アリスよ
君は急速に僕の年齢に近づく――分かったよ――君は僕のジェニーだったんだね……
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君は急速に僕の年齢に近づく――分かったよ――君は僕のジェニーだったんだね……
怪竈の事
餘程以前の事なる由、改代町(かいたいちやう)に住(すみ)ける日雇取(ひようとり)一ツの竈(へつつい)を買ふて、我が走(はし)り元(もと)に直し置て煮焚(にたき)せしに、二日目の夜右竈のもとを見やれば、きたなげなる法師の右竈の下より手を出しけるに驚、又の夜もためしけるに猶同じ事也。右下には箱をしつらひ割薪(わりき)抔入れ置(おけ)ば、人の這入(はいい)べきやうなし。心憂き事に思ひて彼(かの)賣(うり)ける方へ至り、右竈は思(おもは)しからず取替へ吳(くれ)候樣に相賴(あひたのみ)、最初の價ひに增して外の竈を取入(とりいれ)ければ其後怪もなし。しかるに右竈を仲間の日雇取調ひける故、其買得し所など尋しに違ひなければ、一兩日過(すぎ)て右仲間の元へ尋行(たづねゆき)しに、不思議なる事は彼竈の下より夜每に怪しみありと語りける故、さらば我も語らん、彼竈一たん調へしが怪敷(あやしき)事有し故返し取替(とりかへ)たり、御身も取替可然(しかるべし)と敎へける故、是も少々の添銀(そへぎん)して他の竈と引替(ひきかへ)けるが、彼(かの)男あまりに不思議に思ひて、彼(かの)商ひし古道具屋へ至り、右竈は如何成(いかがなり)しやと尋けるに、外(ほか)へ賣(うり)しが又歸りてありと語りける間(あひだ)、委細の譯を咄しければ、かゝる事の有べきやうなし、商ひ妙に疵付(きづつけ)候抔少し憤りける故、然らば御身の臺所に置(おき)て檢(ため)し給へと言ひて別れしが、彼古道具一ケ所ならずニケ所より歸りしは譯もあらんと、勝手の間(ま)へ引入(ひきいれ)て茶抔煎じけるに、其夜心を付(つけ)て見しに、果してきたなき坊主の手を出しはね𢌞る樣子ゆへ、夜明けて早々右竈を打(うち)こわしけるに、片隅より金子五兩掘出しぬ。扨は道心者抔聊(いささか)の金子を爰に貯(たくはへ)て死せしが、彼(かの)念殘りしやと人語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。本巻最初の本格幽霊物で、所謂、落語の「竃幽霊(へっついゆうれい)」のオーソドックスな原型である。ウィキの「竃幽霊」によれば、原話は執筆推定の寛政九(一七九七)年春から遡ること、二四年前の安永二(一七七三)年に出版された笑話本「俗談今歲花時(ぞくだんことしばなし)」の一遍である「幽霊」である、とする。岩波版長谷川氏注は竈から出る幽霊の濫觴として、これより早い都賀庭鐘(つがていしょう)の「英草紙(はなぶさそうし)」(寛延二(一七四九)年刊であるから、これだと五十年前となる)の第五巻にある「白水翁(はくすいおう)が売卜直言奇(ばいぼくちょくげんき)を示す語(こと)」を挙げる(但し、これは姦婦と間男に殺された和泉国堺の郡代支配の武士の霊で、その出現を契機に真相が暴露されていく裁判物であり、私は読むに、それほど本話との類似性を感じさせないように思われる。なお、この話は上智大学木越研究室の木越治氏の手になる「英草紙」全電子テクストで読むことが出来る)。また、元は「かまど幽霊」という上方落語で、大正初期に三代目三遊亭圓馬が東京に持ち込んだ、とあるが、本話は既に新宿改代町を舞台とする江戸の話となっている。原話自体の流入とインスパイアは早かったことが本話によって分かる。私の現代語訳の後にウィキに載る「竈幽霊」の梗概を参考として転載させて頂いた。
・「怪竈」標題は「かいさう(かいそう)」と音で読んでいよう。竈は訓では「かまど」「へつひ(へつい)」「へつつひ(へっつい)」と読む。「へっつい」は「竈」の意である「へ」+「の」の意の古形の格助詞「へ」+霊威を意味する「ひ(い)」の原型「へつい」んび促音添加が起きたもの。本来は火を神格化した竈神(かまどがみ)を指す。関西では「へっつい」の呼び名が一般的であるが、京都では「おくどさん」と呼ぶ。
・「改代町」現在の東京都新宿区改代町。町名の由来はウィキの「改代町」によれば、元は牛込村の一部で沼地であったが、慶長期(一五九六年から一六一五年)の江戸城整備に伴い、雉子橋付近の住人が牛込徒町(現在の北町・中町・南町)に移転し、承応三(一六五四)年に改めて当地を代地として与えられ、芥を埋め立てて段階的に宅地化、当初、牛込築地替代町と書かれたことに基づく。江戸時代には古着屋が軒を連ねたとある。
・「日雇取」の「日雇」は「日傭」「日用」とも書き、現在の「日雇い」と同じく、一日契約の日雇い労働者のこと。
・「竈」底本には『(尊經閣本「へつつい」)』と傍注するが、私はこの「竈」自体をそう読ませることにする。
・「走り元」台所の流し。単に「走り」とも言う。
・「檢(ため)し」は底本のルビ。
・「しかるに右竈を仲間の日雇取調ひける故」の「右」はあるとおかしい。現代語訳では省略した。
・「はね𢌞る」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『這廻(はいまわ)る』。跳ね廻るでは失笑を買いそうだ。「はひ廻る」の原本筆記者の誤字ではあるまいか? 訳では「這ひ回る」と採って訳した。
・「打こわしける」ママ。
■やぶちゃん現代語訳
怪竈の事
余程、前の話で御座る由。
新宿改代町(かいたいちょう)に住んでおった、日雇いを生業(なりわい)と致す者が、一つの中古の竈(へっつい)を買(こ)うて、己(おの)が長屋へ持ち帰り、軽く修繕なんど致いた上、流しの脇に据え置いた。
二日目の夜、男は、何となく妙な気配を感じて、部屋から、かの竈の方をちらと見やった……
……すると……
……如何にも汚らしい僧形をした男が一人……
……かの竈の下の火口(ほぐち)の中に顏を見せ……
……こっちを……
……うらめしそうに……
……見……
……火口(ほぐち)から……
……右手を出すと……
……ゆっくら……
……ゆっくら……
……オイデ……
……オイデ……
……をして御座った……
……吃驚仰天した男が竈(へっつい)のところへ駆け寄ったところが……
……坊主は、消えておった。…………
翌日の夜も、同じく試して見たところが……
……やはり……
……坊主が一人……
……かの竈の下の火口に顏を見せ……
……こっちを……
……うらめしそうに……
……見ては……
……火口から……
……右手を出し……
……ゆっくら……
……ゆっくら……
……オイデ……
……オイデ……
……をして御座った……
……駆け寄ったところが……
……坊主はやっぱり、消えて御座らぬ。…………
竈(へっつい)の下には箱を据え置いて、割った薪(たきぎ)などを入れて御座った故、そこはとてものこと、人の潜り込めるような余地なんど、あろうはずも、これ御座ない。
訳も分からず、余りにおどろおどろしきことなれば、男は、竈(へっつい)を買(こ)うた店に、かの竈(へっつい)を持ち込み、
「……あのよ、この竈(へっつい)……どうも、いけねえ!……取り換(け)えて呉んねえか?……」
と頼み込んで、最初に払った金子に更に色を附けた上、別の竈(へっつい)を買(こ)うて、長屋に運び込んで同じ場所に同じ如、据え付けてみたところが、その後、何の怪しいことも起こらなんだ、と申す。
ところが、ある日のこと、同じ日雇いの仲間が、
「儂(わし)、竈(へっつい)、買(こ)うた。」
と話しかけて来た故、即座に、
「……おい! その竈(へっつい)、何処(どこ)で買(こ)うた?」
と質(ただ)いたところが、先般、男が例の妖しき竈(へっつい)を買(こ)うて取り換えた店に、これ、違い御座らぬ。
二、三日して、その仲間の長屋を尋ねてみると――何やらん、顔色が悪く、塞ぎ込んでおる様子。そうして、話の初っ端から、
「……じ、実はのぅ……不思議なことが……あるじゃ。……あれ、あそこにある……ほうれ……あ、あの竈(へっつい)、の……あの竈(へっつい)の下より……夜毎夜毎……怪しいことが……これ、起こる、じゃぁ……」
と呟いた故、
「そうじゃろ! それよ! それ! 俺も話したろうじゃねえか! 実は、よ……あの竈(へっつい)、一旦は俺が買(こ)うたもんなんじゃ!……ところが、その……そのぅ、やっぱしよ、怪しいことが起こりよったのでよ、元の店に持ち帰(けえ)って別の竈(へっつい)に換えて貰(もろ)うたじゃ。……お前(めえ)も、何より、取り換(け)えるが、これ、一番だぜえ!」
と諭した故、この男も、同じように元の代金に少々色を添え、他(ほか)の竈(へっつい)と取り換えてことなきを得た、と申す。
さて、ところが、この最初の男、どうにも、あの妖しき竈(へっつい)のことが気になって気になって、しょうがない。
ある日のこと、例の古道具屋へぶらりと立ち寄ると、
「……俺が取り換(け)えた例の竈(へっつい)、な……あれ、どうなったい?」
と水を向けた。
「ああ、あれか? 他(ほか)へ売ったんじゃが、何故か知らん、また同(おんな)じように、戻って来よって、ほうれ、そこにあろうが。」
と語った故、男は、かの竈(へっつい)を気味悪そうに横目で見ながら、
「……実は、の……」
と、彼の体験したことと、かの仲間の話の委細を話したところが、
「――んな、話があるけえッ! あるはずネエッ!――手前(てめえ)! おいらの商品にケチつけようって、かッ?!」
と、気色ばんで御座った故、
「……んならよッ! お前(めえ)さんとこの、台所(でえどころ)に置いてよ! 一つ、試してご覧ないッ!」
と売り言葉に買い言葉で、立ち別れて仕舞(しも)うた。
古道具屋は、しかし、その日、
「……一度ならず、二度までも出戻ったってえことは、だ……これやっぱし何ぞの訳も、これ、あるに違いないわのぅ……」
と思い直し、男が最後に言った如、かの竈(へっつい)を、店の裏の勝手の土間へと引き入れ、茶なんどを煎じてみたりした。
その晩のことである。
主(あるじ)、さっきから気をつけて、居間から竈(へっつい)の方(かた)を度々見てみて御座った。
……と……
……果たして……
……如何にもきったねえ坊主が……
……竈(へっつい)の下から両の手(てえ)を出し……
……そこから……
……ズル……
……ズル……
……ズルズル……
……と這い出て来る……
……そうして……
……蛇(くちなは)ののたくる如……
……竈(へっつい)の廻りを……
……ズル……グル……
……グル……ズル……
……ズルグル……グルズル……
……グルグルズルズル……
……ズルズルグルグル……
……這い回る……
……恐懼しながらも、天秤棒を執って駆け寄ったところが……
……駆け寄ってみれば……
……坊主は消えていた……
……しかし……
……離れて暫くすると……
……またぞろ……
……竈(へっつい)を這い出て来て……
……竈(へっつい)の廻りを……
……ズル……グル……
……グル……ズル……
……ズルグル……グルズル……
……グルグルズルズル……
……ズルズルグルグル……
……這い回る……
……消える……出る……消える……出る…………
……かくして夜が明けて御座った。
主は早速、裏庭に件(くだん)の竈(へっつい)を引きずり出すと、大槌(おおづち)で以って徹底(テッテ)的に叩き潰さんとした。すると、
――ガッツ!
――ボロリ!
という一撃の後、
――チャリン!
と、竈(へっつい)の壊(こぼ)ちた片隅から、何と、金五両が、転がり出でたということで御座った。……
「……さては、僧侶の、道心者にも拘わらず、秘かに貯えて御座った聊かの金子、これ、この竈(へっつい)の角に塗り込めて隠しおいたままに死んだが、そのたかが五両への尽きせぬ妄執が、今に残っておったものかのぅ……いやあ、浅ましや、浅ましや……」
とは、さる御仁の語って御座ったことで御座る。
◎参考:落語「竈幽霊(へっついゆうれい)」(ウィキの「竃幽霊」の「あらすじ」より。文頭一字空けや、一部改行・句読点等記号追加変更を施した)
とある古道具屋で、いろいろと見繕っていた男の目に一つの竃(へっつい・以下平仮名で記述)が止まる。
へっついを三円で売り、お客の頼みで家まで運んだその夜、その客が戻ってきて道具矢の戸口をドンドンとたたいた。
「夜寝ていたらなぁ、道具屋。へっついの所からチロチロと陰火が出てきてなぁ、道具屋。幽霊がバーッ! 『金出せぇ~』、道具屋。」
仕方がないので、道具屋の規約どおりに一円五十銭で引き取り、店頭に並べるとまた売れた。そして夜中になると戻ってきて、一円五十銭で下取り。
品物は無くならない上に、一円五十銭ずつ儲かる……。最初は大喜びしていた古道具屋だが、そのうち『幽霊の出る道具を売る店』と評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。
困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいい人がいたら、一円付けて引き取ってもらうことにした。
そんな話を…通りで聞いていたのが裏の長屋に住む遊び人、熊五郎。
「幽霊なんか怖くない。」
と、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳さんを抱き込んだ上、道具屋に掛け合って五十銭玉二枚で一円もらい、件のへっついはとりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。
二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にゴチン。
その拍子に転がり出たのは、なんと三百円の大金! 幽霊の原因はこれか…と思い至り、百五十円ずつ折半し、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へ。
翌日の夕方、熊と徳さんが帰ってみると、二人ともきれいにすってんてん。
仕方がないから寝ることにしたが、その晩……徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て、
「金返せ~。」
徳さん、卒倒。悲鳴を聞いて飛び込んできた熊は、徳さんから話を聞いて、
『金を返さないと、幽霊は毎晩でも出てくる。』
と思い至る。
翌日、徳さんの親元から三百円を借りてきた熊五郎は、へっついを自分の部屋に運び込むと、お金を前に積み上げて
「出やがれ、幽霊ッ。」
と夕方から大声で。
草木も眠る丑三ツ時、へっついから青白い陰火がボーッと出て、
「お待ちどうさま。」
幽霊の話によると、この男は生前、鳥越に住んでいた左官の長五郎という男で、左官をやる傍ら裏で博打を打っていたそうで。
自分の名前に引っ掛けて、『チョウ(丁)』よりほかに張ったことはないこの男が、ある晩行った博打で大もうけ。
友達が借りに来てうるさいので、金を三百円だけ商売物のへっついに塗りこんで、その夜フグで一杯やったら……それにも当たってあえない最期。
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、この金も百五十円ずつ山分けにしようじゃねぇか。」
「親分、そんな……。」
「不服か? 実は俺もだ。そこで、こうしようじゃねぇか、俺もお前も博打打ち、ここで一つ博打をやって、金をどっちかへ押しつけちまおう。」
「ようがす。じゃあ、あっしはいつも通り『チョウ(丁)』で。」
「じゃあ俺は『ハン(半)』だ。やるのは二ッ粒の丁半、勝負! ……半だ。」
「ウゥーン……」
「幽霊がひっくり返るの初めて見たぜ。」
「親方、もう一勝負……」
「それは勘弁。てめえには、もう金がねえじゃねえか。」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません。」
◎参考:落語「竈幽霊(へっついゆうれい)」のオチのバリエーション(ウィキの「竃幽霊」の「オチのバリエーション」より。文頭一字空けを施した)
上方では、熊五郎がいかさま博打で幽霊から百五十円巻き上げ、それを元手に賭場で奮戦していると、そこに幽霊が出現。
「まだこの金に未練があるのか」
「いえ、テラをお願いに参じました」
「寺」と博打の「テラ銭」を掛けたもので、熊が幽霊に「石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろ」と言い渡したのが伏線となっている。
T大學齒科治療室
酒精燈の見えぬほむらと秋の蠅
[やぶちゃん注:個人的に非常に好きな句である。大学病院の薬品臭い、歯科治療室の古びた診療椅子――器具台の脇に燃える鬼火のようなアルコール・ランプ――その幽かな、ゆらぐことでしか分からぬ炎――秋の蠅……慄然とさせる幻想のモンタージュである。]
今日はお前の七歳の誕生日だね……換算すると48歳ぐらいらしいけれど、まだ、僕より若いよ……アリス……お前は永遠の僕の少女なんだ……
“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!
蟷螂の身をまげ草の葉をまぐる
蟷螂のなほ疑うて風に攀づ
[やぶちゃん注:中七が上手い。これはしばしばカマキリが首を傾げるような動作をするのを受けたものである。]
「明日何をしなければならない」という他動性よりも「明日何をしよう」という自発性が大切なことは言を俟たない。しかし「明日何をしよう」と思った時に「何もすることがないのではないか?」と一瞬でも感じることがあるとすれば、これはもう、病いに他ならない。
一瞬なる銀座風景大やんま
[やぶちゃん注:これはオニヤンマの巨大な複眼に映った幻想的な虹色の絢爛の景色に一瞬の銀座の夜景のような幻影を見た、という句ととるが、如何?]
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に正字正仮名で芥川龍之介「子供の病氣」(附やぶちゃん詳細注)を公開した。
正字正仮名版はネット上では初、本文の約三倍の僕の詳細注は、マニアックとまではいかないまでも、本作を読んだ若い読者が感ずるであろう、あらゆる疑問点に、可能な限り答えたつもりである。
唯一つ、遂に正体の分らない語句がある。病気の乳児の多加志の額に芥川が唇を押し当てて熱を見るシーン、
『自分は色の惡い多加志の額ひたひへ、そつと脣くちびるを押しつけて見た。額は可也火照かなりほてつてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた。』
の「しほむき」である。一応、注では、
〇「しほむき」不詳。本来は「汐剥き」「塩剥き」で、アサリ・ハマグリ・バカガイなどを生きている時に剥き身にすること、また、そのものを言うが、「自分は色の惡い多加志の額へ、そつと脣を押しつけて見た。額は可也火照かなりほてつてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた」という直後の描写からすると、額に唇を当てた際に視界に入る蟀谷(こめかみ)の青筋、静脈のことを言っているか? それとも剥き身の貝に近いというなら唇か? いろいろ調べてみたが、遂に分からない。識者の御教授を乞うものである。
と書いた。まっこと、識者の御教授を乞う――
【二〇一二年一〇月四日追記】「TINA」様という未知の女性の方から、「しほむきについて」と題されたメールを頂戴し、本件の謎を解明し得た。補塡したテクスト注又は当該解明過程を記したブログを御覧になられたい。
テツテ的に――やる――ゼ
……これは……直近では……現在作業中の、ある芥川龍之介のテクスト注への僕の本懐でもある……
蓮の葉に蜻蛉くづれてまた揃ふ
[やぶちゃん注:水辺の「蓮の葉」の搖れるところで蜻蛉が「くづれてまた揃ふ」というのは、私は彼らの交尾行動を指しているように読めるが、如何?]
とんぼうにすらりとゆけり刈る萱に
女力量の事
阿部家の家來何某の妻、ちいさき女成(なる)が、容貌又善きにあらず醜にもあらず。至て力强く、或時夫は番留守(ばんるす)成るに、右留守といへる夜には下女の方へ忍びおのこありしを、風與(ふと)聞付て憎き奴(やつ)かなと、彼(かの)忍び入る所を捕へて膝の下に敷(しき)て、何故(なにゆゑ)夫の留守に忍び入しや、不屆(ふとどき)成る仕方也(なり)と、片手に女を捕へ引居置(ひきすゑおき)ければ、大の男手を合せ詫(わび)ける故、以來右躰(てい)の猥(みだら)成る事あらば活(いき)ては置かじと折檻なして放しけるとぞ。又或日同長屋へ呼(よば)れて行しに、玄關は普請(ふしん)有て勝手口より入らんとせしに、右勝手口に米を三俵積置(つみおき)て通りふさがりし故、あるじの妻出て下男を呼て片付けさせんとせしに、取片付て通りませんと、右米を兩手に引提(ひきさげ)て中を通りしと也(なり)。怪力もあるもの也(なり)と人の語り侍る。
□やぶちゃん注
○前項連関:話柄自体に特に連関を感じさせないが、シークエンスの周縁の人々が驚き呆れる気配は妙に繋がる。
・「阿部家」「卷之四」の「修行精心の事」の底本鈴木氏注で「阿部家」を安倍能登守(忍城主十万石)の他、同定候補として四家を挙げておられる。
・「奴」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ヤツ」とルビを振る。
・「引居置(ひきすゑおき)ければ」の「すゑ」は底本にもルビがある。
・「通りません」(近世語。丁寧の意を表わす助動詞「ます」未然形+推量の助動詞「む」の音変化「ん」の連語)現代語にも残る話し手の意志を丁寧に表わす「ませう(ましょう)」と同じ。なお、「ます」は、「参らす」(「まゐる」+使役の助動詞「す」)が室町期に変化して生じた謙譲・丁寧語の「参らする」が、発音上で「まらする」「まいする」「まっする」などと変化、更に活用・意味の上で「申す」の影響も受けて「ます」となったものであるが、その「ます」の活用も近世初期にあっては初期変化形の「まらする」の影響から「ませ・まし・ます(る)・まする・ますれ・ませ(い)」というサ変型であったものの、近世中期以後は終止形・連体形が「ます」に代わるようになった(以上は主に小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
■やぶちゃん現代語訳
女強力の事
阿部家の家来何某(なにがし)の妻と申す者……容貌は……ふむ……これ、美しくもないが、また醜くも……御座らぬ。ただ……途轍もない――怪力――で御座る。――
ある時――その日は夫が勤番に当たって留守で御座った――夜更け、下女が自分の部屋へ好いた男を忍ばせんとしておったを、妻女、ふと、怪しき物音にて聞きつけ、
「憎(にっ)くき奴(きゃつ)かな!」
と、その男――まさに下女の手引きにて、まさに部屋へ忍び入らんとする――そのところで捕え、忽ち、
――ギュッツ!
と、男をば、片膝の下に敷き据え、
「何故(なにゆえ)夫の留守に忍び入ったかッ! 不届きなる所業なりッ!」
と、高き大音声(だいおんじょう)にて叫ぶ、その時、
――グイッツ!
と、間髪を入れず、その片手には、
――ベッタ!
と、傍らの下女を捕えて床に引き据えつけて御座った。
大の男、手をすり合わせて詫びた故、
「……以後、斯くの如き猥らなる所業あらば――そなた――生かしては、おかぬ!」
と低き音(ね)にて告げるや、
――ビッシッ! バッシッ!
と、さんざんに手刀平手に打擲(ちょうちゃく)折檻の上、やっと放免致いた……とのことじゃ……
また、とある日のことで御座る。……
かの妻、同じ長屋の夫同僚宅へと呼ばれて参った。
すると、先方宅の玄関が、これ、修理中で御座ったによって、その脇の勝手口より入らんと致いたところが、その勝手口には、これまた、たまたま米俵が、これ、三俵も積み置かれて行く手を塞いで御座った。主の妻は大急ぎで奥方より走り出でて、俵越しに下男を呼びつけ、片付けさせんと致いたところ、
「妾(わらわ)が片付けて通りましょう。」
と軽くいなすや、その俵三俵(たわらさんびょう)……片手には……何と、二俵!……両手にヒョイ! ヒョヒョイ! と、子猫をそっ首で摘まむかの如(ごと)、引っ下げて、路地の肩へ子供の積み木の体(てい)にて重ねて隙を作る……と……後は……しとやかに家内へと通った……とか。……
「……いやはや! これぞ、怪力、いやさ、女強力(ごうりき)というものにて御座るじゃ!」
とは、さる御仁の語った話で御座る。
靑天を下り來るやんま射垜の兵
[やぶちゃん注:「射垜」は普通は「あづち(あずち)」と読む。和弓の弓場で的を掛けるために、土又は細かな川砂を土手のように固めた盛り土。単に「垜」とも、また「堋」「安土」とも書き、「射(あむつち)」「南山(なんざん)」「的山(まとやま)」などとも呼ぶ。但し、この句は「せいてんを/おりくるやんま/いだのひやう」と読んでいるように私には思われる。また、この下五は弓場の実景というより(実景を想起しても構わないが)、素早く下降するオニヤンマを、的を掛けたに的に向かって飛ぶ矢に隠喩したもののようにも感ぜらるる。識者の御教授を乞う。]
天窓に日を笑はせて秋刀魚燒く
ぜんそく奇藥の事
予が許へ來る伊丹祐庵(いたみゆうあん)といへる醫師は、壯年の時痰強(たんつよく)ぜんそくにて殊の外難儀せし由を語りしに、六旬餘の翁なるが今痰症とも不見(みえざる)故尋ければ、不思議の奇藥にて今は誠に快全せし由語りし故、切に其奇藥を尋ければ、右の快驗に付可笑(をか)しき咄し有とて、右藥劑を傳授旁(かたがた)物語りけるは、友庵は信州の産にて、壯年に江戸表へ出、町宅をなして知音もなければ瘦身にて暮しけるが、かのぜんそく起りて度々難儀せしに、或人忍肉(にんにく)外三味を煉詰(ねりつめ)て用ゆれば妙の由語りし故、右四味を買調(かひととの)ひ、病のいとまに煉詰て、傳授せる人の申せしは、壺に入(いれ)て三日程土中に埋置(うめおく)事の由故、左(さ)なさんとせしが、ぜんそく強く起りし時は梁へ繩を懸て體を結(ゆ)ひ臥(ふせ)り候程の事故、半ば壺へ入れて殘り少々なめて味ひしに、其甘き事甚しければ、彼是して茶碗に壹つ餘もなめけるに、右藥に醉(ゑひ)しや、心身朦朧として前後もしらず其儘倒れ居たりしを、近所の者大屋など立集りて、本性を失ひしとて水を顏へ懸け又は呼活(よびいけ)などせし樣子にて、漸心付(やうやうこころづき)見れば何か大勢集りて尋し故、しかじかの事と語りければ、左にはあるまじ氣の違ひたるならんと殊の外いぶかりしを漸々申諭(まうしさとし)してければ、立集りし内に醫師抔もありて、埒もなき藥法を聞て危ふき事など笑ひて歸りけるが、右藥法の品々は委敷(くはしく)も語らざれば左もあるべし。友庵が醫案には、にんにく玉子の類は脾胃(ひい)をあたゝめ、一向よる所なき藥とも思われず。既に友庵は右以來ぜんそくの愁ひを知らず。其後右藥を拵置(こしらへおき)て人にも與へけるに、度々巧驗(かうげん)もいちじるく、勞症に似たる痰病人をも快驗せし事有と語りける故、其藥法を切に求めければ、
にんにく 砂糖 三年味噌 右三味二百目宛
かしは鳥の玉子二十 味りん酒三升
右をねりつめ、壺に入て土中に埋むる事三日にして貯へ置事也とかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。二つ前の「黑燒屋の事」の民間薬方譚と連関。この薬、かなりの効果が実際にあったのに違いない。本話での若き日の祐庵は医者ではない。とすれば、この喘息薬が大当たりを得て、そこから彼は医術を学んだものと考えられるからである。しかし、根岸の喘息にはどうだっのか。私は効かなかったのではないかと推測している。それは、本薬が偽物であったというより、以前に考察したように、根岸の喘息が真正の喘息ではなく、何らかの他の病因によるものであったと考えられるからである。
・「伊丹祐庵」不詳。本文中には後文で「友庵」と二箇所で出るが(訳では最初の「祐庵」で通した)、何れもここまでの「耳嚢」には登場したことがない、新しいニュース・ソースである。それにしても根岸の知人には医師が頗る多い。勿論、彼自身の持病(ここまでの「耳嚢」の記載から根岸には痔と疝気(せんき)及びその疝気に由来すると考えられる喘息様の症状があったことが窺われる)に関係することとは思わるが、そのプラグマティックな動機以外に、本質的に医術への強い興味を持っていたことが窺われる。
・「六旬餘」六十余歳。
・「友庵は信州の産にて」ママ。底本ではこのずっと後の「友庵が醫案には」の部分にママ傍注が附くが、ここに附すべきもの。
・「思われず」ママ。
・「かしは鳥の玉子二十」「かしは鳥」は羽色が茶褐色又は褐色の日本在来種のキジ目キジ科ヤケイ属セキショクヤケイ属亜種
Gallus gallus domesticus のニワトリ。黄鶏。または、その肉を言うが、転じて一般の鶏肉をも言う。この薬の効能を期待するならば、ちゃんとかしわ羽色のニワトリの卵を用いるがよかろう。これは単なる想像なのであるが、この薬、もしかすると、卵に対するアレルギー性喘息の、毒を以って毒を制すタイプの薬物ではあるまいか? そもそもこれらの調合品で雑菌が混入して腐敗しない限り、「茶碗に壹つ餘もなめけるに、右藥に醉しや、心身朦朧として前後もしらず其儘倒れ居たりし」というような意識障害を惹起するような代物には見えないからである。識者の御教授を乞うものである。
・「呼活(よびいけ)」これはプラグマティックな効果以外に、魂呼(たまよ)び・魂呼(たまよば)いの効果を求めるものである。即ち、意識喪失や瀕死の者若しくは死亡直後の者の名を呼ぶことで、離れてゆこうとする魂を呼び戻す再生儀礼の一種である。枕頭や屋根の上、井戸の底に向かって(黄泉の国に通じると考えられた)大声で呼ばうのである。最も素敵なこれを見るなら黒澤明の「赤ひげ」を見るに若くはない。私はあのシーンを二十歳の時に映画館で見て、図らずも落涙してしまった。これについては既に、「耳嚢 卷之二 鄙姥冥途へ至り立歸りし事 又は 僕が俳優木之元亮が好きな理由」で述べている。是非、参照されたい。
・「脾胃」脾臓と胃腸。漢方で消化器系の内臓器の総称。
・「二百目」二〇〇匁(もんめ)。一匁は
三・七五六五二グラムであるから、七五一・三〇四グラム。これこの三品だけでニキロを超え、それに鶏卵二〇個と味醂三升となると、これはもう薬壺ではなく、大甕の類でなくては収まらない。
■やぶちゃん現代語訳
喘息の奇薬の事
私の元へしばしば参る伊丹祐庵と申す医師が、
「……我ら、若き日は痰咳(たんせき)激しく、重き喘息の症状に、殊の外、難儀致いて御座った。……」
と語ったが、六十余歳の翁乍ら、今は、これ、痰咳の症状、一切見受けられぬ故、
「……今は、少しもそのような様子、お見受け致さぬが?……」
と訊ねたところ、
「……そうさ、これ、不思議の奇薬によって、今は、まっこと、全快致て御座る。……」
と申した故、私も疝気の折りの、喘息には苦しめられておった故、
「……どうか、その奇薬なるもの、お教え下さらぬか?……」
と切(せち)願ったところ、
「……この快方全治に至った経緯に就きましては……可笑しな話が、これ、御座いまして、のぅ……」
と、かの薬剤を伝授方々、次のような話を物語って御座った。……
……我らは信州の産にて、壮年の頃、江戸表へと出で、町屋住まいをなして、親しい者も御座らねば、独り身にて暮らしおりましが、かの喘息、これ、度々起りまして、の、しょっちゅう難儀致いて御座ったじゃ。……
……そんなある日、とお人より、
「――大蒜(にんにく)の他、三味(み)を練り詰めて用いれば、絶妙に効いて御座る。」
と、聞きましたれば、その都合四種のものを買い調え、病いの軽き折り、練り詰めてみました。その伝授して呉れた御仁の申すには、
「――それを壺に入れて三日ほど、土中に埋めておくことが肝心じゃ。――」
とのことで御座った故、そう致さんつもりで御座ったが、ここに、また発作が参りまして、の……
……いやもう、我らのその喘息の発作たるや、酷(ひど)い折りには――屋内の梁へ繩を掛け渡いて、体をきつーく結んで、やっと横にはなれる――という有様で御座った……その、惨(むご)い発作が、練り詰めた直後に参りまして、の……
……そこで、調剤した半ばを壺に入れ、残りの半分を、少し嘗めてみました……ところが……これ、想像だに致さぬほどの、甘さ! 指で一掬(すく)い致いては、ペロリ……また、掬うては、ペロリ……今少し、ペロペロリ……またまた今少し、ペロペロペロリ……と、嘗めて御座ったところが……結局、茶碗に一杯余りも嘗めて仕舞(しも)うたので御座る。……
……ところが……
……これ暫く致すと……かの薬に酔うて仕舞(しもう)たものか……心身朦朧と致いて参って……前後も分かたず相い成って……そのまま……昏倒致いて、仕舞(しもう)たので御座る。……
……そこへ偶々、近所の者が参って、大家なんども寄り集まり、
「――こりゃ大変(てえへん)だ! すっかり気を失っちまってるぜえ!」
と大騒ぎと相い成り、顔へ水を掛けらるるやら、大声で呼びかけるらるるやら……ようよう正気づいて……周りを見渡して見れば……これ、長屋の者は申すに及ばず、雲霞の如き人だかりとなって御座った故……ともかくも、かくかくしかじかのこと、と言い訳致いたので御座るが、
「……ンなもん、嘗めて気を失っちまうなんて法は、ねえぜ! 大方、気が違っちまったんじゃねえかッ?!……」
と、もう、いっかな、収まらずに御座った。……
……我らも幾分、気分がよくなって参りました故、冷静に繰り返し訳を話しまして、かの残った半分の壺の薬なんども、ちらりと、これ、見せまして、縷々理を正して説きましたところが……たち集まっておった中(うち)に一人、医師なんどが居り、碌に薬も見ず、
「……そんな、埒(らち)もない薬に手を出し……危ない、危ない……」
なんどと笑(わろ)うて御座った故、それを汐(しお)に皆の衆も帰って行きまして御座る。……
……我ら、実はその折りにても……これ、その調合に用いましたところの、品々に就きましては……これ、委細語らずにおりました故、かくもあっさりと皆の衆の散って参ったも、これ道理で御座る。……
以上が祐庵の話で御座った。
祐庵が私に伝授して呉れた処方効能に拠れば、その材料の内に「大蒜」「鶏卵」が含まれており、これらは寛保調剤の生薬として脾胃(ひい)を温める効能が認められており、全く根拠のない怪しい薬とも思われない。事実、既に祐庵は、この時以来、喘息に悩まされることがなくなったのである。
その後、この薬を拵えて常備し、同じような喘息持ちの他人にも与えたところ、度々著しい効果を見せ、肺結核に類似した、痰を多く吐出するような病人をも全快させたことがあると祐庵は語って御座った故、以上の談話を聴き及んだ折りに、その薬法を切(せち)求めたという訳である。
〔処方〕
大蒜
砂糖
三年熟成の味噌
――以上三種を二百目宛
かしわ鶏の卵二十個
味醂酒三升
これらを総て合わせて練り詰め、壺に入れて、土中に埋めること三日を経て後、貯えおくことが可能とる薬剤が完成する、とのことで御座った。
胃の底のきよらかに鵙を聞くことも
囮鳴けり見えざるものもひた鳴けり
[やぶちゃん注:「囮」野鳥を捕獲するためのオトリの鳥。縄張りを厳守するモズの習性を利用して捕獲するためのものか。]
先週のその日、午後三時過ぎ、僕は鰻の寝床のような庭と階段に通じる前の小道の雑草を取り終えて、下へ降りる階段の端に立っていた。階段の下は、車一台分が通れる坂になって、県道へと通じている。
ふと見ると、足元に、前の家の垣根に植えられているプチ・トマトの実が落ちていた。割れの入った一粒であった。
何気なく――サンダルの先で蹴った。
直径1㎝5㎜ほどのそれは、階段の端の側溝の蓋の上を、落ちて行き、更に坂を下って行った。
丁度その時、小学校5年生位の少年が、お父さんと思しい人と一緒にその坂を登って来た。
彼は、恐らく、山を越えた向こうにある養護学校の生徒で、階段の左手奥のアパートに住んでいるらしい。いつも父母のどちらかと一緒にいるのを見かける。
その少年が――僕の蹴った、転がってゆくプチ・トマトを見つけた。
少年は――坂を脱兎の如く急いで戻り下って――県道の手前で止まったトマトを拾い上げると――駈け上がり始めた……
……不審気に立ち止まって眺めているお父さんを尻目に……階段を タッタッタ! と掛け上がり……僕の立っている二段下で息を切らせて立ち止まると……僕に、ニッコリ! と笑いかけながら、
「落ちたよう!」
といって、右手の親指と人差し指で摘まんだプチ・トマトを僕の目の前に掲げて見せた。……
僕は、その少年となるべく同じ、思いっきり柔和な笑みを心掛けながら、
「ありがとう!」
と素直に受け取って謝辞を述べた。
少年は、また小鳥のように身を翻し、階段を降り、お父さんを後ろに、小鹿が跳ねるように左手へと消えて行った。……
――僕は
そのトマトを、前の家のポストの上に、静かに据えて――家へ入った。
*
その前夜――
僕は丁度、浦沢直樹の『20世紀少年』を読み終えたところだった。――
その少年は――
鼻こそ垂らして居なかったけれど――
よく焼けた――
「ドンキー」――
それも、映画版の少年期の「ドンキー」を名演した吉井克斗君と非常によく似ていたのだった。――
僕はそれから時々、彼に道で逢う。
僕は笑いながら挨拶をする。彼は振り返って笑う。
僕は勝手に彼を、今の孤独な僕の――「ともだち」――だと思っているのである……
昨日、J.J.エイブラムスの「スーパー8」(2011)を観た。製作にはスティーヴン・スピルバーグが加わっている。
本作は、その精神の根っこで当然、スピルバーグ的世界である。
無論、SF好きの僕としてはスピルバーグの代表的作品は、概ね見てきたつもりではある。
しかし、意外の感を受けられるかも知れないが、彼の作品のどれが好きか、と訊かれると、僕は黙らざるを得ない。
何故だろう?
