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2012/08/03

耳嚢 巻之四 坂和田喜六歌道の事

僕は戦国史以降は苦手。ここに登場する面々もよう分からん人々ばかりで、注を付け始めたら、あれもこれも分からんものが芋蔓式に出てきて――結局、今朝の6時から初めて、今までかかってしまった。――途中、夏バテのアリスを病院に連れて行き、親父の夕飯を買いに行き、アリスの散歩に行き、僕自身が熱中症になりかけた(実は信じ難いかも知れないが、いまこれを打っているパソコンのある僕の書斎には、エアコンがないのである。扇風機しかないのである)。おまけに、対象が僕の苦手とする和歌であったから、とんでもない苦行となった。それが最後に牽強付会の鬱憤となって注に現れている。お暇な折りに、僕の憂鬱を完成して頂くためにも、お読み頂けると嬉しい限りである。



 坂和田喜六歌道の事

 

 坂和田喜六は永井家の士にて、文武に長じ倭歌(わか)は東(とう)下野守に從ひけるが、彼の者よみ詠歌(えいか)に、

  よし野山花咲く比(ころ)の朝な朝な心にかゝる峯のしらくも

と詠じけるよし。右は永井淀(よど)の城主の時、喜六使者として、禁裏へ參りける時、喜六は和歌の達人の由聞へしとて、上達部(かんだちめ)の興じて好(このみ)給ひける時、右の歌を奉りし由。其後或日公卿嵐山へわけ入りしに、山奧に柴の庵を結び住(すめ)る者ありしを問ひ尋しに、庵主の僧色々禁中の式(しき)和歌の面白き事など語りしに、其博識風雅かたのごとく面白きゆへ、春の事なれ風圖(ふと)彼公卿、喜六が芳野山の歌を吟じて、扨々面白き歌也、堂上(たうしやう)にてもかく詠ずる人はあらじと殊外稱美(しようび)せしを、彼庵主聞て、さ程感じ給ふ事にもあらじ、此歌は東下野守が歌に、

  朝な朝な雲たちそふる小倉山(おぐらやま)峯ふく風は花の香ぞする

といへる古歌によりて詠(よめ)るらんといひしが、立分れ歸りて彼公卿親友にかくと語りければ、夫は外の者にはあるまじ、喜六が世を遁れ住(すみ)しならんと、あけの日友だち打連(うちつれ)て又彼山に分いりしに、庵室は崩し捨て、ぬしはいづち行けん跡なしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:旧詠の発句から旧詠の和歌へ。

