香水や驟雨襲へる展望車 畑耕一 + 浅草の観覧車詳細注
香水や驟雨襲へる展望車
[やぶちゃん注:これは推測であるが、浅草六区にあった観覧車ではなかろうか? 以下、「元東京もやしっ子」氏の「探検コム」の「本邦初の観覧車を見に行く」に詳しい解説と写真があり、以下の記載もその内容を参照させて戴いた。当初は明治四〇(一九〇七)年四月に上野で開催された東京勧業博覧会の目玉として建造されたもので、電動、高さ約三〇メートル、一つの観覧車に五人から一〇人程度の客を収容出来た。小栗虫太郎の「絶景万国博覧会」には当時の様子を描写して、
『そのように、可遊小式部の心中話が、その年の宵節句を全く湿やかなものにしてしまい、わけても光子は、それから杉江の胸にかたく寄り添って階段を下りて行ったのだった。然し、一日二日と過ぎて行くうちには、その夜の記憶も次第に薄らぎ行って、やがて月が変ると、その一日から大博覧会が上野に催された。その頃は当今と違い、視界を妨げる建物が何一つないのだから、低い入谷田圃からでも、壮大を極めた大博覧会の結構が見渡せるのだった。仄(ほん)のり色付いた桜の梢を雲のようにして、その上に寛永寺(かんえいじ)の銅(あか)葺屋根が積木のようになって重なり合い、またその背後には、回教(サラセン)風を真似た鋭い塔の尖(さき)や、西印度式の五輪塔でも思わすような、建物の上層がもくもくと聳え立っていた。そして、その遥か中空を、仁王立ちになって立ちはだかっているのが、当時日本では最初の大観覧車だったのだ。』(引用は青空文庫版を用いた)
但し、これ、「元東京もやしっ子」氏も指摘されている通り、当時、明治三四(一九〇一)年生まれの小栗は当時六歳であるから、実景の描写とは考えにくい。同時代批評としては、「元東京もやしっ子」氏が次に引用する夏目漱石の「虞美人草」で、主人公が師事した井上孤堂を、皮肉たっぷりに描写するのに観覧車がメタファーとして用いられているが、「虞美人草」の起稿は正に明治四〇年の六月四日で、脱稿は同八月三一日から九月二日の間であるから(ロンドンでの管見はあったかも知れないが)、恐らくはこの隠喩の観覧車のイメージは、アップ・トゥ・デイトに実見した、この観覧車と考えてよい。
『径(さしわたし)何十尺の円を描(えが)いて、周囲に鉄の格子を嵌(は)めた箱をいくつとなくさげる。運命の玩弄児(がんろうじ)はわれ先にとこの箱へ這入(はい)る。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
英吉利式(イギリスしき)の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い髯(ひげ)に、世を佗(わ)び古りた記念のためと、大事に胡麻塩(ごましお)を振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片々(かたかた)が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。
昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、降(くだ)りつつ夜に行くものの前に鄭寧(ていねい)な頭(こうべ)を惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。』
東京勧業博覧会閉幕後、この観覧車は浅草六区の南に移設されるが、明治四四(一九一一)年には解体され、後地には大正の浅草オペラの牙城となった活動写真館金龍館が建てられた。なお、引用元には福井優子「観覧車物語」に拠って、前年の明治三九(一九〇六)年の大阪に於ける日露戦争戦勝紀年博覧会場に建造された蒸気機関による「展望旋回車」を本邦観覧車の嚆矢とする旨の記載があるが、漱石はこの年、大阪に行った形跡はない。]