あの概ね大団円のハッピーエンド(だから敢えて印象に残ったものと言われれば、そうでない「激突!」を挙げるかも知れない)で――愛によって結ばれてゆく家庭――男女や人と異類との霊感的交感――という「お定まり」の教義に――どこか、僕の内なる、異教的とでも言うべきものが、呟くように嘘臭さを訴え続けているからであろう(これは丁度、宮崎駿と庵野秀明との関係に似ている。私は宮崎作品を「優れている」とは認めるが、素直に好きだととは、どうしても言えない。但し、これは宮崎が手塚の追悼で手塚を批判したことへの永遠に忘れ難い恨みを持っているからでもある)。
「スーパー8」は、そのスピルバーグ禅師から法灯を許されたJJの、正当法嗣の御旗を掲げた作品と言える。そう言うと、如何にも僕は『厭な映画』と感じているのだと思われるかも知れない――が――正反対である。――
舞台である1979年は、僕が教員になった年だ。
浦沢の「20世紀少年」とは9年の差があるから、時代としての比較をするのは土台無理ではある。
スーパー8なんどで映画作りをする中学生がいる世界は、僕の小学校5年の時(昭和45(1967)年当時)の――GIジョーや「サンダーバード」の秘密基地を持っている友達以上――ということになろうから、やはり天下の物量米帝と高度経済成長で汚れ切った環境を公害対策基本法(同年発布)でお茶濁ししていた日本とでは、土台、比較にはならぬ。
但し、1970頃の当時の都立外山高校では、既に学生運動を主題とし、恋と自己の出自に葛藤して自殺する少女を主人公とした文化祭8ミリ映画を撮っていたし、そこには会社社長が高校生で本物の外車リンカーンに乗って登場するぐらいだから、こういうオタク金持ち少年は本邦にもいたということは言える(私は、その年に生徒の文化祭に向けての「模範的映画作品参考鑑賞」として、これを職場で生徒と一緒に見た。ただ、その製作費は驚愕の数十万(製作当時で)であった。担当教師は流石にその金額だけはお茶を濁して生徒たちには告げなかった)。
……因みに、僕はそれほど物量の貧困さの中にいたのか、と言えば、必ずしも、そうではなかった。僕の本棚には母が買って呉れた中央公論社の「世界の文学」と「世界の歴史」が、学研の百科事典や小学館の学習図鑑そして怪獣図鑑と一緒に並んでいた。「スーパー8」のジョーは鉄道模型に凝って、彩色で経年処理を施していたが、僕も御多分に漏れぬ模型少年で、サンダーバードや戦闘機、SF模型、「宇宙家族ロビンソン」のロボット「フライデー」も作った(これはモーターによる可動式で首と手足が動き、高価なものだった。祖母にお年玉として買って貰ったのを覚えている)。ただ、メインのプラモ趣味が少々変わっていて、解剖模型であって、「人体の驚異」や「忠実なる犬」といったキモいやつを何週間もかけてプラカラーで彩色したりした。溶剤のシンナーで気持ちが悪くなったことや、春の光の射す縁側で母が手伝って呉れたのを、今、懐かしく思い出す……
……ともかくも、「スーパー8」のエンディングは――仄かに異星人とのコンタクト――共感を匂わせて――僕がその心理的内実に於いて「嘘臭い」と感じさせる大団円ではある。……
……しかし――しかし、私は映画「20世紀少年」を見るなら――「スーパー8」を薦めたいのである……
何故か?
簡単だよ、「スーパー8」は、終始、真正の『20世紀の少年』という少年たちの牽引する物語だからだ。
実写版「20世紀少年」の持つ、作品全体を覆っている拭い難い悲哀は(その点が漫画という二次元作品ではずーっと遙かに希釈されているのであるが)――プロットを牽引するのが最早、「少年でない」そこらへんの、テレビでなさけないCMに出てくる唐沢寿明なる「オヤジ」であり――如何に田辺修斗君があの懐かしい「20世紀の少年」を演じても、それはフラッシュ・バックの幻影に過ぎないものとして矮小化、否、無化されてしまうからなのであろう、と僕は感じている(それは、原作・映画共に後半のともだちランドのグラウンドにて確信化されてしまうと言える)。
スピルバーグ信仰を信じない僕としては――実は――悔しいけど――「スーパー8」は真正の20世紀少年だ――という印象を、僕は強く持ったのである。
啄木鳥のいまし來しさまや風の中
啄木鳥の頸より上は夕燒けて
啄木鳥の見えざる上の啄木鳥見ゆ
啄木鳥の敲きはやめて去りにける
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介「(無題〔教室の窓かけが、新しくなつた。――〕)」を公開した。これは私が芥川龍之介「文藝雜話 饒舌」の掉尾の章の原素材(草稿)と考えるものである。
岩波版旧全集第十二巻の「雜纂」に「〔第未定〕」として載る。底本後記には、これを先行掲載する小型版全集によれば「少年」(大正一三(一九二四)年四・五月『中央公論』に発表)の草稿である、とする。「少年」には当該場面は現れないが、確かに「少年」のコンセプトの一エピソードとしてはおかしくはない。但し、これを「少年」草稿と指摘するならば、それよりも先行する「文藝雜話 饒舌」(大正八(一九一九)年五月『新小説』に発表)の最終章の原素材と指示すべきものである(リンク先は何れも私のテクスト)。本作は現在、ネット上に存在しない。
まだまだ――『僕のやるべき芥川龍之介』は――ある――
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介「文藝雜話 饒舌」を公開した。
大正八(一九一九)年五月発行の『新小説』に掲載されたものである。芥川龍之介には「饒舌」と題する小説があるが(大正七年一月『時事新報』)、全くの別物で、現在、ネット上にはこの「文藝雜話 饒舌」の方の電子テクストはない。これは私が見落としていた一種のアフォリズム集であり、また、勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の「芥川龍之介作品事典」の坂本昌樹氏の解説によれば、『芥川の怪異譚に関する知識と関心のなみなみならぬ深さを示す随筆として興味深』く、芥川龍之介の怪異蒐集記録である「椒圖志異」(リンク先は私の電子テクスト)『との内容的な関連においても注目される随筆である。この随筆に特徴的な神秘談や怪異譚への強い関心は、芥川の多彩な創作活動の一つの淵源となっていた』と評されておられる。私の趣向から言っても、これはテクスト化せずんばならぬ作品である。注釈を附す予定であったが、これは附けだすと思いの外、膨大になることが予想されるので、今回はまずは本文のみの公開とする。
秋の猫バケツの中にねむりけり
母さん 母さんの好きな日馬富士が 遂に横綱になるんだよ……よかったね……
在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事
予が許へ來る栗原何某と言る浪人語りけるは、急用有て下總邊へ至るべしと、江戸を立て越ケ谷の先迄至りしに、右道筋秋の頃にて出水(でみづ)して、本海道は左もなけれど、右横道は田畑溝河(みぞかは)往還共に一面に水出て、中々通るべきやうなければ、右泊宿(とまりやど)にて亭主幷(ならびに)所の者を招きて、急ぎの用事にて下總のしかじかの所迄參るなれば、何卒船にて成(なり)とも右出水の所を通るべき便あらば渡し給へと賴ければ、承知して右船賃の極(きはめ)をせしが、金壹兩壹歩の由申ける故、餘り高直成(かうぢきなる)儀、尤(もつとも)難儀を見掛(かけ)て高料(かうりやう)に申事と思ひけれども、詮方なく右金子持出し、請取の書付を所役人一同差出可申(さしいだしまうすべき)旨申ければ、書付の儀免(ゆる)し呉候(くれさふらふ)樣申けれども、右書付なくては難成(なりがたし)、内々の事に候とも、我等歸り候ての勘定もあれば、(是迄の通道中)書付は是非書呉(かきくるる)樣望(のぞみ)しに、右の者共何か相談ありとて、其座を暫く退(のき)て壹人出(いで)、大にお見それ申候、代金には及び不申(まうさず)、御船を申付候由丁寧に申候間、夫は心得違なるべし、我等は御用抔にて通る者にあらず、私用にて罷越す者成りと斷(ことわり)けれども、何分不取用(なにぶんとりもちひず)。隱密役人の廻村(くわいそん)とも見けるや、何分見損じ候由にて合點せざれば、彼者も大きに困りて、右躰(てい)にいたし若し公儀役人など來りなば、似せ役人などゝ疑ひを受んも難計(はかりがたき)故、色々其譯斷けれ共不取用(とりもちひざる)故、然上(しかるうへ)はとて所の役人を呼(よび)て、しかじかの事に難儀の由委敷(くはしく)語りければ、是迄應對せし者を叱りて、渠等は事を不辨(わきまへざる)故難儀を懸けし事、高瀨(たかせ)其外は御用の程も難計間難手放(はかりがたきあひだてばなしがたし)、されど某(それがし)所持の田舟(たぶね)あれば是にて送らんとて、所の船頭に申付(まうしつけ)事故(じこ)なく彼(かの)心ざす所迄返りて、船賃を尋しに鳥目(てうもく)百文給申(たまはりまうす)べしといひし故、骨折也(なり)とて貮百文與へけるが、暫し右の事にて難儀せしと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「桑原何某」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場しない。
・「在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事」は「ざいかたのものこころえちがひにひとのがいをひきいださんとせしこと」と読む。
・「越ケ谷」現在の埼玉県越谷市。当時の「下総」は現在の千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県の東辺・東京都の東辺(隅田川の東岸)に当たり、実は越谷自体が戦国期まで下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属する地域で、古く南北朝期までは藤原秀郷の子孫下野国小山氏の一門下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園でもあった(但し、江戸初期に太日川より西の地域を武蔵国に編入したのに伴い、元荒川より北の地域が武蔵国に編入されている)。当時の越ヶ谷宿は日光街道の宿場として栄えた(以上はウィキの「越谷市」を参照した)。
・「壹兩壹歩」一両の価値は算定しにくいが、後の鐚銭の私の推定値から逆算すると、大凡、一両は二万四〇〇〇円から高く見積もっても五万円程度、「歩」は「分」で一両の1/4として、三万円~六万三〇〇〇円辺りを考えてよいか。これでも、十分、とんでもないぼったくりの金額である。
・「(是迄の通道中)」底本には右に『(尊經閣本)』で補った旨の傍注がある。
・「右書付なくては難成、内々の事に候とも、我等歸り候ての勘定もあれば、(是迄の通道中)書付は是非書呉(かきくるる)樣」これは私の推測であるが、在方の者どもは、彼の書付への拘り、「内々の事」「勘定」「是迄の通道中」という意味有りげな言葉に反応したように見える。そもそもこの時、彼は浪人であったのか、なかったのか、また、この前の役所に提出するというのが、何を目的としたものなのか。私事と言っているから、旅費が公的に支出されるとも思われない。関所を越える訳でもないから、実際の旅行証明が必要であった訳でもあるまい。にも拘らず、何故、そうした提出を必要としたのであろう? それとも、実はこの浪人のこの意味深長な彼の言いや、「勘定」「書付」というのも、高額を吹っ掛けてきた彼らへの、意識的な機略ででもあったたのであろうか?……識者の御教授を乞うものである。
・「何分見損じ候」の「見損じ」は見誤る、認識を誤るの意で、これは相手の直接話法で、「何ともはや、お見それ致しました」という卑小の謙譲表現である。
・「高瀨」高瀬舟。河川や浅海を航行するための船底を平らにした木造船。
・「田舟」稲刈りの際でも水を落とすことが出来ない田(沼田)での稲刈りに用いた農耕用の木造船。底の浅い箱のような形をしおり、稲を乗せて畦まで運ぶ便を考えて、底は箱の長手方向に少し湾曲させて造船されている。
・「鳥目百文」鐚(びた)銭一文は凡そ現在の三円六〇銭から五円程度で、三六〇~五〇〇円、二百文では七二〇~一〇〇〇円となる。この謂いからは、田舟タクシーの通常料金(なんてものがあったとすればだが)は恐らくは、距離にはあまり関係がなく、五〇〇円以下が相場であったのだと私は考える。
■やぶちゃん現代語訳
田舎の者が心得違いを起こして旅人に害を働かんとした事
私の元へしばしば参る、桑原何某と申す浪人の話で御座る。
「……かつて拙者、急用の御座って、下総辺りへ参らんと、江戸を立って越ヶ谷の先まで辿り着きましたが、この先の道中筋、秋の頃にて、出水(でみず)致いて御座って――日光本街道沿いは、そうひどうは御座らんだが――我らが向かわんとする所へ通ずる、これ、横道なんどはもう、田畑も溝も川も道も、見分けのつかざるほどの、一面水浸しにて、とてものことに、徒歩(かち)にては行かれようものにては、これ、御座らなんだ。
そこで、かの足止めされた旅籠にて、その亭主や所の村人なんどを呼び招き、
「拙者、これ、火急の用向きにて、下総の××まで参る途中で御座る。何卒、舟なんどにても、かの出水致いておる場所を通り抜けることの出来る方途、これあらば、お渡し下されい!」
と頼みましたところ、彼ら、承知致いた故、早速に船賃を決めてくれ、と申しましたところが、何と、一両一分、と平然とほざいて御座った故、我らも、
『……あまりと言えばあまりの高値(こうじき)……我らが困窮困憊と知っての吹っ掛け、理不尽なる高料(こうりょう)に申すことじゃ!……』
と思うと、向かっ腹も立ち申したが、危急の折りなればこそ、仕方なく、黙って金子(きんす)を差し出だし、
「なお――受取の書付を。――しかるべき我らが住まうところの役所役人へ、本旅程の経費一式、これ、提出致さねばならぬ故、の。」
と申しましたところが、
「……い、いえ、……書付の儀は、こ、これ、ご、ご勘弁の程……」
と申します故、
「何を申す。拙者方、書付なくては、どうもこうも、ならぬわ! この度のことは、これ、内々の旅にては御座れど、我ら帰って御座った後の勘定の事も、これ、御座れば――いや、ここに至るまでの道中にても、同様の仕儀を致いて参った故――書付だけは――これ、是非とも、書いて貰わねば、ならぬ!」
と気色ばんだところ、彼ら、何やらん、急にそわそわしだし、
「……ち、ちょいと、相談ごとが、御座いますんで、へぇ……」
とて、その場を立って御座った。
暫く致いて、中の一人だけがやって参り、
「……大変にお見それ致しやしてごぜえやす……へぇ、お代金には、これ、及びやせん……お武家さまのお船、これ、すぐに申し付けて、ご用意致しやすで……」
と、掌を返した如く、妙に慇懃なる様子なれば、
「……そなたたち――何か誤解して御座らぬか? 我らはただ、書付さえ貰えばよい、と申して、おる。――我らは、御用で通ろうという者にては、これ、御座ない。――あくまで、私用にて、先方へ参らねばならぬという者じゃぞ?!」
と諭しまして御座るが、これもう、我らが話には、いっかな、とり合(お)おうとは、致しませぬ。……これ、どう見ても……我らを、隠密役人の極秘裏の廻村(かいそん)か何かとも勘違い致いたものか、
「……へへぇ、っ!……いやもう……大きに、お見それ致しやして御座りまするぅ……」
と平身低頭するばかり、我らが言いを聴く耳持たざる体(てい)……。
いや、これには拙者こそ、大いに困って御座った。
……もし、このまま知らぬ振りを致いて船に忠度、基い、ただ乗り致し、その後に、もし、御公儀の御役人などが来たってでもせば、今度は、我らが逆に、贋(にせ)役人と、疑いを掛けられんとも限りませぬ。
さればこそ、そうした事実を縷々述べて、彼らの誤解を解かんと致しましたが、もう、彼らの思い込みは、これ、化石したようなもので御座る。いっかな、馬の耳に念仏、で御座った。
我らも時間が御座らぬ。
「然る上は!――」
とて、我ら、かの地の下級官吏を、これ、有無を言わさず、宿へと呼び出ださせ、
「――かくかくしかじかのことにて、大層、難儀致して御座る!」
と委細を語ったところが、これを聴いた役人、これまで応対して御座った者どもを全員その場に呼び出だし、一喝した上、
「――この者ども、事を弁えざるによって、貴殿には難儀をお掛け申した。――高瀬舟などは、御用にて用いらるることが御座る故、当役所方より舟を御用立て致すことは、これ、出来兼ね申すが――某(それがし)が私(わたくし)に所持して御座る田舟(たぶね)が、これ、あり申す。――これにて、先方へと送らせましょうぞ。」
とて、地元の船頭に申し付け、無事我らは、目指す下総の在所へと送って貰うことが出来申した。
田舟を返す折り、船賃を尋ねましたところが、
「……へえ……多分ながら、この出水の折りなれば……鳥目百文頂きとう、存じます……」
と申して御座った。
「骨折りじゃったの。」
と、倍の二百文を渡しまして御座います。……
……いやはや、随分、あれやこれや、難儀致しました……」
と語って御座った。
原作の「20世紀少年」の最後には、「反陽子ばくだん」が重要なアイテムになるね――実際には勿論、ただの(炸裂すれば「ただの」では済まないが)既知の核兵器のようだが――本文でも示されるように、これは当時の人気アニメの「スーパージェッター」や「ワンダースリー」のアイテムだった……
さて……こんなものまで父母は残して呉れていた……
これで僕がイッパシに「20世紀少年」を語る資格があることを証明しよう――
これはそれこそ殺されずに東京へのゲートを抜けられる、あの「通行証」だ――
・ケント紙に鉛筆描き。一部に赤と青の鉛筆及び赤と青のボールペンを用いている。三箇所に裏から薄い紙を貼って先頭部のジェット・モグラみたような部分及び、その上部後方の操縦室、前部後方の動力部(?)の図解がなされている(が、かなりいい加減。かなり漢字がおかしく、「砲」を「抱」と悉く誤っている)。1の画像は読み易くするために補正した。2の図解部を開いたものが原画のフラットな画像である。
さて――左手の「タイム,ジャガー」性能仕様の左から二列目を見て戴こう――
「全長300メートル」の下だ――
ほら――あったよ――
――はんようしばくだん――だ……おまけに僕は原爆2個と水爆1個も持っている……
……それにしても……面白いね……左下をごらんよ……
「つくるとしたら?」――とあって、その最後に
その実現「かのうせい」は……
「99%とだめ」……
「と」と送っているのが可愛いね……
でも――1%は実現する可能性を信じていたのだね――ター坊よ……
「ター坊」――僕の名前は「タダシ」と読む――
……実は「ター坊」こそが「ともだち」の正体だったのかも――知れない、な――
1で言い忘れた。
僕は、ケンジたちより学年で三つ、年齢で二つ上だ(僕は二月生まれなので)。
だから『映画「20世紀少年」 或いは 20世紀少年である僕』で述べた通り、万博の頃、僕はもう表向きは斜に構えた男だった(当時の同級生の女生徒Sが、学年の終わりに僕の白ワイシャツにサインした言葉は「ニヒルになるんなら大人になってからにしなはれ!」という富山弁丸出しのサインであった)。
しかしケンジと同じ程度に当時はロック・ファンだった。「20世紀少年」を読んでいて、思わず歓喜した小さなコマがあった(既に借りていた原作は返したので巻数は言えない。確かかなり後の左ページの下段のコマだ)。
そこの台詞に「GFR」の文字があった。
僕があの頃大好きで、ボリューム最大にしたヘッドフォンでガンガンに聴いていたのが、正にビートルズに次いで百科事典に名前が載ったハード・ロック・グループ「グランド・ファンク・レイルロード」=GFRだったのだ(後はピンク・フロイドやポコ。……しかし、中三になって、ビバップのコールマン・ホーキンス、そしてバッド・パウエルのピアノへと、ジャズ街道へと離れて行ったのだが)。
*
閑話休題。
僕がケンジたちと同じ小学校五年生の時書いた小説を公開しよう。
*こんなものを捨てずにずっととっておいて呉れた父母に僕は心から感謝している。
「20世紀少年」……「よげんの書」……細菌(ウィルスも細菌も当時の僕らには概ね一緒くただったように思われる)……アダムスキイ型円盤で散布する……だったよね?
*言っとくが、如何にもしょぼくれた話だ。そこは勘弁して呉れ給え。僕らはこの程度には単純で素直で、ハッピーだったのだよ。恐らく君もね……それにしても……考えて見れば、朝一番に使う紙ならクソしてケツを拭く紙だ。便所から出られずにすったもんだする「僕」を描くともっとオモシロかったろうに……
1
2
3
4
原稿の頭に「3作」とあるから、この前に二作を書いているらしい(残念ながら覚えていない。確かこの後、六年生になって「侵略者」という大長編を企画し、表紙をポロックよろしく墨のアクション・ペインティングで描き、「目次」を最後まで書き、第一章第一節を原稿用紙数枚書いてポシャッたのを忘れない(題名は、アメリカのドラマ「インベーダー」のまんまだ)。因みに、その翌年、中学一年生になった僕は「少年マガジン」の通信欄にUFO研究グループ「未確認飛行物体研究調査会」の立ち上げと会員の募集をし、北海道と兵庫の会員計二人を得(どちらも僕より年上の高校生だったが、情けなく数年後には受験勉強で自然消滅してしまった)、中三の時には、三島由紀夫も入っていた「日本空飛ぶ研究会」会長の荒井欣一氏に、友人のアダムスキ型葉巻母船の目撃の現地調査を行った報告書を送って、丁寧な御返事を貰ったのを思い出す。……
そうさ……あの頃の僕らは……確かに誰もが……こんな僕でさえ……「20世紀少年」だったの、さ……
3日前に浦沢直樹の「20世紀少年」全巻を読了した。
この手のものを実写映画と比較すること自体が、余り意味のあることとは思われないが(それは映画や実写というヴァーチャル・リアリティの属性――及びその映像の質レベル――が持つものと漫画という二次元芸術の属性――及びその質レベル――の致命的な懸隔に拠る)、どうしても先行して見た映画版との比較は無意識にしてしまうのはお許し願いたい。
作品全体の印象は、無論、原作に軍配が挙がるに決まっている。原作をお読みでない方は、読まずんばならず。これは言わずもがな。
実写版の実写ゆえの致命傷は既に『映画「20世紀少年」 或いは 20世紀少年である僕』で述べたし、その質感の問題は「ALWAYS 三丁目の夕日」の時と同じである。
現物のホーロー看板やキッチュな地球防衛軍バッジ《原作では「宇宙特捜隊バッジ》*
*当時の駄菓子屋――我々は五円屋と呼んでいた――にあった稼特隊の流星バッジは実際には、仁丹玉が頭に付いたみたようなアンテナが如何にも直きに壊れることを予感させてスライドしてはストンと落ちてしまう、もっと素敵にキッチュなものであった。――因みに僕はあれを持っていた自慢げな友達に触らせて貰ったのだった。――僕は正に、あのバッジを盗みたかった少年の一人だったのだ――*
といったアイテムによって演出されるはずの懐かしさ、そのタイム・スリップ感覚が、それを包む「雰囲気」の書割全体の整然さや清浄さ(日本映画の優等生的清潔感と言ってもよい。黒沢辺りの数人だけがこの症候群を破ることに成功している)、ドライで臭ってこない映像によって美事に裏切られてしまい、寧ろ「作り物臭さ」を強く感じさせてしまうからである。寧ろ、原作も映画も後半のヴァーチャルな「ともだちランド」の場面や映像には、そうした「作り物臭さ」の奇態な清浄や整然としたそれを差別化して描くべきであったと思う。これは原作に対する私の不満でもある。
但し、原作のケンジたちの真正過去シーンは、実に素晴らしい! モノクロ映画の属性であるイマジネーティヴな印象が横溢している。妙なところで尖ったり、ソフトだったりする浦沢のペン・タッチを僕は今一つ好まないのだが、そうしたブレのあるタッチも、はたまたリキの入った細密なジジババの駄菓子屋の店頭も、そうして彼らの神聖な秘密基地のある原っぱも――これは実にあの頃の完璧にリアルな「絵」であり、僕はその一コマ一コマから、あの懐かしい時間に容易に戻ることが出来たのだ。その点で、彼の「絵」は確かにスカルプティング・イン・タイムしていると言えるのである。
実写版は浦沢が脚本監修に参加しているだけに、原作を裏切りするような印象は余りない。寧ろ、「ともだち」の正体の論理的な明晰性では、一般大衆納得大団円という映画の方が、伝統的冒険活劇活動写真としては成功であろう。
ただ、恐らくは、昨今のムハンマドと同じで、ローマ法王暗殺や法王が「ともだち」を崇敬してしまうシークエンスなどがカットされているのは製作経費上の問題とは別に、宗教的な自主コードを製作者側が発動させてしまった結果としか思えない。*
*おそらく原作通りに実写化すると、ローマ法王庁及びカトリック教徒から間違いなく大きな批判と上映禁止が期待される。それくらいの作品に僕はして欲しかったから「期待される」と言っている。*
あのプロットが映画でスポイルされた結果――ルチアーノ神父の絡みや、仁谷神父の中国での過去、アメリカでのケロヨンのエピソードといった部分の削除は、日本映画の製作費の吝嗇さから仕方がないとして――「ともだち」の世界大統領、宗教的世界支配という原作の持っているそれなりのグローバル・スケールが、日本――いや、寧ろ、正にたかが「ともだち」の「作り物」世界である壁の中の「東京」だけのブラック・ファンタジー、に堕してしまった感が拭えない。
浦沢は、僕の好きな「プルートゥ」でもそうだが、プロットが描いている内に、作者自身が制御し切れないほどに罅のように周縁に増殖して行き、時々、フラッシュ・バックされるコマが伏線や意味深長さを通り越して、読者を混乱させ、読了後に、何か喉に棘の刺さったような違和感を残す。原作では「ともだち」の正体の、如何にもどんよりと濁った仮面の不明性が、エンディングの、実写版が持っているような、ある種のさわやかな感動を明らかに削いでいる。それは実は、彼の作劇上の確信犯、正に伝統的な仮面劇の呪的効果を狙った、神々の祝祭としてのエンディング、「流星仮面」は実はデウス・エクス・マキナなのかも知れない。――しかし「知れない」が、映画では共同製作者によって、あれは、難色を示されるであろうことは想像に難くない。オタクは原作を支持するであろうが、一般大衆はあれでは消化不良を起こすのは決まりだ。だから、実写版はあの、キッチュな似非ウッドストックで、模範的愛国的日本国民は満足するのである(僕はあの実写版のコンサートに集まった集団自体にこそ実は何か得体の知れない「ともだち」への盲信を掻き立てるところの人間の核心を見たようにさえ感じたことを告白しておく)。いいや、「祭り」はキッチュなものの方が寧ろ、いいのだ――現実はもっとキッチュで退屈だからね……
僕にとって大きな違和感が原作にはある。それは高須が人工授精によって聖母化するというシチュエーションである。
実子カンナ(但し、原作では「ともだち」は二人――若しくはそれ以上――であるから、その違った「ともだち」の意識まで共有しているとまで断定はしにくいものの、彼らはその謂いや思考方法からも真正の影武者であって思考方法や感覚も同じでなくてはおかしい)がああなって致命的に抵抗する存在になってしまっている以上、
――僕が「ともだち」なら――
高須の卵子に体外受精、母体挿入はあり得ない(そう原作は読める)。
――僕が「ともだち」なら――
100%間違いなく、自分のクローンを高須の子宮で産ませる――
それでも第二のマリアには高須はなれるから、一石二鳥ではないか。悪いが、あの高須の野望の話としては面白いが、それは「20世紀少年」の埒外の話だ。
いいや――彼女は死なないし、堕胎の暗示もない――だから新たな「20世紀少年」の続編へ――カンナと反救世主弟妹との再戦への布石の色気――とも取れないことはない。
「ともだち」の正体を明かさず、最後のケンジの名指した言葉にも無言で、流星仮面を脱がない彼――
彼は――正に神である――
ウィトゲンシュタインは、神は名指すことはできるが、示すことはできないということを、そして「語ることができないことに対して、我々は沈黙せねばならない」ということを、「論理哲学論考」で述べている――
では、この辺で僕も口を閉じることとしよう――
櫓をあぐる雫に點(とも)し夜光蟲
[やぶちゃん注:「夜光蟲」は原生生物界渦鞭毛虫門(渦鞭毛植物門)ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ
Noctiluca scintillans。古くは植物プランクトンとされていたが、葉緑体を喪失している点で境界的な海洋性プランクトンである。「虫」と名づき、また、節足動物門甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル
Vargula hilgendorfii と勘違いし、甲殻類の仲間と考えている人が多いように思われるので、特に注しておいた。]
滿潮に雨ひびき來て夜光蟲
第五章 食はれぬ法
生物界の活動が大部分は餌を食ふためである以上は、どの種族のどの個體でも、食はれぬ術に秀でたものでなければ生命は保たれぬ。今日生存する六十餘萬種の動物を見るに、皆何らか敵に食はれぬための方法を具へて居る。しかし餌を捕へて食ふ側の方法も進歩して居るから、なかなか安心しては居られず、食ふ方法と食はれぬ方法との競爭に勝つたもののみが、よく天壽を全うすることが出來るのである。動物が敵の攻撃に對して身を護る方法は實に種々雜多で、これだけを集めて書いても大部な書物になる位故、こゝには一々詳しいことを記述するわけには行かぬが、その方法の相異なつたもの若干を擧げ、各々二、三の實例によつてこれを説明して置かう。
[やぶちゃん注:「今日生存する六十餘萬種の動物」流石に百年経っているから三倍近く増えている。現在、生物分類学上(以下、分かりきった数字の頭の「約」を省略する)、
種名を持つ動物種 一七五万種
とされ、未発見のものを含めて推定試算すると、地球上の
全生物種総数 三〇〇〇万~五〇〇〇万種
人によっては、控えめに見ても
全生物種総数 一億種
に達するとも言われる。例えば、種名を持つ動物種一七五万種とする個人のHP「宇宙船地球号のゆくへ」の「生物多様性」の記載を見ると、
昆虫類 七五万一〇〇〇種
多細胞植物約 二四万八〇〇〇種
昆虫を除く節足動物 一二万三〇〇〇種
軟体動物 五万種
真菌類 四万六〇〇〇種
とある。但し、この記述で気になるのは『現在までに発見され、命名されているのは』一七五万種である、という謂いである。これは当然、膨大な化石種を含むと考えられる。地球の歴史にとってみれば、また、自然現象や人類のために毎日のように滅亡してゆく種(*)があることを考えれば、化石種も現生種も大した差はないとも言えはしよう。
(*一日に平均して一〇〇種が絶滅している(一時間で四・六種とする主張もあり、これだと一日一一〇種になる)とまことしやかに言われるが、これについては私はあまり根拠のある数値であるとは思っていない。これは環境学者ノーマン・マイヤーズの「沈みゆく箱舟」(岩波現代選書一九八一年刊)に基づくもので、恐竜時代には約一〇〇〇年に一種、二〇世紀前半は毎年約一種の割合で生物種は絶滅していたが、一九七五年頃には毎年約一〇〇〇種が絶滅し、今世紀最後の二十五年間で一〇〇万種、平均して毎年四万種が絶滅するという統計的推定からの、単純逆算である。であれば、単純計算すると「我々の命名した知られる種」の内の二種弱が毎日絶滅していることになり、年間、「我々の命名した種」は少なくとも七三〇種以下三六五種以上が年間で絶滅し、刊行された一九八一年以降、凡そ二〇年間で加速分も含めれば(凡そ種の保護は追いついていないはずだから)、一万種以上の「我々に知られた一般的な種」が絶滅報告されていなくてはならない計算になる。私が言いたいのは、そのような報告が実際に事実としてあり、それを我々が日常的に知って驚愕しているかどうかである(新種発見の増加率は、有意なものとはみなせないとしてである)。生物種の絶滅は確かに加速しているし、種の保護は急務ではある。しかし、それをこのような数字で恐懼し、神経症的に自然保護を声高に叫ぶ以前に、私はヒト自身が、チェレンコフの業火や人為的単純環境の増加によって、それこそ多様性を失って、ヒトという種自身が滅亡の危機にあることを真剣に恐懼することの方が、より重要であるように思われてならない。)
しかし、やはり気にならないか? 化石種を除いた現生生物の種数が摑みたいというのは純粋な「子供」の欲求である。私はその点で子供でありたい。そこで、「学研サイエンスキッズ」(こういう場合、子供向けサイトの方がこちらの需要に合った情報を伝えてくれるものである)の「動物は何種類くらいいるの」の答えを見よう。
動物種総数 一〇〇万種
とし、
鳥類 九〇〇〇種
魚類 二万三〇〇〇種
哺乳類 五〇〇〇種
両生類 二〇〇〇種
爬虫類 五〇〇〇種
で、以上の
脊椎動物総数 四万四〇〇〇種
とする。以下、無脊椎動物は
節足動物 八〇万種
軟体動物 一一万種
腔腸動物 一万種
原生動物 三万種
等とし、
植物 三〇万種
とウイルス・細菌菌類総てを含めた、
全生物種数 五〇〇万種以上
と提示している。ここで最後に再び、別なアカデミックな最新記事データを見ておくと、「科学ニュースの森」の二〇一一年八月二十五日附記事「地球上の生物種数」によれば、現在、発見されているだけで、
生物総数 一二〇万種以上
とあり、数値から見てこれは動物の種数を言っているとしか思われず、キッズ・データの確かさを裏打ちする(管見したところではどうも一〇〇万種から一五〇万種というのが学者の相場らしい)。因みに、この記事では、ハワイ大学とカナダにあるダルハウジー大学の共同研究チームによる生物の分類階級間の相関関係の研究により、地球上の
全真核生物総数 八七〇万種
とし、内
陸産総数 六五〇万種
海産総数 二二〇万種
と予測されたとあり、これによって現在陸産真核生物の八六%、海産のそれの九一%の生物種が未発見であるとある。こちらはかつての予測の一億に近づいた数値ではある。
以上、これらの数値のいづれが正しいと思われるかは、読者の判断に任せたい。ともかくも私には子供向けの答えの方が、化石種を含まない数として、また、納得出来るしっくりくる数として「ある」とだけは言っておきたい。]
こゝに一寸斷つて置くべきことは、動物が自ら身を護る方法でも、餌を捕へて食ふ方法でも、一種毎にその相手とするものは略々定まつて居て、決してすべてのものに對して同等に有功といふわけには行かぬといふことである。例へば堅い殼を被つて身を守るにしても、多數の敵はこれで防ぐことが出來るが、その殼をも破り得る程に力の強い敵、またはその殼を溶す程の強い劇藥を分泌する敵に遇つては到底協わぬ。しからば如何に強い敵が來ても、これを防ぎ得べき厚い殼を具へたらば宜しからうと考へるかも知らぬが、それでは普通の敵を防ぐためには厚過ぎて不便である。如何なる器官でも、これを造つて維持して行くには必ず資料を要する。そして器官が大きければ大きい程、これに要する資料も多いから必要以上に殼を厚くすることは、即ち滋養分を浪費することに當る。極めて稀に出遇ふ特殊の強敵をも脱ぎ得んがために、日常莫大な滋養分を浪費するのと、普通の敵を防ぐに有功なる程度に止めて滋養分を節約し、剩餘を生殖の方面に向けるのとでは、いづれが策の得たるものであるかは問題であるが、多くの場合には後の方が割が宜しい。かやうな關係から大抵の動物では、その護身の方法には一定の標準があつて、相手と見做す敵動物は略々定まつてある。こゝに述べる食はれぬ方法といふのも、各動物の標準とする敵に對して有功ならば、それで目的に協つたものと見なさねばならぬ。
[やぶちゃん注:「協はぬ」は「かなはぬ」と訓ずるが、「協う」の「かなう」は「合う」「合致する」「共にする」の意であって、「敵う」の「かなう」、後に打消しの語を伴って、対等の力はない、対抗出来ない、匹敵しないの意で用いるには、少なくとも私には抵抗がある。最後の「目的に協つたもの」の方は、合致するの意で自然である。]
なお一ついふべきことは、先方から攻めて來るのを待たず、當方より食つて掛るのも、 食はれぬ法の一種である。およそ如何なる武器でも、攻撃にも防御にも役に立つもので、同一の劍と鐡砲とで、敵を攻めることも味方を守ることも出來る通り、動物でも攻める裝置の具はつてあるものは、特に食はれぬためのみの方法を取るに及ばぬ。堅い甲を被つた龜は敵に遇ふごとに、頭と手足とを縮めるに反し、「すつぽん」は敵を見れば進んで嚙み付かうとする。それ故、甲は柔くても、これを襲ふ動物は却て少い。こゝには敵を攻めるのと同一の武器を用ゐて身を護る場合は一切略して述べぬこととする。
[やぶちゃん注:「すつぽん」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン
Pelodiscus sinensis。彼らがカメ類で唯一、柔らかい甲羅を持つ理由は、水中生活に特化したからというのが定説である。ウィキのスッポンにも『生息環境はクサガメやイシガメと似通っているが、水中生活により適応しており水中で長時間活動でき、普段は水底で自らの体色に似た泥や砂に伏せたり、柔らかい甲羅を活かして岩の隙間に隠れたりしている。これは喉の部分の毛細血管が極度に発達していてある程度水中の溶存酸素を取り入れることができるためで、大きく発達した水かきと軽量な甲羅による身軽さ、殺傷力の高い顎とすぐ噛み付く性格ともあわせ、甲羅による防御に頼らない繁栄戦略をとった彼らの特色といえる』とあり、丘先生の『「すつぽん」は敵を見れば進んで嚙み付かうとする。それ故、甲は柔らかくても、これを襲ふ動物は却て少い』という解説の正当性が裏付けられる(実は私は、攻撃的に咬みつくから、甲羅は柔らかくてよかったという、この記載に若干の疑問を持っていた)。]
黑燒屋の事
江戸表繁花(はんくわ)何にても用の足らざる事はなし。色々の商賣もある中に、或る人何か藥にするとて蟇の黑燒を求めけるが、寒氣の時節にて蟲も皆蟄(ちつ)して求め兼(かね)しに、兩國米澤町(ちやう)松本横町にボウトロ丹といへる看板有之。家に何にても黒燒のなき事はなし、草木鳥獸藥になるべき品、其形の儘黑燒にして商ふよし。人の爲なれば爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:二項前の「腹病の藥の事」の民間薬方譚と連関。
・「黒燒」まず、「世界大百科事典」の「くろやき【黒焼き】」のアカデミックな記載(カンマを読点に代えた)。
《引用開始》
民間薬の一種。爬虫類、昆虫類など、おもに動物を蒸焼きにして炭化させたもので、薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源をもつとする説もあるが、《神農本草》などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの、黒焼きは見当たらない。おそらく南方熊楠(みなかたくまぐす)の未発表稿〈守宮もて女の貞を試む〉のいうごとく、〈日本に限った俗信〉の所産かと思われる。《日葡辞書》にCuroyaqi,Vno curoyaqiが見られることから室町末期には一般化していたと思われ、後者の〈鵜の黒焼〉はのどにささった魚の骨などをとるのに用いると説明されている。漢方では黒焼きのことを霜(そう)といっている。
《引用終了》
文中に現れる南方熊楠の未発表稿「守宮もて女の貞を試む」は、幸い、私が作成・注釈したした電子テクストがある、参照されたい。所詮、怪しげな民間薬として、漢方でも正しく解析されたものではない。しかし、だからこそ、ジャーナリスティックな興味が湧く。そこで、幾つかのネット上の記載を見よう。まずは、販売サイト「びんちょうたんコム」の「黒焼きについて」の「黒焼きの可能性」の記事記載の中に『健康ファミリー』一九九八年十月号より引用された「さまざまな黒焼き」という見出しの文章のイモリの黒焼きの製造法を疑似体験しよう(改行部を総て繫げ、アラビア数字を漢数字に代えた)。
《引用開始》
昔からイモリの黒焼きを女の子に降りかけると自分に惚れてくれると言い伝えられている。イモリとはトカゲやヤモリのような爬虫類ではない。蛙と同じ仲間の両生類らしい。皮膚の表面はぬれていて水に入ったり地上にいたりする。このイモリを捕まえて黒焼きにする。黒焼きというのは串にさして炭火の上で焼き鳥を作るようにやればいいのかというと、そんな簡単にはいかない。先ず、素焼きの土器を用意する。直径一五~二〇センチの大きさがいい。上蓋、下蓋と重ね合わせられねばならない。下の土器に二〇匹位のイモリを入れる。もちろん、殺したものを用意する。上蓋をするが、上蓋のてっぺんに直径一センチ位の穴を開ける。そして、穴を塞がないようにしてあらかじめ作って用意しておいた壁土を重ね塗りする。上に穴だけの開いた丸い素焼きの甕を作る。この素焼きの甕を周りに塗った壁土が乾くまで一~二日置いておく。上に穴の開いた素焼きの甕ができたら、これを炭火の上で焼く。炭はバーベキューができるほど用意し真っ赤になるようにおこす。素焼きの壷は直接、火の上に置かず鉄の棒を竈に渡してそのうえに置く。さあ、これからが本番だ。黒焼きを作るには中の漢方・生薬を炭にしてしまっては何にもならない。蒸し焼きにすることが肝心である。そうしなければ、黒焼きの本来の薬効は期待できない。最初、二〇分位経過した頃、上の穴から真っ白な煙が出てくる。炭火の火力を調節しながら、しばらく、様子をみる。煙の色が殆どなくなりかけた頃(最初から五〇~六〇分経過)、頃合を見計らって下ろす。上にでてくる煙に火がつくとオシャカになって炭化する、炭になってしまう。竈から下ろした素焼きの壷は穴を塞ぎ、さましてから上蓋をあける。なかの黒焼きはある程度は原形を留めている。できあがつた漢方・生薬の黒焼きの粉末は黒いが炭ではない。
《引用終了》
今度は、生薬・漢方薬・精力剤の「中屋彦十郎薬局」の公式HPの「黒焼きの研究・販売」より(改行部を総て繫げた)。
《引用開始》
玄米の黒焼きは玄神として知られ昔からガンに効くといわれていた。玄米以外にもさまざまな穀物や動植物が、黒焼きにすることで、もとの物質とは異なった薬効を発揮しているからおもしろい。有名なところでは、梅干を黒焼きにすると下痢止めになるというし、昆布の黒焼きは気管支ゼンソクに効果があるといわれる。その他、髪の毛の黒焼きは止血作用、ナスの黒焼きは利尿、ノビルの黒焼きは扁桃腺炎、ウナギの黒焼きは肺結核、梅の核の黒焼きは腫れ物、といった具合である。黒焼きは、焼かれる物質によってこのように効果が違ってくる。ではなぜ違うのかとなると、どうもよくわからない。これまで、黒焼きの研究は薬学畑ではダブー視されてきた分野である。なぜなら、薬効々果の証明が困難だからである。しかし、その効果は、うまく使えばなかなかすばらしいものがある。どの病気にどの黒焼きを用いるかは、まさに長年の経験からくる統計に基づくものであったろうと思われる。なぜ効くのか、という理屈は後でついてくることになる。要は、効けばいいのだから。黒焼きをしていくと、元の物質から脂肪とタンパク質のかなりの量が失われ、多く残るのは炭水化物である。黒焼きとは、その成分のほとんどが炭水化物であり、加えて非常に少量のミネラル、ビタミンが残されたものである。こうした成分のわずかな差が、薬効々果を著しく変えるというのも、不思議といえば不思議である。だが長年の経験というのは大したもので、それぞれの疾患に対応して、これでなければという黒焼きが確かにあるようなのだ。
《引用終了》
最後に各種黒焼きの効能について、「温心堂薬局」の公式HPの「民間薬」の中の「動物薬・黒焼き・その他」をご紹介しておこう。素敵に完全なあいうえお順リスト形式にして一目瞭然。本話に登場する「蟇」、それに相当する薬草名「がま(蛙)」の項には、
生薬・薬用部位 黒焼き・乾燥品
適応 強精・強壮・癲癇・淋病・喘息・心臓病・胎毒・痔・犬や蛇の咬傷
使用量・方法 適量・煎剤・粉末
とある。これによって本話の人物の言う「病」がある程度限定出来る(「胎毒」とは漢方で幼児や子供が生得的に内在させている体毒のこと)。「適量」という表現については、常識的なところで一回に附き一~二グラムとして一日一~三回く程度の服用という流石に薬局のページだけはあって至れり尽くせりの記述。但し、そこはちゃんとした薬局のHP、以下のような「ほう!」と思われる前書きがある。その考え方には大変感心もし、共感もしたので引用しておきたい(ダブった句読点やリンク注記記号の一部を変更・除去した)。
《引用開始》
プラシーボという言葉を初めて聞いたのは、高校生の頃読んでいた心理学の本からでしたそこには偽薬と表現してあり、小麦粉や乳糖などで薬を装い投与し、人の期待効果を煽り一定の薬効をもたらすという、ヒトの心理メカニズムの考察でした。小麦粉や乳糖に騙されるなど、なんと愚かなんだ、などと考えたものです。
しかし医療の現場を転々とするうち、
薬効とプラシーボの境界が一体どこにあるのか?
