耳嚢 巻之五 麩踏萬引を見出す事
麩踏萬引を見出す事
麩踏(ふふみ)は桶に立(たち)て兩手を腰に置て、眼は心の儘に配るもの也。或日夫婦あら世帶にて淺草諏訪町とやらんに、太物(ふともの)の小見世(こみせ)をひらきて手拭など軒に懸けて、商ひ第一と夫婦共買人(かひて)に飽迄愛想の謟(へつら)ひ言などなしけるに、或日相應の裝束にて彼見世に立寄、我等は絹木綿の中買をなし、御屋敷方へも出入(でいる)者也、新見世と見へぬれば致世話可遣(せわいたしつかはすべし)と、いかにも念頃に申ける故、女房は茶をはこび、夫は爲にも成べき客人と思ひて、彼是と愛想を述けるが、彼客人のいへるは、今日屋敷方へ參るに、商人は女中抔への手土産もいたし度間、面白き手拭を調ひ度とて反物なども出させ見候上にて、手拭地二筋づゝを三包の積(つもり)にわけて、糊入紙(のりいれがみ)の上(うえ)水引(みづひき)などを乞ひて、直段(ねだん)をも極め則(すなはち)代銀を拂ひける故、夫婦して勝手より紙水引など取出し候間に、木綿反物四五反を密に懷にして、かさねて來るべしと禮をのべて立出しを、夫婦右反物を盜(ぬすまれ)しをかつて知らざりしが、彼麩踏向うより始終見居たりし故、早速夫婦へ聲を懸、今の買人へは反物を賣りしや、全(まつたく)萬引ならんと言ひし故、夫婦驚きて始て反物盜まれしをさとり、追缺けて貮町程も隔(へだて)、追付きて不屆の由を申ければ、彼者以の外怒りて、何ゆへ跡なき事を申懸るやとて、風呂敷包を解きて見せけるに、最前の木綿反物もありければ、是を盜(ぬすみ)ながらたけだけしきといひければ、いつの間にや符帳を取捨て、是は我等取り賣(うり)仲買ひ等いたし候故、外より持來る品也と、却て逆さまに咎めける處へ、醉狂なる男にや、彼麩踏欠(か)け付(つけ)、始終我等見屆たり、盜人たけだけしとてむなぐらを取引居(とりひきすへ)ける。天命遁れがたくて、彼符牒を取り袂へ入れしと見へて袖より落ければ、あらごう事もならず。しかる所へ外呉服所よりも追欠來(おひかけきた)る人ありて、彼風呂敷の内に有(ある)は我等が鄽(みせ)にて盜(ぬすみ)取りし也とて、散々に打擲(ちやうちやく)して追(おひ)はなしけると也。此頃の事也と幸十郎といへるおのこの語りける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:詐術の詐欺師で直連関。
・「麩踏」生麩(なまふ)を作るに際して、小麦粉を水で捏(こ)ねるために、大桶の中で足で踏むこと。
・「淺草諏訪町」現在の台東区駒形の、諏訪神社を含む隅田川沿いの町。旧駒形町の南側(隅田川下流)。
・「太物」狭義には、絹織物を呉服というのに対して綿織物・麻織物などの太い糸の織物を言った、但し、広義に絹織物も含めた衣服用布地、反物の謂いでも使った。ここは原義でよいであろう。
・「今の買人へは反物を賣りしや」底本ではここの「買人」に「かひて」とルビを振るが、先行する「商ひ第一と夫婦共買人(かひて)に」の位置に移した。
・「積(つもり)」は底本のルビ。
・「糊入紙」色を白く見せるために米糊を加えて漉いた杉原紙(すぎはらがみ)。杉原紙(椙原紙。「すいばらがみ」とも読む)は元来は、古えより播磨国多可郡杉原谷(現在の兵庫県多可町)で漉かれた和紙を言う。奉書紙や檀紙よりも厚さが薄く、贈答品の包装や武家の公文書にも用いられた。京都は杉原谷に近く、大量に製品が流入したことから、比較的低廉であったために高級紙の代用品として盛んに用いられた(以上の杉原紙については、ウィキの「杉原紙」を参照した)。
・「二町程」凡そ二一八メートル。
・「符帳を取捨て」「符帳」は正札のこと。岩波版の長谷川氏注に、都の錦(延宝三(一六七五)年~?)作のピカレスク・ロマン、浮世草子「沖津白波」の巻三の四『以後、繰返される話共通の手口』とある。
・「醉狂なる男にや」「醉狂」は「酔興」とも書き、言わずもがな、好奇心から人と異なる行動をとること、物好きなことを言うが、岩波版で長谷川氏は『犯罪の証人になると面倒な掛り合いを生ずるが、それをいとわぬのを酔狂とするか』と注する。そうした訴訟の面倒を知っていればこそ、本話のエンディングでは物が戻ったからではなく、人々は「散々に打擲して追はな」したのだと納得出来る。私はこういう注こそが一級品の価値ある注であると思う。
・「幸十郎」底本鈴木氏の注では、「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人』とある人物と同一人物であろうとされる。彼はこの後も何度か登場する。
■やぶちゃん現代語訳
麩踏み万引きを見出す事
