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2012/08/15

耳嚢 巻之四 剛氣其理ある事

 剛氣其理ある事

 

 備前の松平新太郎少將の時、國中銅鐡の佛具類鑄潰しの儀申付られしに、ある撞鐘(つきがね)名物の由にて色々すれ共不解由訴(どもとけざるよしうつたへ)ければ、山崎にてなかりしか、名は忘れたり、其此新太郎に隨身(ずいじん)しける家來、我等鑄潰させ可申迚、頓(やが)て彼鐘の有所へ至り、立ながら右鐘へ小便をしかけける上、さらば鑄潰せとて火をかけしに何事もなく解(とけ)しとかや。愚按(ぐあん)ずるに、愚民は名物と聞て佛意を怖れし心より、火をかけても解(とけ)ざるや、又は惜しみて解(とか)ざると空言(そらごと)を唱へけるや。右を計りて尿(いば)りを爲しけるは頓智英才ともいふべき歟。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。これも厭な話柄である。これ、仏具類の鋳潰しであるところから見て、実用的な目的を持ったものではなく、水戸藩などが行った、明治初年の廃仏毀釈政策と同じものである(次注参照)。宗教政策であったと同時に社寺の経営整理を目的としたものであったと思われるが、明治のそれが多くの文化財の消失と国外流出を招いたのと同様、全く以て愚かな行為であったと言わざるを得ない。我々はバーミヤンの仏像を爆破した彼らを野蛮とは言えないのだ。つい先日まで、我ら日本人とて、宗教的ファンダメンタリズムの狂気の中に生きていたではないか。いや、この阿呆さ加減は、今も以て変わらないという気がする――。根岸はこれまでの叙述からも熱心な神儒一致思想の持ち主である。こういう仕儀を手放しで褒め称えるのも、訳のないことでは、これ、ないが……根木さんよ、あんた、やっぱり一般大衆を「愚民」の輩と、思うておったんやねえ……

・「松平新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)のこと。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主。儒教を信奉した彼は寛永九(一六三二)年に岡山藩藩主となるや、陽明学者熊沢蕃山を招聘、寛永一八(一六四一)年には全国初の藩校花畠教場(はなばたけきょうじょう)を開校、寛文一〇(一六七〇)年には日本最古の庶民のための学校として閑谷学校(しずたにがっこう)をも開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし、「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水、産業振興の奨励など、積極的な藩政改革を行った(このことから光政は水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並ぶ江戸初期の三名君と称せられる)。光政は幕府が推奨し、国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として、陽明学に於ける自律的思考とその実践を旨としていたが、これは藩政の宗教面に於いても発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする神仏分離政策を採った。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入、儒学的合理主義に基づいて淫祠・邪教を排して神社合祀及び寺院整理を行っている(本話柄はその一エピソードである)。彼は、当時、同藩金川郡において隆盛を極めていた、国家を認めない日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派の弾圧も行って、備前法華宗は壊滅している。以下、参照したウィキの「池田光政」によれば、『こうした彼の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山』藩が『安泰であったのは、嫡子・綱政が親幕的なスタンスをとったこともあるが、光政の政治力が幕府から大きな評価を得たためではないかと考えられる。光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。また、庶民の奢侈を禁止した。特に神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物の料理となっているばら寿司(ちらし寿司の一種)の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという』。――大した名君じゃないか……しかし私には……積み上げられ打ち捨てられる野仏の累々たる山や……小便をかけられて鋳潰される鐘の映像が、拭っても拭っても脳裏から消え去らぬのだ……

・「山崎」岩波版の長谷川氏注には『光政の下、寛文六年(一六六六)より寺の整理、僧の還俗の策を講じた熊沢蕃山を誤るか』と記す。熊沢蕃山(くまざわばんざん 元和五(一六一九年)年~元禄四(一六九一)年)は陽明学者。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改め、蕃山及び息遊軒と号した。正保二(一六四五)年に岡山藩に出仕(それ以前、光政の児小姓役として出仕していた経験がある)、陽明学に傾倒していた光政は、近江聖人と称えられた中江藤樹門下の蕃山を重用、花畠教場を中心に活動し、慶安四(一六五一)年には庶民教育の場となる閑谷学校の前身である花園会の会約の起草も行っている(閑谷学校の創立は蕃山の致仕後の寛文一〇(一六七〇)年)。承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際には光政を補佐し、飢民の救済に尽力、治山治水等の土木事業による土砂災害の軽減や農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革が守旧派の家老らとの対立をもたらし、また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったために、保科正之や林羅山らの批判をも受け、岡山城下を離れた和気郡蕃山村(しげやまそん。現在の岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされ(彼の号蕃山はこの地名に由来)、明暦三(一六五七)年、幕府と藩内の反対派の圧力によって、岡山藩を去っている。(以上はウィキの「熊沢蕃山」に拠った)。「山崎」――反幕的思想家であったが故に、根岸は遠慮して、わざと「山」を入れて誤ったのであろう。――確かに、自律禎な徹底した反骨の儒者だ……しかし鐘に小便して庶民の罪なき信仰の対象を鋳潰す彼に……私は「頓智英才」の賛美を送りたいとは、これ、思わぬよ……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛気にもその理りのある事

 

 備前岡山藩藩主松平新太郎少将光政殿の治世、国内(くにうち)の銅鉄仏具類鋳潰しの命が発せられた折り――ある撞き鐘、名物の由にて、これ、如何に致いても、いっかな熔(と)けざるの由、訴えが御座った。

 確か山崎とか申す姓で御座ったか――名は忘れてしもうたが――その頃新太郎殿に随身(ずいじん)して御座った家来が、

「――我らこと、美事、その鐘、鋳潰してご覧に入れましょう。」

と言うが早いか、かの鐘のある寺へと至り、突っ立つたまま、平然と――この鐘に小便をひらかした。――

「――されば――鋳潰せ!」

とて、火をかけたところが、鐘はあっけなく熔けた、と申す。――

 

――拙者の思うに、愚民は名物と聞いて、その仏罰を畏れる心がため……何と、その「ありがたい仏縁」に依りて、火をかけても熔けなかったと申すものか?……いやいや……これは又、ただ、さもしくも、名物の鐘のなくなるを惜しみて、「熔けざる」と、底の見え透いた空言を吐いて御座ったに過ぎぬのでは、これ、御座るまいか?……そうして……それと察して、山崎、鮮やかに鐘に尿(いば)りをひったは――これ、まっこと、美事なる頓知英才の極み、とも申すべき者にては――御座るまいか?

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