またそれをどんな方法で検定するのか?
さらにきちんと検定され、認定された薬や医療技術が果たしてあるのか?
こんな疑問が沸き起こって、これは今も未解決のまま、プラシーボ程度しかないのかもしれない漢方の仕事を続けている訳です。
プラシーボという心理的治癒のメカニズムがあるなら、これは案外、天からの賜物かも知れない、ウソかホントか考えるより(それも大切な事ではありますが、)有効な利用ができれば、多くの苦痛や多くの人の悩みを、被害の少ない方法で手助けできるのではないかと思います。
これからまとめる動物薬や黒焼きなどは怪しい漢方薬のなかでも、一層怪しい隘路かも知れません。プラシーボを巡る用語に、活性プラシーボというのがあります。これはプラシーボの種類で、明らかな薬効は期待できないけど苦味のある物質など、感覚に訴える性質を持つもののほうが、小麦粉、乳糖、デンプンなどに比べ、プラシーボの発現率が高くなるという、それらの物質をいいます。良薬は口に苦し、という有名な言葉があります白い錠剤より水色や赤色の錠剤が、あるいは妙な味の顆粒が、効きそうな気がしてくるのです。
手を変え、品を変え、誇大な講釈を垂れる怪しく、危険な療法や、健康食品も、あるいは極普通にみられる医療機関での診療も、活性プラシーボの程度の差以上のものがあるのか? 疑い始めれば限がありません。
動物薬は活性プラシーボの条件を如何なくそなえています。姿、形、臭い、味、治療家の間では「奇方」として、難病の患者や、治療の方策が行き詰まった時利用されてきました。奇想天外で奇妙なほど、そこに治癒への希望とエネルギーが湧出するのです。
動物薬には、植物薬で得られない有効成分があるのかも知れません。動物の力や奇妙な生態になぞらえた、効能という気を頂くことが療法の要なのですが、気と表現できるものが、曖昧模糊とした未確認の有効成分であったり、現在の科学常識で、はかることの出来ないsomething?なのかも知れません。
これが、黒焼となるとさらにその度合いが高まります。主成分は炭素(C)、その他の成分は燃焼し尽くしている訳で、なにか残っていると仮定するなら有効成分があったという記憶、ニューサイエンスで呼ぶところの、得体の知れぬ仮説である、波動みたいなものになります。日本版ホメオパシーといわれるように、なにも有効成分がない状態なのに、その記憶という空疎な観念で治癒を促す療法です。
副作用は全くない筈です。問題は、治らない時、または通常医療ですぐに治るものにまで、副作用がナイという理由だけで利用すると、有効な治療から遠ざかり、あるいは有効な治療の機会を失い、取り返しのつかない事態を招く事もあります。それが大きな副作用であると言えなくもありません。
《引用終了》
どうです、このリストで、一つ、いろいろお試しになってみては? 病いは勿論、その方面も、これ、バッキンバッキン、間違いなし――かも知れません、ぞ……
・「米澤町」日本橋米沢町は現在の中央区東日本橋二丁目。両国橋の西の両国広小路の西南側にあり、裏手は薬研堀(埋立地)。正保(一六四四年~一六四七年)の頃には幕府の米蔵が建っていたが、元禄一一(一六九八)年の火災で焼失、その後、米蔵は築地に移り、その跡地を米沢町と称した。
・「ボウトロ丹」不詳。如何にもオランダかポルトガル語臭いが、これ、低温で焼き焦がすための炒鍋(上記引用のイモリの製法を見よ)「焙烙」(ホウラク・ホウロク)の転訛のようにも思われるが、識者の御教授を乞うものである。
■やぶちゃん現代語訳
黒焼屋の事
江戸表の繁華――花のお江戸にては、これ、何なりと、手に入(い)らぬ物は、これ、御座らぬという話。
色々の商売の御座る中にもかくも奇体な商売のある由。
ある人、何かの薬にせんがため、必死に蟇蛙(ひきがえる)の黒焼きを捜し求めて御座ったが、丁度、寒い時期でもあり、蟇の類いは、これ皆、土中に冬籠り致いた後にして、なかなか売っておる所が御座らなんだ。
ところが――それでも、これ、ちゃんと商(あきの)うておる店が御座った。
両国米沢町松本横町に『ボウトロ丹』という看板を掲げておる店が、それじゃ。
この店には、黒焼きと名の附くもので、ないものは――これ、ない。
草木・鳥獣その他諸々、薬になろうかと思わるるものは、これ、一つ残らず――まさに、その形のまんまに黒焼きにして――商うておる由。
人のためにもなろうほどに、ここに記しおく。
柱鏡鳴らして落ちぬ金龜子
[やぶちゃん注:「金龜子」は「こがねむし」と読む。鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ
Mimela splendens、あの黄金虫である。]
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之五」を常楽寺まで更新した。木曾義高と大姫の悲恋は僕の忘れ難い鎌倉恋愛史の一つである。
頓智にて危難を救し事
或日若き者兩人連にて、柚(ゆず)の多くなりしを見て、取て家土産(いへづと)にせんと、餘程の大木なれば右柚を盜取るべき工夫をして、壹人は樹の下に立、壹人は右の樹に登りけるが、登る時は右柚を取べきに心奪れて兎角して登り、取ては下へ落し木の元に立て男拾ひて懷へ入しが、最早程よき間(あひだ)下り候樣下より申ければ、心得候とて彼木を下りんとせしが、柚は尖(とげ)ある木故足手を痛め、中々下りがたきとて殊外難儀せしを、下に立たる男飛(とぶ)べき由を教へけれ共、高き木なれば中々眼くるめきて飛(とば)れざる由を答へければ、下の男も込(こま)りて如何(いかが)せんと思ひしが風與(ふと)思付きて、盜人々々と聲を立ければ、上なる男大きに驚き木の上より飛下りける故、手をとりて早々彼場を立去りけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。洋の東西を問わずある、寓話ではあるが、全体は能狂言を意識しているように思われる。「柚子盗人(ゆずぬすびと)」ととでも名付けたくなる。台詞をそのように意識して訳してみた。
・「柚は尖ある木」双子葉植物綱ミカン目ミカン科ミカン属ユズ
Citrus junos Siebold の幹には、恐ろしく鋭く大きな棘が多く突出している。例えばこちらの栽培業者の方のページの写真で確認されたい。なお、学名の命名者は御覧の通り、かのシーボルトである。
・「込りて」底本には右に『(困)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
頓智にて窮地を救った事
ある若者の二人連れ、柚子のたわわに実って御座る木を見つけた。
一人が、
「このゆずを取って、家土産(いえずと)と致そう。」
と持ちかけて御座った。
かなりの大木であったによって、この柚子を盗み取る算段と致いて、ゆず、基い、まず、一人は木の下に立って、今一人は、この木へ攀じ登って御座った。
登る時は、かの柚子を取ることばかりに気が急(せ)いて御座った故、難儀をものとも致さず、登り遂(おお)せ、取っては下へ落とし、千切っては投げ落といて、木の元(もと)に御座る今ひとりの男は、それらを拾うてはポン、受けてはポンと、懐へと入れて御座った。……
「最早、程よい数なれば、降りて参らるるがよかろう。」
と、木の下に御座った男が申す。
「心得て御座る。」
と、かの木の上の男、木を降りんと致いたが、柚子はこれ、恐ろしき棘の多き木で御座るによって、手足を、したたかに痛めたによって、
「……なかなかに、降り難くてある……」
と、殊の外、難儀致いて御座った故、木の元へ御座った男は、
「飛び降るるがよかろう。」
と教えて御座った。ところが、
「……高き木なれば……なかなかに、目の眩(くら)めきて、飛べざる……」
とて、答えたによって、木の元の男も困り果て、
「如何(いかが)はせん。」
と思うて御座ったが、ここに咄嗟の思いつきにて、
「――盗人(ぬすっとう)!――盗人じゃあぁ!」
と大きに声を立てて御座ったによって、木の上なる男は、これ、
「すはッ!」
と、吃驚仰天――気が付けば天狗の如、宙を舞って――飛び降りて御座った。
されば二人……手に手を取って早々に……かの地をば……あっ……去りにけり……去りに、けり……
斑猫の起つとは光るさびしさよ
[やぶちゃん注:この「斑猫」は鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科ナミハンミョウ
Cicindela japonica、所謂、ミチオシエである。人が近づくと一、二メートル程飛んで直ぐ着地するという行動を繰り返し、その過程で度々、後ろを振り返るような動作をする本種の習性をうまく詠み込んでいる。なお、「斑猫」全般については、私の「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。]
ブログ400000アクセス記念として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介「我鬼窟日録」附やぶちゃんマニアック注釈+同縦書版を公開した。
僕が「マニアック」と公式に冠するものは、過去に『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』 と同じ芥川の「凶」及び僕のライフ・ワーク「こゝろ」以外にはないが、これは僕の野人になって最初の真正の「マニアックス」だ。
400000というブログのアクセスも、凡そ6年前には想像だにしていなかった。
いろいろな方々の、多くの励ましと御協力に感謝致します。
心より――「ありがとう!」
2012/09/20 17:10:57 Blog鬼火~日々の迷走: 岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること
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のあなたが――2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来――400000アクセス――キリ番でした。
実況中継が出来なかったので、以下、そこまでの方に敬意を込めて、見て戴いた時間とブログとを掲げます。ありがとう。
………………
2012/09/20 17:10:45 * Blog鬼火~日々の迷走: 藤沢鎌倉トンカチ山遺跡出土品第2011―3―19号出土品 縄文分銅型石斧 復元:藪野豊昭
2012/09/20 17:04:54 * SCULPTING IN TIME: Die Toteninsel Arnold Böcklin
☆この方は検索ワード“böcklin”で言語も“German”……多分、ドイツ人の方らしい。Danke schöen!
2012/09/20 17:01:33 Blog鬼火~日々の迷走: 2011年03月(アーカイブ)
2012/09/20 17:01:30 一人の妻帯者である僕によって忘れられた僕の古い写真帖、さえも: 原民喜 碑銘
2012/09/20 17:01:26 Blog鬼火~日々の迷走: 耳嚢 巻之三 深切の祈誓其しるしある事
2012/09/20 16:55:00 * Blog鬼火~日々の迷走: ひとりだけの水族館 第5水槽 死なない蛸
2012/09/20 16:52:11 * Blog鬼火~日々の迷走: トップページ
2012/09/20 16:31:28 * Blog鬼火~日々の迷走: 耳嚢 巻之二 一休和尚道歌の事
☆この方の言語は多分、初めて――“Hebrew”――ヘブライ語だぜ! toda raba!
2012/09/20 16:26:12 * Blog鬼火~日々の迷走: 生物學講話 丘淺次郎 三 産まぬ生物
2012/09/20 16:20:59 * Alice's Adventures in Wonderland: 広場の孤独 または ネッシーの心霊写真
2012/09/20 15:45:16 * Blog鬼火~日々の迷走: 秋和の里 伊良子清白
2012/09/20 15:33:48 Blog鬼火~日々の迷走: 断捨離帖1 ガメラ対ギャオス
………………
それでは、記念テクスト公開作業に――すみません、これから夕食作り――食後に――入ります。
2012/09/20 15:19:01 * Blog鬼火~日々の迷走: 無知も甚だしいエッセイ池内紀「作家の生きかた」への義憤が芥川龍之介の真理を導くというパラドクス
を検索ワード「澄江堂遺珠」で訪れたユニーク・アクセスのあなたが――399989――番目
……あと11人なのだが……父と妻の夕食の買い出しに出掛けなくてはならなくなった。400000アクセスの実況中継は、残念ながらその瞬間を捉えられないかも知れない……悪しからず……
――399980――番目のユニーク・アクセス(以前に先行アクセスがないこと)方も……
2012/09/20 15:01:21 * Alice's Adventures in Wonderland: 広場の孤独 または ネッシーの心霊写真
……アリス……今日は、モテるねぇ……
蛾の影の躍る中なる春宮圖
[やぶちゃん注:「春宮圖」中国の春画、ポルノグラフィのこと。秘戯図・春宮画・春意等、多くの言い方がある。]
朝の蛾の白しと見れば生きてある
2012/09/20 12:28:20 * Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介と李賀の第三種接近遭遇を遂に発見した
検索ワード「李賀」で訪れたあなたが――399958――アクセス目……これって僕にとっては、結構、感動モノの発見だったんですよ!……
2012/09/20 12:09:00 * Alice's Adventures in Wonderland: 広場の孤独 または ネッシーの心霊写真
検索ワード「心霊写真」で訪問されたあなたが 399950 アクセス目――御免なさいね、よくいらっしゃるんですよ「心霊写真」で……そうして娘のアリスの尻尾の写真を見て……がっくり……これらの方は、流石にリピーターにはなりませんね……
壁上の蜘蛛うごくとき大いなる
[やぶちゃん注:これが本句集「蜘蛛うごく」の本句であろう。]
壁に腹ゆさぶりて蜘蛛の影つくる
動きやすく蜘蛛ゐて壁のましろさよ
燈をまともすばやき蜘蛛として構ふ
[やぶちゃん注:「まとも」は「正面」「真面」で名詞・形容動詞。]「真(ま)つ面(も)」の意で、真っ直ぐに向かい合うこと。真面目の意の「まとも」の原義。]
打たんとす蜘蛛黑し蜘蛛身をひろげ
2012/09/20 10:08:17 * Blog鬼火~日々の迷走: 宮澤トシについての忌々しき誤謬
を訪れたユニーク・アクセスの――399940――目のあなた……検索ワード……「宮沢健二 近親相姦」……「賢治」でっせ……
2012/09/20 08:28:37 * Blog鬼火~日々の迷走: 上海游記 十九 日本人
検索ワード「nyk寄宿舍」で訪問された言語「Korean」のあなたが 399923 アクセス目――これは面白い研究をされておれますね(「NYK」とは「日本郵船株式会社」、この方は、その戦前の寄宿舎を検索されておられるのである)
2012/09/20 08:24:05 * Blog鬼火~日々の迷走: カウントダウン実況中継
検索ワード「福島第一原発」で訪問されたあなたが 399922 アクセス目――ごめんなさい、福島原発のメルトダウン・カウントダウンでは……ありません……幸いにも……
先程から400000アクセス記念テクストの作業に入った――
2012/09/20 07:03:04 Blog鬼火~日々の迷走: 映画「20世紀少年」 或いは 20世紀少年である僕
を訪問された言語を英語とするあなたが 399910 アクセス目――「20世紀少年」あと最終巻「下」を残すばかりです。読み終わったら……僕の秘蔵の……僕の本物の「20世紀少年」の事実を……公開するつもりです……その時は、また、是非、お越し下さい……待っています……「ともだち」より――僕はもう誰とも――「絶交」――しないからね……
あなたはその後――
2012/09/20 07:18:30 Blog鬼火~日々の迷走: 耳嚢 巻之五 地藏の利益の事
2012/09/20 07:18:31 Blog鬼火~日々の迷走: 火野葦平 河童曼陀羅 テクスト化始動
2012/09/20 07:18:32 Blog鬼火~日々の迷走: 福島第一原発4号機問題 村田光平氏 (藪野直史採録)
2012/09/20 07:18:36 Blog鬼火~日々の迷走: LEFT ALONE BILLY HOLIDAY
2012/09/20 07:44:07 Blog鬼火~日々の迷走: 秋和の里 伊良子清白
2012/09/20 07:44:17 Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定する試み
2012/09/20 07:44:14 Blog鬼火~日々の迷走: 御用学者の嘘をお見せしよう
を見られて、これで アクセス数は 399919 ――
腹病の藥の事
腹を下し候藥を知行より來りし者進(すすめ)けるゆへ、如何なる品也(や)と尋けれ ば、鰹をこくしやうにして給(た)べれば立所に癒)いゆ)る由。田舍人の丈夫成るもの抔の事にや。いぶかしながら爰に記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:二項前の「疝氣胸を責る藥の事」の民間薬方譚と連関。
・「知行」根岸鎭衞の知行地は底本解題によれば、上野国緑野(現在の群馬県多野郡の一部)・安房国朝夷(あさい)二郡(現在の南房総市の一部及び鴨川市)の内で采地五百石とある(天明七(一七八七)年)。これはもう房総半島先端外房の後者と考えて間違いない。
・「こくしやう」「濃漿(こくしょう)」で、味噌味で濃く仕立てた汁物。特に鯉こくなど、魚類を素材としたものを言うようである。なお、「濃漿」を「こんづ(こんず)」と読む場合があるが(「濃水(こみづ)」の転訛)、これは、①米を煮た重湯(おもゆ)。②粟や糯米(もちごめ)等で醸造した酢。早酢(はやず)。③酒の異称。④
濃い汗。大粒の汗の謂いとなり、異なるので注意。非常に塩分がきつくなり、逆に腹に優しくない感じはする。根岸もそこで引いた(訝しんだ)のであろう。
・「鰹」カツオに多量に含まれるニコチン酸とニコチン酸アミドから成るナイアシン
(Niacin:ビタミンB複合体でB3とも称する。熱に強く水溶性。)は糖質・脂質・タンパク質の代謝に不可欠で、循環系・消化系・神経系の働きを促進する働きがあり、胃腸病の薬剤として使用されている。
・「給(た)べ」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
腹下しの薬の事
私が腹を下したことが御座った折り、たまたま知行所安房朝夷(あさい)から参っておった者が聴きつけ、
「……よう効きまするもの、これ、我らが里に、御座いまする。」
と勧める故、
「如何なる薬じゃ?」
と訊いたところ、
「ただ鰹を濃漿(こくしょう)にしてお召し上がりになられれば、これ、たちどころに癒えまするぞ。」……
田舎人(びと)にて、元来が胃の丈夫なる者なんどならばこそ、それで効く、とでも、言うのであろうか? 訝しきことながら、一応、ここに記しおくことと致す。
2012/09/20 06:32:38 * Blog鬼火~日々の迷走: トップページ
を訪問されたユニーク・アクセスのあなたが 399900 アクセス目――
2012/09/20 06:20:22 Blog鬼火~日々の迷走: 富田木歩論「イコンとしての杖」藪野唯至――くすぐったいよ 母さん
を訪問されたユニーク・アクセスのあなたが 399899 アクセス目――
風ある燈守宮ますます指を張る
*
畑の句、動物の部立に入って俄然、冴える。それは彼の生来の怪奇幻想性がこのグループでこそ十全に発揮されるからである。
2012/09/20 06:03:33 * Blog鬼火~日々の迷走: 梶井基次郎「檸檬」授業ノート
を訪問されたユニーク・アクセスのあなたが 399896 アクセス目――テスト頑張りな……
「さめ」やその他の大きな魚類の表面には、往々「こばんいただき」という奇態な魚が著いて居ることがある。この魚は「さば」・「かつを」などに類するものであるが、頭部の背面に小判形の大きな強い吸盤があつて、これを用ゐて他の魚類の口の近邊に吸ひ著き、その魚の泳ぐに委せてどこまでも隨つて行く。一體「さめ」の類は鋭い齒を以て他の大魚の肉を嚙み裂いて食ふもの故、その度毎に肉の小片が水中に溢れ浮ぶが、「こばんいただき」はかやうな肉の殘片を口に受けて餌とするのである。それ故先づ魚類中の乞食と名づけても宜しからう。海岸の漁夫町では往々この魚の生きたのを子供が玩んで居ることがあるが、盥に海水を入れた中へ放すと、直に底へでも横側へでも頭で吸ひ著いて決して離れず、頭の方へ向つてならば動かすことが出來るが、尾を握つて後の方へ引いては到底動かず、力委せに引張ると、盥ごと動く。かやうに強く吸い著く性があるから、オーストラリヤの北に當る或る地方では、土人がこの魚の尾に繩を括りつけ、海龜の居る處に放して吸ひ著かせ、繩を手繰り寄せて龜を捕へる。この魚などは常に「さめ」や「あかえひ」に附著しているから、鯨と「ふぢつぼ」とを共棲と見なせば、これも同じ理窟で共棲と名づけねばならぬ。また假に、「こばんいただき」が常に「さめ」の口の内面に吸ひ著いて居るものと想像すれば、必ず寄生と名づけられるに相違ない。かくの如く共棲は一面には、たゞ場所を借りるだけの獨立生活に移りゆき、一面には寄生生活に移つて行き、その間には決して判然たる境界を定めることは出來ぬ。
[やぶちゃん注:「こばんいただき」条鰭綱新鰭亜綱スズキ目コバンザメ亜目コバンザメ科 Echeneidae に属するコバンザメ類。現生種四属八種は以下の通り(ウィキの「コバンザメ」に拠る)。
コバンザメ属
Echeneis
コバンザメ Echeneis naucrates
ホワイトフィン・シャークサッカー
Echeneis neucratoides
スジコバン属
Phtheirichthys
スジコバン
Phtheirichthys lineatus
ナガコバン属
Remora
オオコバン
Remora australis
クロコバン
Remora brachyptera
ヒシコバン
Remora osteochir
ナガコバン
Remora remora
シロコバン属
Remorina
シロコバン Remorina albescens
標準種であるコバンザメ属
Echeneis の属名はギリシア語で「船を引き止めるもの」の意。英名は“sharksucker”又は“suckerfish”。ナガコバン属名の“remora”で、前者の“sucker”は吸盤を持つ者の意、後者はラテン語で「遅らせること」の意。Echeneis や remora は、この魚が船底に吸着すると船足が衰えると信じられたことによる。
私は「コバンイタダキ」が大好きである。小学生の頃、小学館の「魚貝の図鑑」は私のバイブル並の座右の書で、今はもう背が崩れかけているが、中でも忘れられない異形として「サコファリンクス」や「シーラカンサス」の絵と共に、サメの腹に吸いついた「コバンイタダキ」を忘れられぬ。
だから――ここで思いっきり「コバンイタダキ」にラヴ・コールしようと思う。コバンイタダキ博物誌である。本注の民俗学的な博物誌記載全体は、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「コバンザメ」の項記載引用を『参考』にしつつも、敢て『私の愛するコバンイタダキ』のために荒俣氏の文章ではなく、極力、私の所持する原典(訳)に当たって叙述するよう心掛けたことを最初に表明しておく。
では、まずアリストテレスから。
アリストテレスの「動物誌」第十四章には、『岩場にすむものには或る人々が「フネドメ」と称する一種の小魚もあって、これを復しゅうののろいや恋のまじないに使う人々もあるが、食べられない。またこの魚は足がないのに、有るという人々があるが、これはひれ[やぶちゃん注:「ひれ」に傍点「ヽ」。]が足に似ているためにそう見えるだけである。』という記載があり(引用は岩波書店一九六八年刊島崎三郎訳「アリストテレス全集7 動物誌 上」を用いた。「復しゅう」はママ)、その訳注には、『この魚が船のかじ[やぶちゃん注:「かじ」に傍点「ヽ」。]にかかると、帆一ぱいに風をはらんでも舟が動かないという伝説があるからであるが、』この魚が『何をさすのか分からない。名前からEcheneis romora L.(コンバンザメ)』(これはリンネが命名した後に修正されるコバンザメの旧学名と思われる)『とする人々もあるが、何も根拠はない』とある。
なお、コバンザメ亜目の系統は未だよく分かっていないものの、「サメ」を名に持つもののサメ類(軟骨魚類)とは無縁で、一般的硬骨魚類を代表するスズキ目の、マカジキなどに近いものと推定されている。別称和名のコバンイタダキもしばしば用いられ、私もこちらの和名の方が親しい。
プリニウスの「博物誌」第九巻四一章には、以下のように記載する(底本は平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」を用いた)。
《引用開始》
岩場によくいる吸着魚<コバンザメ>というひどく小さい魚がある、これが船体にとりついていて船脚を遅らすと信じられている。そういうことでこういう名がつけられたのだ。そしてまたそういう理由で、これはまた惚れ薬を提供いているとか、裁判に持ち込むことを妨げる一種の呪文の作用をしているとかいうので評判が芳しくないのだが、この非難は、妊婦の子宮の下り物を止め、分娩時まで子供を抑えておくという賞賛すべき性質だけで帳消しにされる。しかしこれは食物の仲間入りはできない。ある人はこの魚には足があると考えているが、アリストテレスはそれを否定して、それの手足は羽に似ているとつけ加えている。
《引用終了》
更に、プリニウスは余程、このコバンザメと船乗りの伝承に非常に興味があったらしく、第三二巻「海棲生物から得られる薬剤」の第一章冒頭でも、「航海とコバンザメ」と表題して、満を持して以下のように解説している(文中に入っている編者の「見よ注記」は省略した)。
《引用開始》
わたしの題目について書き進んで、今度は自然の作用のうちの最大のものについて述べる番になった。そして今やわたしは、これ以上はまったく探究しようもない、そしてそれに匹敵するか類似するものとてほかに見出し得ない力、自然が自己を超克する、それも無数の方法で超克する隠れた力の、今まで求められたこともない圧倒的な証拠に直面しているのだ。海、風、旋風、暴風雨などよりもっと激しいものがあるだろうか。自然のどのような部分においても、帆とか櫓による以上に、人間の技術によって助けられたことがあったであろうか。なおこれに海全体が一つの川になるあの潮の干満の名状し難い力をつけ加えよう。これらすべては同じ方向に働いてはいるのだが、コバンザメのたった一種類の、ごく小さい魚によって抑制される。疾風が吹くかも知れない。暴風雨が荒れ狂うかも知れない。ところがこの魚がそれらの狂暴を制し、その巨大な力を抑える。そして船舶を止める。これは大綱でも、計り知れない重さの錨を投げてもなし得ないことだ。それは彼らの攻撃を抑え宇宙の狂気を手なづけるが、それは自分自身で骨を折ってでなく、抵抗によってでもなく、その他どんな方法によってでもなくて、ただ吸着することによってなのだ。この小さな生物だけで、これらすべての諸力に立ち向って、船を釘づけにするのに十分なのだ。しかし武装した艦隊はその甲板の上にたくさんの防塞の塔を聳えさせているので、戦争は海上でも要塞の塁壁から行なわれる。あの敵にぶつけるために青銅と鉄で装われた衝角が半フィートほどの長さの小さな魚によって抑えられ動けなくなるなんて、人間も何というつまらぬ生物であろうか。アクティウムの戦いで、巡回して部下を激励しようと焦っていたアントニウスの旗艦をこの魚が止めた。とうとう彼は船を他の船に替えなければならなかったが、それでカエサルの艦隊はただちにいっそう激しい攻撃を加えたとのことである。われわれが記憶しているかぎりでは、その魚が、ガイウス帝がアストゥラからアンティウムに向け帰航中の船を停めた。後でわかったことだが、その小さな魚はまた凶兆であった。というのは、その折、帝がローマへの帰還の直後、彼自身の部下によって刺し殺されたのだから。船の遅延についての驚きは長くは続かなかった。その原因がすぐ発見されたから。全艦隊のうち進まなかったのは五段擢ガレー船だけであったから、人々はただちに水に潜って、船のまわりを泳いで原因をつきとめた。彼らはこの魚が舵にくっついているのを発見し、それをガイウスに見せた。ガイウスは、彼を引き停め、四〇〇人の漕手の彼自身に対する服従を拒否したのがこんなものであったことにいたく立腹した。特に彼を驚かしたことは、その魚が船の外側にくっついて彼を止めたのであって、船の中ではそういう力をもっていないということであった、というのがみんなの意見であった。その時あるいは後になって、その魚を見たものは、大きなナメクジのようなものであると言っている。わたしは水棲動物について説明した際、魚について論じたところで、多くの人々の見解を紹介した。そしてわたしは、こういう種類の魚はすべて同じような力をもってい ることを疑わない。というのはクニドスのウェヌス神殿に有名な、そして神によって認められた事例があって、そこではカタツムリすら同様の力をもっていることを信じざるを得ないからだローマの権威者のうちある人々は、この魚にモラ<遅延>というラテン名を与えた。そしてあるギリシア人たちによってある不思議なことが語られている。すでにわたしが述べたように、それをお守りとして身に付けていると流産を抑え、子宮の脱垂を収めて胎児を成熟させるという。また他の人々は、それを塩蔵しておきお守りとして身に付けると、妊婦に分娩させるという。そういうわけでそれにオディノリテス<陣痛を除くもの>という異名が与えられている。これらのことはどうであれ、船の航行を止めたというようなことは事例がある以上、自然発生する事物から得られるこれらの治療薬の中に見出される何らかの能力、威力、効能について疑念を差し挾むものがあるであろうか。
《引用終了》
「衝角」は「しょうかく」と読み、軍船の船首水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装を言う。前方に大きく突き出た角の形状を成し(英名“ram”は雄羊の意)、古代の海戦に於ける軍船同士の接近戦では敵船側面を突いて櫂の列を破壊、機動性を奪ったり、その船腹を突き破って浸水させ、行動不能化ないし撃沈することを目的とする武器である。「アクティウムの海戦」B.C.三一年九月にオクタウィアヌス支持派とプトレマイオス朝及びマルクス・アントニウス支持派連合軍の間でイオニア海のアクティウム(現ギリシャ共和国プンタ)沖に於いて行われた海戦。「ガイウス帝」はローマ皇帝カリギュラのこと。
荒俣宏「世界大博物図鑑2 魚類」の「コバンザメ」の項には、まさに丘先生が「オーストラリヤの北に當る或る地方では、土人がこの魚の尾に繩を括りつけ、海龜の居る處に放して吸ひ著かせ、繩を手繰り寄せて龜を捕へる」と述べている漁法を裏付ける記載が載る(ピリオド・カンマを句読点に代えた)。
《引用開始》
コロンブスが西インド諸島のキューバ島でコバンザメを利用した漁法を見た、とその息子が記している。それは、コバンザメを飼いならして尾の付け根に金属の輪をつけ、それに長いロープを結んで泳がせ、ウミガメなどの姿をみつけるとロープをのばしてカメの腹に吸いつかせて生け捕りにするというものだった。
《引用終了》
現在も、キューバはウミガメのタイマイを食用とし、養殖にも成功している(これは日本が誇る鼈甲細工の原料が、実に多量にストックされていることを意味している。キューバはそれを売りたい、日本も欲しい、にも拘わらず、ワシントン条約によって我々はそれを買えないのだ――私が教員時代よく話したものだ――まあ、これ以上、話し出すと脱線で戻れなくなるからここでやめておくが、アメリカ主導の自然保護を隠れ蓑とした政治的経済的なおぞましい世界支配戦略や文化の多様性否定の弱者イジメには、思いっきり反吐が出る!!!)。以上のコバンザメ漁はウィキの「コバンザメ」にも以下のように記載がある(本漁の事実について欠かせないと判断した注記を後に接続させておいた)。
《引用開始》
コバンザメはウミガメ漁に利用されている。生きたまま捕らえたコバンザメの尾にロープを結びつけ、ウミガメの近くで放つと、コバンザメは一直線にウミガメに向かっていき腹にくっつく。ロープを手繰ればコバンザメと一緒にウミガメも引き寄せられる。小型のものであれば直接捕獲し、大型のものであれば最終的に銛でしとめる。
この漁はインド洋全体、特にザンビアやモザンビーク周辺の東アフリカ沿岸や[2]、ケープタウンやトレス海峡近くの北オーストラリアで記録されている[3][4]。
類似した漁法は日本やアメリカでも行われている。西洋の文献で最も初期に「漁する魚」が記述されたのは、クリストファー・コロンブスの2度目の航海記録である。一方、レオ・ウィーナーは、コロンブスがアメリカをインドと勘違いしていたことから、アメリカに関して書かれた記述は眉唾で、東インドについて書かれた記述からコロンブスが作り出したものであろうと考察している[5]。
2 E. W. Gudger (1919). “On the Use of the Sucking-Fish for Catching
Fish and Turtles: Studies in Echeneis or Remora, II., Part 1.”. The American
Naturalist 53 (627): 289-311.
