守となる。明和六(一七六九)年御持弓頭、安永五(一七七六)年御鎗奉行(底本の鈴木氏注に拠る)。

・「田付安房守」田付景厖(たつけかげあつ 天和三(一六八三)年~宝暦五(一七五五)年)。但し、阿波守の誤り(訳は訂した)。享保一七(一七三二)年に御書院番組頭、元文四(一七三九)年には佐渡奉行となり、従五位下阿波守(佐渡奉行は寛保二(一七四二)年三月迄)。次いで本文にあるように長崎奉行に転任(長崎奉行は延享三(一七四六)年迄)、寛延元(一七四八)年西城御留守居。妻は長谷川長貴の娘(主に底本の鈴木氏注に拠る)。本話柄は「長崎奉行勤ける家なれば」とあるから、長崎奉行を終える延享三(一七四六)年前後以降の出来事と考えられる(彼以前に彼の先祖が長崎奉行であったとは思われず、それ以前の長崎奉行に田付姓はない)。なお、田付流の祖である田付兵庫助源景澄(かげすみ)長男景治は鉄砲方として江戸幕府に仕え、景治以降は代々「田付四郎兵衛」を名乗った。その次男正景は大垣藩に砲術を伝授している。

・「浮腫」むくみ。一過性のものもあるが、心臓・腎臓・肝臓・甲状腺異常・循環障害・悪性腫瘍などの重篤な病気の症状の一つとしてもしばしば現れる。

・「示現」神仏が霊験を示し現す、顕現すること以外に、その霊験や神仏のお告げ自体をも指す。

・「奧久しき」底本では、右に『(尊經閣本「かく久しき」)』と傍注。

・「醫書抔にも富ける故を尋るに」脱文を感じさせる違和感がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『医書抔にも富ける故、是を尋るに』である。これが正しい。

・「腫の病ひに蟇の黑燒きを用る事あり」ネット上の漢方記載に「蝦蟇」(がま)を解毒・腫れ物・腹部腫瘤・浮腫などに用いるとある(抗癌作用も期待されている)。但し中医での「ガマ」は無尾(カエル)目アカガエル科ヌマガエル亜科ヌマガエル Fejervarya limnocharis であって、耳腺に有毒成分を持つ無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicas などのヒキガエルとは異なるので要注意。

・「板行」版木。恐らくは一体一版の地蔵菩薩印仏の版木であろう。御札として大量生産するための木版原版である。

・「本所中の郷」武蔵国の古くからの村名。後に隣接する小梅とともに北本所とも総称された。東京府南葛飾郡中ノ郷村、東京市本所区を経て、現在は東京都墨田区の吾妻橋・東駒形・業平一帯(ウィキの「中ノ郷信用組合」の備考記載に拠った)。

・「田付地藏」現存しない。但し、この話は、一読、巣鴨の高岩寺にある、知られた「とげぬき地蔵尊」縁起との酷似を感じさせる。ウィキの「高岩寺」によれば、『江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた』紙一万枚(これが本話の最後に出る版木とその流行と完全に一致する)『を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する』とある。「田付の妻が病」「夢枕」「地蔵」「地蔵の版木」の一致は最早、明白である。また、この現在も配布されている「御影」の版木を献納した田付又四郎とは、正に田付家の分家子孫とされるのである。但し、この高岩寺は慶長元(一五九六)年、江戸神田湯島に創建後、上野下谷屏風坂に移り、明治二四(一八九一)年の巣鴨移転であって、「本所中の郷」にあったことは一度もない。また、この縁起は享保一三(一七二八)年の小石川に住む田付又四郎自筆とされ、そこでは、妻の一件は正徳三(一七一三)年で原因は怨霊とあり、今一つの毛利家の一件の方は正徳五(一七一五)年と記すのである。先に示した本話の年代推定である田付景厖が長崎奉行を終える延享三(一七四六)年前後以降とは、これでは大きく食い違う。嫡流と考えられる田付景厖と、この分家田付又四郎は、親族ではあったが、別人であると考えてよく、これは恐らく「とげぬき地蔵尊縁起」が伝聞される中で、より知られた田付家の嫡流(と思われる)景厖を主人公に代え、場所も別に設定した変形都市伝説ではなかろうか? 実はこの田付地蔵なるもの元々存在しないのではないか、というのが私の見解である。そもそも事実譚ならば、参詣ひっきりなしのはずなのだから、納めた寺の名を伏せる必要が、全くない、根岸も知っていて当然だからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 地蔵の利益の事

 

 田付筑前守景林(たつけちくぜんのかみかげたか)殿と申される、最近まで御持弓頭などを勤められた御方の――その父君は田付阿波守景厖(かげあつ)殿であられた。

 その景厖殿の奥方は永らく浮腫の病いを患って御座って、何人もの医師が手を尽くしたけれども、一向によくならなんだという。

 そんなある夜、奥方の夢に地蔵菩薩が忽然と現われ、

「――汝の病は――蟇(ひき)の皮を取り去って、身を黒焼きに致いたものを用いるならば――これ、ぴたりと――治る――」

と示現(じげん)致いたと見るや、ふと、目が覚めた。

 奥方は不思議に思って、夫景厖殿にもこれを話したところ、

「……もう、えらく永い病い故のぅ……これ、一つ、試してみる……というのも、あり、かのぅ……」

と、景厖殿、以前に長崎奉行を勤めらておられた経歴もお持ちなれば、御屋敷の書庫には蘭書・中医を始めとした和漢の医書なども充実しておられた故、このことにつき、調べて御覧になられたところが、確かに――浮腫の病いに蟇の黒焼きを用いること、これあり――と御座った。

 そこで早速に皮を剥いた蟇蛙を黒焼きに致いて服用させてみたところが――あれほど苦しんで御座った、宿痾と思うた、あの浮腫が――さっと引いたかと思うと――忽ちのうちに癒えた。――

 されば、御夫婦は、この地蔵の利益(りやく)に心より喜悦なされ、お住まい近くの地蔵堂へと参詣なされた。

……と……

……ここに不思議なるは……その帰り道、奥方のおみ足先に……何やらん、固い物が触れた。……

……取り上げてみれば……これ、土に汚れて何ものやら、よう分からぬながらも……どうも、これ、ひどく古い、版木のように思われた。……

……景厖殿も気になって、そのまま持ち帰り、洗(あろ)うてみた、ところが……これ、何と! まさに地蔵尊を彫った版木で、御座った。……

……そこで、いよいよ堅固なる信心をお起し遊ばされて――この地蔵尊御影(みかげ)版木を以て、紙に押し、何枚も何枚も押し摺らせて――田付家は言うに及ばず――知れる人々へも多く施しお与えになられたところが――いや! その地蔵の御利益(りやく)たるや、尋常のものならず!――多くの病者が瞬く間に平癒致いて御座ったという。……

 景厖殿は、しかし、

「……いや、かくも霊験あらたかなる御影を、我ら如き俗家に置きおくというは……これ、如何なものか……。」

との御叡慮によって、その御影版木は、何でも本所中之郷辺りのさる寺へ、これ、納められたとか申す。

 今に田付地蔵とて、参詣致す者も、これ、多う御座る。……

 

 以上は、私の知れる人の話で御座る。

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