耳嚢 巻之四 痔疾呪の事
痔疾呪の事
寛政八年予初めて痔疾の愁ひありて苦しみしに、勝屋何某申けるは、小兒の戲れながら胡瓜を月の數もとめて、裏白(うらじろ)に書状を認(したた)め姓名と書判(かきはん)を記し、宛所(あてどころ)は河童大明神といへる狀を添て川へ流せば、果して快氣を得と教しが、重き御役を勤る身分姓名を、右戲れ同樣の中に記し流さんは不成呪(ならざるまじなひ)事也と笑ひしが、三橋何某も其席に有て、我も其事承りぬ、併(しかしながら)大同小異にて、胡瓜ひとつへ右痔疾快全の旨願を記し、河童大明神と宛所してこれも姓名は記す事也といひ、何れも大笑ひを成しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前「疝氣呪の事」に続く呪いシリーズ。根岸が満五十九歳にしてかなり重い痔疾を発症していたことが分かる。
・「寛政八年」当時(一七九六年)の根岸は公事方勘定奉行九年目。この書き方から、本巻のこの辺りは、明らかに寛政八年よりも後の執筆、私の執筆推定の翌寛政九(一七九七)年であることがはっきり分かる。
・「月の數」一年の月の数。旧暦では一年が十三箇月となる閏年が凡そ三年に一度あった。
・「勝屋何某」底本で鈴木氏は勝屋豊造(とよなり 元文二(一七三七)年~?)と推定されておられる。宝暦五(一七五五)年御勘定、同八年関東諸国河川普請で出役、安永元(一七七二)年三十六歳で遺跡相続、同六年御勘定組頭(これのみ長谷川氏注)とある。根岸と同年である。
・「裏白」本来なら裏の白い紙であるが、ここは岩波版長谷川氏の注するように、このシーンの最後の映像を先取りして、書信用の紙を二つ折りにして表書きだけを記し、裏に書信の内容などを何も書かない(白いままに残す)ことを言うか。
・「河童大明神」河童を痔の神様とする信仰は広く知られている。恐らくは河童が人の尻子玉を抜くと言われたことと関係しよう。尻子玉とは人の肛門付近に存在すると考えられた想像上の臓器で、恐らくは水死体が腐敗し、肛門部の粘膜が開き、脱肛している様から誤認されたものと考えられるが、実際の内痔核疾患をも連想させ、如何にも分かり易い伝承発祥とは言えるように思われる。陸奥国一宮、現在の宮城県に本社のある各地の塩竈(しおがま)神社などにこの河童信仰が習合している。「痔プロcom.」の「痔の散歩道」の「痔の神様 愛知県編」に名古屋市中川区の西日置商店街にある鹽竈神社に祀られている河童神の無三殿大神(むさんどのおおかみ)についての詳細なデータと画像がある(この「痔の散歩道」は侮れない。私も何度も資料として――痔の必要からではなく歴史資料としてである――参照した必見のサイトである)。そこには例えば、「根抜きの神様」として『昔からむさんど(山王橋の西北角)の橋から、すそを端折って、お尻を川に映すと痔の悪い人は川神様が直してくれると言い伝えがあり』、『胡瓜、西瓜をお供えし、お願いすると霊現あらかたなりと言われてい』ると記されてある(昔の和服では、こうすることはそう大変なことでもなく、今どきの軽犯罪になることでもなかったであろう。痔に悩む人が橋で尻をからげて一心に祈願している姿は――私には何か懐かしいほっとするものを感じる)。同ページに引用されている昭和九(一九三四)年建立になる「無三殿神石之由來」の石碑の記載を本来の正字に直して以下に示しておく。