3 E. W. Gudger (1919). “On the Use of the Sucking-Fish for Catching
Fish and Turtles: Studies in Echeneis or Remora, II., Part 2”. The American
Naturalist 53 (628): 446-467.
4 Narrative of the Voyage of H.M.S. Rattlesnake - Project Gutenberg
(Dr. Gudger's accounts are more authoritative, but this source is noted as an
early account that Gudger appears to have missed.)
5 Leo Wiener (1921). “Once more the sucking-fish”. The American
Naturalist 55 (637): 165-174.
《引用終了》
次に本邦の記載を見よう。寺島良安の「和漢三才図会」の「巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」に「船留魚」として載せる。以下、リンク先の私の電子テクストの原文・書き下し文と私の注を読み易く整序して転載する。
《引用開始》
[やぶちゃん図注:図の右上に「背」とし、左やや下に「腹」とし、それぞれの方向からの魚体を描いてあるが、よく見て頂きたい。良安は「背」と「腹」を誤まっている。腹ビレも描き落としており、良安が果たして実物を見て描いたのかどうか疑わしい。しかし、本文「頭の裏」という確信に満ちた記載や、「其の異形を惡」むという語調は、忌まわしい魚体に対する彼の生理的嫌悪感の現われであり、それ故の誤認ととれなくもない。]
ふなとめ 正字未詳
舩留魚 【俗云不奈止女】
△按舩留魚鱣之屬状似鯒而尾末纎無岐偃頭眼小灰白色無鱗頭裏扁有小刻如金小判之象而下喙尖畧長有小鬛自頭連尾小者長尺半大者三四尺毎以頭小刻附海舶板用鐵梃亦不離也掩籃待自離去取之希有出魚市人惡其異形無食之者
*
ふなとめ 正字未だ詳らかならず。
舩留魚 【俗に不奈止女と云ふ。】
△按ずるに、舩留魚は鱣(ふか)の屬、状ち、鯒(こち)に似て、尾の末、纎(ほそ)く、岐無し。偃頭えんとう)。眼小さく、灰白色。鱗無く、頭の裏、扁たく、小刻有り、金小判の象(かたち)のごとくにして、下喙、尖りて、畧(やや)長し。小鬛(こひれ)有りて頭より尾に連なり、小さき者、長さ尺半、大なる者、三~四尺。毎に頭の小刻を以て海舶の板に附きて、鐵梃(かなてこ)を用ひても亦、離れざるなり。籃を掩ひて自(おのづ)から離-去はな)るるを待ちて之を取る。希に魚市に出づること有り、人、其の異形を惡(にく)んで之を食ふ者無し。
[やぶちゃん注:スズキ目Perciformesコバンザメ亜目Echeneoideiコバンザメ科Echeneidaeで四属八種。コバンザメ属Echeneis、スジコバン属Phtheirichthys、ナガコバン属Remora、シロコバン属Remorina。彼らは歴とした硬骨魚の正統主流派であるスズキ目であって軟骨魚類の「鱣の屬」=フカ=サメ類ではない。ただ、この時代からサメ呼ばわり(サメ=フカの仲間と認識)していたことが、この良安の叙述から窺われ、本種のコバンイタダキへの改名に反対していた魚類学者田中茂穂の『東京附近でコバンザメと云ふのは形が多少鮫に似てゐる爲である。此魚は鮫類とは著く違つてゐる爲に、わざわざコバンイタヾキと云ふ名稱を付けたのは教科書を作った學者達である。然し私はコバンザメと言つた方が如何にもいゝやうに感ずる。相當智識のある人ならば此魚を鮫と思ふ人はいない故、そんな取越苦勞は不要である。是に類似したことが他の動物にもあるが、徒に不器用な改名は私は採らないのである。』[注:「コバンザメ-WEB魚図鑑」からの孫引きであるが、表記の一部に問題があるため、恣意的に補正してある。下線部、やぶちゃん。])の謂いにはやや疑問が生じる。実際、田中は東京附近での通称名の標準和名化であることを示唆しているが、この時代の良安でさえ、「鱣の屬」と言っている。私は「サメ」でもないのに「サメ」は、ないと思う。標準和名は、その名を聞いてある程度の実体とのかけ離れることのない連想が可能である名前がよいと思っている(最低限、誤まった情報を類推させてはいけないということである。但し、既に人々に定着してしまっているものを、強いて変えることに拘るものでもないが)。頭頂部に小判型の吸着器を「頂き」、寄生種の運動エネルギーや餌のお零れをちゃっかり「頂戴する」魚のイメージとして、私は「コバンイタダキ」の和名をこそ鮮やかに支持するものである。この吸着器官は第一背鰭の変形したものと考えられている。また、寄生行動をとるのは、比較的若い個体で、成長すると自由遊泳するものが多いという。また、寄生生活をしている個体の胃からは、寄生種に寄生している甲殻類が見つかっており、ちゃっかり者のコバンイタダキではなく、相利共生の側面も否定できないと思われる(但し、寄生種である本家のサメ等に食われることもあると聞く)。
「鯒」は、カサゴ目 Scorpaeniformesコチ亜目Platycephaloideiの魚類の総称である(この場合は私は、スズキ目Perciformesネズッポ亜目Callionymoideiの「コチ」呼称群を考慮する必要はないと思う)。特にここでは本邦の典型的な大型種コチ亜目Platycephaloideiのマゴチや近縁種のヨシノゴチ(どちらもPlatycephalus sp.(以前はPlatycephalus indicusと同一種とされていたが、研究の進展により現在は別種とされる。学名未認定。)を良安は想定していると考えてよいであろう。
「偃頭」は本ページの「鰐」の注で考察したように、扁平で地べたに伏せた(うつぶせになった)頭部を示すもの。東洋文庫版はここでは「鰐」とうって変わって妙な訳をせず、『(頭が伏せたような形になっていること)』と極めて素直である。
「之を食ふ者無し」とあるが、伝え聞くところでは漁師料理にして、旨いとする。私は、残念なことに食したことはない。
《引用開始》
先に引用したウィキの「コバンザメ」には『一般的には食用にしないが、大型魚であることから、地域や漁獲後に食用とする地方もある』とあるが、要出典注記が附く(閲覧者に疑義があるらしい)。私は上に述べた通り、確かに漁師料理で旨いという話をネット上で詠んだ記憶がある(記載資料や現地が判明した際には、ここに追加する)。例えば、「WEB魚図鑑」の「WEB魚図鑑● 食味レビュー コバンザメ」にあり、『釣れたので冗談で食べてみたが、言われなければ何の魚か分からない。真っ白なきれいな身で歯ごたえは無いが味自体は不味くは無い。アンモニア臭等の臭みは全くなし。エイリアンみたいな吸盤の見た目で損をしている。干して漢方薬の原料としてかなりの高値で取引されるらしい。惜しい事をした』。『コバンザメといってもサメの仲間ではない。ゼラチン質の分厚い皮に覆われた白身の肉。皮は全くおいしくなく、煮ると外れる。身は淡白だが美味。サバのような感じ。しかし、肉の量は少ない』とあるから、食用には全く以って問題ないことは明白である。
以下、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「コバンザメ」の項の最後には、主に本邦での民俗誌として記載が載る(ピリオド・カンマを句読点に代えた)。
《引用開始》
《栗氏魚譜》によると、コバンザメの小判状の部分は、死んだものでも盆や板につけると吸いつく。
いづれにせよ、コバンザメは大魚についているので、逆にコバンザメを祀れば、大魚にありつくという信仰が生まれた。そこで大漁の吉兆として、神棚にあげて祈ったという。コバンザメを俗に告神甚五郎(つげのかみのじんごろう)とよんだ理由である。
このように縁起魚として神棚にあげられることが多く、かつ、肥前唐津地方ではスナジトリといって、陰干しにして煎じて服用すれば、いかなる瘧(おこり)もたちどころに癒えるといって珍重される。
《紀州魚譜》もコバンザメを干して赤痢や喘息の薬とする地方がある、と述べている。
また、この魚をもっていると、裁判に勝つことができるという俗信がある。これは裁判を長びかせれば結局勝つことができるという考えによるらしい(谷津直秀《動物分類表》)
《引用終了》
最後に荒俣氏は妖怪の「アヤカシ」を挙げ、これをコバンザメとする説があることを示されておられる。そこには宝暦八(一七五八)年の序を持つ博物学書「採薬使記」(阿部友之進、松井重康・口述、梨春光生・副監、高大醇(こうだいじゅん)・録)が挙がっている。この本は幸い、早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」で画像として読むことが出来るので、以下にテクスト化して示す(句読点及び濁音は私の判断で補った)。
重康曰、加州、越州之海中ニ、アヤカシト云フ魚アリ。其形チ鮧ニ似テ、小キハ一尺バカリ、大キナルハ一丈許モアリ、全身鱗ナシ、頭ノ上ニ圓ク高キ所アリテ、段々ノキザアリ。小判ノキザノ如シ。故ニ名小判魚トモ云フ。其魚多ク集リテ、彼キザノ所ヲ舩ニ吸ツケテ、舩ヲトムル事アリト云フ。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
光生按ズルニ、此魚、東國ニテイマダ見ズ。江都ニテ、稀ニ小判鮫ト云フ魚ヲ、捕リ得ル事アリ、形状、大抵相似タリ。アヤカシト同物カ。或曰、利瑪竇ガ、坤輿圖ニ載スル所ノ咽機哆ナルベシト云ヘリ。
「鮧」は「なまず」。「利瑪竇」イタリア人イエズス会員でカトリック教会司祭として中国に宣教したマテオ・リッチ(Matteo Ricci 一五五二年~一六一〇年)の中国名「りまとう」。「坤輿圖」彼が中国で一六〇二年に刊行した世界地図「坤輿(こんよ)万国全図」のことだが、管見したが「咽機哆」(「いんきし」と読むか)の記載は海洋部を重点的に見たが見当たらない。識者の御教授を乞う。確かにこの記載は「コバンイタダキ」以外には考えられないが、そもそも「アヤカシ」は、怪火・船幽霊などのさまざまな海上の妖怪や怪異を呼ぶ語であって、船足を遅らすという古今東西の伝承から敷衍されたもので、ファンの私としては冤罪に近いという気がする。
『「こばんいただき」が常に「さめ」の口の内面に吸ひ著いて居るものとすれば』丘先生はちゃんと『常に』と断っておられるのが素晴らしい。水族館フリークなら誰でも見たことがあるはずであるが、ジンベイザメや大型のサメ類に吸着するコバンザメ類は、時に当該のサメの口中に付着していることがある(但し、時には食われてしまう個体もあるらしい)。]
英氣萬事に通じ面白事
赤坂とや糀町(かうぢまち)とやらん、火消與力にて名も聞しが忘れたり。身上(しんしやう)甚(はなはだ)不勝手にて借金多く誠に難儀也しが、夫婦色々相談して、とても此(かくの)如くにては立行まじ。先祖よりの家を絶さんも無暫(むざん)なれば誠に了簡決斷すべしとて、妻は大名衆へ奉公に出し、子共兩人は少しの手當を附て厚く親類へ賴み、宿元(やどもと)は其身と下僕壹人馬一匹計(ばかり)にて、誠に不飢不寒(うえずこごえざる)のみにて三年くらし、終(つひ)に大借を片付て猶一年同樣に暮しければ、前々の通難儀なく暮し候程に成りぬ。最早人に世話賴むべきにあらずとて、子共をも取戻し妻の暇(いとま)をも取ける時、彼妻、立歸るは嬉しけれど、今一年も此通(このとほり)になしなば、子共の片付の手當も出來ぬべしと言ければ、彼男申けるは、尤なる樣(やう)ながら、夫は是迄の志と違ひ欲心也(なり)、天の恨みを受(うけ)、親族もなんぞ心よくうけがはんや、かゝる事はせぬ事也(なり)とて妻が言を不用(もちゐざり)しが、夫よりは相應に榮へて子共も片付(かたづき)、今は心よくくらしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「英氣」には、生き生きと働こうとする気力・元気の意と、優れた気性・才気の意があるが、ここは両者の意が混然一体となった、全的なニュアンスである。
・「火消與力」幕府直轄の火消である定火消(江戸中定火之番(えどじゅうじょうびけしのばん):四千石以上の旗本で最終的に江戸市中に十組。各与力六騎・同心三〇名・臥煙(がえん:火消人足。)百~二百名を有した現在の消防署の原型。)配下の与力。八十俵高で譜代席。譜代席とは世襲で家督相続が許され(隠居出来る)、江戸城中に自分の席を持つことが出来たが、将軍への目通りは許されなかった。
・「無暫」底本には右に『無慙』と傍注する。恥知らずなこと。
・「不寒」底本には右に『(こごえ)』とルビを振る。「凍ゆ」。
・「天の恨みを受、親族もなんぞ心よくうけがはんや、かゝる事はせぬ事也」並列事項のバランスが悪い上に、妻の不審を解くには今一つ、言葉足らずに思われた。屋上屋とも感じらるる向きもあろうが、敷衍訳を施した。
・「子共の片付」「片付」は相応の職を得る(何れかが女子ならば相応の家に嫁す)との謂いであろう。
■やぶちゃん現代語訳
英気たるもの万事に通じて全きことの面白き事
赤坂だか麹町だかに住んでおるとか申す、火消与力が御座った――名も聞いておったが失念致いた――が、この者の暮らし向き、これ、至って不勝手にして、借金も多く抱え、まっこと、難儀なる日々を送って御座った。
ある時のこと、夫婦してつくづく相談致いて、
「……とてものこと、このままにては向後、暮らしも立ち行くまい。……先祖代々の家を断絶致すは、これ、人で無しの恥知らずなれば……ここは一つ、そなたも、一心決定(けつじょう)、覚悟致いて欲しい。」
とて、妻は大名衆へ奉公に出だし、二人御座った子(こお)は僅かばかりの謝金を添えて、親類の者へ、その養育を手厚く頼みおいた。
屋敷の方には、彼自身と下僕一人に馬一匹ばかりを残して、辛うじて飢えず凍えずというだけの、ぎりぎりの三年を過ぐした頃――遂に大枚(たいまい)の借金も返済致いて――なおも一年、現在の、この、ぎりぎりの暮らしを続けて御座ったならば――以前と同様の、ささやかながらも難儀なき暮らしに戻るるほどにまでは――これ、相い成って御座った。
すると、かの男、
「――最早、人に世話を頼むべきにては、これ、御座ない。」
と、二人の子らを親類より引きあげ、妻も奉公先に暇をとらせて、皆して、懐かしの我が家へと、たち帰って御座った。
その宿下がりを命じた折り、かの妻は、
「……皆してたち帰ること、これ、何より嬉しきことなれど……今、僅かに一年ばかりも、皆して、かくの通りに暮らしおらば……あの愛(いと)しい子らへも、相応のことをしてやれるだけの……これ、金子、お出来にならるるのでは、御座いませぬか?……」
と申した。
すると、かの男が答えた。
「――尤もなるように聴こえる話では、ある……じゃがの、それは……『これまでの皆の志し』とは違(ちご)うて、『これからの更なる皆の欲(ほ)る心』に基づくもの。……その『欲る心』は、これ、天からの憎しみを受くるものにして……今まで、何の蟠りものう、子らを預かって呉れて御座った親族らも……この我らが『欲る心』の一端をも感じたらば、どうして今までと同じ如、子らの養育を引き受けて呉れようか――いや、それは望めぬ。……不満は猜疑を、猜疑は嫌悪を生み……子らは、結果として、その標的ともなろう……それは必ず、子らの心に、これ、取り返しのつかぬ傷をも作ろうことと相い成ろう。……さればこそ……そなたが今申したようなことは、これ、せぬが為(ため)なのじゃ。」
と、妻の申し出を頑として受けず御座った。
しかし――それよりは、暮らし向きも順調に上向きと相い成り、相応に栄えて、直き、子らもそれなりのところへと片付いて、今は一同息災に暮らしておるとのことで御座る。
蟇日に眞夜中の眼を放つ
[ほつすがひ]
相模灘の深い底から取れる有名な海綿に、「ほつすがひ」といふものがあるが、その硝子絲を束ねたやうな細長い柄の表面には、いつも必ず一種の珊瑚蟲が澤山に附著して居る。そしてこの珊瑚蟲は「ほつすがひ」の柄から外の處には決して居ない。今では「ほつすがひ」は一種の海綿であつて、その柄も海綿體の一部であることを誰でも知つて居るから、江の島邊の土産にも全部完全したものを賣つて居るが、昔は柄だけを拔き離し、倒に立てて植木鉢に植えたものが店に竝べてあつた。そしてその莖と見える部の表面に、「たこ」の足の疣に似た形のものが一面にあるのは、この珊瑚蟲の干からびた死骸である。また鯨の體の表面には處々に大きな「ふぢつぼ」が附著して居るが、この種類の「ふぢつぼ」は鯨の體に限つて附著し、その他の場所には決して居ないから、これも一種の共棲である。海龜の甲に著いて居る「ふぢつぼ」もいつも種類が一定して、海龜の甲より外の處には決して居ない。すべてこれらの場合には、大きな方の動物はたゞ場處を貸し、小さな方の動物はたゞ場所を借りるだけで、それ以外に別に利益を交換する如きことはないやうに見える。
[やぶちゃん注:「ほつすがひ」これは、
海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi
である。英名“glass-rope sponge”。柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具)に似ていることに由来する。深海産。この根毛基底部(即ち柄の部分)には「一種の珊瑚蟲」、
刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科カイメンイソギンチャク Epizoanthus fatuus が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」のホッスガイの項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するイソギンチャクをホッスガイHyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。私は三十五年前の七月、恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見た。あれが最後だったのであろうか。私の儚い恋と同じように――(画像は例えばこちら)。
『鯨の體の表面には處々に大きな「ふぢつぼ」が附著して居る』。これはよく映像でも目にするからご存知であろうが、本文にあるようにこの共生関係も、
哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目鯨偶蹄目Cetartiodactyla(クジラ目Cetacea:下位分類階級が未整理。)
のクジラ類や、
脊索動物門脊椎動物亜門爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea
に属するウミガメ類(現生種は二科六属七種+一亜種)
と、
節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanina
に属するフジツボ類の種関係が、丘先生のおっしゃっているように厳密に特化していて、鯨だけ、海亀だけに付着するフジツボがおり、しかも特定の鯨種・特定の海亀種にのみ、特定のフジツボが付着するという特徴的な関係限定性がある。例えば、これらのフジツボは何れも、
オニフジツボ超科Coronuloidea
に属するもので、
オニフジツボ超科オニフジツボ Coronula diadema *
〔*大型種一〇センチメートルを超える個体もある。体表の表紙組織を巻き込んで、周殻の半ばは皮膚に埋没して付着する。ザトウクジラの頭部・胸ビレ・喉に付着し、また、多くの化石記録が知られている(化石サイトではかなり知られたお馴染みのようである)。因みに、このオニフジツボ Coronula diademaに付着する蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイ属ミミエボシ Conchoderma auritum という強者の中の更なる強者もいる。〕
は、
ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ科ザトウクジラ Megaptera novaeangliae
の皮膚にしか生息せず、
オニフジツボ超科ハイザラフジツボ Cryptolepas rhachianecti**
〔**コククジラの背中を覆うように多数付着する。コククジラは海底面のベントスを濾しとって食べるが、必ず右側を下に向けて採餌するため、海底面との摩擦のない左側に多くフジツボが見られる。鱗状の表面を持つ石灰質の壁を放射状に持ち、クジラの皮膚組織を摑んで皮膚深く埋没している。素手で剥離することは難しく、採取にはナイフで皮膚ごと採集する。〕
は、
ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ上科コククジラ科コククジラ(克鯨/児童鯨)Eschrichtius robustusgray
の皮膚にしか付着しない。また、ウミガメ類では、ウミガメにしか付着しないオニフジツボ超科 Coronuloidea のオニフジツボ類については、林亮太氏の「ウミガメ類・クジラ類に特有に付着するフジツボ類(オニフジツボ超科)の形態と日本での産出記録」(二〇〇九年)によって、以下のような詳細な種報告が纏まっている(日本ウミガメ協議会の「ニュースレター八一号」所載。ここからダウンロード可能。上記のハイザラフジツボも含め、以下の〔 〕内の解説文も当該論文を主に参照させて頂いている。学名を丁寧に解説されておられ、素晴らしい画像もある論文であり、是非、一読されんことを望む)。
カメフジツボ Chelonibia testudinaria ***
〔***ウミガメ類の甲羅に着生する背の低い円錐形をした、白みを帯びた淡色の大型フジツボで、直径約五~八センチメートル、殻高約三センチメートル、四大洋の熱帯から亜熱帯の海域に広く分布する。日本ではアカウミガメ・アオウミガメから採集記録がある。背甲・腹甲・縁甲板、頭部など、ウミガメの体の硬質部位に付着する。〕
サラフジツボPlatylepas hexastylos ****
〔****アカウミガメ、アオウミガメ、タイマイから採集記録がある。ウミガメ体表面の硬い部位から柔らかい部位まで全身に見られる。最大でも二五ミリメートル程度。〕
デコフジツボPlatylepas decorata *****
〔*****アオウミガメ・タイマイの皮膚上に付着する。小型で一〇ミリメートルを超えない。〕
ツツフジツボCylindrolepas sinica ******
〔******アオウミガメ・タイマイに多く観察される。首周り・尾周り・腹甲板・縁甲板に見られるが、頭部・背甲・前後肢上には見られない。アオウミガメには多数の付着が見られるがアカウミガメではあまり見られない。〕
サカヅキフジツボStomatolepas praegustator *******
〔*******カウミガメ・アオウミガメに見られる。ウミガメの首周りのような柔らかい部位に付着している。楕円形。〕
フネガタフジツボStomatolepas transversa ********
〔********アオウミガメにのみ見られる。腹甲の溝、また前後肢の鱗板の溝に埋没する。サカヅキフジツボよりも更に縦長の長円形。〕
ユノミフジツボStephanolepas muricata *********
〔*********アカウミガメ・アオウミガメの前肢正面に深く埋没する。成熟個体にしばしば見られるが、甲長六〇センチメートル以下の小型のウミガメ個体からの採集記録はない。深い椀状。〕
キリカブフジツボTubicinella cheloniae **********
〔**********日本では鹿児島県屋久島に漂着したアカウミガメ背甲に複数個体が穴を開けて付着している例が観察されたほかに採集記録はない。ウミガメの背甲の骨にまで穴を開けて埋没する。輻部に複数の大きな突起を不規則に発達させ、甲羅に深く埋没している。〕
エボシフジツボXenobalanus globicipitis ***********
〔***********鯨類の背ビレ・胸ビレ・尾ビレの末端部に一列に並んで付着している。日本ではスナメリ・シャチ・カズハゴンドウ・ミナミハンドウイルカから採集記録がある。世界中の記録をまとめると十九種の鯨類から採集されており、世界最大のシロナガスクジラからも記録がある。蓋板は完全に退化して消失し、全体の形状が烏帽子型をした異形である。〕
また、ウミガメ以外でも、
爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ウミヘビ科 Hydrophiidae のウミヘビ類
の体表面に特異的に付着するという、
ウミヘビフジツボPlatylepas ophiophilus
甲殻綱エビ目エビ亜目カニ下目ワタリガニ科ガザミ Portunus trituberculatu
の甲に付着する、
カメフジツボ属ガザミフジツボ Chelonibia patula
などがいる。
「すべてこれらの場合には、大きな方の動物はたゞ場所を貸し、小さな方の動物はたゞ場所を借りるだけで、それ以外に別に利益を交換する如きことはないやうに見える。」これらはいずれも片利共生の可能性が高い。私は片利共生と寄生の境界の曖昧性を実は好まない。クジラの皮膚に食い込んでいるオニフジツボはどう見ても、節足動物門甲殻亜門甲殻綱端脚目クジラジラミと似たり寄ったりで(あの恰好で無数に付着しているのを見るとクジラジラミは寄生虫だと叫びたくはなるが)寄生していると言うべきであろうし、ヒトがクジラやウミガメの個体識別にフジツボの付着が役立っている、それは引いては自然保護に繋がるなんどと誰かが冗談にも言おうなら、それこそ人間絶対優位のローレンツの亡霊の復活で、ますます以って気持ちが悪い。]
疝氣胸を責る藥の事
予が許へ來る庄内領主の醫師の語りけるは、同家中とやらん、疝癪(せんしやく)胸を責(せめ)さし込(こみ)て時々苦しみけるが、或日強く起りて苦しみけるを、在所より來りし足輕これを見て、我も疝氣を愁ひけるに、奇妙の藥にて快(こころよし)、用ひ可給哉(たまふべきや)と言ひし故、其藥法傳授を乞ひしが祕して不傳(つたへず)、翌日一藥を調合して煎じ候て與へける故、參り合せし醫師是を味ひて、隨分氣味面白(おもしろし)とて用ひけるに、即時に難儀を忘れ一夜用ひて翌日は快驗(くわいげん)せし故、右醫師ねんごろに尋ね問ひしに、ぶなといへる木の皮の由。然れ共(ども)本草にも不見(みえず)、此頃阿蘭陀(おらんだ)藥法の書を飜譯するものありて其説を聞(きく)に、符を合するが如しとかや。此頃は彼醫師、右の一藥に工夫の加減をなして度々功を得しとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:効果絶妙の民間医薬二連発で、話者も恐らく同一人物である。疝気も根岸の持病であるから、この最後に現れる改良薬も当然、根岸は処方して貰ったものと思われるが、それにしては書き方がやや距離をおいたものとなっている。根岸の疝気が恐らく下腹部のもので(もしかすると痔を主因とする消化器系の疾患、憩室炎や私の持病であるIBS(過敏性腸症候群)等が疑われる)、胸部痛に特化した効果を持つ(と思われる)本薬は効かなかったのかも知れない。
・「予が許へ來る庄内領主の醫師」前条の話者前田長庵は庄内藩お抱え医師とあるから、まず彼と考えて間違いあるまい。
・「疝氣」「疝癪」は近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。「卷之四」の「疝氣呪の事」で既出であるが、そこで明らかになったように根岸自身の持病でもあるので再注しておく。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍つキ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵(そうあん)の「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである。私は寄生虫が大好きなアブナイ男なのである)。但し、本記載では「疝癪胸を責さし込て時々苦しみける」とあり、位置がおかしい。これは所謂、狭心症や肺や肋膜由来の胸部痛の症状(更に広げれば呼吸困難を伴う喘息)を示しているように思われる。
・「隨分氣味面白」これは一味を試した医師が、そこに複数の、彼の知れる幾つかの生薬、若しくはそれに似た味を見出したことを暗示している。
・「ぶな」双子葉植物綱ブナ目ブナ科ブナ
Fagus crenata。但し、ブナの樹皮が生薬となるという記載は、見当たらない。ただ、管見した漢方販売サイトのこちらのページに没食子(もっしょくし)という生薬を記載し、『ブナ科の若芽や稚枝に、インクフシバチ(没食子蜂)が寄生し、産卵し、幼虫の腺分泌物により植物組織に成長刺激が起こり、それによって生じた虫嬰を乾燥したもので』、『トルコ、イラン、シリア、アラブ共和国に産する』とあるのを見つけた。このページは「本草拾遺」に収載されている知られた生薬五倍子の解説頁で、五倍子はウルシ科のヌルデの若芽や葉上にヌルデシロアブラムシが寄生し、その刺激によって葉上に生成した嚢状虫嬰(ちゅえい)を言う。日本では木附子(きぶし)ともいう。鉄漿(おはぐろ)の主原料として知られるが、タンニンを主成分として没食子酸・脂肪・ワックス・樹脂などを含み、抗菌・収斂・止血・解毒・止汗・鎮咳・止瀉の効能を載せる。その同類生薬として「没食子」が挙げられている。胸部痛への記載はないが鎮咳があり、中国原産でない点では本草書に見当たらないという本記載と一致するようにも思える。これか? 但し、現在では専ら顔料としてしか用いられていないようである。識者の御教授を乞う。なお、調べるうち、私の知らない興味深い事実を知ったので最後に記しておく。ウィキの「ブナ」の記載である、『ブナは生長するにしたがって、根から毒素を出していく。そのため、一定の範囲に一番元気なブナだけが残り、残りのブナは衰弱して枯れてしまう。ところが、一定の範囲に2本のブナが双子のように生えている場合がある。これは、一つの実の中に2つある同一の遺伝子を持った種から生長したブナである』。
・「此頃阿蘭陀藥法の書を飜譯するものありて其説を聞に」この話者が先の前田長庵なら、彼は蘭方医であるから、知り合いにこういう人物が居てもおかしくない。
■やぶちゃん現代語訳
疝気でも胸を責める型の症状に効く妙薬の事
これも私の元へよく参る庄内領主お抱えの医師が語った話で御座る。
……拙者の家中の者に、疝癪(せんしゃく)が胸部にきては痛み、時にそのために激しく苦しむという症状を持っておる者が御座った。
ある日のこと、強烈な発作が起こって苦しんでいるのを、たまたま在所の庄内から参っておった足軽が見、
「……我らも、永らく、疝気を患(わずろ)うておりましたが、奇妙なる薬を用いましたところが、これ、全快致いて御座る。……一つ、お試しになっては如何で御座ろうか?」
と申す故、是非に、とその薬方(やくほう)の伝授を乞うたが、これは、秘して教えては呉れず、その代わり翌日になって、かの足軽自身が一薬調合の上、煎じて、かの者に与えて御座った。
たまたまその場に居合わせておりました拙者は、その煎じ薬の味見を致すことが出来申したが……うーむ……これが……なかなかに……興味深い味が、これ、して御座った。……
早速に、かの者、服用致いたところ……これが! まあ! 即効にして苦艱(くげん)これ、収まり、その夜一晩、定期的に服用致いたところが……翌朝には、これ、すっかり平癒して御座った。
拙者、かの足軽に懇ろに処方の内訳を訊ねましたところが、やっとのことで――「ぶな」と申す木の皮――の由、聴き出だいて御座った。
……然れども、相当する生薬は、これ、拙者の持つ唐の本草書には、一切、記載が御座らぬ。……
……丁度、その頃、オランダの医薬書を翻訳した知れる者が御座った故、この話を致して意見を求めましたところが、これ、完全に合致する同じ処方が、オランダにもある、との由にて御座った。……
……近頃にては、我ら、この一薬に更に我らの工夫と改良を加えさせて貰(もろ)うて、種々の疝気の患者にたびたび有効な効果を得て御座る。……
とのことで御座った。