・「坂和田喜六」佐川田昌俊(さがわだまさとし 天正七(一五七九)年~寛永二〇(一六四三)年)は山城淀藩家老。永井家家臣にして歌人・茶人。但し、姓は「坂和田」「佐河田」「酒和田」等と記録によって異なるが、以下に示す「近世畸人伝」の記載は同先祖が姓を元の「高階」から「高」そして「佐川田」へと変えた経緯が示されており「佐川田」が標注するには最も信頼が置ける(但し、現代語訳ではママとした)。号も喜六以外に「桃山」「壷斎」「黙々翁」「臥輪」「不二山人」など多数。下野生。幼時、上杉景勝(弘治元(一五五六)年~元和九(一六二三)年)に仕え、この時、上杉家家臣木戸玄斎の養子となっている。その後、上杉家を離れ、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは大津城の戦いに参加するも、浪人となった。しかしその後、その戦さでの奮戦振りが徳川家家臣永井直勝(ながいなおかつ 永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)の目にとまり、その家臣となったとされる。後の大坂の陣(慶長一九(一六一四)年~慶長二〇(一六一五)年)では永井軍大将として参加、緻密な判断力で戦功を成した(詳細は以下の「近世畸人伝」を参照)。元和二(一六一六)年に直勝と共に江戸に移った。直勝の死後は、彼の長男で山城国淀藩初代藩主となった永井尚政(天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)に仕え、尚政の信頼いや厚く、彼もよく藩政を主導した。寛永一五(一六三八)年に子の俊輔に家督を譲って隠居した。『智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、歌道にも優れた。集外三十六歌仙の一人で、その秀歌撰にも撰ばれた』。著書に「松花堂上人行状記」(後述)等。『藩政においても、藩士が財政的に困窮して苦しんでいたとき、尚政に無断で藩の金蔵を開いて救済を行なって助けた、などの逸話が存在する。昌俊の子孫は永井家の重代家老として存続した』とあり、隠棲後逝去までは五年あるものの、彼のこの如何にも複式夢幻能的な逸話自体は、多分に創作された可能性を排除出来ないように思われる(引用はウィキの「佐川田昌俊」に拠るが、このウィキの記載には全体が出典未記載・独自研究の危険性が指摘されていることを注記しておく)。養父玄斎が和歌を嗜んだため、その影響で歌道を学び、飛鳥井雅庸(あすかいまさつね 永禄一二(一五六九)年~元和元(一六一六)年):公家・歌人。権大納言。古今伝授・入木道〔じゅぼくどう:書道のこと。〕伝授を受け、後水尾上皇・徳川秀忠・細川忠興・島津家久に蹴鞠を指導するなど諸芸に秀でた。)や近衛信尋(このえのぶひろ 慶長四(一五九九)年~慶安二(一六四九)年):公家・藤氏長者〔とうしちょうじゃ:藤原一族の氏長者。〕。従一位関白。諸芸道に精通し、特に書道は養父信尹(のぶただ)の三藐院(さんみゃくいん)流を継承、卓抜した能書家として知られた。茶道・連歌も巧みで、実兄後水尾天皇を中心とする良恕法親王ら宮廷サロンの中心的人物であった。)の教えを受けた。ここに示された「吉野山」の一首は、後陽成天皇が賞美、人口に膾炙した(以上の部分は底本の鈴木氏注に拠る)。

 なお、以下に伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)「続近世畸人伝」に載る佐川田喜六の記載を引用しておく(私は「続」の方を所持していないので「日文研データベース」の「近世畸人伝(正・続)」の当該記事を私のポリシーから正字化して示し、割注と思われる斜体部分は〔 〕に入れて示した。また、訓読が( )で続くので、その前の漢文白文に附したと思われる送り仮名は排除、読み易くするために改行で独立させた。< >の記号は何を示すか不詳だが伴蒿蹊の追記のようである)。

   *

佐川田昌俊、喜六と稱す。姓は高階。世系、高市王子六世峯緒より出。承和の比高階を省略して高と稱ふ。先人某、下野足利の莊、早河田村に食し、つひに文字を佐川田にかへて氏とす。貞治四年、義詮將軍、高掃部助師義をして信濃の賊をうたしむる時、援兵となり、足利基氏、鎌倉に居て東國の鎭たる時、手書を賜ふて累世鎌倉に仕ふ。その後、六七世を經て喜六にいたる。喜六幼くして越前長尾家の將、木戸玄齋が養子となる。いまだ弱冠ならざる頃より、三郡の訟をきゝて判ずるに、議辧よく當れば人賢者なりとあふぐ。玄齋和歌を好む故したがひて學べり。後玄齋むなしくなりて其家絶たる後、洛に赴き、慶長五年庚子大津の驛の戰に、ある人の手に屬し先登し、鎗を壁上にあはせ左の股を傷られてなほ周旋す。永井右近大夫直勝朝臣、喜六が勇名をきゝて、招てしばしば眷遇し給ふ。慶長十九年、難波の役、侯の營に九鬼某の兵すすむ時、其間いかばかりかある、又沼川の淺深いかならん、と仰ければ、喜六すゝみ出て、おのれ往て、ものみつかふまつらんといふ。侯とゞめ給へどもきかず、蘆原、沼川をわたりて九鬼の兵と言を交へ、其淺深などくはしくはかりてかへり、敵兵必いたることをえじ、とまうすに、果して明日引退く。水陸の算、喜六がことばのごとくなるを人皆奇とす。すべて弓矢の道にくはしく、孫呉の書を明らめ、經濟のことをもよくしれり。右近大夫嗣、信濃守尚政朝臣、ますます喜六に禮を厚くしたまふ故に、諸士もまた重ず。寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる。一時在府の日、封地不熟にして諸士飢寒す。その比喜六執事たれば、皆、軍用の金をからんと乞ふに、喜六思惟して、是は君にまうし同僚にかたらひては成べからず。吾一人の意にてはからはんと。倉をひらき銀子千貫目を出し、返濟のことを示して分配す。後侯是を聞し召て大怒、私のはからひを責む。喜六申す、軍用金もと何の爲ぞ、諸士乏しく公の恩を思はざる時は有ても益なし、今十年を經ば、各返納して倉廩もとのごとくならん、されども此擧臣一人の所爲なれば、もし義にあたらずと思さば、死を賜はんもまた辭せざる所也と。其理當れるをもて侯も言なくやみ給ふ。同十五年、疾に嬰て致仕し、家は息俊甫に委ね、薪村酬恩庵、〔一休禪師の遺跡〕の境内に默々庵をむすびて幽居す。禪に參じ、山水を翫び、意を方外に遊ばしむ。壷齋また不二山人ともいふ。茶伎は小堀宗甫翁を友とし、連歌は昌琢法眼に從ひ、書は松花堂に學ぶ。漢學はもとより羅山子にきけりし。和歌をも好みて近衞藤公に參り、中院通勝卿、木下長嘯子にも鷗社をなす。ある時、淀川の鯉を近衞殿に奉りて、