「……麩踏みと申すものは……桶の中に立って両手を腰に置きて……あれで……その眼は無心の心眼となって……これ、自在に四方を見通すものにて御座る。……」
ある日、若夫婦で――浅草諏訪町辺りに――綿やら麻の織物のお店(たな)を出だいて、看板代わりの手拭いなんどを軒に掛け、夫婦ともに『商い第一』を信条に、如何なる客なりとも、愛想笑いを欠かしたことなく、飽く迄、諂(へつろ)うたもの謂いにて、堅実な商いを致いて御座った。
ある日、相応の形(なり)を致いた御仁が、そのお店に立ち寄って、
「――我らは絹・木綿の仲買人を致いて、御屋敷方へもお出入りさせて戴いて御座る者じゃ。新店(しんみせ)と見たればこそ、一つ、一肌脱いで遣わそうと存ずる。――」
如何にも勿体ぶったもの謂いなれば、女房は茶を運び、また、夫は『……これは! 向後のためにも、大事なお客人じゃ!……』と思い、あれこれと愛想を述べて御座った。
すると、この仲買と称する男が、
「……そうさな……今日もこれより、御屋敷方へと参ることとなって御座るが……今日は取り敢えず……女中なんどへの手土産をも、致しとう存ずるによって……一つ、何ぞ面白い手拭いなんどをm取り揃えとう存ずる。……」
と言いつつ、他にも扱いの反物なんどの品定めと称して、出させて見並べ始め、加えて、
「……そうさな……手拭い地は、二筋ずつを三つの山に分けておくんなさい。……それと包みは糊入紙(のりいれがみ)の上、水引(みづひき)を頼んだよ。……」
との注文、而して夫はその値段を決めて、男は即決、その代金を払った。
ところがその後――夫婦して勝手奥より紙やら水引やらを取り出いて包装を致いておる間に――男は――さり気なく重ねて並べて広げあった木綿の反物――その四、五反を――下からすっ――すっと――実に巧妙に――懐へと隠した。
男は手拭いの包みを受け取ると、
「また、寄せて貰うよ。」
と礼を述べて店を出て行った。
夫婦は、かの反物四、五反を盗まれたとは――夢にも知らぬ。
ところが――ここに若夫婦の店の向かいで、丁度、麩踏(ふふ)みをしておった男が、この一部始終を見て御座った故、直ぐに若夫婦に声を掛け、
「おう! 今の買い手には、反物を売ったけぇい? 売ってねえだ?!――なら! ありゃ、全くの、万引きだゼィ!!」
と教えた故、夫婦も驚いて、広げたものを検(あらた)めて初めて、反物を盗まれたことに気づいた。
夫は韋駄天の如く後を追って、二町程も追いかけ追いつき、昼日中の路上にて、
「……ま、万引きの、ふ、不届き者めがッ!」
と呼ばわって御座った。
すると、かの男は、以ての外に怒り出し、
「――何故に!――証拠もなきに! 理不尽なる言い掛かりを附くるかッ!!」
と言うや、持った風呂敷を自ずと解いて見せる。
ところが――そこには外の絹の反物に交じって――紛うかたなき、最前のおのが店の木綿やら麻やらの反物が――確かに御座った。
「……こ、これが証拠じゃろがッ! こ、こうして盗んでおきながら……ぬけぬけぬけぬけ!……ええぃ! ぬ、盗人(ぬすっと)猛々しいッ!!」
と夫は真っ赤になって叫んだ。
ところが、男は、
「――これは、の――我ら絹木綿の仲買を致いておればこそ――売らんがために、余所から仕入れた、品、じゃ!」
と、平然と言い放った。
そう言われて、よく見てみると――いつの間にやら――反物に附けて御座った正札(しょうふだ)が取り捨てられてしもうて御座った。
俄然、男は逆切れ致いて、
「――天下の大道にて――謂われなき万引き呼ばわりッ! どうして呉れるッ!!」
と咎め立て始める始末……
――と――
――そこへ――
――余程の酔狂なる男ででも御座ったか――先(せん)の麩踏みが、これ、駆けつけ、
「この野郎ッ! 一部始終は、この俺さまが篤(と)くと見届けてるんでィ!! 盗人(ぬすっと)猛々しいたぁ、オ、マ、エ、のこのことでえッ!!!」
と啖呵を切るや、胸ぐらを摑んで地べたへ引き据えると――さても天命逃れがたくして――かの正札を引き千切って己(おの)が袂へ入れておった――それが――ぽろぽろっつと――袖から――落ちた。
ここに至って男は、最早、抵抗することも出来ず、ただ、項垂れておる。……
――と――
――そこへ――
――今度は、外の呉服屋よりも追い駆けて参った者も、これ、ここに出食わして御座った。
「……ハッ……ハッ……そ、その風呂敷の中の、き、絹の反物は……わ、わ、我らが店にて、ぬ、盗み、と、取ったもの、にて、御座る……」
ときた。
かくして――皆して、この男を――散々にぼこぼこに致いて――追い放した、とのことで御座る。……
「……ごく、最近の出来事で御座る。……」
と、幸十郎と申す男が、私に語って聞かせて呉れた話で御座る。