庭の閑繻子の蜥蜴と瑠璃の蜂
[やぶちゃん注:「閑」は「かん」で閑寂。トカゲの隠喩である「繻子」は「しゆす(しゅす)」と読み、繻子織りの織物のこと。経糸・緯糸が五本以上から構成されるもの。密度が高く地が厚く、柔軟性があって光沢が強い。「瑠璃」は「るり」で、本来は仏教用語。七宝の一。梵語“vairya”の漢音の音写である「吠瑠璃(べいるり)」の略。青色を基調とした宝石。赤・緑・紺・紫色などもあるとされ、ここではハチの隠喩としてその多彩な配色をのそれを想起した方がよい(瑠璃には紫色を帯びた濃い青色を言う瑠璃色という色名、また、宝石や顔料として西洋で古くから用いられてきた鉱物ラピスラズリ(「ラピス」はラテン語の「石」、「ラズリ」はペルシア語の「青」の意。藍青色を呈する数種の鉱物の混合体で、黄鉄鉱が混じっているために磨くと濃い青地に金色の斑点が輝き、別に青金石(せいきんせき)ともいう)の別名でもあるが、これらだと遠目には濃い青にしか見えず、蜂のメタファーとしては今一つ不自然である)。この句、対象のメタファーが面白く効いた畑版『古池や』――閑寂幽邃を色彩で描いた佳品で、何より、声に出して詠んだ際に、その音の絢爛さが、逆に無音に近い情景の静謐さ(音があるとすればそれは蜂の羽音のみである)を引き出す。私はとても好きな句である。]
蜥蜴うごく向日葵うごく蜘蛛うごく
[やぶちゃん注:本句集の題名は「蜘蛛うごく」である(但し、私の感触ではこの三番煎じ風の下五が元ではなく、この後に現れる『壁上の蜘蛛うごくとき大いなる』の中七部分が元に感じられる)。]
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之五」を正法寺(しょうぼうじ)を更新した。この寺は廃寺である上、僕の守備範囲を越える近世の会津騒動を中心とした事蹟が記されているため、殆んどの注を大幅な資料引用にせざるを得なかった。
痔の藥傳法せし者の事
酒井左衞門尉家來にて萱場(かやば)町に住居せる前田長庵といへる醫師、予が痔疾故腹合(はらあひ)を愁ひける時藥を貰ひける時語りけるは、痔疾の療治をなせる中橋の老婆有、日々に門前へ市をなし、近隣遠所より日々に痔を患(わづらへ)る者來りしが、彼(かの)老婆煩ふ事ありて長庵が療治にて全快なしけるゆへ、長庵右老婆に向ひ、御身子とても無く弟子も不見(みえず)、痔の妙法は人を救ふの一法なれば我等に傳授せん事はなるまじきやと切に乞しかば、彼老婆が言(いは)く、成程我等子供もなく誠に生涯の内のたつきのみにて、風與(ふと)此藥法の四五を習ひ覺へ聞及びて種々の痔疾を見けれど、外の藥は知らざれども、數多く見候へば自然と工夫も付(つき)て、是は彼(か)に用ひ彼はこれに與へけるに、自然と利(きき)候と見へて繁昌せる也(なり)、長庵が其(その)需(もとめ)の深切(しんせつ)成るに任せ、是迄醫師も追々(おひおひ)うはの空の需あれどいなみたれ共、此度病氣本復の禮旁(かたがた)とて傳授しけるが、内痔などを表へ引出(ひきいで)し候は一草(いつさう)の葉を用ひ、外へ出(いで)候て直し候にも一草の葉を用ひ、付藥(つけぐすり)は練藥(ねりぐすり)にて龍腦(りゆうなう)等を加へ香氣至て強き藥にて、其教へ主は委細の事もしらざれど、醫家にて工夫すれば其道理至極面白き法の由。同家中の男右傳法の譯を聞及び、多年痔疾を愁ひしとて賴(たのみ)けれど、本科の藥ならねば他の邪魔と斷(ことわり)けれど、切に望(のぞみ)し故無據(よんどころなく)右法を以(もつて)藥を與へしに、立所に癒へけると語りける故、爰に記(しるす)。
□やぶちゃん注
○前項連関:偽医者譚から今度は正真正銘の医師談話へ。四つ前の「ぜんそく灸にて癒し事」に民間療法シリーズでも連関。既に見てきた通り、根岸は重い痔の持病を抱えていた。彼に前田はこのシンプルな『一草の葉』の妙薬を処方して呉れたのであろうか? 恐らく、処方されたものと思われる。効果は? なければ、記載をするはずがない。それなりの効果があったものと考えてよかろう。その効果の程度も含めて、根岸は、痔の専門医ではない前田から、堅く口止めされているのでもあろう。
・「酒井左衞門尉」出羽鶴岡の庄内藩第七代藩主酒井忠徳(ただあり 宝暦五(一七五五)年~文化九(一八一二)年)。藩主在位は明和四(一七六七)年から文化二(一八〇五)年。官位は従四位下、左衛門尉。
・「萱場町」現在の東京都中央区日本橋茅場町。江戸城拡張工事の際、神田橋付近に住んだ茅商人をここに移して市街を開いたことに由来し、酒問屋の町として知られた。
・「前田長庵」当時、知られた蘭方医らしい。文化元(一八〇四)年に張路玉著前田長庵再訂とある「傷寒大成(傷寒纉論・傷寒緒論)」漢方医書を板行している。ネット検索では松平定信との関係も窺える。
・「「予が痔疾故」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「痔疾後」とする。
・「腹合」腹具合。
・「中橋」中橋広小路。現在の東京駅南口正面の八重洲通り。古くは堀が有って橋があったが江戸中期に埋め立てられ、中橋の名だけが残った。
・「龍腦」樟脳に似た芳香をもつ無色の昇華性結晶。双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科リュウノウジュ
Dryobalanops aromatic を蒸留して得られるが、人工的には樟脳・テレビン油から合成、香料などに用いられる。ボルネオ樟脳。ボルネオール。
■やぶちゃん現代語訳
痔の薬を伝法した者の事
酒井左衛門尉忠徳(ただあり)殿の御家来衆で、茅場町に住居致す前田長庵殿と申される医師が御座る。
私が性質(たち)悪い痔疾のため、腹具合まで悪うなった折り、名医の由、我ら聞き及んで御座って、特に彼に処方を頼み、薬を貰い受けたことが御座って、その際、長庵殿が語った話を以下に記しおく。
痔疾療治を専門と成す、八重洲中橋の老婆が御座った。
痔を患う者、これ、日々門前市を成し、近隣はもとより、遠方からも毎日のように痔を患(わずろ)うておる者どもが来たった。
ある時、この老婆自身が、病み煩(わずろ)うたことが御座って、我らの治療にて、幸いにも全快致いた。そこで拙者、かの老婆に向かって、
「……そなたは子とてもなく、弟子も見たところ居らぬ。……そなたの、かの痔の妙法じゃが……これは、多くの患者を救う確かな一法なればこそ……どうじゃ? 一つ、我らに伝授致すというは、これなるまじい、ことかのぅ?……」
と切に乞うて、み申した。
すると、かの老婆、
「……なるほど。……我ら、子供もなく……我ら儚(はかの)うなれば、これ、我らが一代のみの処方として――絶える、じゃろ。……我ら……ふとしたことから、この妙方効能のいろはを習い覚え……更に、あちこちより施術や処方も聞き及ぶに至り……いや、もう、いろいろな痔疾を療治して参ったれど……痔以外の病いに就きては、これ、薬も効能も、これ、とんと知らねども……数多くの痔に苦しんで御座る人々を診て参ったれば……我ら自ずからの工夫も致すように相い成り……この処方は、この病いへ用い……これはまた、あの病いの折りに……と、あれこれ試して御座るうち……自然と、よう効くようになったと見えて……かくも、繁盛致すことと相い成って御座った。……長庵先生……先生の今のお言葉は、これ、まっこと、心より、痔に苦しんで御座る人々を救わんとするに、切望なされてのことと、承って御座った。なればこそ……それに任せ……いえ、実はの……これまでにも、何人ものお医者が……これ、浮ついた金目当てやら、浅墓なる興味本位にて……教えてくれ、教えてくれのと、これ、五月蠅(うるそ)う言うて参ったことが、何度も御座ったじゃ。……なれど、総て……我ら、断っておりました。……じゃが……この度は我らが病気本復の、その御礼も兼ねて――これ、あなた様にご伝授致すことと、この婆、決め申した。――」
と、遂に伝授して貰(もろ)うたので御座る。
それは、以下のようなもので御座る。
――鬱血した内痔核などを肛門から外側へ引き出す必要がある場合、ある一草の葉を処方として用いまする。
――反して外痔核として肛門から明白に突出し、視認可能な様態のものに対しても、実は先と全く同じある一草の葉を用いるので御座る。
――患部へ外用するところの塗布剤は、一種の練薬で、竜脳などを加えてあり、至って香気の強い薬剤にて……といった塩梅で御座る。
……いえ、教授者の老婆自身は、これ、その薬効や処方の機能や現象について、分かっていてやっている訳では、これ全く御座らぬ。……
……されど、その成分・調合法・服用法・外用法・症状別処方等々につき、我らが持っておりまする医学的な知見に照らし合わせてみたところが……
……これ、何と! 実に興味深い、有効にして適正確実なる配剤・処方で御座ることが分かり申した!……
……我らが同じ家中の男にて――我らが、この評判の老婆の痔の妙法を伝授致いたということを聴き及んで――この者、長年、重い痔疾に悩まされて御座ったよしにて――どうか療治を、と頼みに参ったことが御座る。が、我らは痔を専門とする医師にては、これ、御座らねばこそ、他の痔の専門医の生業(なりわい)を邪魔致するは本意にあらざれば、とて一旦は断ったので御座る。……ところが、いや、もうシっきりなしに、望まれまして、の……よんどころのう、かの伝授の薬を以って処方致しましたが……もう、たちどころに平癒致いて、御座った。……
――痔疾に悩む我らとしては、まずはここに記し置かずんばなるまいと、筆を執った次第である。
くちなはの耳さとき輪をほどきたる
くちなはの失せたる土の眼にうごく
くちなはを垂らし槐樹のそよぎゐ
[やぶちゃん注:マメ目マメ科マメ亜科エンジュ Styphonolobium japonicum。中国原産。]
これより八重洲のイタリア料理店にてランチの上、文楽「冥途の飛脚」を観劇に参る。
出家のかたり田舍人を欺し事
寛政八年九月上旬の事也しが、我許へ常に來る鍼治(しんぢ)の、只今湯嶋裏門前にて盜賊を押へて、人大勢立留り居し故其樣子を聞しに、近在の農人と覺しき者、小田原邊へ參りて歸の節、出家商人道連に成しが、相宿に泊りて心安くいたし、外に道連もなければ翌日も一所に泊りしが、彼出家路用を遣ひ切、宿拂の手當もなければ今夜の宿拂ひは、江戸表へ罷越候得(まかりこしさふらへ)ば、親類共も多き間早速返濟なすべしとて欺きける故、出家の事といひ前夜より心安くいたしける事故、其日は彼田舍人より拂遣しけるが、品川に至りて一人の出家申けるは、何をか隱し可申、一人は出家成り、某(それがし)は醫師にて江戸表いづかたには兄も有之、同人方より上方へ修業に登りけるに、途中にて不慮に煩ひて、手當せし品身の廻り大小迄も沽却なし、兄の方へ至らんも誠に面(をもて)ぶせなれば、何卒大小を才覺いたし罷越度(まかりこしたき)由を彼田舍人に欺き賴ける故、慈愛深き者にや、或る古道具屋にて麁末(そまつ)の大小を調へ、其代物も江戸に至り歸し候約束にて相渡しければ、殊の外悦び同道して江戸へ入、芝邊にてはづすべき心や、此邊に知る人ありとて兩人の僧裏道へ立入しを、彼田舍人少しもはなれず附歩行(つきありき)ければ、知る人は店替(たながへ)せしなど僞りて、兎角して湯嶋迄來りて、裏門前の佐野何某といへる御旗本の門へ至り、門番に何か斷りて内へ通り、表に彼田舍人を殘し置て暫く過て立出で、漸々尋當りたり、水引を少(すこし)調へ度由にて、調呉(ととのへくれ)候樣田舍人へ賴ける故、僞もあらじと水引を調に立出しが、さるにても疑敷(うたがはしき)とて跡へ心を付ければ、右出家も未だ未練のかたりなるや、貮人ながら旅人の風呂敷包を持逃出しけるを、彼田舍人聲を掛て追欠(おひか)け、大根畑にて捕へて風呂敷包も、調へ遣しける大小をも取戻し、扨々憎き盜賊かな、所へ預け官へ訴(うつたふ)べけれども、我も在所に急ぎ候事あれば其通(そのとほり)に成し置也とて、一人の出家は逃去りしが、殘る一人を突倒し惡口して右の田舍人は立去りける由。突倒されし出家は漸(やうやく)起きて側の石に腰を掛居しを、恨まぬ者もなかりしが、怡然(いぜん)として居たるを見て來(きた)る由。扨々不屈者もあるかなと右鍼(はり)醫師友益(いうえき)語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。現代語訳はト書を入れて、演出してみた。――それにしても――現代もそうだが――こういう騙りの輩、どうも最後にこんな風に居直るケースが多いじゃねえか! 私(あっし)が江戸っ子なら、こういう態度はムショウに腹が立つゼ! 半殺しにしたくなるゼエ! エエィ! 皆して、ヒチまおうゼイ!
・「我許」根岸の居宅は現在の千代田区神田駿河台(明治大学の向かいの日大法科大学院のある場所)にあった。湯島天神からは凡そ一・五キロメートルほど。
・「某は醫師にて」当時の医師は僧体。
・「門前の佐野何某」尾張屋版江戸切絵図の「湯島天神裏門坂通」の途中に「佐野」姓有り。
・「大根畑」既出。湯島大根畠。現在の文京区湯島にある霊雲寺(真言宗)の南の辺り一帯の通称。私娼窟が多くあった。底本の鈴木氏の先行注に『ここに上野宮の隠居屋敷があったが、正徳年間に取払となり、その跡に大根などを植えたので俗称となった。御花畠とも呼んだ』とある。この「上野宮」というのは上野東叡山寛永寺貫主の江戸庶民の呼び名。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意で東叡大王とも呼ばれた。寛永寺貫主は日光日光山輪王寺門跡をも兼務しており、更には比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあった上に、全てが宮家出身者又は皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。
・「怡然」原義は、喜ぶさま、楽しむさま、の意。ケツを捲くって居直り、不敵に笑っていたのであろう。
・「友益」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『友兼』という名になっている。
■やぶちゃん現代語訳
出家の騙りの田舎者を欺きし事
寛政八年九月上旬のことであった。
我が元へ常に来たる鍼師(はりし)が参って、
「……丁度今、湯島裏門前にて盗賊(ぬすっと)を捕り押さえやして、もう、雲霞の如(鍼をそれぞれ摑んだ両手を左右に大きく円を描いてぶん回す)、人が大勢集まっておりました。」(根岸、振り回した鍼を避けるように、頭を後ろへ仰け反りつつ)
と申す故、
「……如何(いかが)致いた?」
と訊いてみたところが、以下のような次第で御座った。
(針師、右手の針をズンと根岸の方へ向ける。根岸、また身を仰け反る。話中、何度もこれを繰り返す)
……近在の農民と思しい者、小田原辺へ参った、その帰るさに、二人の出家と道連れと相いなって御座ったそうな。
相宿致いて、すっかり心安うなって、他に道連れも御座らねば、翌日も彼らと同宿致いたれど、その夜のこと、出家の一人が、
「……まっこと、申し上げにくきこと乍ら……実は、拙僧、路用を、これ、すっかり使い切って仕舞(しも)うて……今日の、ここな、宿払いの代(しろ)も(右手の親指と人差し指を丸く結んで面前に掲げ、ゆっくりと胸の前へと下して左手を合わせて合掌する)……実は、御座らぬ。……なればこそ……一つ、今夜(こよい)の宿払いは、これ……いや、江戸表へ罷り越しますれば、親類縁者も数多く御座るによって、直き、返済致しましょうほどに……どうか……(また合掌)」
と如何にも心もとなき様にて嘆き申せばこそ、何よりも出家の身なれば、また昨夜来、心安う致いておることでもあり、その日は、かの田舎者が宿賃を払ってやったと申す。
さて、その日、品川に着くと、今度は今一人の出家が、
「……さても、拙者とのお話なんどの折りから……薄々はお気づきのことにても御座ろうが……何を隠そう……かの者は正真正銘の僧なれど……拙者は(両の袖を内に握って左右下方に突っ張って)……医師にて御座る。江戸表の××には兄が住んで御座って、同人方より上方へ医師修業に上って御座った。……ところが……修業も果てて、この帰りの砌り、旅の途次にて不慮の災難に遭(お)うて……医師の不養生とはよく申すことで御座るが……病み臥せっては療治がため……御覧の通り……身の回りのもの、佩刀致いて御座った大小までも……一切合財mこれ、売り払(はろ)うて仕舞う仕儀と相い成って御座った。……このまま、兄が元へ帰っては……いっかな……合わせる、これ、顔が、ない。……何としても、武士の魂たる大小を手に入れまして……兄が元へ、帰参の礼を致いたき所存……」
と、嘆息の上、かの田舎者に縋らんとする風情。
かの農民、これ、余程の人を疑えぬ慈愛深き者にても御座ったか、途次の古道具屋にて粗末ながら大小の刀を調え――勿論、その代(しろ)をも、かの田舎者が立て替えた上、江戸着到の後、直きに返す旨の約束を致いて――相い渡して御座った。
医師と明かした男も、これ殊の外の喜びよう、そのまま三者同道にて江戸へ入(い)った。……
……(鍼師、右手の鍼を放り投げ上げると、下向きになったそれギュッと握り、畳へ真っ直ぐ、半ばまで、ズン! と刺し)この騙り者ども――江戸へ入るなり、芝辺りで逃げようという魂胆ででもあったものか――僧と申した者が、
「……ええっと……この辺りに知れる者が……おったはずじゃ……」
と言いつつ、急に医師と二人して裏道へと入ってゆくを、かの田舎者も遅れるまいと、ぴたりとくっ附いて、いっかな、離れず歩く。
すると僧は、
「……おんや?……どうも、引っ越したようじゃ、のぅ……」
なんどと……(鍼師、左手の鍼を同じく放り投げ上げると、下向きになったそれギュッと握り、畳へ真っ直ぐ、半ばまで、ズン! と刺す。二本の鍼の垂直に立った鍼師正面方向からのアップ。カメラ、ティルト・アップして鍼師の顔のアップ)偽り……兎角致いて、湯島まで参った。……
……湯島天神裏門前の佐野何某という御旗本の門へ至り、二人は門番の者に何やらん、断りを入れ、かの田舎者を表に残しおいたまま、中へと入った。暫く致いて立ち戻ると、僧の方が、
「……いや! ようやっと尋ね当てて御座った。……実は、その、貴殿にお返しする代の用立て申し出に際し、これ、水引が少々、必要で御座る。……まっこと、申し訳なきこと乍ら、一つ、買い調えて参ってはま下さるまいか。……我らは、ここにて、貴殿の荷を守って、待って御座るによって。」
との由にて、かの田舎者へ頻りに頼む故、
『……何ぼ何でも、ここまで来て、嘘偽りというは、これ、あるまい。』
と、近場の店へと水引を買い求めに別れてはみたものの、
「……いんや?……どうも話がおかしい。やはり怪しいぞ!」
と、やっと心づき、横町を入って直ぐ、こっそりと彼らの方(かた)を覗き見たところが――!(鍼師、やおら、右手逆手に突き刺さった二本の鍼を抜き、根岸の面前へ突き出す。根岸、右手を後ろについて、仰け反る)……
……かの出家ら……未だ未熟の騙り者で御座ったか……田舎者が風呂敷包みを、やおら、持ち逃げせんとするところで御座った。
「――ド、泥棒ッツ!――」
――と(鍼師、二本の鍼を、逆手にして畳に、ブスッ! と突き刺す。以下、大袈裟な乱闘の手振り身振り、よろしく)――かの田舎者、大声を――吐き掛け、吐き掛け――ずんずんずんずん、追っ駈け、追っ駈け――遂に、大根畑(だいこんばた)にてひっ捕らえ――風呂敷包みと、かの医師と称した者へ買い与えた大小をも取り戻いて御座った……。
二人の首根っこを両の手で、普段の大根を引き抜く要領にて、グィッツ! と抑え、
「……さてもさても! 憎っくき盗賊(ぬすっと)じゃ! しかるべき所へ預け、奉行所へも訴え出るところじゃが……我らも在所に急がずんばならぬ訳もあらばこそッ!……ええェイ!! これで、仕舞じャ! 糞どもガ!!」
と二つ三つ、ぽかぽかと頭を殴る。
隙を見て、一人の賊は逃げ去ってしもうたが、残った方は小突き倒し、散々に打擲(ちょうちゃく)の上、
「ド外道ガッ!!!」
と、渾身の悪口(あっこう)言い放ち――かの田舎者は、立ち去って御座った。
突き倒されて禿げ頭から血を滴らせた出家体(てい)の賊は、暫くして起き上がると、傍らに御座った石に腰を掛けておった。
この騒ぎに集(つど)って御座った野次馬で、これを憎んで、唾を吐きかけぬ者とて御座らんだ。
――が――
……この悪党、根っからのワルで御座ったらしく……ケツを捲くって居直った面構えにて、不敵な笑いをさえ(鍼師、ダークな笑いを浮かべて、根岸をねめつける)……浮かべて御座ったを……正に今、見て参って御座る。……(鍼師、急に居住まいを正し)
……さてもさても! かくも悍(おぞ)ましき不届者、これ、おるものにて、御座いまするなぁ……」
以上は、鍼医師友益(ゆうえき)の語ったことで御座る。
おほなみの畝ゆきて海月越えんとす
[やぶちゃん注:「畝」は「うね」。]
実写版でもそうだった……今回、原作を読み進める中でも何かが不自然に感じる……
それは荒唐無稽なプロット、でも……如何にもなズラシを入れたキッチュなノスタルジアの非現実感、でも……浦沢のどちらかと言うと今一つ好きになれないペンのラフ・タッチ、でも……ない……
確実な違和感として……それは……あった……いや……それは単純なことなんだ……それがそもそもこの作品を面白くしているネックの部分なのだがから……
……それは
――登場人物たちが小学生の時の記憶を、殆んど、覚えていない――
……ということだ……
僕は覚えている――誰が何をし――何をしなかったか――誰が何を言い――何を言わなかったか――僕が描いたもの――感じたもの――小学校二年生の時に毎日下校の時にいじめられた奴の名前と顔――そいつらのギャング仲間――そいつらが何をいい、どんな表情で僕を笑い――あの時に――僕に何をしたかも――翻って僕が誰をどういじめたかも――いじめた相手のねめつけるような目も――僕が何を見――何を見なかったかも――誰を愛したかも――何を隠したかも――
――僕ははっきりと覚えているのだ。
忘れてしまいたいことも――覚えている。
……それだのに……この登場人物たちは……脳天気に皆、忘れているじゃないか!? そんなのあるはずないじゃん!…………
■いや、厳密に言えば、少年時代を括弧書きの「健全」の中で過ごし、相応に面白く、また、相応淋しくも、また、ある程度の心神の力の均衡の中に過ごしたところの、「健全な」ケンジを始めとした登場人物たちは、実に鮮やかに少年期の思い出を忘れている。
■ただ、「ともだち」や「サダキヨ」は逆に少年期の記憶に固執しているのであり、更にもう一つ、「健全なる」「正義の」グループの中でも「ヨシツネ」のような、謂わば相対的に被イジメ対象に近い象限の中にいる登場人物が、忘れていた「思い出」を思い出し、作品展開上のキー・パーソンとしての役割を担っている。
……そうだ……僕の違和感は……ここにあったのだ……
……僕は……おめでたくも、僕以外のあなた方も、
……少年少女期の記憶はちゃんと残している――
と思い込んでいたのだ……
ところが……
そうではないんだね……
君……
みんなは……実は……
覚えてなんか……いないんだ、ね……
一昨日のこと、僕は、精神的には健全で幸福な少女期を過ごしたのであろう妻にこのことを話してみた。
彼女は、妙な顔をした。
『そんなの、覚えてないの、当たり前』
といった風に……
いや……
そうなんだな……
だから実は私は……
ケンジより……
「ともだち」が……好きなんだろう、な………………
雷嫌ひを諫て止めし事
或人のかたりしは、誠に實儀の事なる由。至て雷を嫌ふ親友の有りしが、或日倶に酒汲て遊びし時、御身雷を嫌ひ給ふ事人に勝(まさ)れたるが、我等の異見を用ひ給はゞしかと止べしといひければ、彼人聞て、假初(かりそめ)の事ながら雷を恐るゝ事言甲斐(いふかひ)なしと思へども、雷のせん日は朝より心持惡敷(あしく)、雷鳴頻りなれば誠に心魂を失ふに似たり、武家に生れかゝる事何とも殘念なれば、いかやうの事にても異見に隨ふべしと言ひし故、左あらば御身の好給ふ酒を止め給ふべし、長く止るにも及ぶまじ、雷の鳴(なり)候迄止めて、雷いたし候時は用られよと教ければ、右教を堅く守り、暑(しよ)の強き夕べ酒呑んと思ふ時もねんじて思ひ止まりしが、雲立(くもだち)などして少し雷氣を催す空には早々雷もしよかし、一盃を樂(たのしま)んと雷氣を待つ心になりて、後は果して雷嫌ひ止(やみ)事雷好(ことかみなりずき)に成(なり)しと人の語りぬ。可笑しき事故爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:滑稽の和歌による瓢箪から駒から、滑稽の掟による瓢箪から駒の滑稽譚連関。私はこの雷嫌いの主人公、フォビアとしての心理的側面よりも(泉鏡花の雷嫌いは富に有名で、番町の家の天井には雷よけの呪(まじな)いに玉蜀黍を吊るしていた)、「雷のせん日は朝より心持惡敷」という予兆感覚の方に興味がある。恐らく大気の気圧や電気的な変化に敏感であったに違いない。犬の雷恐怖症は実際に雷の鳴る以前から症状が見られるし、ネット上には鳴る前に髪の毛が痒くなる人がいるという記事があり、雷ではないが、私の昔の同僚の一人に、台風が近づいて来ると同時に(予報などを見ないで)不定愁訴を訴え、実際に襲来を予見出来る男がいたのを思い出す。私はこういうことは科学的にも有り得ることと思っているのである。彼には生理的な変調によって雷が予見出来た。その変調は恐らく、何とも言えない(明確に嫌悪を催すというのではないが)中程度の不快を持った生理的変異であったのであろう。序でに言えば、遙か幼少の砌に、近くで落雷を経験してそれが一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こし、永くトラウマになったのかも知れない。ところが、この友人の心理的な条件拘束によって、彼は雷を予見する時、その時感ずる生理的感覚的不快感が、今度は新たに飲酒が出来るという大きな心理的快感を引き起こすに至った。その結果として、軽い前者は打ち消され、後者が快感の経験則として残り、速やかに認識されるオペラント条件付けが行われたのである。私が言いたいのは、この場合、その『予見性』にこそオペラント条件付けの淵源があり、強化のポイントがあった点なのである。
・「早々雷もしよかし」底本は「しよ」の右に『(せよ)』と傍注する。
・「後は果して雷嫌ひ止(やみ)事雷好(ことかみなりずき)に成(なり)し」は、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『後には果して雷嫌ひ止て雷好(ずき)に成りし』とある。私は底本を、
後には果して雷嫌いが止み、こと、雷好きになった
の意で採る。即ち、「こと」は「殊」で、格別に、の意の形容動詞語幹の用法による、強調表現と採るものである。
■やぶちゃん現代語訳
雷嫌いを忠告によって療治した事
ある人の語り。
「これはまっこと、事実で御座る。……
……拙者に、大の雷嫌いの親友が御座ったのじゃが……ある日のこと、共に酒を酌み交わしながら、
「……御身の雷嫌い、これ、人後に落ちぬ嫌いようじゃが……我らの忠告を用いんとならば……これ、熄(や)むこと間違い御座らぬ。……」
と話を向け申した。すると、
「……雷なんどは、これ、一時の、つまらぬものとは、分かってはおり乍ら……いや、勿論、雷なんど恐るるは、児戯に類し、これ、如何にも不甲斐なきこととは思えども……いっかな、雷の鳴りそうな日は……これ、もう、朝より気持ちが悪うなって御座って、の……かの雷鳴が盛んに鳴り出したら、これ、もう、いかん……まっこと、心魂吹き消えてしもうような心持ちと相い成る。……武家に生まれ、かかること、これ、何とも残念無念。――なればこそ! 如何なることにても、貴殿の忠告に従わんとぞ思う!……」
と申しました故、
「されば。……御身の、頗る好み給うところの、これ。……酒。……この酒を――お止めなされい。……いやいや、永久(とわ)に止めよと申すにては、これ、御座ない。
――雷が鳴る直前までは――これ、禁酒――
……なれど、
――雷が鳴り響き、すっかり雷が鳴り熄(や)むまでは――これ、禁を解く――
……呑んでよう御座る。……」
と教えを垂れて御座った。
かの友はその後(のち)、この拙者の教えを、これ、律儀に堅く守りましての……
……そうさ、今日のように、かくも暑さ厳しき夕暮れなんどに、
『……あっ、はァ……酒が……呑みたい……』
なんどという思いが過(よ)ぎった折りにても――これ、ぐっと堪えては――思い止まる――といったことを繰り返して御座った……
……すると……そのうち……
……入道雲がむくむくと立ち登って、いささか雷の来そうな気配が空に満ちて参りますれば、これ、
『――!――早(はよ)う早う、雷も鳴れ――一杯、楽しまんとぞ思うに!――』
と――雷の気配致すを、これ、待ち望む心持ちと相い成るようになって……後には、果たして……雷嫌い――どころか――殊の外の雷好き――と相い成って、御座った。……」
と、その御仁が語った。
実に面白いこと故、ここに記しおくことと致す。
金魚玉金魚まむかひわれを訪ふ
[やぶちゃん注:「金魚玉」金魚を買った際、桶などを持たない場合の持帰用に一緒に売られていたガラス製の容器。風鈴を逆さにしたような形ですぼんだ口の部分に引っ掛かる程度の竹ひごに紐を結び附けたもので、ぶら下げるようになっていた。]
差し水にゆるぎ金魚の相照らす
金魚燦爛わが耳二つよく聞ゆ
ざわざわといろこ映り來金魚玉
[やぶちゃん注:「いろこ」は「鱗」の古い表現。]
僕は――こういう注をしている最中が――ムショウに、楽しい! 一種の――知的エクスタシーを感じる――と言っても過言ではないのである! 挿絵もとってもいい! 小学生の頃、図鑑を見るのを何より楽しみにしていた、あの頃が、蘇ってくるようだ!……
*
[「やどかり」と「いそぎんちやく」]
[「やどかり」と珊瑚類の群體]
動物間の共棲で最も有名になつたのは、「やどかり」と「いそぎんちやく」との相助けることである。淺い海で手繰り網などを引かせると、「やどかり」の住む介殼の外面に「いそぎんちやく」の附著して居るのが幾らも取れるが「いそぎんちやく」は自身には速く運動する力がないが、「やどかり」が盛に匐ひ歩いてくれるために、常に變つた處へ移り行くことが出來て、隨つて餌に接する機會も多く得られる。また「やどかり」の方は「いそぎんちやく」の痛く螫すのを恐れて、いづれの動物も近寄らぬから、敵の攻撃を免れて、安全に身を護ることが出來る。イタリヤ國ナポリの水族館で同じ水槽の中に「いそぎんちやく」の附いた「やどかり」と「たこ」とが入れてあつたとき、「たこ」は元來「えび」・「かに」を好んで食ふものから、「やどかり」を取つて食はうとして足を延して摑み掛つた所が、忽ち「いそぎんちやく」を取つて食はうとして足を延ばしてつかみかかつた所が忽ち「いそぎんちやく」に螫され驚いて足を縮め、その後は決して「やどかり」を攻めなくなつた。「やどかり」にはまた「さんご」に似た動物の群體を殼の代りに用ゐて居る種類がある。これは初め小さいときに住んで居た介殼の表面に珊瑚のやうな蟲が固著し、これが芽生によつて扁平な群體を造り、「やどかり」の成長すると共に群體の方も生長して、恰も貝殼と同じやうな螺旋狀の形となつたのである。海岸を散歩すると、往々かやうな群體の骨骼だけが濱に打ち上げられて居るのを見附けるが、形は貝類の殼の通りで、しかも質は稍々柔く、色は稍々黑く、内面は滑で、外面には短い針が澤山出て居るから、以上の關係を知らぬ者には何の殼であるか一寸鑑定が出來かねる。その他「やどかり」には赤色の綺麗な塊狀の海綿を家とし、これを擔(かつ)いで匐ひ歩く種類もある。これらはいづれも前の「いそぎんちやく」の場合と同樣「やどかり」は身を護るの便宜を得、相手の動物は「やどかり」の運動力を利用して、兩方共に生活上の都合が宜しい。なほ「かに」類の一種には常に左右の鋏に「いそぎんちやく」を一疋づつ挾んで居て、敵が攻めに來るとこれを突き出して、辟易させるものがある。この場合には「かに」が「いそぎんちやく」を護身用の武器として利用するだけで、「いそぎんちやく」の方は或は迷惑かも知れぬが、挾む「かに」も、挾まれる「いそぎんちやく」も種類が常に定まつて居る所を見ると、これまた一種の共棲であって、決して偶然の思ひ付きではない。
[「いそぎんちやく」を挾む「かに」]
