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« 白魚汁澄むより漆にほひたる 畑耕一 | トップページ | HP版 耳嚢 巻之四 本日公開分までパラレル公開 »

2012/08/06

耳嚢 巻之四 牛の玉の事

 

 

  牛の玉の事

 

 牛の玉とて開帳などの靈寶に見せる事あり。潔白ならざる玉をも、など生へて有物也。自然と動くやうするを人々恩義の物と賞するが、何の用をなさゞるの品なり。隱岐の國には野飼(のがひ)の牛ことの外多き所にて、佐久間何某(なにがし)先年御用にて右の國へ至りまのあたり見し由。牛の野に寢も有りしが、耳中よりや口中よりや其所は見とめざりしが、三四寸も是有べき丸き物、右牛の廻りをかけあるくを、牛童其邊にありし茶碗やうのものにて押へとりし故、何也と尋て見し牛玉也。かけあるく事はせざりしが動く所は無相違(さうゐなし)。右は牛の腹中にある一活物なるや、右の品をとりし後も牛は別儀なかりしと也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:連関なし。そのものが蠢いたり(但し、これは多分にカラクリを感じさせる。人工の張り子の「牛玉」の中にネズミの子なんどを仕込んでおけば簡単だ)、牛の体内から飛び出してグレムリンのように駆け回るなど、五つ前の「怪妊の事」と妙な生々しい雰囲気が繋がる。

 

・「牛の玉」底本の鈴木氏注に『嘉良喜随筆五に「世ニ牛ノ玉ト称スル物アリ。牛ニ限ラズ。鹿、野猪ニモアリ。獣ノ疣※也。玉ニアラズ」とある。これは松岡玄達の『詹々言』の抜書である。いぼまたはこぶであるという説』[やぶちゃん字注:「※」=「广」+「贅」。]とある。以下に少し注する。

●「嘉良喜(からき)随筆」は垂加流神道家にして国学者山口幸充(こうじゅう)の雑録集。引用が多い。成立年代不詳ながら、寛延期(一七四八年から一七五一年)か。

●「疣※」は「ゆうぜい」と読み、疣(いぼ)と瘤(こぶ)の意。

●「松岡玄達」(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)は博覧強記で医学にも精通した本草学者。

●「詹々言」は「せんせんげん」と読む(「詹々」は饒舌の意)。正しくは「恕庵先生詹詹言」で松岡玄達の遺稿集。寛延三(一七五〇)年版行。

 

 以下、私の見解を述べる。

 

 私はこの「耳嚢」に載せたものは多分に人工的な偽物であるように思われる、但し、「牛玉」と呼ばれるものには複数の対象が存在し、総てを紛い物と断ずるわけにはゆかない。これがキッキュな見世物でないとすれば、一つは所謂「牛黄(ごおう)」、実際に牛の胆石(及び他臓器の結石も含む)を陰乾にしたもので、生薬として知られるものを指すと考える。濃黄色で骰子状の塊であるのが一般的。法隆寺などで行われる年初の法要である修二会(しゅにえ)では法会の始めに「牛玉降ごおうおろし」が行われており、堂内にこの牛玉(牛黄)を運び入れるが、これは稀少なる聖的な超自然の呪物としてのその活力で法会の成就を祈るとともに、魔障を祓うものとして機能している。次の「鹿玉」も同様のものと考えられ、これらは主に馬・牛・鹿・犬など哺乳類の腹中に生ずる結石や毛玉様のものを言う。石糞(せきふん)・鮓答(さとう)・ヘイサラバサラなどとも言う。私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷四十」の「猨(えんこう)」の注(膨大な注なので、ずっと後にある)で引用した、同じ「和漢三才圖會 卷三十七 畜類」にある「鮓荅」のテクスト及び私の注を以下に引用する(本記載が引用する「本草綱目」等を渉猟している点で、参考になる。但し、この引用は、かなりの分量であるのでご覚悟あれ。なお、引用に際しては、私が校訂した煩瑣な注記記号などは省略、私の注の一部や引用にあるアラビア数字を漢数字に変更した)。

 

へいさらばさら

へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】

鮓荅

ツオ タ

 

