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2012/08/02

耳嚢 巻之四 信州往生寺石碑の事

 信州往生寺石碑の事

 

 信州善光寺より拾八町程山の方に、刈萱山(かるかやさん)往生寺と言る寺あり。眺望よき寺成る由。彼寺に俳譜師芭蕉翁石碑あり。發句に、

  月影や四宗四門も只ひとつ

右一句何か難分(わかりがたき)ゆへ土老に尋しに、月影は姥捨更科の最寄なれば其意わかれり。四宗四文の事は、善光寺は天台眞言禪一向宗とやらんの四宗兼學の寺院なれば、桃靑翁此句を吐けるや。かく聞ば面白さもましぬと、彼地行脚の老翁物がたりけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、実は、以下に述べる、この寺に纏わる刈萱上人の伝承は能の「刈萱」として知られる。さすれば、少し前の能の技芸譚との連関が認められる。また、どうも根岸はこの手の石碑探勝が好きならしい。

・「往生寺」長野県長野市往生地一三三四番地にある浄土宗の寺院。山号刈萱山で分かる通り、善光寺の門前の中央通り沿いにある刈萱山西光寺とともに、謡曲・説教節などで広まった刈萱上人伝説所縁の寺(但し、正式な山号は安楽山菩薩心院刈萱堂で、通称、刈萱堂往生寺と呼ばれることから、根岸の伝聞記載はこの「刈萱堂」を「刈萱山」という山号と誤認した可能性が強いように思われる)。その伝承によれば、苅萱道心(寂照坊等阿とも呼ばれる)は、元九州博多刈萱の関一帯の領主で、俗名を加藤左衛門尉重氏と言った。世の無常を感じた重氏は世の無常を感じて比叡山を経て、京都黒谷の法然上人の下で出家した。しかし、妻子が尋ね来ることを厭い、高野山に向かう。やがてその子、石堂丸は母とともに父を求めて旅に出るが、高野山の麓で母は病に倒れ、亡くなってしまう。独りとなった石堂丸は父である刈萱上人とそれと知らず邂逅したが、父は父と名乗らず「探す方はすでに世にない」と教える。世を儚んだ石堂丸は上人に弟子入りを迫って許され、信照坊道念と名乗った(この時点で石堂丸は苅萱上人を父と確信していたものと思われる)。後、上人は修行の邪魔になるとして、再び一人旅立ち、信州善光寺に籠り、八十三歳で、この往生寺の地で亡くなった。後、後を慕って来た石堂丸は父上人の残した地蔵菩薩像を真似て、もう一体の像を刻んだとされ、この往生寺及び西光寺には、その二体の親子地蔵尊が現存(西光寺では本尊とする)する。また、西光寺にはこの伝承の一つ「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」他の「絵解き」が伝承されている。(以上は浄土宗」公式HPの「安楽山往生寺及び西光寺公式HP「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」のあらすじを主に参考にしたが、複数の伝承の細部には当然、違いがある)。私は三十六年前の夏、この西光寺の方を訪ね、絵解きを聴いたことがある。

・「拾八町」約二キロメートル弱。現在の地図で善光寺大門からは直線距離で八三九メートル、同じく大門から現在の最短ルートで計測すると、凡そ一・二キロメートルある。記載はそれより長いが、最後は急坂の山道に入るのでおかしくはない。

・「月影や四宗四門も只ひとつ」「更級紀行」所収。但し、

  月影や四門四宗もただ一つ

が正しい。訳では正しい句形に訂した。「更級紀行」は芭蕉が貞享五(一六八八)年(九月に改元して元禄元年)に更級の八月十五夜の月を掬すべく旅立った紀行俳文であるが、本句はまさにその直後、恐らくは二十日以前と思われる善光寺参詣での嘱目吟である。「新潮日本古典集成」の「芭蕉句集」で今栄蔵氏は、『善光寺は、境内の東西南北に各一門を備え、それぞれに「定額山善光寺」「不捨山浄土寺」「南命山無量寿寺」「北空山雲上寺」の扁額を掲げる。「四門」とはこれをいい、また寺内は』当時、『天台宗・浄土宗・時宗の三宗が同居する特殊な組織。そのさまを、「四門」の語呂に合わせて「四宗」と言ったのであろう』と注されておられる。本文にあるように、天台は密教系で真言とも密接に関わり、そこに超派的な禅宗も含まれたと考えることはやぶさかではなく、鎌倉時代以降、「四宗兼學」の修学道場としての寺院は珍しくはなかった。但し、この解釈には現在でも異説が多く、根岸の不審は故なしとしない。今氏の訳などを参考に私なりに解釈すると、

……遍照せる隈なき月影――それは真如の明鏡――四門四宗と物化しても、善光寺は仏のまことの教えの遍き明光によって――この聖なる結界を、いや、この世すべてを、隈なく照らしているではないか……

といった意味であろう。なお、この往生寺の碑は「ムーミンパパ」氏の「温泉ドライブのページ」の芭蕉句」に画像がある。確認されたい。

・「姥捨」現在の長野県千曲市と東筑摩郡筑北村に跨る姨捨山。正式名は冠着山(かむりきやま)。標高一二五二メートル。「古今和歌集」以来の名月の歌枕の地。

・「更科」姨捨山を含む旧更級郡周辺を指す。姨捨山は更級山の別名を持つ。

・「四宗四文の事は」の「文」はママ。訳では訂し、順序も変えた。

・「桃靑」芭蕉の芭蕉を名乗る以前の俳号。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 信州往生寺石碑の事

 

……信州善光寺より十八町ほどの山の方に、苅萱山往生寺という寺が御座います。眺望の良き寺にて御座る。……

……この寺には俳諧師芭蕉翁の石碑が御座って、そこに彫られた発句は、

  月影や四門四宗もただ一つ

というので御座いますが……この一句、その、今一つ、意味が分り難きによって、土地の古老に訊ねてみましたところ、

「……『月影』は、歌枕の姥捨更科という月の名所が最寄りに御座いますれば、その面影をはっきりと示して御座る。……『四門四宗』と申しますは、これ、善光寺は、天台・真言・禅・一向宗といった四宗兼学の寺院にえ御座いますれば、芭蕉庵松尾桃青翁は、これを詠み込んで、遍照の不可思議光という、仏法のまことを、一句に吐露なされたのでは、ありますまいか。……」

との答えで御座いました。

……いや、そう言われて、そう読んでみるならば、また、これ、句の面白さも旅の楽しさも増す、というもので御座いますよ……

――以上は、彼の地を行脚致いた老翁が私に物語って呉れた話である。

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