[やぶちゃん注:『「やどかり」の住む介殼の外面に「いそぎんちやく」の附著して居る』古今東西、相利共生の模範生として挙げられるケースである。この甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のある種のヤドカリ(丘先生は特に記しておられないが、しばしば誤解されるので記しておくと、このヤドカリとイソギンチャクの相利共生は、相互の種関係がかなり限定特化しており、以下の解説で示す通り、不特定多数のヤドカリと不特定多数のイソギンチャクが何でもかんでも場当たり的に共生するというものではない点に注意されたい)の住んでいる貝殻上に共生する種の多くは、刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目 Actiniaria のイソギンチャクの中でも、通常目にするイソギンチャクの普遍種の殆んどを含むイマイソギンチャク亜目Nynantheae の、足盤族槍糸亜族 Acontiaria に含まれるクビカザリイソギンチャク(首飾磯巾着)科 Hormathiidae(かなり大きな科で約十五属知られるが、多くの属は深海産。本邦産は六属十二種)に属する種である。参照した「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)」同クビカザリイソギンチャク科(この和名科名は当該書による新称であった)に載る代表的な三種(●)を挙げる(共生関係にあるヤドカリの解説(〇)には同書の「Ⅱ」(平成七(一九九五)年刊)及び複数のネット上の情報を参考にした)。
●クビカザリイソギンチャク(仮称)Hormathia aff. digitata
比較的深い場所に棲息し、底曳網等で捕獲される。口盤直径二~三センチメートル。本種は富山湾産で、ナガヌメリという巻貝に付着し、萎んだ際に体壁上端にある瘤状の隆起が首飾りのように見えることに由来する属名である。本邦には数種が棲息するらしい(ただ、この富山の地方名かとも思われる「ナガヌメリ」という貝がよく分からない。私は富山に住んだことがあり、また標準種である欧州産
Hormathia digitata の海外記事を渉猟したところ、ノルウェーのサイトで腹足綱前鰓亜綱真腹足目エゾバイ科エゾバイ属ヨーロッパエゾバイ
Buccinum undatum に付着するという記載があることから(画像あり)、これはエゾバイ科の仲間である可能性が高い(ナガバイ Beringius (Neoberingius)
polynematicus という和名を持つ種がいるが残念ながらナガバイは富山湾には棲息しない模様)。識者の御教授を乞うものである)。ここでは単に付着する貝のみが記述されているが、当然、同深度に棲息するヤドカリ類がこの殻を用いることが十分、考えられる。但し、死貝となった際にはイソギンチャクは離脱する可能性も考えられ、この叙述からは――クビカザリイソギンチャクは生貝の「ナガヌメリ」なる貝と共生している――と読むのが普通で、他のイソギンチャク類が特定のヤドカリの宿貝上に付着する習性から考えても、共生記載がない以上、クビカザリイソギンチャクはヤドカリとは共棲しない種であるのかも知れないので、ここに示すのは不適切とも思われるが、標準種として掲げておく)。
●ベニヒモイソギンチャク
Calliactis polypus
例外的に本州中部以南の浅海に棲息する。口盤直径二~五センチメートル。刺激を加えると体壁下方に分布する槍孔から、ピンク色の槍糸(触手とは異なる防御用攻撃器官)を出す。本種は、
〇ヤドカリ上科ヤドカリ科ヤドカリ属ソメンヤドカリ
Dardanus pedunculatus *
〔*大型で浅海性。前甲長(殻から出している頭胸部前半部。シールドとも呼ばれる)一五ミリメートル内外。水深一〇メートル以深に棲息。腹足綱前鰓亜綱新紐舌目ヤツシロガイ超科フジツガイ科ボウシュウボラCharonia lampas sauliae・新腹足目アクキガイ科オニサザエ
Chicoreus asianus・新紐舌目ヤツシロガイ超科ヤツシロガイ科ヤツシロガイ
Tonna luteostma などの死貝に宿る(ヤドカリ図鑑 Weblio辞書の画像)。〕
や、
〇サメハダヤドカリDardanus gemmatus **
〔**ソメンヤドカリ
Dardanus pedunculatusに酷似するが、左鋏脚の掌部表面の上半部のみに顆粒突起が存在して下半部は平滑なものがソメンヤドカリ、掌部全体に亙って顆粒突起が点在するものが本種サメハダヤドカリと識別される(ヤドカリ図鑑 Weblio辞書の画像)。〕
〇ケスジヤドカリDardanus arrosor ***
〔***前甲長二五ミリメートル内外。水深一〇メートル以深に棲息。眼柄が短く、鉗脚(左がやや大きい)と歩脚に各節を取り巻く非常に顕著な横筋が並び、それに沿って毛が生えるのが特徴である。全体の体色はにぶい赤褐色。長節に赤い斑紋を持つ。ソメンヤドカリ Dardanus pedunculatus と同じく、ボウシュウボラやヤツシロガイ・新腹足目テングニシ科テングニシ
Hemifusus tuba の死貝に宿り、貝殻上には、このベニヒモイソギンチャク
Calliactis polypus やヤドカリイソギンチャク Calliactis japonica (後掲)を付着させている。和名異名ヨコスジヤドカリ(ヤドカリ図鑑 Weblio辞書の画像)。〕
等のヤドカリの貝殻上に付着するほか、軽石に付いて漂流するケースもある。ヤドカリ類は夜行性であるため、昼間の発見は難しい(「おきなわ図鑑」のベニヒモイソギンチャクの画像)。
●ヤドカリイソギンチャク
Calliactis japonica
本州中部から九州の水深二〇~三〇〇メートルに棲息。口盤直径五~七センチメートル。白く滑らかな体壁に十二縦列の赤褐色の斑点が並んでいる。槍糸も白色。常にケスジヤドカリDardanus arrosor の入った貝殻上に共生している(ぜのばす氏の「みんなの動物図鑑」の画像)。
以上のヤドカリとイソギンチャクの共生関係について、ウィキの「ヤドカリ」は特別に共生の解説項を設けており、『これらのイソギンチャクの中には、自らヤドカリの殻に住み着く傾向を持つものもあり、また、ヤドカリの種によっては、イソギンチャクを見つけると自分の殻の上にそれを移し替える行動を持つものがある。その場合、イソギンチャクの基部をヤドカリが鋏で刺激すると、イソギンチャクは素直に基盤を離れる』。さらに関係が進んだ例として、深海産の異尾(ヤドカリ)下目ホンヤドカリ上科オキヤドカリ科ユメオキヤドカリ
Sympagurus diogenesや同属のイイジマオキヤドカリ
Sympagurus dofleini 『等では共生したイソギンチャクが分泌物でクチクラ質の「殻」を作り、その中にヤドカリが入る。ヤドカリの成長にあわせて殻も大きくなるので、ヤドカリは引っ越しをする必要がない』という、次の記載に似た現象を記載し、『また、ヤドカリがイソギンチャクに餌をやることも観察されて』おり、『この関係では、イソギンチャクは移動することができるようになること、付着する基盤がない砂泥底の部分にも進出できるなどの利点がある。ヤドカリの側では、イソギンチャクの刺胞によって、タコ等の天敵の攻撃を避けることができる。つまり、互いに利益がある相利共生の関係である』と記されている。なお、ここに記されたユメオキヤドカリが貝殻の代わりに、硫化水素を利用する硫黄細菌を細胞内共生させている驚天動地の生物であるチューブ・ワームの一種、環形動物門多毛綱ケヤリムシ目シボグリヌム科サツマハオリムシ属サツマハオリムシ
Lamellibrachia Satsuma の死後の棲管の中に宿った個体が、海洋研究開発機構(JAMSTEC)の研究調査船「なつしま」を母艦とした無人探査機「ハイパードルフィン」によって、二〇〇九年四月の深海生物調査で北部マリアナ諸島海域の日光海山の水深約四六〇メートルから採集され、同年九月に「新江ノ島水族館」の深海コーナーに展示された。これは熱水口に棲息するユメオキヤドカリの世界初の生体展示であると同時に、その宿居対象に於いても変わり種のものであった「えのすい」へGO!:新江ノ島水族館密着ブログ」の「世界で初めてッ! ユメオキヤドカリ属の一種!」で画像が見られる)。
「イタリヤ國ナポリの水族館」知る人ぞ知る世界初の海洋実験所として一八七二年に建てられたナポリ海洋実験所のこと。近代水族館の濫觴。
『「やどかり」にはまた「さんご」に似た動物の群體を殼の代りに用ゐて居る種類がある』先に引用したウィキの「ヤドカリ」の共生の解説項の最後の部分に拠ると、イソギンチャク以外では、刺胞動物門花虫綱ヤドリスナギンチャク科ヤドカリスナギンチャク
Epizoanthus paguriphilus やヤツマタスナギンチャク Epizoanthus ramosus が『やはりヤドカリの殻を覆って成長する。また、』刺胞動物門無鞘(花クラゲ)目ウミヒドラ科イガグリガイウミヒドラ Hydrissa sodalis は、ホンヤドカリ上科ホンヤドカリ科ホンヤドカリ属の『イガグリホンヤドカリ Pagurus constans の住む貝殻に育ち、次第に成長すると、殻が大きくなるように成長する。表面からたくさんの棘を伸ばすことからこの名がある』とあり、丘先生の記載したのは正にこの、
刺胞動物門無鞘(花クラゲ)目ウミヒドラ科イガグリガイウミヒドラ Hydrissa sodalis
と、
ホンヤドカリ上科ホンヤドカリ科ホンヤドカリ属イガグリホンヤドカリ
Pagurus constans
の相利共生を言っていると考えてよい。
「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」の「イガグリガイウミヒドラ」の解説には、『ポリプは巻貝の貝殻に似た骨格を形成し、節足動物のヤドカリ類がこの中に棲む。骨格の殼頂部のみに巻貝の殼が埋まっている。骨格には長さ一〇ミリメートルほどの樹枝状の突起が散在し、各突起は小刺を備える。骨格の殻口周辺に指状ポリプが分化し、これは最高二〇個の瘤状の刺胞塊を持つ』(記号や数字の表記を変更した)とあって、イガグリホンヤドカリがイガグリガイウミヒドラによって鉄壁の防衛体制を敷いているのがよく分かる。
「骨骼」骨格。
『「かに」類の一種には常に左右の鋏に「いそぎんちやく」を一疋づつ挾んで居て、敵が攻めに來るとこれを突き出して、辟易させるものがある』この奇体な共生のカニ側の代表種は、
『「やどかり」には赤色の綺麗な塊狀の海綿を家とし、これを擔(かつ)いで匐ひ歩く種類もある』これはホンヤドカリ属カイメンホンヤドカリ
Pagurus pectinatus と海綿動物門普通海綿綱四放海綿亜綱硬海綿目コルクカイメン科ツミイレカイメン Suberites ficus との共生が代表的である。カイメンホンヤドカリは三陸海岸以北に分布し、小型個体は巻貝を背負うが、大型個体ではカイメンを背負う。ツミイレカイメンは、やや扁平で不規則な塊状を呈し、生体は赤橙色。画像のある「北海道大学臼尻水産実験所」のこちらのページには『カイメンホンヤドカリにはモエビの仲間が隠れていることもある』ともあり、ここでは軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ属モエビ
Metapenaeus moyebi も加わった、実に三つ巴の相利共生が窺われる。
甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目方頭群オウギガニ科のキンチャクガニ
Lybia tessellate
で、方や、チア・ガールのポンポンか、ボクシング・グローブよろしくそのキンチャクガニに振り回されるのは(冗談ではなく、キンチャクガニは英名通称を“pom-pom crab” 又は“boxer crab”と言う)、
イマイソギンチャク亜目の基質に付着するための足盤を持たず砂泥中に埋まって生活する無足盤族Athnaria のオヨギイソギンチャク科カニハサミイソギンチャク Bunodeopsis prehensa
である。「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」の「カニハサミイソギンチャク」によれば、紀伊半島以南、広くインド洋から西太平洋にまで棲息し、キンチャクガニの両方の鋏脚に挟まれて生活している、非常に小型の種で、このカニは常にイソギンチャクを挟んでいて、その鋏脚の内面はイソギンチャクを挟むのに都合のよいように、鋭く棘が生えている。カニは外敵に会うと、イソギンチャクのついたこの鋏脚を振り回して身を護る、とある。なお、附記して、世界的に見るとキンチャクガニの利用するイソギンチャクは本種のみではなく、Bunodeopsis 属の他種や、小型の足盤族内筋亜族 Endomyaria のカザリイソギンチャク科カサネイソギンチャクを挟むこともあるようであるが、わが国では本種のみが知られる、ともある。但し、千葉県立中央博物館/千葉県生物多様性センターの柳研介氏と阿嘉島臨海研究所の岩尾研氏の『みどりいし』二十三号(財団法人熱帯海洋生態研究振興財団二〇一二年三月発行)所収の論文「キンチャクガニ Lybia tessellate
が保持するイソギンチャクの謎」によれば、各所のキンチャクガニから採取したイソギンチャクのDNA解析によれば、一部はカニハサミイソギンチャクとは異なる種が用いられている可能性が高いとする。これが現在の、正に発見ほやほやの最新の知見である(リンク先は同論文のPDFファイル。このカップルは人気のあって画像は多いが、例えば「名古屋のダイビングショップかじきあん」のここ)。]
和歌によつて蹴鞠の本意を得し事
京地の町人にて、名も聞しが忘れたり。飛鳥井家の門弟にて蹴鞠の妙足(めうそく)也し故、惣紫(そうむらさき)を免許あるべけれど、町人の事故裾紫を發し給ひけるを、彼者欺きて、
紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ着る
かく詠じければ、別儀を以、惣紫をゆるされけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「探幽畫巧の事」と技芸譚で連関。
・「蹴鞠」私の守備範囲にないので(私は皆さんが熱中するサッカーも一切興味がない)、大々的にウィキの「蹴鞠」を大々的に引用して勉強する。『平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技』。中国起源で紀元前三〇〇年以上前の戦国時代の斉(せい)で行われた軍事訓練の一種に遡るとされる。漢代になって、十二人のチームが対抗して鞠を争奪し、「球門」と呼ばれるゴールに入れた数を競う遊戯として確立、『宮廷内で大規模な競技が行われた。唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。またモンゴル帝国の遠征にともなって東欧や東南アジアにも伝来したと言われている。東南アジアでは現在でも蹴鞠が起源といわれているセパタクロー(蹴る鞠という意味)が盛んである』。『蹴鞠競技はその後、中国本土では次第に廃れていき、宋代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。やがて貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠をおぼえて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、明初期には蹴鞠の禁止令が出され、さらに清における禁止令で中国からはほぼ完全に姿を消した』。以下、本邦での歴史(アラビア数字を漢数字に代えた)。『蹴鞠は六〇〇年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来したとされる。中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり(『日本書紀』)、これがきっかけで六四五年に大化の改新が興ったことは広く知られている。ただし、「鞠を打つ」=蹴鞠と解釈されたのは、『今昔物語集』・『蹴鞠口伝集』などの後世の著作であり、「鞠を打つ」=打鞠(打毬)すなわち今日のポロのような競技であった可能性も否定出来ない。『本朝月令』や『古今著聞集』には、大化の改新の五十六年後にあたる文武天皇の大宝元年五月五日(七〇一年六月十五日)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記しており、この頃に蹴鞠が伝来したという説も存在する』。『蹴鞠は日本で独自の発達を遂げ、数多の蹴鞠の達人を輩出し』た(そうした名足の中でも有名なのが、平安後期の希代の名人と称され、後世の蹴鞠書で「蹴聖」と呼ばれる公卿藤原成通(しげみち 承徳元(一〇九七)年~応保二(一一六二)年)で、伝承によれば『成通が蹴鞠の上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てた。その誓いを成就した日の夜のこと、彼の夢に三匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れ、その名前(夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ))が鞠を蹴る際の掛声になったと言われている。この三匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津の平野神社と京都市の白峯神宮内に祭られている。また、その名前から猿田彦を守護神とする伝承もあった事が『節用集』に書かれている』)。『平安時代には蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになり、延喜年間以後急激にその記録が増加することになる。貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。辛口の評論で知られる清少納言でさえ、著書『枕草子』のなかで「蹴鞠は上品ではないが面白い」と謳っているほどであった』。『蹴鞠は貴族だけに止まらず、天皇、公家、将軍、武士、神官はては一般民衆に至るまで老若男女の差別無く親しまれた。特に後白河院に仕えた藤原頼輔の名声は高く、子孫がこれを良く伝えたために難波・飛鳥井両家は蹴鞠の家として知られるようになった。蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることは無かった』。『室町時代には、足利義満や義政が蹴鞠を盛んに行ったこともあり、武家のたしなみとして蹴鞠が行われていた。土佐の戦国大名・長宗我部元親が天正二年(一五七四年)に定めた「天正式目」では、武士がたしなむべき技芸として、和歌や茶の湯、舞や笛などとともに蹴鞠が挙げられている』。『しかし室町時代の末期に織田信長が相撲を奨励したことで、蹴鞠の人気は次第に収束していったといわれる。しかし蹴鞠の文化が消失した中国とは異なり、現代でも伝統行事として各地で蹴鞠が行われている』。以下、「ルール」。『蹴鞠は、懸(かかり)または鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木。)で囲まれた三間程の広場の中で実施される。一チーム四人、六人または八人で構成され、その中で径七~八寸の鞠をいくたび「くつ」をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦があった』。競技する『場所には砂を敷き、四隅、艮にサクラ、巽にヤナギ、坤にカエデ、乾にマツを植える。周囲の鞠垣は本式では七間半四方、広狭で三間四方までにする。東に堂上(どうじょう)の入り口、南に地下(じげ)の入り口、西に掃除口がある。懸の樹木はウメ、ツバキなど季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣との間を野という。禁裏、仙洞、皇族、将軍家ならびに家元はマツばかり四本、また臨時には枝またはタケを用い、切立(きりたち)という』。『開始には、まず下﨟の者が第四の樹の下からななめに進み、中央から三歩ほどの所で跪き、爪先で進み、鞠を中央に置く』。『一座の中に師範家がいると第一の上座、すなわち一の座、または軒というのを、その人に譲り、第二、第三と身分に従って懸にはいり、樹の下に立つ。ただし高貴な人がいると軒を譲り、師範家は第二となる。禁裏、仙洞などで御前ならばみなが蹲踞し、他の家ならば堂上は立ち、地下は蹲踞する。人数がそろったら第一から立ち、立ちおわると、第八の者が進み、中央に置かれた鞠から三歩ほど手前で蹲い、蹲いながら進み、右手拇指と人差指とで執皮を摘み、鞠を右に向け、左手を添え、腰皮を横に、ふくろを上下にし、蹲ったまま三歩退いて立つ。第七の者が進み出て、中央から三歩ほどの所に立って第八に向かうと、第八から第七に鞠を蹴渡す。第七から第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八と一巡、蹴渡しおわると、第八からまた第一すなわち軒に渡す。軒は受けて上鞠(あげまり)といって高く蹴る。それから随意に蹴る。一人三足が普通で、一は受け鞠、二は自分の鞠、三は渡す鞠である。八人立ちのときは、八境といって中央から八個に区分し、一区を一人の区域とし、その域外に蹴出すとその区域の者が受けて蹴る』。使用された『鞠は革製で、中空である。シカの滑革(ぬめかわ)二枚をつなぎあわせ、そのかさなる部分を、腰革、また「くくり」という。また取革といって、べつに紫革の細いのをさしとおす』。『種類は、白鞠、生地鞠、燻鞠、唐鞠がある。白鞠は鞠を白粉で塗ったもの。生地鞠は生地のままのもので、白鞠に対する。燻鞠は燻革で製したもの。唐鞠は五色の革を縫いあわせて製し、中国から伝来したときの鞠のかたちであるという』。『『今川大草紙』によれば、「鞠皮は、春二毛の大女鹿の中にも、皮の色白で、爪にて押せば、しわのよる皮を上品とする也」』とある、とする。『なお、日本語でサッカーのことを「蹴球(しゅうきゅう)」と呼ぶのは、明治時代にヨーロッパから来た外国人が居留地でその競技に興ずる姿を見て、日本人が「異人さんの蹴鞠」と呼んだこと』に由来するのだそうである。
・「京地」は「けいぢ(けいじ)」と読んでいるか。帝都を言う「京師」(けいし)の濁音化した「けいじ」に「地」の字を当てたものか。
・「飛鳥井家」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「蹴鞠」によれば、蹴鞠の公家の流派の内、『難波流・御子左流は近世までに衰退したが、飛鳥井流だけはその後まで受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーを中心とした球技・スポーツの神とされて』毎年四月十四日と七月七日には蹴鞠奉納が行われているそうである。
・「惣紫」総紫とも。蹴鞠が上達した者に対して飛鳥井・難波家から特に下賜されて着用が許された紫の袴のこと。武家には総紫、町人には紫裾濃(むらさきすそご:紫色を、上方は薄く、下方になるにつれて濃くなるように染めたもの。)の袴が許された。画像は「風俗博物館」の「蹴鞠装束と蹴鞠」を参照されたい。
・「免許」これは師から弟子にその道の奥義を伝授すること、また、その認可を認めた印を言う。
・「裾紫」前注の「紫裾濃」に同じい。
・「紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ着る」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
紫の數には入れど染殘(そめのこ)す葛(くず)の袴のうらみこそしる
の異形で出る。因みに私は、このバークレー校版の和歌の方が響きがいいように思う。
「葛の袴」葛布の袴。葛布(くずふ)とは、クズの繊維を紡いだ糸で織った布。古くはフジ・コウゾ・麻などとともに庶民の衣料として用いられ、また高貴の人の喪服として用いられることもあったらしい。但し、その後の葛布と称するものは、経糸に絹・麻などを用い、緯糸をクズ糸で織ったものが多く、これは中世以降の正式でない場合の袴などに用いられ、水干葛袴(すいかんくずばかま)という決まった服装名もあった(以上は「世界大百科事典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に、『葛の葉を掛ける。葛の葉が風に吹かれ白い裏を見せることから、「葛の葉の」は「うらみ」にかかる枕詞』ともなっている、とある。所謂、安倍晴明の母とされる妖狐葛の葉、信太妻(しのだづま)伝承の、
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
に基づく。以下、私なりの通釈を示す。
――願いに願った名誉の蹴鞠の免許の紫袴――これを下される一人とはなったものの……ああっ、葛の裏葉のように、染め残した如、だんだんに白うなっておる情けなき紫裾濃(むらさきすそご)の袴であって……かの、正しき惣紫の袴でないことが、如何にも、恨めしいこと……その恨めしさを、私は心に纏うていることよ……
なお、長谷川氏は、医師で俳諧師でもあった加藤曳尾庵(えいびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)著「我衣」(わがころも:寛永より宝暦までの世態風俗を記した書の抄出と化政期の同種の風聞などを編年体で配した随筆。)の五に、戦国大名で歌人で蹴鞠も得意とした『細川幽斎の事として小異ある歌を出す』と記されておられる。
■やぶちゃん現代語訳
和歌によって蹴鞠惣紫下賜という本意を得た事
京師(けいし)の町人で、名も聞い御座ったが失念致いた。
この者、蹴鞠の名家飛鳥井家の門弟にて、蹴鞠の達人にて御座った故、惣紫(そうむらさき)の袴を免許さるるべきところ、かの者、町人であったが故に裾紫(すそむらさき)の袴を以って下賜認可となさった。
ところが、かの者、このことをひどう嘆いて、
紫の数には入れど染残す葛の袴のうらみてぞ着る
と詠んだによって、このこと、飛鳥井家にても伝え聴くことと相い成り――殊勝なる蹴鞠執心なり――とて――別儀を以って、特に惣紫をお許しになられた、とのことで御座る。
蝙蝠の失するところに現はるる
蝙蝠のわれよりはやくたそがるる
アメリカで――
一人のアメリカ人の若者が、アンドレイに、
「幸福になるにはどうすればいいですか?」
と、尋ねた。アンドレイはこう答えた。
「まず初めに、何のためにあなたがこの世に生きているかを考えることです。あなたの人生にどんな意味があるのかを。なぜ、あなたはこの世に、まさに今現れたかを。あなたにはどんな役割が定められているかを。すべてこれを解き明かしてみることです。幸福とは訪れたり訪れなかったりするものです」。
(「ロシアNOW」2012年4月4日マリヤ・ファジェーエワ「アンドレイ・タルコフスキー」)
*
因みに――
この記事で初めて知ったこと――
アンドレイの墓には――
「天使を見た人」
という文字が刻まれているということ――
(アンドレイ・タルコフスキイの墓はパリ近郊サント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワにある)
ぜんそく灸にて癒し事
駒込邊にて一橋御屋敷を勤し人、名は聞しが忘れたり。背中五のゐに茶碗を伏せし程の燒尿(やけど)とみへる灸の跡ありしを、予が知人尋ければ、此跡を見る人はいづれも不審なせるが、十歳頃よりぜんそくにて次第に募りて、十八九の頃は年中よき日は數へる計(ばかり)にて、寢臥(ねふ)しも自由ならず甚苦しみけるを、彼元に仕へける奧州出生の若黨、或日右主人に向ひて、扨々(さてさて)難儀の事見るに忍びがたし、我國元にて右ぜんそくを直す灸を人々に教る醫師ありしが、中々一通りの者は右療治も難成(なりがた)しと語りけるを、主人聞て我壯年の頃より如斯(かくのごとく)なれば、生涯勤(つとめ)も成(なり)がたかるべし、活(いき)て詮なき事なれば死しても宜(よろしき)間(あいだ)、右療治を請度(うけたし)といひしかば、六ケ敷(むつかしき)事にもなし、尤(もつとも)長き事にてもなし、只一時の事にて、其者の手にて艾(もぐさ)を握りかため、いかにもかたくいたして五のゐへ灸にすゆる事也と言し故、則右教(おしへ)の如くしてすへけるに、誠に熱さ絶(たえ)がたく氣絶せしを、又水などそゝぎ或は呑せなどしてとふとふ火の消(きえ)る迄すへしが、跡は腫上(はれあが)りうみ崩れ、其(その)砌(みぎり)は骨も見ゆる程也しが、其後はぜんそく絶ておこらざりし由。七十歳餘にて寛政七年の頃身まかりしと或る醫師の語りしが、ぜんそくを愁たり共、かゝる灸をすへん人も多くはあるまじと一笑しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「奇藥ある事」の療治と繋がり、医事シリーズ。その手のギャクで出てくるような巨大な灸という感じの映像で、思わず、読む方も笑ってしまう。
・「予が知人」最後の「或る醫師」と同一人物であろう。
・「一橋御屋敷を勤し人」御三卿の一つ、第八代将軍吉宗四男宗尹(むねただ)を家祖とする一橋家の屋敷勤めの武士。一橋邸は江戸城一橋門内(現在の千代田区大手町一丁目の気象庁付近)にあった。
・「背中五のゐ」脊椎骨の最上部の頸椎の上から五つ目の第五頸椎(C5と略称)。鍼灸サイトを見ると対応する内臓諸器官として声帯・頸部の腺・咽頭が挙げられている。
・「燒尿(やけど)」は底本のルビ。「卷之一」の「燒床呪の事」の「燒床」と同じく、火傷のこと。「やけど」とは「焼け処」(やけどころ)の略であるから、それが訛って「やけどこ」「焼床」となったというのは分かるが、この「燒尿」は不詳。尿をかけると単なる「床」と「尿」の烏焉馬(うえんま)の誤りのようにも見える。
・「一時」凡そ二時間。
・「艾」底本では「芥」で右に『(艾)』と傍注する。誤字と見て、傍注の字を採った。
■やぶちゃん現代語訳
喘息が灸によりて癒えし事
駒込辺りに住んで、一橋家の御屋敷務めを致いて御座った御仁の話――名は聞いたが忘れてしまった。
その御仁の背中の、頸の骨の五番目のところに、茶碗を伏せたほども御座る火傷と見ゆる大きなる灸の跡が御座ったを、私の知人が、
「……失礼乍ら……何時も気になって御座るが……そのお背中の、灸にも似た、大きなる火傷の跡は……これ、如何なされたものか、の?……」
と訊ねたところ、かの御仁曰く、
「……何の。この跡を見るお方は、何れも不審がらるる。……さても、拙者は十歳の頃より喘息を患い、歳を経(ふ)るに従(したご)うてひどうなって、十八、九の頃には一年の内に調子のよう御座る日は数うるばかりにて、日々、おちおち普通に眠ることすら、これ、満足に出来申さず、塗炭の苦しみを味おうて御座ったじゃ。……
そんなある日のこと、拙者の元に仕えて御座った奥州出の若党の一人が、我らに向かい、
『……さてもさて……御主人様の難儀のこと、これ、見るに忍びのうものが御座いまする……実は我らが国元にて、かくの如き重き喘息を癒す灸を、これ、人々に教えて御座る医師が御座いますれば……ただ……その……なかなかその療治というは……常人にては、これ……いや、これ……なかなか堪え得る体(てい)のものにては……御座らぬものにてはは、これ、ありまするのですが……』
と、何やらん、最後の方が煮え切らぬ物謂いにて語って御座った故、我ら、これを受けて、
『……我らは壮年の頃よりかくの如き境涯にて御座ったれば……この分にては……とてものことに、生涯の満足なお勤めを申すことも……これ、叶(かの)うまい。……かかれば……生きておっても詮無きことと心得ておる。……さればこそ――死んでもよろしい――とも思うておる。……よって……そちの申す、その療治……これ、受けてみしょうぞ!……』
と申しまして御座る。
すると若党は、
『……へえ。……いえ、その……そう難しき仕儀にては御座いませず……また……少しも、長(なご)うかかる、というものにても、これ、御座いませぬものにて……ただもう、そうさ、一時ほどにて……済みまする。……その仕儀は――その療治を受けんとする者――その己が手にて――艾(もぐさ)を――あらん限り! ムンズ! と握って――而して――如何にも! ギュウッ! と固く致しまして――それを、やおら、頸の骨の、上から五つ目の頂きへと、キュウッツ! と――灸として据えるというものにて、御座る。……』
と申しました故、即座に、かの者の申した如く致いて、灸を据え申した。……
……が……
――!!!!!!!!