「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之を裹(つつ)む。多きは升許りに至る。大なる者は雞子(けいし)のごとく、小なる者は栗のごとく、榛(はしばみ)のごとし。其の状、白色、石に似て石に非ず。骨に似て骨に非ず。打ち破れば層疊す。以て雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、即ち此の物なり。曰く、蒙古(むくり)の人、雨を禱(いの)るに惟だ淨水一盆を以て石子數枚を浸し、淘漉(すすぎこ)し、玩弄し、密かに咒語(じゆご)を持(じ)すれば、良(やや)久しくして輙(すなは)ち雨ふる。石子を鮓荅と名づく。乃ち走獸の腹中に産する所のものなり。獨り牛馬の者、最も妙なり。蓋し牛黄・狗寶の類なり。鮓荅【甘・鹹にして、平。】は驚癇・毒瘡を治す。』と。

 

△按ずるに、阿蘭陀より來たる平佐羅婆佐留(へいさらばさら)有り。其の形、鳥の卵(こ)のごとく、長さ寸許り淺き褐(くろ)色、潤澤。石に似て石に非ず。重さ五六錢目可(ばか)り。之れを研磨すれば、層層たる理(すぢ)有りて卷き成す者のごとし。主に痘疹の危症を治し、諸毒を解す、と。俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵痕(きづ)、贅(こぶ)と成りたる肉塊(かたまり)なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。

 

[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (expelling)+ zahr (poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。鮓答(さとう)とも書いた。やはり良安もこの「鮓荅」の直前にある「狗宝」で述べているが、牛のそれを牛黄・牛の玉、鹿のそれを鹿玉(ろくぎょく/しかのたま)、犬では狗宝(こうほう/いぬのたま)、馬では馬墨(ばぼく)・馬の玉、その他、犀の通天(たま)などと各種獣類の胎内結石を称し、漢方では薬用とする。

 

それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon & Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」の「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記載されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。

 

   《引用開始》

 

『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。

 

鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ

 

牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]

 

日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は十四世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が一三六六年、モンゴル王朝であった元が一二六〇~一三六八年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]

 

   《引用終了》

 

・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。

 

・「雞子」鶏卵。

 

・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii の実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。

 

・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。

 

・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。

 

・「蒙古(むくり)」蒙古(もうこ)はモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古高句麗(むくりこくり)の鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は見慣れたものであったと思われる。

 

・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。

 

・「咒語」まじないの呪文。

 

・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。

 

・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛一〇〇〇頭に一頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ五倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の四種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。

 

・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。

 

・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。

 

・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。

 

・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。

 

・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の十分の一。時珍の明代では一両が三十七・三グラムであるから、二十グラム前後。

 

・「痘疹」天然痘。

 

・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、

 

『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷の痕(あと)が贅肉(こぶ)となったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかであろう。』

 

と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、

 

『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものは猿と人とのものなのではなく、牛馬に生ずるところの結石であること、最早、明白である。』

 

と言っているのである。

 

※以上、「和漢三才圖會」「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注の引用を終了、同時に本「牛玉」の注も終わりとする。ここまで読まれた私の熱心な読者へ――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!

 

・「潔白ならざる玉をも、など生へて有物也。」底本では「玉をも、など」の右に『(尊本「玉の、毛など」)』と傍注する。明らかな脱文である。

 

・「三、四寸」凡そ一〇~一二センチメートル。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 牛の玉の事

 

 牛の玉と称し、社寺の開帳などの際に霊宝などと唱えては仰々しく見せるものがある。

 薄汚れた、毛なんどが生えたりしておる「玉」である。

 ものによっては、自然と、もぞもぞと動いたりするを、人々は殊の外、不思議なものとして賞美致すのであるが――これは、はっきり申して何の役にも立たぬ代物である。

 これに関わって――隠岐国というのは、野飼いの牛が大層多いところで、知人佐久間某が、先年、御用により、かの国へ参って目の当たりにしたということを――以下に記しおく。

 

……牛の中には牛小屋に入らず、野良に寝起きしておる牛も御座った。

……耳の中からか或いは口の中からか、何処より出でたるものか、そこのところは見極めること、これ、出来ませなんだが……三、四寸もこれ御座る丸いものが、その牛の廻りを駆け回って御座って……牛飼いの童(わらんべ)がその辺に御座った茶碗のような物でうち押さえ、捕まえました故、

「それは何じゃ?」

と尋ねましたところ、

「牛玉。」

と、申しました。

……我らが存じております「牛玉」なるものは、これ、駆け歩いたり致すことは御座らぬが……まあ、「動く」と申す点では、これ、相違御座らぬ。

……これは、牛の腹中に棲むところの、何らかの生き物なので御座ろうか?

……ああ、それから、この「もの」を摘出致いて後も、牛は別段、平気で御座る。……

 

とのことである。

 

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