ついであらばまうさせ給へ二つもじ牛の角もじ奉るなり〔閑田云、鯉の字、古假名はこひなれども、後世はこいとかけり。〕

御かへし、

魚の名のそれにはあらでこのごろにちと二つもじ牛の角もじ〔來いとの給ふなり。〕

又所持の博山の香爐を羅山子に贈る時、子答て、

遠寄一爐示相戀。心如螺甲沈水鍊。

(遠ク一爐ヲ寄セテ相戀ヲ示ス、心ハ螺甲沈水ノ鍊ノ如シ。)

とよろこべり。此たぐひ風流の交の書牘世に殘れるもの多し。擧にいとまあらず。昌俊若きときよめるうたに、

よしの山花まつころの朝な朝な心にかゝるみねのしら曇

これを飛鳥井雅康卿の傳奏にて後陽成院の叡覽に人ければ、ふかくめでさせおはしましけるが、後寛文の皇后、集外歌仙を撰ばせ給ふ中にいりて、忝く宸翰を染給ふとなん。連歌においてことに長じけることは、ある人、昌琢に向ひて、當時連歌に冠たる人は誰ぞととふ。昌琢、西におのれあり、東に昌俊ありと是は永井侯いまだ下野に在城の日也。答られしにてしらる。寛永二十年癸未八月三日病て終る。享年六十五なり。墓は酬恩庵境内にあり。 <後に正せれば、是什麽と小石に誌し、其後に、大石に道春の碑銘を彫るとぞ。> 蒿蹊云、墓碣に、何でもないことこと、とのみ記すとぞ。予先年此寺にりしかども、故障ありて此墓および其茶室を見殘せり。今は人の話をもて録す。

   *

●「喜六と稱す」引用元では「稱ず」。分かり易く濁点を取った。

●「高市王子」高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の長男。

●「承和」西暦八三四~八四八年。

●「食し」そこを領地として生計を立て。

●「貞治四年」西暦一三六五年。

●「高掃部助師義」不詳。高師直に組した佐竹師義は掃部助であるが、時代が合わない。高姓ではないけれども義詮の家臣に山名師義がいるが、彼か。

●「足利基氏」引用元では「足利某氏」。誤植と判断し、訂した。

●「眷遇」「眷」はいつくしむの意で、目をかけてもてなすこと。

●「寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる」「淀」は本文にも出るが、現在の京都府京都市伏見区淀本町に存在した淀藩。永井尚政は寛永一〇(一六三三)年三月にその藩主に就任している。