無三殿神石之由來
無三殿主神ト刻ス
無三殿杁江ハ往時尾張名勝ノ一ニシテ堀川ノ西日置古渡ノ境ニ在リタリ當時江川笈瀨川ノ用水路アリテ此ノ所ニ會セリ然レドモ水位高低甚ダシキヲ以テ合流スル能ハズ仍チ樋ヲ笈瀨川ノ上ニ架シテ江川ヲ南流セシメ笈瀨川ハ樋下ヲ東流シ河口ノ水門ヲ過ギテ堀川ニ通セリ今ノ松重町南端一帶ノ地ハ即チ此ノ流域ニシテ里人無三殿ト呼ビタル杁江タリシ所ナリ延寶ノ頃松平康久入道無三此ノ江北ノ地ニ住セリ江名之ヨリ起ルト江水淸澄ニシテ深カラズト雖古來靈鼈ノ潛ム所ナリト稱シ畏敬汚潰ス者ナシ樋邊一巨石アリ
痔疾ニ靈驗者シト病者頻リニ來リテ治癒ヲ祈リ捧グルニ白餠ヲ以テシ或ハ之ヲ水中ニ投ズルノ風アリ遠近相傳ヘテ其ノ名大仁著ハル
星霜變轉神石影ヲ沒スルコト多年偶江川改修工事ノ際靈夢ヲ得タル者アリ乃チ發掘シテ之ヲ水底ヨリ求メ得タリ暫ク町神トシ近隣ニ奉祀センガ神慮ヲ畏レ當鹽釜ノ社頭ニ遷祀シタルモノナリ今歳昭和甲戌當神社社殿造營ノ擧アリ規模大イナルコト前古ニ比ナシ記念トシテ碑ヲ神石ノ側ニ建テ由來ヲ記シテ不朽ニ傳ウルモノナル
昭和九年十月
「杁江」は「いりえ」と読み、入江のこと。「延寶」は西暦一六七三年から一六八一年。「松平康久」は尾張藩家臣。「靈鼈」は「れいべつ」と読み、巨大な霊亀のことであるが、河童と同一視された。「汚潰」は「をくわい(おかい)」と読むものと思われ、見慣れない熟語であるが、「潰」には堤防が崩れて水があふれ出る、決壊するの意があるので、河川の汚損や破壊を意味するものと思われる。「樋邊」は不詳、「靈驗者」の「者」はページ製作者の「有」の誤読と思われ、「大仁」も「大(おおい)に」であろう。「偶」は「たまたま」。「傳ウル」は「傳フル」が正しい。
・「三橋何某」底本で鈴木氏は寛政八(一七九六)年当時、御勘定吟味役であった三橋成方(なりみち)と推定されておられる。
■やぶちゃん現代語訳
痔疾の呪いの事
寛政八年、私は初めて痔疾に罹り、筆舌では尽くせぬ苦しみを味わって御座ったが、職場の部下との談話の折り、尾籠ながら、このことを少しばかり漏らしたところ、その場に御座った勝屋某が申すことに、
「……児戯に類するものにて恐縮で御座るが……胡瓜を、その年の月の数だけ手に入れまして、書状を――裏白のままに――表には姓名と花押(かおう)を認(したた)め、宛名は『河童大明神』と記した状袋に入れて川へ流せば、これ、ぴたりすっきり快気致しますぞ。」
と教えて呉れたが、
「……なるほど。しかし、重い御役を勤むるところの身分姓名を、『河童大明神』への痔疾快気請願書状と申す、これ、戯れ同様の中(うち)に認めた上に、これまた、普通の川に流すは……いや、出来ざる呪(まじな)いじゃのぅ……」
と笑ったところが、その場に同席して御座った三橋某も、
「……拙者も、そのこと、承ったことが御座る。併しながら――大同小異にては御座るが、ちと違(ちご)うて――胡瓜は一本だけ。その胡瓜へ、具体に痔疾全快祈願の旨認めた文を、これまた、『河童大明神』と宛名した添え状を用いまする。なれどこれも、やはり、本人の姓名は記さずんばなりません。」
と言い添えので、三人して大笑い致いたことで御座った。