耳嚢 巻之五 貮拾年を經て歸りし者の事
貮拾年を經て歸りし者の事
江州八幡(がうしうやはた)は彼國にては繁花成る町場の由。寬延寶曆の頃、右町に松前屋市兵衞といへる有德成(うとくなる)者、妻をむかへて暫く過しがいづちへ行けん其行方なし。家内上下大きに歎き悲しみ、金銀を惜まず所々尋けれども曾て其行方知れざりし故、外に相續の者もなく、彼妻も元々一族の内より呼(よび)むかへたる者なれば、外より入夫して跡をたて、行衞なく失ひし日を命日として訪(と)ひ吊(とむら)ひしける。彼(かの)失ひし初めは、夜に入(いり)用場(ようば)へ至り候とて下女を召連、厠の外に下女は燈し火を持待居(もちまちをり)しに、いつ迄待てども不出(いでず)。妻は右下女に夫の心ありやと疑ひて彼かわや[やぶちゃん注:ママ。]に至りしに、下女は戶の外に居し故、何故用場の永き事と表より尋問しに一向答なければ、戶を明け見しにいづち行けん行方なし。かゝる事故其砌は右の下女など難儀せしと也。然るに貮拾年程過て、或日彼かわやにて人を呼び候聲聞へし故至りて見れば、右市兵衞、行方なく成し時の衣服に少しも違ひなく坐し居し故、人々大に驚きしかじかの事也と申ければ、しかと答へもなく、空腹の由にて食を好(このむ)。早速食事など進けるに、暫くありて着し居候(をりさふらふ)衣類もほこりの如く成て散り失て裸に成し故、早速衣類を與へ藥杯あたへしかど、何かいにしへの事覺へたる樣子にも無之、病氣或は痛所抔の呪(まじなひ)などなしける由。予が許へ來る眼科の、まのあたり八幡の者にて見及(みおよび)候由咄しけるが、妻も後夫(うはを)もおかしき突合(つきあひ)ならんと一笑なしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:俗にこうした現象を「天狗の神隠し」と言った。天狗連関。彼の記憶喪失は逆向性健忘でも、発症――失踪時――以前の記憶の全喪失+失踪の間の記憶喪失にあるようだ。一過性のものであることを祈る。――服がみるみる埃りのように裸になるところが、いいね! 最後の附言などからは、私は根岸は本話を信じていない、という気がする。
・「江州八幡」近江商人と水郷で有名な現在の滋賀県近江八幡市。
・「寬延寶曆」西暦一七四八年~一七六四年。その二十年後となると単純に示すなら明和四年(一七六八)年~天明四(一七八四)年となり、執筆推定の寛政九(一七九七)年からは凡そ三十年から十三年程前のやや古い都市伝説となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川強氏の附注に『夫失跡、妻再婚、前夫帰還の話は西鶴ほか先行例があり、これに神隠しを結びつけた』話柄と解説されている。インスパイアされた都市伝説の一種である。
・「松前屋市兵衞」不詳。何に基づくのか分からないが、ネット上のある梗概抄訳では反物商とする。
・「厠」底本では「廚」で右に『(厠カ)』と傍注する。直前に「用場」(便所)ともあり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「厠」であるから、明らかな誤りと見て訂した。
・「予が許へ來る眼科」根岸の友人には医師が頗る多い。
・「後夫(うはを)」「ごふ」とも読む。
・「突合」底本では右に『(附合)』と傍注。
■やぶちゃん現代語訳
二十年を経て帰って来た者の事
江州八幡は――近江商人発祥の地として知られるだけに――彼の国ではとりわけ繁華な町場の由。
寛延・宝暦の頃とか、この町の松前屋市兵衛と申す豪商、妻を迎えてそれほど立たぬうちに、一体、何処へ行ったものやら、突如、失踪致いた。
家内は上へ下への大騒ぎ、悲嘆に暮れ、金銀を惜しまず、あらゆる所を捜し歩いたものの、その行方は杳(よう)として知れなんだという。
されば――未だ子もおらず――他に家を相続する者とてなく――かの妻も、元々一族の内より迎え入れた者で御座ったによって――外(そと)より聟(むこ)を入れて跡目を立て――行方知れずとなった、その日を命日とし、懇ろに弔(とむろ)うて御座った。
さても、その失踪の様子は、以下のような奇怪なもので御座った。
彼は、その夜(よ)、
「便所へ参る。」
と、下女を召し連れて行き、厠の外にて、下女は、燈し火を持って待って御座った。
ところが何時まで待っても――主人は、出てこない。
一方、妻の方は――当時、日頃より、夫が常に傍に置いて用立てさせるところの――この年若い下女と夫の仲を疑って御座った故、長く厠から戻らぬ二人に、悋気(りんき)を起こし、厠へと駈けつけてみた――ところが――下女は、厠の戸の前に、一人ぽつんと立って御座る。
されば妻は、厠に向かい、
「……もし! あまりに長き用場なれば……何ぞ御気分でも、悪うなされましたか?……」
と声をかけた。
……が……
……一向、返事がない……
……思い余って、戸を開けてみたところ……
……何処へ行ったものか……
……市兵衛の姿は……
……忽然と消えていた。……
――時に……こういった次第で御座ったれば……その失踪当時、この下女なんどは、種々と穿鑿され、疑いをも掛けられ、いやもう、ひどく難儀致いた、とのことで御座った。……これはさて。閑話休題。
ところが、それから二十年程経った、ある日のことで御座る。
――かの厠にて、誰ぞが人を呼んでおる声が致いた。……
……家人が行って戸を開けて見ると……
……そこには……
……かの市兵衛が……
……行方知れずなった折りの衣服と寸分違(たが)わぬものを、これ、着(ちゃく)し……
……座り込んで――御座った――
人々、吃驚仰天、口々にあれこれと話しかけてみたものの……市兵衛は、これ、呆(ほう)けた顏で一向に要領を得ぬ。そうして唯、
「……は、ハラ……へった……」
と、蚊の鳴くような声で食い物を求めるばかり。
早速に食事なんどを出だしやり、一心に飯を掻き込んでおるその姿を見守っておると……
……暫くして……
……豚のように食うておる……そのそばから……
……着ている衣類が……
……細かな細かな……
……埃の如くになって……
……崩れ落ち……
……市兵衛は、これ……
……素っ裸かに……なっていた。
――素っ裸かの市兵衛は――それでも一心に飯を掻っ込んでいる――
そこで、早速に衣類を着せ、在り合せた薬なんどをも与えてはみたけれども……
……市兵衛、これ、いろいろ訊ねてみても……
……出生以後のことは総て……
……妻のことも、失踪の前後の出来事も勿論、失踪していた間の記憶も一切合財……
……どうも全く……
……これ、覚えて御座らぬような様子であったそうな。……
……今は……そうした物忘れの病いに効くと申す薬やら……或いは、頻りに体の随所を痛がる風なれば……鎮痛の呪(まじな)いやらを施してやったる由に御座る。……
以上は、しばしば私の家に参る眼科医――まさに八幡生まれの者にて御座る――が、この市兵衛を見、また、その家人より聞いた話なる由。
我ら聞き終えて、
「……いや、何より、その妻も、その後から入った聟殿も……何ともはや、おかしくも困った付き合いを……その後に致さねばならぬ仕儀と相いなったものじゃの。」
と、彼とともに一笑致いて御座った。