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2012/08/12

耳嚢 巻之四 賤夫奇才の事

 賤夫奇才の事

 

 火消屋敷の役場中間といへるは、無類不法の者にて、朝に食して夕べに食なきを不知(しらざる)の者成(なる)が、寛政丙辰(ひのえたつ)の春室賀兵庫役場中間に安五郎と言る者、櫻田の火事に怪我なしける時書(かき)たりしと、其頃もてはやす儘爰に記(しるし)ぬ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げであるが、無視し、「*」を附して区別した。]

   *

愚なる身體、國に有ては父母のもの也、武家に仕へては君のもの也。ましてや惡行の勤たるといへ共、二十年來道に入て命を繫(つな)ぐ。時に丙辰の春、近火有て我過(あやまり)て惣身(そうみ)の骨を碎(くだき)て、九牛が一毛、君恩此時に送る。殊に本道の名醫骨繼(ほねつぎ)の良醫貮人遣され、塵芥の如き下々たる我に難有事(ありがたきこと)言葉に不及(およばず)。寔(まこと)に此(これ)君に奉仕(つかへたてまつり)ては、火に入(いり)一炎(いちえん)の烟と成(なる)とも可也。難波(なには)の芦(あし)の折れたるも、所替れば葭(よし)ともならんや。人間萬事塞翁が馬と云々。寄春火(はるのしゆつかによす)

棚引し霞が關のひまよりも燃出(もへいづ)る火は花の櫻田

 

■やぶちゃん現代語訳

○前項連関:特に感じさせない。

・「火消屋敷」武士によって組織された武家火消の内、幕府直轄で四、五千石クラスの旗本が担当した定火消(じょうびけし)の役宅を言う。府内に十数か所あった。配下には与力六騎、同心三十名程が付き、火災時には彼らが「臥煙(がえん)」と呼ばれた渡り中間の火消人足(各定火消三百人)を指揮して消火活動に当たった。本話を読むと、誰もが時代劇「暴れん坊将軍」の町火消の「松五郎」を連想されるであろうが、この「臥煙」は消防のために武家火消の定火消に雇われた専門職であって、平常時に鳶などの本業を持っていた、あの町火消の火消人足とは異なる者たちであるので注意されたい。主に参照したウィキの「火消」によれば、本文で「無賴無法」と記されるように、真冬でも法被(はっぴ)一枚で過ごし、『全身に彫り物をしたものが多かった。普段は火消屋敷の大部屋で暮らしていたが、博打や喧嘩で騒動を起こすこともあった。 臥煙は必ず江戸っ子でなければ採用されず、頭は奴銀杏(やっこいちょう)という、特殊な粋な結い方をした。 出動の時には、白足袋に、真新しい六尺の締め込みをつけ、半纏一枚だけで刺し子すらも着ない』。『また、町に出ては商家に銭緡(ぜにさし)』(銭の穴に通して束ねるのに用いた紐。主に麻や藁で出来ていた)『を押し売りし、購入しなかった商家に対しては報復として、火事のときに騒動に紛れその家屋を破壊するなど、町人には評判の悪い存在であった』とある。なお、本話の安五郎は一命をとりとめたのであるが、不幸にして『火事場で死亡した臥煙は、四谷にあった臥烟寺(現存していない)に葬られた』 とある。

