生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 二 消化器の退化
二 消化器の退化
寄生動物は獨立に生活するものとは違ひ、他の動物が食物を消化してその滋養分を濾し取つた液を吸ふのであるから、自分で更にこれを消化する必要がない。それ故寄生動物では消化の器官は退化するばかりで、特に他動物の腸の中に寄生するものの中には、全く消化器官のない種類もある。宿主動物の外面に吸ひ著いて居る寄生蟲は、血液を吸ひ取るに適した特殊の口がなければならぬが、宿主動物の内部に住んで居る寄生蟲は、全身滋養液の中に浸されて居ること故、皮膚の全面からこれを吸收さへすれば、別に口がなくとも差支はない。
一體動物の消化器官の發達は食物の如何によつて大に違ふもので、腸の長さなども肉食動物と、草食動物とでは非常な相違がある。羊とヘウ〔ヒョウ(豹)〕とは略々同大であるが、豹の腸は體の長さの三倍よりないのに、羊の腸はその二十七八倍もある。かやうに長い腸が狹い腹の内に藏つてあるから、勢ひ何囘も曲りくねつて居る。支那人が屈曲した山道を形容して「羊腸」といふのは尤もな語である。動物園へ行つて見ても、「へう」〔ヒョウ(豹)〕の腹はいつも小さいが、山羊の腹は太鼓のやうに膨れて居る。これも腸の長短とその内容物の多少とによつて起る相違である。何故草食動物は腸が長くて、肉食動物は腸が短いかといふに、草の葉には滋養分が少くて滓が多いから、これを消化して吸收するには餘程手間が掛かるが、肉の方は滋養分に富んで居て、溶けて濃い液となり、速に吸收せられるからであろう。人間でも植物を多く食ふ國の人は腸が長く、肉を多く食ふ國の人は腸が短い。且その排出する糞便も肉食の人は少量であるが、植物のみを食ふ人のは太くて見事である。されば腸の長さを測れば、それでその動物が肉食性のものか、草食性のものかおよその判斷が出來る。
[ヂストマ]
動物の中で滋養分の最も多い不消化物の最も少い、贅澤な食物を取るのは寄生蟲である。寄生蟲の食物は多くは宿主動物の血液か、または組織を濕す淋巴液などであるが、これらは、その動物が食物を消化してその滋養分だけを吸收して造るもの故、殆ど滓含まぬ純粹な滋養物である。それ故、これを吸つて居る寄生蟲には肛門のないものが幾らもある。蛔蟲〔カイチュウ(回虫)〕は人の腸の内に居て腹の内容物を食うて居るから、口も食道も腸も肛門もあるが、肺や肝の内に寄生する「ヂストマ」の類になると、口と腸とはあるが、その先は行き止りになつて肛門はない。恐らく、これらの蟲は生まれてから死ぬまで食物を食ふだけで、決して、糞便を排出することはないのであらう。また「さなだむし」の類は常に腸の内に住んで、溶けた滋養分の中に漬けられて居るから、たゞ全身の表面からこれを吸收するだけで、特に體内の一箇所へ吸ひ入れるといふことはない。それ故この類には口も腸胃も肛門もなく、消化の器官は影も形もない。このやうなことは外界に獨立生活する動物では夢にもあり得べからざることである。生活するには食はねばならず食ふには消化器を要することは、獨立生活する動物の通則であるが、寄生動物は、食つて消化することは宿主動物にさせて置き、出來上がつた滋養分を分けて貰ふのであるから、自身に消化器がなくとも生活出來る。
[「かに」とその寄生蟲
(イ)根狀の頭の基部 (ロ)生殖孔]
全く消化器を持たず、しかも宿主動物の身體の全部から滋養分を吸ひ取りながら、自身は宿主動物の外面に付著して居る面白い寄生蟲がある。海岸の岩の間を走つて居る「かに」を捕へて見ると、往々腹に丸い團子の如きものの著いて居るのを發見するが、この圓いものは一種の寄生蟲で、卵から孵化したときの姿を見ると「ふぢつぼ」、「かめのて」などの仲間であることが確に知れる。この蟲は蟹の俗に褌と名づける部の根元に附著し、全身が現れて居るが、その吸ひ著いて居る部を探つて見ると、長く「かに」の體内に入り込み、恰も樹の根の如くに枝に分かれ無數の細い絲となつて、内臟は素より足の爪の先から眼の中、鋏の末端までも達して居る。これを用ゐて「かに」から滋養分を吸ひ取る有樣は、全く樹木が根によつて地中から養分を吸ひ込むのと同じである。そして根の如き形をして居るのは、實はこの蟲の頭部に當るからこの類を根頭類と名づける。
[やぶちゃん注:本段落に示された蟹の寄生虫は顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱根頭上目Rhizocephala のケントロゴン目 Kentrogonida 及び
アケントロゴン目 Akentrogonida に属する他の甲殻類に寄生する寄生性甲殻類であるフクロムシ類である。本邦での分類学的研究は昭和一八(一九四三)年以降、殆んど行われていないが、ここで丘先生が挙げておられるのは、日本固有種で主にイワガニ類に寄生するケントロゴン目フクロムシ科ウンモンフクロムシ
Sacculina confragosa と考えてよい。多くの人は卵を持った蟹と誤認しているケースが多いと思われる(後述するようにその付着部位や見た目の形状・色彩が個体によって蟹の抱卵する卵塊と酷似する場合があるからである)。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(保育社)の記載によれば、空豆形で、個体によって白・黄・茶色などの多彩な色を持つ。柄は短く、外套口(丘先生の図で矢印(イ))は中央にあり、突出する。表面には棘を欠き、一面に波模様の隆起を持つ。周囲も波形に縁どられている。大きさは宿主の腹部の大きさによって変化し、長径五ミリメートルから三〇ミリメートル前後と幅がある。複数個体が附く場合も稀ではない。――本文記載を読んだ方は気がつかないか? ――私は最初に映画の「エイリアン」を見た時――あの幼虫期の寄生性のエイリアンの寄生形態は――フクロムシがヒントだな――と思ったものである――]
[やぶちゃん注:左に『「とんぼ」の頭部』の、右に『「かめむし」の頭部』のキャプション。]
動物が運動するのも感覺するのも、一は餌を取るためであるが、寄生動物は餌を求め歩く必要がないから、運動の器官が退化すると同時に感覺の器官も段々衰へる。獨立動物と寄生動物とを比較して見ると、寄生動物のほうは運動の器官が退化して居ることは前にも述べたが、感覺の器官もこれと同樣で、「ヂストマ」や「さなだむし」などの如き模範的の寄生蟲には、眼も耳も鼻も全くない。一體動物の感覺器の發達は餘程まで、その動物の運動の速さに比例するもので、運動の速い動物では一刻毎に今まで遠く離れて居た新たな外界に接すること故、前以てこれに應ずる手段として視覺などは特に發達する必要がある。鳥類の飛翔は、すべての動物中で他に類のない速な運動法であるが、これに伴ふ鳥類の視力の鋭さは他動物の遠く及ぶ所ではない。されば運動せずに固著して生活する寄生動物には、比較的感覺器の發達せぬのは當然のことと思はれる。昆蟲などでも、速に飛ぶ「とんぼ」、運動の遲い「かめむし」、犬・猫の毛の間に住む「のみ」と順を追つて比べると、眼の段々小さくなることが知れるが、「のみ」の或る種類になると眼は全くない。これを見ても運動の必要のない寄生生活をする動物では、感覺器及び神經系が次第次第に退化するものであることは確である。