●「銀子千貫目」江戸時代の銀貨の平均価値から換算するサイトの自動計算によると、なんと約十一億円に相当する。これは普通なら「大怒」どころでは済むまい。

●「倉廩」は「さうりん(そうりん)」と読み、米穀類を蓄えておく倉。

●「嬰て」は「かかりて」(罹りて)と読む。

●「俊甫」は俊輔。

●「薪村酬恩庵」は現在の京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院、霊瑞山酬恩庵のこと。別名一休寺・薪(たきぎ)の一休寺とも称される。康正二(一四五六)年に一休宗純が草庵を結んで中興、宗祖の遺風を慕って師恩に酬いるという意味で酬恩庵と号した。一休はここで、文明一三(一四八一)年十一月に八十八歳で「死にとうない」と呟いて示寂した(ウィキの「酬恩庵」に拠る)。

●「小堀宗甫」は小堀遠州(本名は小堀政一。「遠州」は彼の官位五位下遠江守に由来)の道号。正式な道号は大有宗甫。

●「昌琢」とは里村昌琢(さとむらしょうたく 天正二(一五七四)年~寛永一三(一六三六)年)連歌師・法眼。第二代将軍徳川秀忠の御朱印、後水尾天皇からの古今伝授を受け、寛永五(一六二四)年御城連歌に勤仕して宗匠となった当時の連歌界のスーパー・スターで、名俳諧師である松江重頼や西山宗因らもその門下であった。

●「松花堂」松花堂昭乗(天正一〇(一五八二)年~寛永一六(一六三九)年)のこと。真言僧。俗名は中沼式部。堺生(豊臣秀次の子息との俗説あり)。書道・絵画・茶道に堪能で、特に能書家として高名で、独自の松花堂流(滝本流とも言う)という書風を編み出し、近衛信尹・本阿弥光悦とともに『寛永の三筆』と称せられた。先に示した佐川田昌俊の師近衛信尋は、彼を始めとする文化人と後水尾天皇のサロンの橋渡し役をも務めていた。昌俊は寛永十六(一六三九)年には彼の一代記であると同時に寛永史を活写する「松花堂上人行状記」をものしている。なお、現在の松花堂弁当という名は、彼に間接に由来するとする説があるという(以上は主にウィキの「松花堂昭乗」に拠った)。

●「羅山子」林羅山。

●「近衞藤公」近衛信尋のこと。

●「中院通勝」(なかのいんみちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)は公家・歌人。正三位権中納言。和歌は細川幽斎に師事。

●「木下長嘯子」は大名木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)のこと。足守第二代藩主・歌人。従四位下。式部大夫・若狭守または若狭少将。歌人としては長嘯又は長嘯子と名乗った。一時期はキリシタンでもあって、洗礼名は「ペテロ」と伝わる。彼の作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えている(ウィキの「木下勝俊」に拠る)。

●「鷗社」は、通常は鷗が群がるように人が集まることを言うが、ここは多くの師の下に参じたことを言うようである。

●「閑田」筆者伴蒿蹊の別号。

●「博山の香爐」博山炉(はくさんろ)。世界の中心に聳える崑崙山を模した香炉。中で香を焚くと、蓋の山並の間に設けられた透かし孔から、棚引く雲のように煙が漏れ出る、恐らくは唐渡りのものであろう(奈良国立博物館「収蔵品データベース」の「博山炉」。本記載の参考にもした)。

●「螺甲沈水」「らかうぢんすい(らこうじんすい)」と読み、香料の甲香(かいこう)と沈香木(じんこうぼく)。甲香はナガニシ Fusinus perplexus の蓋を擂り潰したもの、沈香木は東南アジアに植生するバラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンコウ属Aquilaria agallocha などが、風雨や病害虫によって木部を侵された際、その内部に樹脂を分泌するが、当該部分を切り出して乾燥させた上、木部を削り取ったものを言う。