・「役場中間」この場合の「役場」とは、実務「役」として火災現「場」で消火に当たる「中間」の謂いであろう。

・「無類不法」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『無頼無法』。「無賴」の誤りと採る。

・「寛政丙辰」寛政八(一七九六)年。鈴木氏注に、『この春、特別の大火があったわけではない。』と記す。

・「室賀兵庫」室賀正繩(まさつぐ 宝暦三(一七五三)年~?)。天明二(一七八二)年遺跡五千五百石を継ぎ、同七(一七八七)年に定火消となっている。

・「櫻田」江戸城南端にある桜田門橋一帯の地名。現在の東京都千代田区霞が関二丁目付近。古くは桜田郷と呼称した。

・「九牛の一毛」圧倒的多数の中で、極めて少ない部分の譬え。また、比較にならないほどつまらぬことの譬え。男性生殖器を截ち斬られる屈辱的宮刑(腐刑)を受けた司馬遷が友人に宛てた悲痛なる返書「報任少卿書」(任少卿(じんしょうけい)に報ずる書)で、『假令僕伏法受誅若九牛亡一毛』(假令(たとひ)、僕、法に伏し、誅を受くるも、九牛の一毛を亡ふごとく)と、世人は私がこのような冤罪によって刑に処せられたことを意に介していないであろう、という文脈を原拠とする。この安五郎の使い方は少々おかしい感じがするが、恐らくは九死に一生というところを、わざと九牛の一毛と変えて、自己卑小化を示した味な仕儀と考えられる。

・「本道」漢方で内科をいう。

・「難波(なには)の芦(あし)の折れたるも、所替れば葭(よし)ともならんや」「芦の折れたる」は、安五郎が臥煙としての消火作業中に足(だけではないようであるが)を骨折したことに掛ける。以下の「芦」も「葭」も同じ単子葉植物ツユクサ類のイネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ Phragmites australis を指す。標準和名「ヨシ」は「アシ」が忌み言葉としての「悪し」に通じるのを嫌って、逆の意味の「良し」と言い替えたものが定着したもの。但し、関東では「アシ」、関西では「ヨシ」の呼称が一般的で、ここでもその違いを掛詞とした。また、この「ヨシ」原は難波潟の景の名物でもあった。

・「棚引し霞が關のひまよりも燃出(もへいづ)る火は花の櫻田」火事場であった霞が関及び桜田郷の地名を詠み込み、「關」の縁語で「ひま」(隙)を引出し、「燃出(もへいづ)」に桜の花の「萌え出づ」を掛ける。ハ行音の多様によるリズムが面白い狂歌である。以下、通釈する。

……霞棚引く霞が関……ああ、その隙間より……ちろちろと……燃え出でたかとみた、その火……ありゃ、火には御座いません……いやさ、お江戸の桜田の……桜の花にて御座います――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 匹夫奇才の事

 

 火消屋敷の役場中間と申すは、これ、無頼不法の者どもにて、朝に一食、食ったきり、夕べになればものをも食わず、ただただ酒に浸り切り、といった不埒なる輩ではある。

 寛政八年丙辰(ひのえたつ)の春、定火消で御座った室賀兵庫殿配下のその役場中間、安五郎と申す者、桜田辺の火災あって、その火消に当たっておるうちに、重傷を負ったという。その際に書き置いたと申す文(ふみ)が、これ、近頃、もて囃されて御座る故、ここに引き写しておく。

   *

……愚なるはこの身体(からだ)、国にあっては父母のもの、武家に仕はば君(くん)のもの。……ましてや、火消の役場中間……悪行三昧の勤めといえど……二十年来、この渡世、入(い)って一命、辛くも繋(つな)ぐ。……時は丙辰(ひのえのたつ)の頃……この春つ方、近火のあって、その火事場にて、我らこと……ちょいとしくじり致いてもうた……総身(そうみ)の骨をぼきぼきと……すっかりいみじう砕いてもうた。……ところがどっこい、九牛の、一毛にして九死の一生……殿の御恩を、これ、授かる。……殊に内科の名を立つるお医者一人に、骨接ぎの、これまた良医と、これ、二人、主(あるじ)直々お遣わし下され……塵芥(ちりあくた)の如き、この下々の者たる我らには……重ね重ねの、ありがたきこと……これ、言うに及ばず。……まっこと、殿に、仕え奉りては――飛んで火に入り、一炎(いちえん)の――儚き煙(けぶ)りとなるも、よし!――難波の潟の――折れたる蘆(あし)も――ところ変われば、これまた葭(よし)――そうともならんことなれば! 人間万事、塞翁が馬!……

   ――春の出火(でび)に寄せて――

棚引きし霞が關のひまよりも燃へ出づる火は花の櫻田

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