耳嚢 巻之四 津和野領馬術の事
津和野領馬術の事
津和野領は西國にて長崎往來の場所に候所、嶮岨(けんそ)の難所多き所、久世丹州長崎往來の節右邊にては領主より物頭(ものがしら)など案内いたし候處、先乘(さきのり)をして右の嶮岨を鼻皮(はなかは)かけて乘下げ乘登(のりのぼり)す由。いらざる事ながら、自慢心にて右の通いたしける事と見へたり。鼻皮をかくるも子細ある事ならんと、丹州物語也。
□やぶちゃん注
○前項連関:
・「津和野領」石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。当主は亀井家。執筆推定の寛政九(一七九七)年当時は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)で藩主在位は、天明三(一七八三)年から文政二(一八一九)年であるから、この領主は彼か若しくはその父で第七代藩主であった亀井矩貞(のりさだ 元文四(一七三九)年~文化十一(一八一四)年)である(叙述から見ると後者の可能性が高いように思われる)。但し、岩波版長谷川氏も指摘する通り、位置的に長崎往来との関係が分からない(どう考えても物理的には津和野藩を通らねばならない訳ではない)。識者の御教授を乞うものである。一つ気になるとすれば、ずっと後のことであるが、ウィキの「津和野町」の歴史の項に拠れば、慶応四・明治元(一八六八)年、長崎の浦上キリシタンが配流され、弾圧されたとあり、各藩の中でも津和野藩の拷問は特に陰惨を極め、外国公使の抗議や岩倉使節団などの理解によって停止するまで続いた(これを「浦上四番崩れ」と呼ぶ)、とあることが何かのヒントか?
・「久世丹州」久世丹後守広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行となった。中国貿易の拡大を図るなど、オランダ商館長チチングが感心するほどの開明的な人物で、長崎で入手した海外情報を懇意にしていた田沼意次に齎し、オランダ人の待遇改善などにも勤めた。天明二(一七八二)年には米価が高騰し、盗賊放火が増えた際には、近隣の諸侯に依頼して米を回漕させて米価を抑えるなど、天明三(一七八三)年九月、江戸に戻る際には長崎町民が、遙か遠方まで見送って報恩に謝したという。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進した。寛政六(一七九四)年には、ロシアの情報を得るため、江戸住みを余儀なくされた大黒屋光太夫のために新居を与えている。寛政九年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代を兼ねていた。根岸のニュース・ソースの一人。寛政九(一七九七)年六月五日致仕(以上は主にウィキの「久世広民」に拠った)。
・「物頭」弓組・鉄砲組などの足軽の頭。組頭。
・「鼻皮」馬の鼻づらに左右にかける細長い革。通常は馬銜(はみ:馬の轡(くつわ)の口に銜(くわ)えさせる部分)の作用の強化、装飾用などに用いる。この装飾というところが話柄のミソか?――いや、もっと単純に……「鼻をかける」(自慢をする)という皮肉な洒落のように思われる。
■やぶちゃん現代語訳
津和野領馬術の事
津和野領は西国にて長崎往来の途中である。至って険阻の難所が多い。
長崎奉行で御座った久世丹州広民殿が往来の折りには、かの地にては領主自ら乗馬の上、物頭(ものがしら)なんどの先に立って、道案内を致いたとのことで御座るが、何でも、その険阻の地を、領主が馬に鼻革(はながわ)を懸け、騎乗のままに、上り下り致いた由。――まあ、いらざる言いではあるが――一種、馬術達者自慢のため、これ、致すものの如くに見えて御座った由。
「……馬に『鼻革を懸ける』というも……これ、何ぞ、仔細があってのことで御座ろうか、のぅ……馬術の上手さを『鼻をかける』……とか、の……」
とは、丹州広民殿の談話で御座った。
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