●「飛鳥井雅康」は飛鳥井雅庸の誤り。同名の人物が飛鳥井雅庸の先祖にいるが、室町から戦国期の歌人で時代が合わない。

●「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年)は安土桃山時代から江戸初期の第一〇七代天皇(在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。慶長一六年三月二十七日、三男政仁親王(後水尾天皇)に譲位、仙洞御所へ退いた。後水尾天皇とは終生不和であり続けたとされる。なお、彼の在位期間は豊臣政権と江戸幕府初期に跨いでいて、天皇制の実態が大きく変化した時期に相当する(以上はウィキの「後陽成天皇」に拠った)。

●「寛文の皇后」は後に「集外歌仙」を撰したとあるから、後水尾天皇(慶長元(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)のことを指す。

●「是什麽」は、以下の蒿蹊の附言から恐らく「これいんも」と読むものと思われる。一般には「作麽生」「什麽生」と書くと、知られた「そもさん」である(唐末以降の中国語口語で、本邦では禅宗で問答の際に疑問の発語の辞として用いられる語)が、この「什麽」はやはり禅宗で用いられた指示語で、「このよう」「かくの如し」の意であろう。

●「墓碣」は「ぼけつ」と読む。墓の碑(いしぶみ)。

 

・「東下野守」東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年?)室町中期から戦国初期の武将にして歌人で美濃篠脇城主。室町幕府奉公衆。従五位下左近将監、下野守。以下、参照したウィキの「東常縁」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『官職が下野守だったため一般には東野州と称される。東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、女系ながら藤原定家の血を引く』。『室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが、宝徳二年(一四五〇年)、正式に二条派の尭孝の門弟となる。康正元年(一四五五年)、関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため、八代将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った』。『更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという。文明三年(一四七一年)、宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている』。『常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい』。家集「常縁集」、歌論書「東野州聞書」がある、とする。生没年から見てもお分かりの如く、昌俊とは全く時代が合わないので、本文が師とするのは誤りである。

・「よみ詠」底本では右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『彼詠(かのえい)之歌』とする。本話は何故かバークレー校版との細部の表記に於ける異同が甚だしい。気になる。

・「よし野山花咲く比の朝な朝な心にかゝる峯のしらくも」歌人佐川田喜六昌俊の代表作とされるもの。渡辺憲司氏の「近世大名文芸圈研究」(八木書店一九九七年刊)の「武家歌人佐川田昌俊の出発」によれば、この歌の初出は、佐川田昌俊が三十三、四歳の頃の歌集である「高階尚俊歌集」(この頃は「尚俊」と名乗っていたか。これは彼が本格的に飛鳥井雅庸について和歌を学ぶ以前の十代の頃からの歌群を集めたものである)に載る。前書があり、

    遊行上人よりすゝめ給ひし五十首の哥の中に

 よし野やま花咲くころの朝な朝なこゝろにかゝる嶺のしら雲

とある。後に知られるものでは前書を「待花」とする。「かかる」は「心に懸かる」と「雲が掛かる」の掛詞で、意味は難しいものではないが、渡辺氏は前掲書で昌俊の事蹟を精査され、先行する類型歌(但し、それらは遙かに古い鎌倉時代の藤原知家や寂然法師らの歌であって本文に示される東常縁の当該歌は挙がっていない。以下の常縁の和歌の注を参照)などを考証された上、その波乱万丈の乱世を生きた、この歌の中の昌俊は『単純に「吉野山花咲く頃」を待っているのではないような気がする。一六〇〇(慶長初年)年代に青春をおくった青年武士がかかえた屈折した風雅への思慕を、わたくしはこの歌に見るような気がしてならない』と結んでおられる。

・「上達部」摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議及び三位以上の人の総称(参議は四位であるがこれに準ぜられた)。公卿に同じ。

・「春の事なれ風圖(ふと)」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『春の事なれば』とする。ルビは底本のもの。