……まっこと! その熱さたるや! 尋常にては! これなく!――
――お恥ずかしながら……
――我らは一時、これ、気絶致いて御座った。…………
……その後も、若党らは――朦朧として御座った我らに――灸にかからぬよう、頭に水を灌ぐやら、水を飲ませるやら致しまして……とうとう……その艾の山の火の消ゆるまで……これ、据え続けて御座った。……
……しかし……
――その後、灸の跡は真っ赤になって腫れ上がり、膿み崩れ――いや! もう、一時は、骨までも見ゆるほど、悪化致いて御座ったのですが……
……したが……
……なんと……
……それっきり……
――その後は――喘息の発作、これ、絶えて起らずなって、御座ったのじゃ。……」
との由。……
「……かの御仁、その後、七十歳余りまで矍鑠としてあられ、寛政七年頃、身罷られたと申す。」
とは、この一部始終を語って呉れた私の知人医師の言に御座る。
その談話の最後に、かの医師、
「……喘息を憂うるとは申せ……かかる『ぼうぼう山』の如き、恐ろしき灸を据えんとする御仁は……これ……そう多くは、御座いますまいのぅ……」
と言って、我らともども一笑して御座ったよ。
五 共 棲
二種の相異なつた生物が、一方は滋養分を吸ひ取られ、他は滋養分を吸ひ取りながら、共同の生活をして居ればこれを寄生と名づけるが、この他に二種の生物が幾分づつか互に利益を交換するためか、或は一方だけが利益を得るために相密著して生活する場合がある。これを共棲と名づける。植物界で最も著しい共棲の例は樹木の幹や、石の表面に附著して居る地衣類であるが、これは人も知る通り菌類と藻類との雜居して居るもので、藻類は有機物を造つて菌類に供給し、菌類は藻類を包んで保護し、兩方から相助けて初めて完全な生活が出來る。しかもその雜居の仕方が極めて親密で、顯微鏡で見なければ菌と藻との識別が出來ぬから、昔は兩方の相合したものを一種の植物と見做して居た。また動物と微細な藻類との共棲は幾らもある。例へば淡水に産する「ヒドラ」には綠色の種類があるが、これは「ヒドラ」の體内に單細胞の緑藻が多數に生活して居るためで、藻類は「ヒドラ」に保護せられ、「ヒドラ」は藻類から幾分か滋養分を得て、雙方から助け合つて居る。
[やぶちゃん図注:「梅の木苔」は子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科ウメノキゴケ
Parmotrema tinctorum。以下、ウィキの「ウメノキゴケ」より(一部の表記を変えた)。『葉状体は薄く広がって樹木の幹や枝の表面に生える。差し渡しが一〇センチメートル程度のものは珍しくなく、比較的大柄な部類に入る。全体の形は不規則な楕円形だが、これは周囲の状況によって大いに変化する。周囲は丸く波打ち、これは個々には周囲が円形に近いサジ状の裂片に分かれているためである。個々の裂片は幅が約一センチメートル、周辺は丸く滑らかで、縁は基盤からやや浮いている』。『表面は灰色っぽい水色で、全体に滑らかだが、ある程度以上大きいものでは縁からやや内側まではすべすべしているのに対して、それより内側ははっきりとつや消しになっている。これは、その表面に細かい粒状の裂芽が密生するからである』。『裏面は、縁が淡褐色、それより内側の新しい部分は白っぽく、さらにその内側では濃い褐色となり、偽根がまばらに出る』。『日本では、日本海側豪雪地などを除く東北地方以南に分布し、これらの地方の平地では最もありふれた地衣類である。比較的乾燥した場所に生育しやすい。都市部にはないが、田舎では庭先から森林まで見られる。主として樹皮につき、名前(梅の木苔)の通り、ウメにもよく見られる。しかし、他の樹皮にもよく見られる他、岩の上に生えることもあり、石垣などでも見られる。
排気ガスには弱いので都市中心部には少なく、大気汚染の指標とされている』。『成長は比較的早く、裂片一枚がほぼ一年分とのこと。繁殖は主として無性生殖による。上記のように、葉状体の中央表面には裂芽を密生し、主な繁殖はこれによって行われるらしい。周辺部に出ないのは、時間が経たないと作り始めない、ということで、恐らく三年目くらいから作り始めるらしい』。『有性生殖は知られているがあまり行われない。野外で子器を見ることはほとんど無いと言う』。]
[やぶちゃん注:「共棲」生物学に於ける「共生(Symbiosis/Commensal)」の概念はこの半世紀で大きく変化をしたと私は思う。まず、共生の三タイプとしてしばしば語られる、ここで語られてゆくところの、
に始まり(但し、現在の知見では、かつて「相利」とされていたものの中には極端な片利であったり、寧ろ多かれ少なかれ、障害を蒙るところの寄生であることが観察によって明らかになったものも多い)、
●ほぼ一種のみが利益を得ているとしか考えられない「片利共生(Commensalism)」
(片害共生という言葉があるようだが、私は以下の理由からこれを片利や寄生の一様態と捉えて用いない)
そして、既に語られたところの、
●エネルギや利益の収奪がほぼ一方的で収奪される側が宿主と呼ばれるところの「寄生(Parasitism)」
の区別が、判然とは行われなくなったということが挙げられる。即ち共生は、
……相利――片利――寄生……
というような生物種間のエネルギ交換や収奪関係の優位劣性が必ずしも明確でなく、寧ろ、そうした――ヒトの価値観による段階的識別――ではその共生関係の論理的理由が判然としない、出来ないものが実は多い、ヒト中心の生物経済学が無効であることが分かってきたというのが、その非常に大きな変化だと私は思うのである。
更にもう一つの大きなパラダイム変換として、アメリカの生物学者リン・マーギュリス(Lynn Margulis 一九三八年~二〇一一年)による真核生物細胞内にある細胞小器官の内、独自のDNAを持つミトコンドリアや葉緑体は、元来は細胞内に共生した細菌が起源であるとする画期的な学説の登場が挙げられる(“The Origin of Mitosing Eukaryotic Cells”「有糸分裂する真核細胞の起源」一九六七年)。半世紀前のSFのようなこの認識は、一九七〇年代以降、広く受け入れられるに至り、寧ろ、細胞内共生は一般的な現象であることが明らかになった。これは「共生」認識に新たな発想転換が求められた瞬間であると私は思う。
更には、その葉緑体や核情報を盗む「盗葉緑体」や「盗核」という細胞内共生の歴史や生物学のセントラル・ドグマをさえ逆回転させてしまう、驚愕の現象の事実を知る時(私のブログ記事「盗核という夢魔」を参照されたい)、人類が「共生」を血液型人間学よろしく三種分類して性格を規定し、共生生物を牽強付会にヒト社会に譬えたところで悦に入って、生物を分かったつもりでいた過去が見えてくるのである。
「地衣類」「これは人も知る通り菌類と藻類との雜居して居るもの」と丘先生は述べておられるが、今現在でさえ、私は「地衣類」をコケ植物と同義と思っている者がゴマンといるように思うし、よもや「地衣類」が「菌類と藻類との雜居して居るもの」――真核生物菌界
Fungi に属する菌類(主に子嚢菌門 Ascomycota に属する子嚢菌類)と藻類
algae(真正細菌シアノバクテリア門の Cyanobacteriaシアノバクテリア類又は真核生物アーケプラスチダ界緑色植物亜界緑藻植物門緑藻綱 Chlorophyceae の緑藻類)からなる主構造を菌糸によって構成している共生生物である――と認識し、答えられる人間は、失礼ながら非常に少ないと思われる。現在でも一部で地衣植物と呼称はされるが、地衣類の一方の構成生物である菌類が植物でないのは勿論、もう一方の藻類も現在では植物から分離して考えるのが一般的になりつつある(タクソンの訳語の一部に現在も「植物」という呼称が含まれてはいるが、実に丘先生はこの大正五(一九一六)年の時点で既に「昔は兩方の相合したものを一種の植物と見做して居た」と明解に答えておられることに敬意を表したい)。地衣類は「世界大百科事典」によれば、地衣体と呼ばれる特殊な体を形成し、乾燥や低温などの厳しい環境に耐えて、熱帯から極地まで広く分布する。現在地球上で約二万種、本邦では約一〇〇〇種が知られている。地衣体の大部分を構成する菌類は子囊菌類・担子菌類・不完全菌類で、それぞれ藻類と共生したものを子囊地衣類・担子地衣類・不完全地衣類と呼んでいる。共生藻はゴニジア
gonidiaとも呼ばれ、緑藻類やラン藻類に属し、トレブクシア属
Trebouxia・ネンジュモ属
Nostoc・スミレモ属 Trentepohlia が構成種として多く見られる、とあるが、ややその特徴を把握しにくい叙述であるので、以下にウィキの「地衣類」の「特徴」の項を付加しておく。『地衣類というのは、陸上性で、肉眼的ではあるがごく背の低い光合成生物である。その点でコケ植物に共通性があり、生育環境も共通している。一般には、この両者は混同される場合が多く、実際に地衣類の多くに○○ゴケの名が使われている。しかし、地衣類の場合、その構造を作っているのは菌類である。大部分は子のう菌に属するものであるが、それ以外の場合もある。菌類は光合成できないので、独り立ちできないのだが、地衣類の場合、菌糸で作られた構造の内部に藻類が共生しており、藻類の光合成産物によって菌類が生活するものである。藻類と菌類は融合しているわけではなく、それぞれ独立に培養することも不可能ではない。したがって、二種の生物が一緒にいるだけと見ることもできる。ただし、菌類単独では形成しない特殊な構造や菌・藻類単独では合成しない地衣成分がみられるなど共生が高度化している』。『このようなことから、地衣類を単独の生物のように見ることも出来る。かつては独立した分類群として扱うこともあり、地衣植物門を認めたこともある。しかし、地衣の形態はあくまでも菌類のものであり、例えば重要な分類的特徴である子実体の構造は完全に菌類のものである。また同一の地衣類であっても藻類は別種である例もあり、地衣類は菌類に組み込まれる扱いがされるようになった。なお、国際植物命名規約では、地衣類に与えられた学名はそれを構成する菌類に与えられたものとみなすと定められている。地衣を構成する菌類は子嚢菌類のいくつかの分類群にまたがっており、さらに担子菌類にも存在する。したがって独立して何度かの地衣類化が起こったのだと考えられている。また、子嚢胞子の形成が見られないものもあり、そのようなものは不完全地衣と呼ばれる』(アラビア数字を漢数字に代えた)。しかしなおも、どのような様態の生物かをイメージ出来ない方も多いであろう。各種をご覧になりたい向きは、「WEB版 地衣類図鑑」をお薦めする。而して見ると――素人の我々には、やっぱりコケにしか見えない――のでは、ある。
『淡水に産する「ヒドラ」には綠色の種類がある』『淡水に産する「ヒドラ」』刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科
Hydridae に属するヒドラ属 Hydra 及びエヒドラ属 Pelmatohydra に属する生物群の総称。注意されたいのは『淡水に産する「ヒドラ」』は『淡水産しか存在しない「ヒドラ」』の謂いであることである。狭義のヒドラであるヒドラ属 Hydra 及びエヒドラ属 Pelmatohydra は総てが淡水産で、海産は存在しないからである(参照したウィキの「ヒドラ」にも、この純淡水産の『ヒドラはいわゆるヒドロ虫の代表的なものに取り上げられるが、その構造の特殊性とともに、淡水性であることでも特殊である。これ以外の種はほとんどすべてが海産種である。ヒドラヒドラ科以外の淡水産の種としては、クラバ科のエダヒドラ、モエリシア科のヒルムシロヒドラがある程度である』と記されている。以下、ウィキより引用する。『ヒドラ科(Hydraceae)の動物は、細長い体に長い触手を持つ、目立たない動物である。これらは淡水産で群体を作らず、浅い池の水草の上などに生息している。体は細い棒状で、一方の端は細くなって小さい足盤があり、これで基質に付着する。他方の端には口があり、その周囲は狭い円錐形の口盤となり、その周囲から六~八本程度の長い触手が生えている。体長は約一センチメートル。触手はその数倍に伸びる。ただし刺激を受けると小さく縮む。触手には刺胞という毒針を持ち、ミジンコなどが触手に触れると麻痺させて食べてしまう。全身は透明がかった褐色からやや赤みを帯びるが、体内に緑藻を共生させ、全身が緑色になるものもある』。『足盤で固着するが、口盤と足盤をヒルの吸盤のように用いて、ゆっくりだが移動することもできる』。生活環は『暖かな季節には親の体から子供が出芽することによって増える。栄養状態が良ければ、円筒形の体の中程から横に小さな突起ができ、その先端の周辺に触手ができて、それらが次第に成長し、本体より一回り小さな姿になったとき、基部ではずれて独り立ちする。場合によっては成長段階の異なる数個の子を持っている場合もあり、これが複数の頭を持つと見えることから、その名の元となったギリシア神話のヒュドラを想像させたものと思われる。また、強力な再生能力をもち、体をいくつかに切っても、それぞれが完全なヒドラとして再生する』。『有性生殖では、体の側面に卵巣と精巣を生じ、受精が行われる。クラゲは形成しない。一般にヒドロ虫類では生殖巣はクラゲに形成され、独立したクラゲを生じない場合にもクラゲに相当する部分を作った上でそこに形成されるのが通例であり、ヒドラの場合にポリプに形成されるのは極めて異例である』。この『体内に緑藻を共生させ、全身が緑色になるものもある』が本記載の種で、これはヒドラ属の
Hydra viridissima(英名“Green Hydra”)で緑藻類のアーケプラスチダ界緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科クロレラ属Chlorella 類を体内に共生させている。この場合、ヒドラはクロレラの光合成による栄養補給や酸素提供を受け、更にヒドラの代謝による老廃物吸収を行わせる一方、ヒドラはクロレラに老廃物としての栄養や光合成のための二酸化炭素を供給し、また安定した光合成の場を提供している「相利的」共生を行っているのである。画像は英語版ウィキの“Hydra
viridissima”を参照されたい。]
唾吐けばつばをあらそひ蛙の子
[やぶちゃん注:「蛙の子」とあるが、前句との類型が認められ、このシチュエーションから言っても、これは子ガエルではなく、オタマジャクシであろう。]
月かげ
春の夜にかすむかすかな幕がしだいにひきあげられるやうに澄んで來ると、眼の色の光もまたおのづから異るのである。空氣の考へ方についても無關心であることはできない。それは、自分の性(さが)の宿命によつて、背なかの甲羅のしめりかたがちがひ、背がむづがゆくなつて、芋蟲のやうに、草のうへにあふむけにころがつて、ごろごろところがる。靑草にしめりがとられ、甲羅にちりばめた模樣のやうに草が附着する。
綠のやうなながれが、峰からくだる谷間を縫つて、九十九折(つづらおり)にながれる。名前のない、たれも名前をつけようとも考へたこともない、ささやかなながれである。絲ほども細いが、河童が棲むのに不自由はない。一族のあるものは、路上にできた轡(くつわ)がたの馬の足あとに雨水がたまつたのにさへ、三千匹は棲息することができる。
背に草の模樣をつけた河童はそのながれを、電光のやうに上下する。からからと奇妙な聲をたてながら疾走する。そのながれにたれかゐないかと探すのであるが、たれもゐない。河童は何十度疾走しても、すこしも疲れないが、ただ、たれもゐないながれのしづけさに、たへがたい孤獨を感じる。ふと立ちどまり、腰に手をあてて、空を仰ぐ。感傷といふものは、空の青さとともにいかなるところにもある。ただし、泣くことは禁物だ。なぜなら、河童がひとたび涙を發すれば、二度ととまらず、こんこんとあふれいで、その靑い涙は河童の精氣であるからして、涙の流出にしたがつて、身體からはしだいに水分がなくなり、息ぐるしくなり、たちまち、ぎちぎちと甲羅がひからび、こちこちになつて生命をうしなつてしまはねばならぬからだ。このやうなことは傳説として傳はつてゐるだけで、かれ自身もよくは知らない。いちど泣けば生を終らねばならぬとすれば、このんで泣くものはない。河童らは傳説をおそれて、生まれおちるときから、泣かざることのみ訓練をした。泣けば涙とともに水分が消失してひからび果てるといふことが傳説であつたばかりでなく、泣くといふことすらが、いまは傳説となつた。かつて、昇天を志してことごとく天から落ちた河童らも、千軒嶽(せんげんだけ)のうへを飛翔(ひしやう)して、火山のなかへ卷きこまれた河童も、自分たちの運命が眼前に死を暗示してゐるときですら、泣くことはしなかつたのである。
絲のながれをいなづまのごとく走る河童も、たへがたい孤獨にとらはれ、空を仰ぎ、ふかい悲しみにとざされはしたが、けつして泣くことは考へなかつた。泣くことが心に浮かばないのだ。傳説の遠さといふものが、はるかな郷愁のごとく、心のなかを去來する。そして、かなしいくせに、かれは仕方なく笑ひだしてしまふのである。
あるとき、かれは人間の居る里に出て、奇妙な運命に遭遇した。
かれは茄子が好きなので、茄子がたくさん生(な)つてゐるところへ、茄子を食べに出た。むらさきいろの、まろやかな、あるひはほそながい茄子の實が、きらきらとひかる。かれはくつくつとうれしげに嘴を鳴らし、それをちぎる。しやきりと口のなかで爽やかな音がして、あまずつぱい水氣が舌をとほる。もうひとつちぎる。このときは、かれは孤獨の寂寥(せきれう)をわすれる。
すると、かれは、とつぜん、はげしい打擲(ちやうちやく)を背に感じた。かれはその打撃(だげぎ)のために、茄子の葉に頰をうちつけてたふれた。さうして、背後でなにかけたたましく叫ぶ人間の聲をきいて、危險を感じ、いつさんに走りだした。かれはあわてふためき、絲のながれに來て、たちまち水中に沒した。
なにごとが起つたのか。かれは背の重味ををかしなことに思ひ、水にうつしてみた。すると、甲羅に一本の鎌がつきたてられてゐた。百姓が自分の畠を荒しに來たものを懲(こ)らすために、鎌でうちかかつたものであらう。それが河童の甲羅につきさきつたまま、拔けなかつたのだ。うしろに手のまはらない河童は困惑した。しかし、ただ、甲羅にささつてゐるのみで、すこしも痛みはしなかつたので、そのままにしておいた。
また、かれは茄子の畠に出る。茄子への誘惑はいかにしてもおさへることができない。ことに、月のある夜はその茄子は寶石のごとく光る。すると、迂潤(うかつ)なかれはまたも畠の持ち主から、鎌をうちかけられ、おどろきあわてて、絲のながれに逃げかへつた。そのやうなことがくりかへされた。暗愚なものは河童である。かれの孤獨の深さが茄子に變へられ、その哀傷が背にささる鎌の數とともに增した。いまは背に八本の鎌を負うて、はじめて、かれは自分のおろかさに氣づいた。背にささつた八本の鎌のために、かれは歩行が困難になり、なにより、その肉體と大地との接觸を喪失した。かれは自分の甲羅のしめりを草のうへにころがつてふきとることが、まつたくできなくなつたのである。かれが大地にあふむけにならうとすれば、つきたつた八本の鎌のうへに乘るほかはない。甲羅をとほしてゐないので痛みはないが、そのやうなたはけた恰好がどうしてできようか。かれはその羞恥(しうち)に耐へることができない。鎌はやがて錆び、その赤ちやけた汁が甲羅をよごす。もはや、かれは茄子をとりにゆく勇氣をうしなひ、はじめて、悲しみの心がきざした。
月かげうつくしい絲のながれのはとりに出て、かれは非常に悲しんだ。もういまは生きてゆく甲斐もない。かれは泣きたいと思つた。さうして泣かうとした。しかるに泣かざることの訓練によつて生きて來た者には、泣くことがいかなる方法によつて達せられるのか、見當もつかなかつた。ああ、泣きたい。しかし、悲しみによつてすぐに泣けると考へたことは、大なる認識不足であつた。泣きたいのに泣けないとは、なんと悲しいことであらうか。
月かげが山の端から中天に移つて來たときに、河童の眼にはじめて涙が浮いた。それは泣くことができない悲しみを感じたときに、泣くことができたからである。すると、傳説はつねに眞實をかたるものであることが、明瞭になつた。靑い寶玉のごとくかれの眼に浮いた涙は、とめどなくこんこんとあふれ、かれはしだいに水分を失ひはじめたが、にもかかはらず、生を終つてゆく河童のくちばしにはかすかな徴笑みが見られた。かれはいよいよひからびてゆき、水のほとりにたふれた。なほも、かれの眼からあふれでる靑い涙は、たれもゐない絲のながれにそそぎ入り、水kさがふえ、月光のもとに、燐のごとくまつ靑にきらめきつつ、せせらぎながれた。
[やぶちゃん注:「千軒嶽」小説「昇天記」に既出であるが、不詳。]
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之五」を東慶寺まで更新した。植田孟縉の嘘に、またしてもブチ切れかけた――しかし、ここで最後に東慶寺の縁切寺法に触れて呉れていたので――まあ、よしとしよう。
死に增る恥可憐事
寛政八年の秋、墮落女犯(によぼん)の僧を大勢被召捕(めしとらへられ)、或は遠流又は日本橋にて三日晒(さらし)の上にて本寺觸頭(ほんじふれがしら)へ引渡しに成りしが、右の内に元安針町(あんぢんちやう)の名主にて、遊興に長じて名主役勤難(つとめがた)く、養子と哉(や)らんへ跡をとらせ、其身は向ふ嶋とやらんに蟄居して暮しけるが、彌々遊所へ入り込み金錢を失ひ、知音(ちいん)親族も合力(かふりよく)だにせねば、世のはかなきを見限りて、旦那寺に至りて止(とどま)るを不用(もちゐず)、強て受戒を乞ひて得度剃髮をなし、芝邊の寺に納所(なつしよ)などし、或は雲水行脚等も致しけるが、夏の暑さ凌難(しのぎがた)く、水邊の茶屋に至りて一杯の酒に鬱(うつ)をはらしけるが、風與(ふと)遊所近き故賑しきに踏迷ひ、初めは酒呑んと妓女樓へ登り、半ばには酒の相手のみとて妓女を呼びたるが、終りには遂に雲雨(うんう)の交りをなし、去るにてもかくいぎたなき所業、佛租師匠へ對してもあるまじき事と思ひ切りしが、又煩惱心起りて一度墮落なすも二度も同じと、或日又彼妓女樓に至りしに捕られける。彼僧の吟味の折から申立候由。日本橋晒の場所は安針町と隣れる所なれば、古への同名主又は知音近付(ちかづき)も多からんに、右の者に見られんは死罪に成(なる)よりは遙に苦しからんと人の語りける。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。以下の注で明らかなように、本件は相当に有名な大量破戒僧検挙事件であることが分かる。……煩悩即菩提……とは参らぬものじゃて、いつの世も……
・「死に增る恥可憐事」は「死に增(まさ)る恥(はぢ)憐れむべき事」と読む。
・「墮落女犯の僧」ウィキの「女犯」より、まず概要を引用する(引用ではアラビア数字を漢数字に代えた)。『仏教の修行は煩悩や執着を断つためのもの』であることから、古来『戒律では僧侶に対して女性との性的関係を一切認めていなかった。この為、寺法のみならず国法によっても僧侶の女犯は犯罪とされ、厳重に処罰されることになっていた』(これを不邪淫戒と言う)。但し、これは時代によって差があり、『破戒僧は奈良時代や江戸時代には比較的厳しく取り締まられたのに対し、鎌倉時代や室町時代には公然と法体で俗人と変わらない生活を送る者も少なくなかった』という注が附されている。なお、『一方で戒律には男色を直接規制する条項が無かったため、寺で雑用や僧侶の世話をする寺小姓や稚児を対象とする性行為が行われる場合もあった』。その後、『日本では、一八七二年(明治五年)に太政官布告一三三号が発布された。僧侶の肉食妻帯が個人の自由であるとするこの布告は、文明開化の一環として一般社会および仏教界によって積極的に受容された。現在では僧侶の妻帯は当然のこととみなされ、住職たる僧侶が実の子息に自らの地位を継がせることを檀家から期待されることも多い』、とある。以下、正に本件を含む大量破戒僧捕縛事件のケースを掲げた「女犯に対する刑」を引用する。『女犯が発覚した僧は寺持ちの僧は遠島、その他の僧は晒された上で所属する寺に預けられた。その多くが寺法にしたがって、破門・追放になった模様である。
例えば、江戸市中であれば、ふつう日本橋に三日間にわたって晒されることになっていた。寛政八年八月十六日には六十七人(六十九人とも)の女犯僧が、天保十二年三月には四十八人の女犯僧が晒し場に並ばされたという。また文政七年八月には、新宿へ女郎を買いに行ったことが発覚した僧侶六人が、日本橋に晒されたと記録されている。さらに、他人の妻妾と姦通した女犯僧は、身分の上下にかかわらず、死罪のうえ獄門の刑に処された』。なお、ここには記されていないが、浄土真宗の僧は教祖親鸞が肉食妻帯を許し、自らも妻帯したことから、正に恋愛妻帯から過ぎた「墮落女犯」と看做されない限りに於いてはこの処罰対象から外れていたということは余り知られているようには思われないので、ここに記しておく。また、間歇的に僧の多量検挙が行われたという事実を見ても、当時の潜在的な女犯僧は逆に猖獗を極めていたと考えた方がよいであろう。ただ、この「堕落女犯の僧」の中には、幕府が執拗に弾圧し続けた、国家を認めない日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派の僧などの非合法・反社会的『淫祠邪教』(と幕閣が判断する宗教集団)・反幕的宗教集団などの宗教的被弾圧者も含まれるので注意されたい。なお、本件を含む事例については永井義男氏の「江戸の醜聞愚行 第三十九話 無軌道な僧侶」も一読をお薦めする。
・「日本橋にて三日晒」罪人の晒し場は日本橋南詰東側にあった。著名な歌川広重作「東海道五十三次」の冒頭「日本橋朝之景」で、右手板塀の蔭になって、橋のこちら側の袂に犬二匹おり、尻だけを見せているが、この隠れた犬の覗いている河岸に晒し場があったのである。
・「本寺觸頭」単に「触頭」とも。幕府や藩の寺社奉行支配で各宗派ごとに任命された特定の寺院を指す。寺社奉行と本山及びその他末寺などの関連寺院との間の上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。室町幕府に僧録が設置され、諸国においても大名が類似の組織をおいて支配下の寺院の統制を行ったのが由来とされる。寛永十三(一六三五)年の寺社奉行設置に伴い、各宗派が江戸若しくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹(かんさんさつ:関東の曹洞宗宗政を司った大中寺(下野)・總寧寺(下総)龍穏寺(武蔵)の三箇院。)が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った(以上は主にウィキの「触頭」に拠った)。
・「安針町」現在の中央区日本橋室町一丁目内。町名は慶長五(一六〇〇)年に豊後国佐志生(さしう:現在の大分県杵市大字佐志生)に漂着した、オランダ東印度会社所属のリーフデ号のイギリス人航海士ウイリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)年)の日本名である三浦按針(みうらあんじん)に由来する。後に幕府の通商顧問として日英貿易に貢献した彼は、この日本橋近くに邸宅を構えていた。なお、彼の立場は秀忠の代に至って本格的な鎖国政策で不遇となり、名目上の天文官として平戸に軟禁、失意のうちに五十六歳で没している。
・「納所」納所坊主。寺院の会計や庶務を取り扱う下級僧。
・「雲水行脚」という言辞を用いていることから、彼は禅宗の僧であったと考えられる。「雲水」は現在、禅宗の修行僧の意であるが、元来は「行雲流水」の略で、禅僧が雲や水のように一所に留まることなく、各所を経巡って修行をすることを言う。「行脚」も禅僧が修行のための諸国修行の旅をすることを指す。
・「雲雨の交り」「雲雨の情」とも。男女の交情、特に肉体関係を言う。宋玉「高唐賦」の楚の懐王が高唐に遊んだとき、朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山(ふざん)の神女を夢みて、これと契ったという故事に由る。
・「彼僧の吟味の折から申立候由」当時、根岸は公事方勘定奉行であったが、破戒僧の管轄は寺社奉行であったから伝聞となっている。
・「日本橋晒の場所は安針町と隣れる所」「安針町」は日本橋北詰近くで、「日本橋晒の場」のからは橋を隔てて直近二百メートル圏内にある。
■やぶちゃん現代語訳
死に勝る恥の憐れむべき事
寛政八年の秋、堕落女犯(にょぼん)の僧を大勢召し捕え、或いは遠流、或いは日本橋にて三日の間晒された上、本寺触頭(ふれがしら)へ引き渡されて各個処分と相い成った。
その晒しとなった内の一人に、元は安針町(あんじんちょう)の名主で――しかし、遊興が昂じて名主役を満足に勤められずなって役を退き……家も養子迎えなんど致いて跡をとらせた上……己れは向島辺りに蟄居して暮らしておったが……その後は、これ、いよいよ遊所に入れ込み……果ては当家の家産をも食い潰し……昔馴染みや親族も、最早、一切の援助を致さずなったによって――世の儚さを見限って旦那寺へと参ると、親しい住持の止めるのも聞かず、強引に受戒を乞いて得度剃髪をなし、芝辺りの寺にて納所(なっしょ)なんどを致いて、時には行雲流水諸国行脚の修行なんどにも出でて御座ったという。……
ところが、この夏のこと、あまりの暑さの凌ぎ難く、行脚の途次、とある水辺の茶屋に憩うた。
……そこで……つい……一杯の酒に手を出して憂さを晴らいてしもうた。……
……と……
……その茶屋近くに……遊所が御座って……その賑やかな三味やら小唄やら女たちの笑い声やらが聴こえて来る。……
……と……
……そこで――思わず仏道の道を、これ、踏み迷うてしもうた。……
……初めは、
「――酒を呑むだけじゃ……」
と胆に銘じ――妓楼へ登った。……
……が……
……半ばには、
「――酒の相手ををさすだけじゃ……」
と胆に銘じ――妓女を呼んだ。……
……が……
……果ては――遂に雲雨の交わり――これ、成すに至って……しもうた。……
「……あはぁッ! 何たる、寝穢(いぎたな)き所業!……仏祖師匠に会わせる顔とて、これ、ないッ!……」
と殊勝に心内(こころうち)に懺悔致いた。……
……致いたが……それも一時――
……直きに、またぞろ、煩悩心が鬱勃として湧き起って、
「――一度、堕落すも、二度も……これ、同じことじゃ……」
と……とある日、またしても妓楼へ登った。……
……ところが、そこで運悪く、召し捕えらるるに至った、とのことで御座った。
以上はこの僧の吟味の折り、自身の申し立てに拠った事実なる由。
「……さても……日本橋の晒しの場所は、橋を挟んで安針町のすぐ隣りに御座れば……昔の同輩で御座った名主、又は昔馴染みやら近付きの者やらも多う御座ろうに……かの者どもに、晒された我が身を見らるるは、これ――死罪になるよりは――遙かに苦しくも辛いことにて、御座いましょうほどに……」
と、ある人が語って御座った。
蝌蚪の水へ人もの言うて尿せる
[やぶちゃん注:「蝌蚪」は「かと」と音読みし、オタマジャクシのこと。「尿」は「すばり」と読んでいよう。]
蜂の巣のふたつならびて事しげき
蜂の聲とものしづかなる體温と
空たかくなりまさり蜂の戰へる
水甕に日はゆたかなり熊ン蜂
芥川龍之介の日記「我鬼窟日録」の全注釈を、ほぼ完成させた。開始が8月14日で凡そ一ヶ月弱、これに係りっきりだったわけではないが、やはり手強かった。日記は自分にだけ分かるように書くから、後世それを盗み読むには、多量の謎解きが必要である。
ピーピング・トム出歯亀の変態心理がよ~く理解出来た。
このぞわぞわ感は、一度、味わうと辞められない、ね……。
現在、ブログ・アクセス数――397220――
細部校正の後、これでこの公開を400000アクセスにぶつけることが出来る。
乞う、御期待!
昨日の二本目は「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」。
これは梗概を語るのがなかなか難しい複雑なもので、幸い詳細の梗概がウィキペディアにあるので、そちらに丸投げして、感想のみ記す。
「釣船三婦内の段」
蓑助! 蓑助! 蓑助!
――蓑助の「お辰」がやっぱり、いぶし銀!
――蓑助の遣いの素晴らしさは存在しない衣の下の「女人の肉」を、舞台に出ている間中、感じさせ続けるという、稀有の神技にある。これは悪いけれど、未だ肉薄出来る遣い手はいない。だから、まだまだ頑張ってもらって、後続の、特に若手は彼から盗めるものを総て盗み尽くさねばだめだ。蓑助は幼少の頃から黒子の、もう望めない叩き上げた生粋の人形遣いである。研修生の世代には想像も出来ない辛苦があったと同時に、そこから体得した「技」は、純粋培養の研修派には思いもよらぬ、彼の握り獲った「女の肉体」の霊妙な演技なのだ!
「お辰」が、女だてらの、驚天動地の心意気に、火鉢の鉄弓(魚焼き用の焼き鏝)を己が美しき顏に押し当てる――その前後の「お辰」の面を見るがよい!――決心――覚悟――実行――焼灼――激痛……その表情が――変わるのだ!――蓑助ならではのドゥエンデなのだ!
「長町裏の段」(泥場)
私は思わずこれは――江戸のドストエフスキイか――と疑ったものだ!
観客は、守銭奴で冷酷無惨な義平次の執拗な団七への凌辱(いちびり)に我慢ならずなって、自分たちの日常的な儒学的世界像を(実は内心不条理を感じているところの儒学的世界像を)忘却してゆく――
さらに観客は、純粋に感覚的に、高津神社の宵宮の、背後に揺れ行くだんじりの灯りや、舞台効果を出すための三味線の演奏だけで表現するメリヤスにだんじり囃子の、その三味と鉦と太鼓のリズムに――「晴れ」としての――超常的時空間としての――「祭」――そこでは何時も「生贄」が必要だ――新たなる世界の開闢のためには「犠牲(サクリファイス)」が不可欠であることを「肉」に感ずる――のである――
……この祭り太鼓に私が思い出していたのは松本清張の「黒地の絵」であった……
そして――そうして団七の、人非人である「義父」義平次(この名も実に皮肉である)、その団七の「義父殺し」は神の名に於いて許される――のである――「殺しの美学」の完成――である
この義父の偏執的なまでの殺戮場面は――我々の中の原初的な「生」の衝動――「肉の怒り」の衝動が――むごたらしくも慄っとするほどに美しく素敵に完全に解放される瞬間――なのである。
……帰り道、僕たちの背後を歩いていた女子大生が
「……お父さん殺したあとなのに、御神輿とか来ると、団七はちゃっかり、一緒になってワッショイとかやってエンジョイしてるし……」
と話しているのが聴こえた。……僕は独り――ニヤリ――としたもんだ……
――そうして――この「殺しの美学」は裸体の全身の入れ墨に赤の下りという異常で異様な美しさによって視覚的な額縁がなされている――のである……
……僕は高倉健などの演じた任侠映画や大嫌いなビートたけしの暴力映画が大嫌いだ(先日のNHKのドキュメンタリーを見ていると健さん自身自分の演じていたあの斬った張ったが殊の外、厭だったらしい)……スプラッター系のホラーも全く興味がない(例外的にホラーSFは好むのだが)……こうした浄瑠璃の、歌舞伎の舞台も実は全く以って見たいと思わないのである……
……それは……何故か?……ズバリ、見るに堪えない汚さだからだ……歌舞伎では(妻が大昔、中学生時分に片岡孝夫で見たらしい)生泥・生水を使って、舞台が跳ねた後は役者の汚れ落としが大変らしい……そういう、キタナイのは僕は厭なのだとも言えるが……それより何より、ドル箱の映画俳優や純粋培養の歌舞伎役者の肉体なんぞは、鍛え上げた「失われた侠客」に肉体とは似ても似つかぬものだからだ(唯一、僕が憧れた侠客らしき人については「忘れ得ぬ人々21 倶利迦羅紋紋のお爺さん」で語ったことがある)……
――しかし――人形の「肉」は飽く迄――美しい――汚れても美しい――そすいて何より――役者は死ぬ真似を演ずるだけで、眼を瞑っても息をしているのだが――人形は正しく――「死ぬ」――のである――
*桐竹勘十郎の遣いは洒脱でよいのだが、期待していた特殊な頭である舅のガブは、造作が綺麗過ぎて、いちびりの悪漢の頭としての風合いを全く欠いており、ちょいと失望してしまった。
*吉田玉女は限りを知らぬパワーで邁進している。晩年の玉男では見られなかった大立ち回り――毎回毎に、見逃せぬ。
最後に。
本作は優れて美しい稀有の失われた、人と人の真の心の通い合っていた大坂の――その任侠世界――それも男女が、それぞれの人の義に生きた世界を描いた名品である。――
――この――全身入れ墨――の裸体の義人団七を伴って!――玉女よ!――文楽への助成を外しやがったあの不義の義平次橋下徹大阪市長のところへ――談判に行くが、よいぞ!
昨日、国立劇場文楽公演の午前の部に行く。
「粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)」
以下の梗概で参考にした今回のパンフレットには、寛保三(一七四三)年八月に大坂豊竹座で初演され、この『五段目の「吉野山の段」は前年に初演された歌舞伎『雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)』の鳴神上人の件(くだり)を踏襲したと思われますが、これは『太平記』の説話を謡曲にした『一角仙人』を典拠としており、文楽ではそれを『今昔物語集』などで紹介された久米仙人に置き換えてい』ると解説するのだけれど――いや! これは、何より! その外題からも分かる如く、「道成寺」の痛烈なインスパイア浄瑠璃、
「日高川入相花王(ひだかがはいりあひざくら)」
の性を取り換えた、反「道成寺」とも言うべき怪作なのであった。以下、梗概を私なりに纏めてみたい。
ここでは女の脛をを見て天から落ちた粂仙人は、聖徳太子の兄粂皇子(くめのおうじ)という設定になっており、優れた弟が政治の表舞台で活躍しているのを無念として仙人となっている。
弟への復讐のため、秘術によって竜神竜女を深山の滝壺に封じ込めて旱魃を齎したばかりでなく、三種の神器をも奪取して滝の下手の岩宮の中に隠し置いており、彼はこれらの出来事を、太子の不徳によるものと喧伝し、世を奪わんと画策しているのである。
そこに夫に死に別れ、形見の衣を禊ぎするためと称して美女「花ます」が訪れる。
二僧はそれを禁ずるものの、興味を持った仙人に求められるままに「花ます」は夫とのなれ初めから初め、河を渡渉して夫と邂逅する語りでは裾を上まで捲くって襦袢の下の足を見せ(!)――本舞台では久米仙人のパロディであるから例外的に花ますは女ながら足を持っている!)――お色気たっぷりのセクシャルな話柄(!)で久粂仙人と弟子の二人僧を翻弄(この辺りは「道成寺の狂言パートのパロディに相当)、仙人に至っては、興奮のあまり(!)、上手上方にしつらえられた結界の須弥壇から落下して失神してしまうのであった(これは久米仙人伝承のパロディであると同時に、乱拍子から鐘入りの過程の巻き戻し逆再生のパロディにも感じられた)。
すると「花ます」は口移し(!)で滝の水を仙人に胸を合わせて(!)含ませて(!)目覚めさせる。
仙人は「花ます」に仙術を破りに来た間者の疑いを持ちはするものの、尼となるという「花ます」のために、二僧に道具を麓まで取りに行かせ、二人きりとなる。
「花ます」は俄かに癪(しゃく)を起こす。
その痛みを和らげようと、さすらんとして(!)「花ます」の胸に手を差し入れて(!)その鳩尾に触れた(!)瞬間、仙人は破戒を言上げして、胸に飛び込んだ「花ます」を抱く(!)のである。
「花ます」の望むがままに夫婦盃を交わす内、酔った仙人は天下を奪う企略を告白、三種の神器の在り処から、竜神封印の背後の滝の前のさし渡された注連繩が旱魃を齎していることなんどを、べらべらべらべら喋ってしまう。
そして、荒行の上に飲みつけぬ酒に泥酔した仙人は、須弥壇に入って四方の簾を下して寝てしまう(ここが正に「道成寺」鐘入りの情けないパロディであることは言うまでもあるまい)。
さて、無論勿論「花ます」は、やはり聖徳太子の命によって行法を破り、三種の神器奪還のために遣わされた間者であって、ここで仙人に詫び言を言いつつ(契りを誓った故の女の色気の名残である)も、下手の嶮しい窟を登り、神器を見つけ、その宝剣を擲って、美事注連繩を切断、秘術を破る(この女だてらの活劇部分が実に実に清々しい)。
龍神がするすると天に昇り(ここの演出、日本中の竜神竜女であるから、無数に出して欲しかった)、激しい雷電と豪雨の中(書割の懸垂だが、音響が優れる)、簾が巻き上げられる(ここの演出も「道成寺」同様に総ての簾をゆっくりと同時に巻き上げる方法を採って欲しい)と、怒髪天を衝いた仙人が怒りの形相、紅蓮の炎の図柄の衣装となって、六方を踏んで下手へと「花ます」を追ってゆく――
これを「道成寺」の男版、逆回転映像の反「道成寺」と言わずして――何と言おう!