・「朝な朝な雲たちそふる小倉山峯ふく風は花の香ぞする」岩波版の長谷川氏注には、「東常縁集」に載るが、

 朝な朝な雲たちそひて小倉山峯ふく風は花の香ぞする

となっている、とする。底本の鈴木氏の注には、江戸後期の医師で歌人・国学者でもあった清水浜臣(しみずはまおみ 安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)が本歌を、西行の『山家集の「何となく春になりぬときく日より心にかゝるみよしのゝ山」、寂然家集の「よしの山花さきぬればあぢきなく心にかゝる峯の白雲」その他、為家の歌などを寄せ集めて一首にしたものだと批判している』と、記しておられる。私は残念ながら、和歌を好まないから、和歌の良し悪しはよく分からぬ。故に、この歌も佐川田の歌も名歌とは感じられずに、そろそろ注作業を終わらせたいという退屈を感じていたが、どうも――そうもこいつの批評は気に障る。この歌、うまいと思わぬが、悪いとも思わない。「パッチワークだから悪い」とは私は思わぬのである。――昨今、世間で、短歌や俳句、映画やドラマを、何かというとどれそれの剽窃だパクリだ、この句は、このシーンはこれがネタ元だ、これとこれとこれのこの部分の継ぎ接ぎの盗作だ、なんどと鬼の首を取ったように自慢げに批判している、哀れな自称「評論家」や「オタク」どもを見ていると、彼ら、批評をしているつもりの、人よりものを知っているというつもりでいる、真の創造性を持たない批判力ゼロ人間の、その哀れさに、激しく絶望するのを常としているのだが――この清水浜臣という輩も――どうも、そんな先駆者の一人であるのかも、知れない……。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 坂和田喜六の和歌の事

 

 坂和田喜六昌俊殿は永井家の家士にして、文武に長じ、和歌は東下野守常縁(とうのしもつけのかみつねより)殿に師事して御座ったというが、彼の歌に、

  よしの山花咲ころの朝な朝な心にかゝる峯のしらくも

と詠んだもののある由。

 これは永井尚政殿が淀藩の城主となられた当時、この喜六殿を使者として禁裏へ参内させなさった折り、『喜六は和歌の達人でおじゃるそうな』と専らの評判で御座った故、上達部(かんだちめ)らが興じて和歌を詠めと頻りにせがまれた末、詠み奉ったのが、この歌であるとのことで御座る。

   *

 その後のことで御座る。

 さる公卿が、遊山の砌り、嵐山に分け入ったところ、山奥に柴の庵を結んで住まって御座る者を見出だし、酔狂にもその庵を訪ねて御座ったそうな。

 そこで、この庵主(あんじゅ)の僧と、禁中の礼法や和歌について、これまた面白可笑しく話を致いて御座ったが、その博識と風雅の心たるや、正道を外さぬ――それでいてつまらぬどころか、まっこと、興に乗って楽しくなって御座った故、丁度、春でもあったことから、ふと、かの公家は、

「……よしの山……花咲ころの……朝な朝な……心にかゝる……峯のしらくも……」

と喜六の吉野山の歌を吟じた上、

「……さてもさても……これはまた、まっこと、ようでけた、面白き歌でおじゃろう。堂上(とうしょう)にても、かくも美事に詠ずる御仁は、これ、おじゃるまい。」

と殊の外、賞美致いた。

 が、かの庵主は、これを聞くと、

「――いや。左程に感心なさるものにても御座らぬ。この歌は東下野守常縁殿の、

 ……朝な朝な……雲たちおふる……小倉山……峰吹く風は……花の香ぞする……

という古歌に拠って、詠んだるものに、過ぎませぬ。」

と答え、それをお開きとして、立ち別れた。

 かの公卿、京へ戻った後親友の者に、かくかくのことが御座った由、お話しになられたところ、

「……それは……他の者にては、御座ない! 喜六本人の、遁世し、隠れ住んでおじゃるに、相違おじゃるまいて!」

と大騒ぎとなった。

 そこで、かの公卿は明けた翌日、その公達を連れて、またかの嵐山に分け入って御座った……なれど……庵室(あんじつ)は、既にして崩し捨てられておって、庵主は、これ、何処(いづこ)へ参ったものやら……行方知れずとなっておった、とのことで御座る。

 

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