これは
――珍しい、ぎりぎりの「手技」の、恐るべき――ロマン・ポルノ文楽――であると同時に――
夏演目に相応しい
――素晴らしい――鬼となった男の怨念の――ゴシック・ホラー文楽――である。
*豊松清十郎の「花ます」は、まずは非常に良かった。
登場後の二度目の鉦打ちを端に外した後、激しく汗を吹き、右手した奥から眉間に皺を寄せて三打目を確かに響かせて打った努力を僕はまずは讃えるものである(今回も最前列下手やや前の座席であった)。
しかし、おやまの使い手たるものは――あんな怖い顔をしてはいけない。
たとえミスっても、もっと平然として「娘の心情」を貫く面(おもて)であってこそ、ミスは気づかれぬ。
また、アクロバティックな後半部では、「花ます」の対象行為としてのアクション自体は殆んど瑕疵なく、美事にこなしたものの、やはり、激しい動きの中、頭(かしら)と左右の腕と下半身が、ばらばらな動きとなってしまって、「しなやかな仮想の女体」が感じられなかったのが惜しい。
向後も精進され、頑張っていただきたい。応援する。
探幽畫巧の事
朽木(くつき)家となん、探幽が書(かけ)る松に鶴とやらんの重器あるよし。右時代に素人(しろうと)にて久住(くすみ)六郎左衞門といへる名人の畫書(ゑかき)有りしが、朽木におゐて探幽が書る松に鶴の繪を見て不面白(おもしろからざる)由あざけりし故、探幽來りし時主人其(その)咄しをなしければ、久住が言へる尤(もつとも)也(なり)、認直(したためなほ)さんとて書直して置しを又久住に見せければ、宜(よろしき)由にて強て賞美もせざりし故、又探幽を招きてしかじかの事と語りければ、又書直すべしとて認直しけるを、重て久住に見せければ、大に感賞して、探幽は誠に奇妙の畫才也(なり)、同じ畫を三度迄我意なくして書直し、形樣何もかわらで自然に其妙ありと悉く賞翫したる由。依之(これによりて)今朽木家の重寶と成(なり)けるよし。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。技芸奇譚シリーズ。
・「朽木家」丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)の福知山藩藩主主家。本話柄を事実と仮定し、以下の注で示すように「久住六郎左衞門」が絵師久隅守景の誤りあったとするならば、これは寛文一二(一六七二)年以後延宝二(一六七四)年の出来事(後注で検証試算の理由を述べる)となるが、その当時の藩主は初代朽木稙昌(たねまさ 寛永二〇(一六四三)年~正徳四(一七一四)年)となる。彼は万治三(一六六〇)年に父(朽木元綱の死去によって翌年、家督を継いで土浦藩第二代藩主となったが、寛文九(一六六九)年には丹波福知山藩に加増移封されている。文化の発展にも尽力したとあるから、彼が探幽や守景と親交があったとしても(あったことを確認したわけではない)、おかしくはない(以上の朽木稙昌の事蹟はウィキの「朽木稙昌」に拠った)。なお、本記載執筆推定の寛政九(一七九七)年頃の当主は第八代藩主朽木昌綱で、朽木家は明治まで福知山藩主であった。
・「探幽」狩野探幽(慶長七(一六〇二)年~延宝二(一六七四)年)狩野派を代表する早熟の天才絵師で、狩野孝信の子で狩野永徳の孫に当たる。『慶長一七年(一六一二年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和三年(一六一七年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和七年(一六二一年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い』。二二歳の『元和九年(一六二三年)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、五十歳を過ぎてから実子・守政が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、六代後の子孫である狩野探信守道とその弟子沖一峨を僅かな例外として殆どなかった』。『若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出した。この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能である。その一方、大和絵の学習も努め、初期の作品は漢画の雄渾な作画精神が抜け切れていないが、次第に大和絵の柔和さを身に付け、樹木や建物はやや漢画風を残し、人物や土波は大和絵風に徹した「新やまと絵」と言える作品も残している。江戸時代の絵画批評では、探幽を漢画ではなく「和画」に分類しているのは、こうした探幽の画法を反映していると云えよう。粉本主義と言われる狩野派にあって探幽は写生も多く残し、尾形光琳がそれを模写しており、また後の博物画の先駆と言える』。『探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されている』。(ウィキの「狩野探幽」から引用、アラビア数字を漢数字に代えた)。
・「松に鶴」は「松鶴図」は定番の画題で、探幽の描いたものも多く残るが、この話柄の二度書き直して完成させたという曰くつきの代物が現存するかどうかは不詳。
・「久住六郎左衞門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『久須美(くすみ)六郎左衛門』とし、その長谷川氏注には、『不詳。あるいは久隅守景の通称を誤り伝えるか』とある。私は不学にして知らない絵師であるので、以下、ウィキの「久隅守景」からほぼ総てを引用させていただく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『久隅守景(くすみ
もりかげ、生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派の絵師。通称は半兵衛、号は無下斎、無礙斎、一陳斎。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者。娘に閨秀画家として謳われた清原雪信がいる。その画力や寛永から元禄のおよそ六十年にも及ぶ活動期間、現存する作品数(約二〇〇点)に比べて、人生の足跡をたどれる資料や手がかりが少なく謎が多い画家である』。『通称を半兵衛といい、無下斎、無礙斎、一陳翁、棒印などと号した。若くして狩野探幽守信の門に入り、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義と共に四天王と謳われた。後の『画乗要略』(天保八年(一八三一年)では、「山水・人物を得意とし、その妙は雪舟と伯仲、探幽門下で右に出る者なし」と評されている。前半生は狩野派一門内の逸材として重きをなした。その現れに、探幽の妹・鍋と結婚していた神足常庵の娘で、探幽の姪にあたる国と結婚し、師の一字を拝領して「守信」と名乗っている。この時期の作品で最も早いのは、寛永一一年(一六三四年)の大徳寺の江月宗玩の賛をもつ『劉伯倫図』(富山市佐藤記念美術館蔵)である。他に寛永一八年(一六四一年)、狩野尚信、信政と共に参加した知恩院小方丈下段之間の『四季山水図』や、瑞龍寺の「四季山水図襖」八面(高岡市指定文化財)が挙げられる。この時期は探幽画風を忠実に習い、習作期間に位置づけられる』。『守景には一男一女がおり、二人とも父を継いで絵師になったが、寛文一二年前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事が続く。これが切っ掛けとなって狩野派から距離を置き、後に金沢に向かい、そこで充実した制作活動を送った。彼の代表作である『夕顔棚納涼図屏風』(東京国立博物館蔵)や『四季耕作図屏風』(石川県立美術館蔵
重要文化財)はこの時期の作品と推定され、農民の何げない日常の一コマや生業のさまなどを朴訥な作風で描き、守景独自の世界を切り開いた。晩年は京都に住み、古筆了仲の『扶桑画人伝』(明治二一年(一八八八年)刊)では、藤村庸軒らの茶人と交わり茶三昧の生活を送ったと記されている。しかし、制作活動は最晩年に至るまで衰えず、『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』(大倉集古館蔵
重文)など老いを感じさせない瑞々しい作品を残している。元禄一一年(一六九八年)に庸軒の肖像画を描いたとされ、この後に亡くなったと推定される』。『師・探幽とは異なり、味わいある訥々な墨線が特徴で、耕作図などの農民の生活を描いた風俗画を数多く描いた。探幽以後の狩野派がその画風を絶対視し、次第に形式化・形骸化が進むなかで、守景は彼独自の画風を確立したことは高く評価される。彼の少し後の同じ狩野派の絵師で、やはり個性的な画風を発揮した英一蝶と並び評されることが多い』とある。
さて、もしもこの「久住六郎左衞門」が彼だとすれば(その可能性は強いと私は思う)、この叙述と本話柄を並べた時、若い時(寛永一八(一六四一)年以降直近)の『探幽画風を忠実に習』っていた頃のエピソードとは当然思われず、後に『狩野派から距離を置』いた時期と考えてよい。その時期を一先ず解説文に即して寛文一二(一六七二)年『前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事』を契機としたとするならば、
寛文一二(一六七二)年以後の直近を最上限
と置ける。ところが、狩野探幽は、
延宝二(一六七四)年に死去
しているから、本話が事実とするなら、探幽の最晩年のたった二年間のこととなる。当時、七十歳を越えたていた探幽を考えると現実性は低いが、一応、試算の結果として示しておく。しかし、彼らの経歴と、その複雑な画工としての交差を考えると、確かにこの話は、面白くなる。久住六郎左衛門の名はママとしつつ、その実、彼を久隅守景とし、そういう確信犯の中で現代語訳してある。
■やぶちゃん現代語訳
探幽の画力の巧みなる事
福知山藩藩主であらせらるる朽木家のことで御座ったか――狩野探幽の描いた『松に鶴』の名画が御座る由。
探幽と同時代の者にて久住(くすみ)六郎左衛門と申す、素人ながら、名人の絵描きが御座った。
たまたま訪れた朽木殿の御屋敷にて、この――曾ては久住の師であったことも御座る――探幽の描いた『松に鶴』を見た。すると、
「……面白うない、の――」
と一言吐いて、嘲った。
後日(ごにち)、探幽が朽木家へと参った折り、当代御当主であらせられた稙昌(たねまさ)殿が、その久住の話をなさったところ、
「……久住で御座るか……かの者がそう申すも……これ、尤もなることに御座る。――一つ、認(したた)め直しましょうぞ――」
と、探幽は、その場にて再筆を加えた。
さてまたの後日、再参致いた久住にかの絵を見せたところが、
「……まあ宜しゅうは御座るが、の――」
と一言申したのみで、強いて賞美の詞(ことば)も、これ、御座らなんだ。
またまたの後日に、稙昌殿が再び探幽を招いた折りに、この度の話をまたしても、仔細にお話になられた。
すると探幽、
「……それはそれは。……ふむ。……今一度、これ、認(したた)め直さずんば、なりますまい――。」
と申すや、またしても即座に再々の筆を加えた。
さてもまたその後日、稙昌殿が重ねて久住を呼んで再々の加筆を施したところの絵を見せたところが――この度は――久住、痛く感じ入ったさまにて――
「……探幽殿は、まっこと、奇体にして神妙を持った絵の才人じゃ!……同じ絵を三度まで……しかも……我が意にあらず、描き直しながら……その形容――実は一部たりとも、何も変わっておらぬではないかッ! にも拘わらず――それでいて――自ずと――その神霊の妙味が絵から立ち上っておるではないかッ!……」
とあらん限りの賛辞を惜しまずに御座ったと申す。
これより、今に至る迄、この探幽の『松に鶴』は、朽木家の重宝となった由に御座る。
ひとつ疾(と)き蝶ゐて蝶の群ひらく
われの眼に入り來て蝶のいそがしさ
干す傘の紙のささ鳴り蝶きたり
窓の會話白き蝶よりはじまれり
宙天にくつがへる時の大鳳蝶(あげは)
碧潭の日をくだりくる鳳蝶かな
奇藥ある事
予が許へ多年來れる醫師に與住玄卓(よずみげんたく)といへるありしが、或る病家重病の癒しを歡び、家法の痢(り)の藥を敎けるが、唐艸(たうさう)にも無之(これなく)、和に多くある草一味(いちみ)也。此比(このごろ)一兩輩の病人に與ふるに神(しん)の如しと咄しぬ。藥名は醫者故聞ん事も如何と其儘に過ぬ
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。五番目の「痔疾のたで藥妙法の事」から薬事連関。原料や処方の詳細が記されず、効能もただ「痢」とあるのみで、医事記録としても価値が認められない。
・「與住玄卓」「卷之一」の「人の精力しるしある事」の「親友與住」、「卷之三」の「信心に寄りて危難を免し由の事」の「與住某」と同一人物であろう。「卷之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する、根岸の医事関連の強力なニュース・ソースである。底本の鈴木氏の先行注に『根岸家の親類筋で出入りの町医師』とある。
・「藥名は醫者故聞ん事も如何」というのは、恐らくこの原料の植物が、中国の本草書に不載であるだけでなく、本邦の本草書にも記載されていないか、記載されていても効能や処方が異なるかし(純粋な毒草として、薬効なく毒性のみが語られている可能性も含む)、また、與住自身がその薬について詳細を話したくない素振りを見せたのでもあろう(玄卓がその後に死んだのでもなければ(そんな様子は感じられない)、ここで「其儘に過ぬ」と言ったのには、そうした主に玄卓側の無言の要請が感じられるのである。さすれば、それほど神妙なる効能があり、若しかすると誰にでも採取・調合出来てしまうようなシンプルなものであった可能性も高い。
・「唐艸にも無之、和に多くある草一味也」とはその生薬の原料植物が日本固有種であることを示していると考えてよい。
■やぶちゃん現代語訳
奇薬のある事
私の元へ永年通うておる医師に与住玄卓という者がおる。
とある大家(たいか)の重病人を療治平癒致いたところ、大いに歓ばれ、謝金とは別して礼と称し、家伝の止瀉薬の製法を伝授されたという。
大陸の本草書にはその植物の記載がこれなく、本邦にのみ、それも数多く自生する草の一種であるという。
「近頃、数人の痢病患者に処方致しましたが、その即効はまっこと、神妙で御座った。――」
とは本人の話。
医師に、その独自に使用しておる薬名や原材料・処方の仔細を訊ねるというのも――しかも諸々の本草書などにも載らぬ秘薬となれば――これ、如何かと思うた故、そのままにうち過ごし、今もって、その『草』とは何か、残念ながら、分からず仕舞いのままにて御座る。
櫻烏賊ものうき墨を吐きにける
[やぶちゃん注:「櫻烏賊」は特定種を指すものではなく、桜の咲く時期に獲れるイカを言い、春の季語である。花見烏賊とも。富山県の西部新湊から氷見周辺では頭足綱鞘形亜綱十腕形上目ツツイカ目スルメイカ亜目アカイカ科スルメイカ亜科スルメイカ
Todarodes pacificus の稚イカをハナミイカと呼称している(成イカは逆に旬としてナツイカと呼ばれる地域が多い)。]
昨夕、アリスを散歩に連れて行くと、近くの日枝神社の例祭だった。
テキヤの縁日が数軒出ていた。
僕は昔から祭りが嫌いだ――
何故だろう?……
……それは……「鬼火」のアランの台詞“La fete est finie.”……
……「黒いオルフェ」の“A Felicidade”……Tristeza nao tem fim, felicidade sim.…… 「哀しみには終わりがなく、幸せには終わりがある」……
……兼好の「徒然草」の「花は盛りに」を思い出す……
……暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ……
……祭りを見るということは……畢竟――その後にやってくる褻(け)を哀しむことだ……
……面白うてやがて哀しき鵜舟かな……芭蕉だ……
僕は御面屋の前で立ち止まった――
アリスは背後の祭り太鼓に恐れをなして尻尾を後ろ足の間に仕舞い込んでいた――
掛け並んだ御面の列を見ながら――
僕の憂鬱は完成した……
……その時僕は……何故に、あの「20世紀少年」が僕を魅了するのかが分かった気がした……
……それは仮面の悲哀である……
……仮面が象徴する我々の悲哀――祭りの悲哀――祭りは人生――人生は――Tristeza nao tem fim, felicidade sim.……
うつくしく芥にそだつ諸子かな
[やぶちゃん注:コイ目コイ科バルブス亜科タモロコ属ホンモロコ
Gnathopogon caerulescens。元は琵琶湖固有種とされているが、現在は各地に分布する淡水魚。本種は日本産コイ科魚類の中でも特に美味と言われ、琵琶湖では周年漁獲されて京都市内の料亭などへ高値で取引されている。特に冬に獲れる「子持ちモロコ」は琵琶湖の名物とされ、大変に珍重される(以上はウィキの「モロコ」に拠った)。]
菊蟲再談の事
前に記すお菊蟲の事、尼ケ崎の當主は松平遠江守にて、御奏者番勤仕ある土井大炊頭(おほひのかみ)實方(じつかた)兄にて、土井家へ見せられし右蟲を營中へ持參にて予も見しが、前に聞し形とは少し違ひて、後より見れば女の形に似たり。後ろ手に縛りてはなく、蛼(こほろぎ)の鬚の樣成ものにて小枝のやうなる物に繋(つなぎ)あり。圖大概を左に記す。委曲の書記も土井家より借りて見しが別に記ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:四つ前の「菊蟲の事」の実見後の根岸の観察追記。図がやはり岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と異なる。全体の配置や指示キャプションは非常によく似ているものの、「菊蟲の事」同様、バークレー校版は虫がシルエットである。そこで、前回同様、原文の後に底本の図を、現代語訳の後にバークレー校版図を配した。但し、バークレー校版のキャプションが活字に変えられており、岩波書店の編集権を侵害する可能性が高いので、指示線とともに加工処理して消してある(バークレー校版には、蛹化初期の蛹の上部右空間の上方に、支え糸の向こう側の線(のような)途切れた線描写がある。それでもバークレー校版の「此の糸蛼髭などの如し」のキャプションの指示線は底本図と同じく手前の糸に繋がっている(少しだけその指示線の跡を残しておいた)。キャプションを如何に活字化しておく(キャプションは二書とも同じ)。
〇右下部――「此の糸蛼髭などの如し」
(この部分の糸はコオロギの触角などと非常によく似ている)
〇左中央より下へ――「後より見れば此所女の櫛を刺したるが如し」
(この後背部より観察するとこの虫体の頭頂部は女が櫛を挿しているようには見える)
グーグルの画像検索の「ジャコウアゲハ 蛹」を見よう。蛹を支持する糸は写真によって濃い色に着色しているのが見える。私は昆虫少年ではなかったのでよく分からないが、これは、種による違いか、それとも蛹化後の外的な現象(土埃等の付着)によるものか、糸の素材の経時変性等によるものかは定かではないが、着色体は確かにコオロギの触角に似ているという表現が正しいことが分かる。また、背部正面からの複数画像を見ると頭部の幼虫期の吻部と思われる箇所、蛹の頭頂部には正しく「櫛を刺した」ように見えるではないか。根岸の観察は素晴らしい。
更に、この図から察するに、脚部や頭部がはっきりと本体と区別出来、どうも根岸が実見したチョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ Byasa alcinous のこの幼虫は、完全な蛹化が始まる前の前蛹と呼ばれる状態(体が動かなくなるものの、刺激を与えると嫌がっているような動きを見せることがある)から少しだけ蛹化へ進んだ状態ののように思われる(虫体が小枝からこちら正面へ傾いて体側の向こう側の眼や脚部が見えるように描いているのは、蛹が支持糸を切られているのではなく、観察描画上の分かり易さを狙った図法と思われる)。なお、バークレー校版では表題が「於菊虫再談の事」と我々に親しい接頭語の「お」が附されている。
・「松平遠江守」摂津尼崎藩第三代藩主松平忠告(ただつぐ 寛保三(一七四三)年~文化二(一八〇六)年)。明和四(一七六七)年家督を継ぎ、死去まで藩主の座にあった。「菊蟲の事」の本文にも出、注でも記した谷素外に俳諧を学び、俳号を一桜井亀文(いちおうせいきぶん)と称した。
・「土井大炊頭實方」土井利厚(としあつ 宝暦九(一七五九)年~文政五(一八二二)年)のこと。老中、下総古河藩第三代藩主。摂津尼崎藩主松平忠名四男で忠告の実弟。古河藩主土井利見の養嗣子となり、はじめ利和(としかず)と名乗った(底本や岩波の長谷川氏注はこの名で注する)。利見が相続後の一箇月足らずで没した後襲封、その後は四十五年の長きに亙って古河藩主を勤めた。この間、寺社奉行・京都所司代・老中などの重職を歴任している。本話柄当時、奏者番兼寺社奉行であった(奏者番の内四名は寺社奉行を兼任した。以上は主にウィキの「土井利厚」に拠った)。なお、官職の「大炊頭」は本来は大炊寮(宮中の厨房担当)長官のこと。従五位下相当)。
・「後より見れば女の形に似たり」こうした、デジタル化して誰でも簡単に造れるようになった昨今ではめっきり流行らなくなった心霊写真のような錯覚をシミュラクラ(Simulacra 類像現象)と呼ぶ。本来のシミュラクラとは、ヒトが三点が一定の間隔で逆三角形に集合しているように見える図形を見た際、それを動物やヒトの顔と判断するようにプログラミングされている脳の働きに対してつけられた語(学術用語ではない)である。ほぼ同義的な学術用語としては、一九五八年にドイツ人心理学者クラウス・コンラッドが定義した「無作為或いは無意味な情報の中から規則性や関連性を見出す知覚作用」を言うアポフェニア(apophenia)や、精神医学用語のパレイドリア(pareidolia:後に注する。)が相当する。なお、パレイドリア(pareidolia)とは平凡社の「世界大百科事典」の小見山実氏の記載によれば、空の雲が大入道の顔にみえたり、古壁の染みが動物に見えたりするように、対象が実際とは違って知覚されることを言う語であるが、意識が明瞭ないしは殆んど障害されていない状態で起き、批判力は保たれていて、それが本当は雲なり染みでしかないということは分かっている場合を言う、という趣旨で説明されてある。ところが引用元では更に――熱性疾患のときにしばしば体験されるが、ほかに譫妄(せんもう)・LSDなどの薬物酩酊時にも出現する――と記してある。これはどう読んでも叙述上の矛盾という他はない。これらは意識障害が生じている状態で見る飽く迄『譫妄』であり『幻視』であって、批判力は保たれておらず、実態への見当識など、全くない状態である。これをパレイドリアと呼ぶのはおかしい。熱戦譫妄や薬物幻覚の初期段階に於いてはパレイドリア様の認識作用が容易自動的に発生し、重篤な幻視症状へと移行する場合がある、と記述するのならば、まだ許せるという気がする。これらも総て「パレイドリア」と呼ぶ、というのであれば、定義部分の但し書き以下の内容を総て削除し、シンプルに『パレイドリアとは病的非病的を問わず、対象が実際とは違って知覚されること』とすべきであろう。
・「後ろ手に縛りてはなく」恐らく多くの人々は蛹の枝に支持される糸や体表面をそのように見たのであろうが(蛹化では普通、付属肢が総て折りたたまれて体に密着するから「縛」られているという見立ては不自然ではない)、根岸にはこの糸や枝側の体表面の形態はアポフェニア(パレイドリア)を起こさせず、「後ろ手に縛」られた女のようには(女には見えた点では根岸は虫体自身の形態にはアポフェニアを起こしている訳である)見えなかったということである。
■やぶちゃん現代語訳
菊虫再談の事
◎前に記載せる『お菊虫』についての実見及び観察を含む追記(文責・根岸鎭衞)
〇後半の伝承部への補足
・尼ヶ崎藩当代当主は松平遠江守忠告(ただつぐ)殿である事。
・忠告殿は御奏者番(おんそうじゃばん)として勤仕(ごんし)する土井(どい)大炊頭(おおいのかみ)利厚(としあつ)殿の実兄に当たられる事。
〇実見の経緯
・その兄松平忠告殿が国許より弟君利厚殿の土井家へ、見聞のためにとの思し召しによって、この『お菊虫』が送られて参った。
・それを利厚殿が珍奇物の公開として城中へとお持ち込みになられ、披露なされため、私も実見することが叶った。
〇実見観察による前記載の補正
・実見したところ、先に聞いて記載した形とは少し違っていた。
①本体の後方(虫体の背部と思われる部分)より観察すると、確かに『女の姿形』に似ている。
(*特に、その頭頂部分は、女が結った頭に櫛を挿したように確かに見えた。)
②但し、伝聞していたように『女が荒繩で後ろ手に縛られている』という様な印象には全く見えなかった。
③本体はコオロギの触角に似た糸状の物質によって小枝と連繋していた。
(*厳密に言うと、図のように体側上部は斜めに小枝からやや離れており、下部が枝の下部で支点となって傾斜した形である。体の中央よりやや上部の辺りで糸を本体に一巻して形で小枝にその両端が付着し、本体を支持している。)
〇概略図(以下に示す)
追記:この虫に就いての詳細資料も土井家より借りうけて実見した上、書写したものがあるが、それとは別に、ここにも記しおくこととした。
囀にゆきゆきて人神のごとし
ここのところ更新が少ないのは芥川龍之介の「我鬼窟日録」の注釈に殆んどかかりっきりだからである。
何だか400000アクセスの足音も近づいており)(只今397160)、その記念テクストにしたいとも思っている。
櫃中得金奇談の事
予が召仕ふ者、母は四ツ谷とやらん榎町(えのきちやう)とかやの與力に親族ありしが、彼者來りて彼老姥(ろうば)に語りし由。寬政七八の頃の事とや、同組の同心、隣町の同心の許より古き櫃(ひつ)を金壹步(ぶ)とやらんの價にて買ふ約束をなし、彼賣主は用事ありて他へ出し留守へ、同心來りて娘に價ひを渡して、翌日取に遣しける故、娘に申付て右櫃を取出し渡させけるに、使に行し者も同心のゆかりの者なれば、よく改めて渡し給へと念比に斷けれど、彼櫃は年古く藏の角(すみ)に打込(うちこみ)て、用にも不立(たたざる)故拂ひ候事なれば、中には何もなしとて、猶蓋を取り塵など拂ひて使に渡しけるに、買得し者右櫃を引取り、或ひは洗ひ又は拂ひ掃除抔し引出しをも引出しけるに、内に隱し引出あれば是を取出さんとせしが、いかゞしけるや出兼(いでかね)けるを、兎角して引出しけるに、古き紙に包し金廿五兩ありし故大に驚き、一旦價を以調たる櫃の内の金なれば我物也、打捨置(うちすておく)べきと思ひしが、さるにても我は櫃をこそ買ひたるに、思わずも此金有(ある)を沙汰なく取らん事天道の恐れありとて、則(すなはち)賣主へしかじかの事を語りて右金子を遣しければ、賣主も大にあきれて、右櫃は先祖より持傳へたるが、父祖なる者貯置(たくはへお)きしや、子孫にかたらざるゆへ是迄右の金ある事を知らざりし、さるにても他へ賣拂ひなば一錢も手に入間敷(いるまじき)に、正道なる御身へ賣りし故父祖の惠みを得しと悅びて、其禮謝を與へけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:愛人を離縁させるつもりで夫に飲ませようとした呪(まじな)いの薬を自分が飲んで仕舞い……から、古くてしょぼい櫃からごっそり大金が……というどんでん返しで何となく連関する感じがある。「縁切榎」と冒頭の「榎町」も、根岸の意識に中では、連関なしとも言えぬかもしれぬ。但し、岩波版の補注に「役者芸相撲」(享保四(一七一九)年刊)『大坂之巻に古仏壇を買い大金を得る話あり。類話多く、講談にもなる』とある通り、話柄としては如何にもなステロタイプで、私などは実はあまり面白いと思うておらぬ。
・「櫃中得金奇談の事」は「櫃中(ひつちう)に金(かね)を得る奇談の事」と読む。
・「櫃」被せ蓋がついた箱のこと。古くから収納容器として多用されている。底面外部に脚が付いていないものを倭櫃(わびつ)、四本または六本の脚のついたものを唐櫃(からびつ/からうと)と呼ぶ。宝物・衣服・文書・武具等を納め、運搬の便宜や内容物を湿気や鼠・食害虫から守るために用いられた。また、唐櫃は遺体を収容する棺にも用いられたことから墓石下の遺骨を納める空間(納骨棺)を、「からうと」から「カロート」と称するようになった(ウィキの「櫃」を参照した)。
・「榎町」現在の新宿区北東部に位置する町。
・「金壹歩」「歩」は「分」に同じ。江戸時代の平均的な金貨で換算すると、現在の一万六千五百円程度。
・「角(すみ)」は底本のルビ。
・「金廿五兩」江戸時代の平均的な金貨で換算すると、櫃の買値の実に百倍の百六十五万円に相当する。
■やぶちゃん現代語訳
櫃中より金子を得る奇談の事
私が召し使(つこ)うておる者――その者に、四谷だったか榎町だったかで、与力をしておる親族が御座って――その与力が、彼の老母に語ったという話の由。
……寛政七、八年の頃のこととか申す。
我らが同組の同心が、隣町の同心より古びた櫃(ひつ)を金一歩とやらの値で買い取る約束を成して御座った。
櫃を買った同心が売主の同心方へと代金を届けに参ったところ、売り主は所用あって外出して御座った故、留守の同心の娘に代金を渡し、明日、使いの者を受け取りに遣わす故、櫃を渡しおくよう命じておいた。
翌日、使いの者が参ったによって、売主の同心は娘に櫃をとり出ださせて渡したところ、たまたま、その使いの者も、この売り主の同心の知れる者で御座った故、
「ようく、中なんど、改めてお渡し下されよ。」
と念を押して口添え致いたが、売り主は、
「……何の。この櫃は、遙か昔から我らが屋敷の蔵の隅に、投げ込まれたままとなって御座った、我ら方にては何の役にも立たぬ代物にて御座ればこそ、売り払うことと致いたものにて御座る。中には、何(なあんに)も、御座らぬて。」
と言いつつ、如何にも気のない風にて、一応は蓋を取って中を検ため、被った塵埃なんどを払って、使いの者に渡して御座った。
かくして櫃を買った側の同心は、手元に着いたこの櫃を、或いは洗い、又は汚れを拭うなんど致し、中に作り込まれて御座った引き出しを引き抜くなど致いては、念入りに掃除して御座った。
ところが――ふと見ると――その引き出しの奥に――更なる隠し引き出しがあるのに、これ、気がついた。
それを更に取り出だそう致いたが、これが、どうしたものか、なかなか出て来ぬ。
四苦八苦して、漸っと引き出だいてみたところが――これ――中に――何やらん、古い紙に包んだものがある。
……それを開いてみれば、
――何と!
――金二十五両!
これ、転がり出でた!
同心は吃驚仰天、
『……我らが一旦、値(あたい)を以って買い入れた櫃の……その内なる金子なればこそ……これも――我らがもの――じゃ。……まんず、このまま黙っておれば、よい、て……』
と思うたものの、
『……いやいや! 我らは「櫃」をこそ買(こ)うたのではないか! それだのに、思い掛けずもこの大枚のあるを見出だいたのじゃ。その金子を黙って己れの物と致すは、これ、天道に背くというものじゃて!』
と思い返し、その日の内に自ら、売り主の同心宅を訪れ、しかじかの事情を語った上、持参した金二十五両の包みをそのままに返して御座った。
これを聴いた売り主も、大いに呆れた体(てい)にて、
「……いや……この櫃は先祖代々、持ち伝えて御座ったものじゃったが……この大枚の金子は、これ、かつての父祖なる者が、貯え置いた金子なのでも御座ろうか……子孫には一切語られて来ずなれば……全く以って、これまで、この大枚がそこにあったとは、これ、知らず御座った。……それにしても……他の誰彼(たれかれ)へこれを売り払っておったならば……一銭も、これ、我が手元には戻らなんだに違いない。……正直なる御身へ売ったればこそ……父祖伝来の恵みを、これ、得ること、出来申した!……」
と悦んで、その謝礼にと、かの二十五両から相当の金子を割いて渡いた、とのことで御座る。
びろうどの帽子の上の春の雁
板橋邊緣切榎の事
本鄕邊に名も聞しが一人の醫師あり。療治も流行(はやり)て相應に暮しけるが、殘忍なる生れ質(じち)にてありし由。妻貞實なる者成りしが、彼醫師下女を愛して偕老(かいらう)の契(ちぎり)あれどあながちに妬(ねたみ)もせざりしが、日にまして下女は驕(おご)り强く、醫師も彼下女を愛する儘に家業も愚かに成て、今は病家への音信も間遠(まどほ)なれば、日に增て家風も衰へければ妻は是を歎き、幼年より世話をなして置し弟子に右の譯かたりければ、かの弟子も正直成ものにて兼て此事を歎きければ共に心をくるしめ、彼下女の宿の者へ内々了簡もあるべしと申けれど、是もしかじかの取計(とりはからひ)もなく打過ける故彌々心をくるしめしが、彼弟子風與(ふと)町方へ出し時、板橋のあたりに緣切榎(えんきりえのき)といへるあり、是を與(あた)ふればいか程の中(なか)も忽(たちまち)呉越の思ひを生(しやうず)ると聞て、醫師の妻に語りければ、何卒その榎をとり來るべしと弟子に申付、彼弟子も忍びて板橋へ至り、兎角して右榎の皮をはなし持歸りて粉になし、彼醫師並下女に進(すすめ)んと相談して、翌朝飯の折から彼醫師の好み食する羹物(あつもの)の内へ入しを、板元(いたもと)立働きて久敷(ひさしく)仕へし男是を見て大に不審し、若(もし)や毒殺の手段ならんと或ひは疑ひ或は驚き如何(いかが)せんとおもひ、手水(てうず)の水を入るゝとて庭へ𢌞り、密(ひそか)に主人の醫師へ語りければ大きに驚きて、扨(さて)膳に居(すは)りて羹(あつもの)には手をもふれざりしを、兼て好所(すくところ)いかなればいとゐ給ふと女房頻りにすゝむれば、彌々いなみ食せざれば、女房の言へるは、かくすゝめ申(まうす)羹(あつ)ものを忌み給ふは毒にてもあるやと疑ひ給ふらん、左ありては我身も立がたしと猶すゝめけれど、醫師は言葉あらにふせぎける故妻も彌々腹立(はらたて)、しからば毒ありと思ひ給ふならん、さあらば我等給(たべ)なんと右羹物を食(を)しけりと也。緣切榎の不思議さは彼事より彌々事破れて、彼妻は不緣事(ふえんごと)しけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:植物妖魅譚連関。展開の面白さを狙った落語の話柄という感じであるが、だったら私なら最後に、下女の方は知らずに榎の樹皮粉の入った朝餉を食って、あっという間に「殘忍なる」医師に愛想が尽きて宿下がり、その後、「殘忍なる」夫と離縁した妻は医師の元を出奔した弟子の青年医師と結ばれて医業は繁盛、本郷の屋敷に「殘忍なる」医師は孤独をかこって御座った、というオチを附けたくなるが、如何? その可能性は文中の「彼醫師並下女に進んと相談して」という箇所に現れている。呪(まじな)いの効果を確実にするために彼らは、双方に反媚薬の樹皮の粉を飲ませようとしているからである。「板元」が「手水の水を入るゝとて庭へ廻り、密に主人の醫師へ」御注進に及ぶシーンと共時的に厨房(くりや)では妻が下女の腕にまんべんなく樹皮の粉を摺り附けている――とすれば、自然、容易に話は私の思った通りに展開すると思うのであるが、如何?
・「偕老の契」一般に言われる、生きてはともに老いて死んでは同じ墓に葬られるの意の「偕老同穴」の契り、夫婦が仲むつまじく、契りの固いこと、夫婦約束をすることを言う語であるが、これはもう不倫に用いる以上、将来の夫婦約束などという生ぬるいものではなく、ズバリ、肉体関係を結んだことを言っている。私のようなイヤラシイ思考の持主はわざと「同穴」を言わずに「穴」の契りを結んだな、なんどと読んでしまうのであるが、実はこれは下世話な戯言で、実は「偕老」と「同穴」は、それぞれ「詩経」の異なった詩を語源とするものではある。
また、ようく考えて見ると……縁切榎はどう使用すればどういう効果が出るのであろう? 「縁切り」が目的なら、使用者は「縁切り」したい、若しくは「縁切り」させたいと望む訳で、本人が飲んでも効果はない。すると、
①「縁切り」したいのに、相手が自分を愛していて、離縁を承諾しないから困っているシチュエーションでは相手に飲ませることで有効となる。
②本件のように、自分が当事者でなく、他社間の相思相愛関係を破壊することを目的とするなら、一方でもよいが、やはり完全を期するためには、両者に飲ませることが有効である。
ところが、ここに「縁」の多層性が問題化してくる。この場合の「縁」は封建社会に於いてのそれである以上、実は実際の恋愛感情ではなく、公的な婚姻関係による「縁」をこそ断ち切るという意味合いが強いと考えられる。さすれば、その実、「縁切榎」を使用する人間は、
③事実は夫婦間に双方向で愛情がなく、配偶者以外への恋愛感情の形成や、性格不一致・DV等によって一方が正しく合法的に離縁したいと望む場合、その相手に飲ませることで有効となる
という①と似て非なる使用例が多かったのではないか、と考えられる訳である。――すると実は本件の場合、全体のシチュエーションを考えてみると、夫の医師は妻を離縁する意志が実は殆んど認められないのである(恐らく世間体と実質的な二人妻の状態が彼にとっては個人的に都合がよいから)。さすれば、この場合、仮に夫にのみ飲ませた状態では③の条件が発動することとなり、夫はやはり形式上の「縁」を切るために、正妻を離縁することになろう。則ち、この話の妻の側の要求から考えた際には、実は最低、反媚薬の樹皮粉を小女に飲ませさえすれば、②の条件が当て嵌って、それで妻の希望は成就したはずなのである。……実は……この貞淑な妻も、医師の弟子も、残念ながら思慮が浅かった、と言わざるを得ないのでは、あるまいか。……
・「風與(ふと)」は底本のルビ。
・「緣切榎」中山道板橋宿旧上宿(現在の東京都板橋区本町)に現存する(但し、三代目の若木で場所も旧地からやや移動している)。底本の鈴木氏注には『この辺は旗本近藤登之助の下屋敷だった処で、二股になった大』榎であったが、『将軍の御台所になった宮様が、この傍を通って下向したが、二人までも間もなく若死にされたところから、縁切榎の異名が起』ったと記される。以下、ウィキの「板橋宿」の「縁切榎」より引用すると(アラビア数字を漢数字に代えた)、この榎は中山道の『目印として植えられていた樹齢数百年という榎』(バラ目アサ科エノキ
Celtis sinensis。江戸期には街道を示す目印として一里塚などに普通に植えられた)『の大木で、枝が街道を覆うように張っていたという。その下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁となると信じられた不吉の名所であったがしかし、自らは離縁することも許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきよすがであり、陰に陽に信仰を集めた。木肌に触れたり、樹皮を茶や酒に混ぜて飲んだりすると、願いが叶えられる信じられたのである』。徳川家に降嫁した『五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、および、和宮(かずのみや、親子内親王)の一行は、いずれもここを避けて通り、板橋本陣に入ったという。和宮の場合、文久元年(一八六一年)四月、幕府の公武合体政策の一環として将軍家茂に輿入れすることとなり、関東下向路として中山道を通過。盛大な行列の東下に賑わいを見せるのであるが、板橋本陣(飯田家)に入る際は不吉とされる縁切榎を嫌い、前もって普請されていた迂回路を使って通過したとのことである』。『現在の榎は三代目の若木で、場所も若干移動しているが、この木に祈って男女の縁切りを願う信仰は活きている』とある。更に底本注で鈴木氏は『果ては酒飲みを下戸にする利きめまであるといわれ、また願果しに絵馬をかけるようになった』と記されるが、この下戸の呪(まじな)いというのは、恐らく当初はこっそり縁切り祈願で参った妻が、夫にばれ、言い訳で言った弁解が瓢箪から駒、という感じがしないでもない。旧木・現木の画像や詳しい解説が、「日本史史料研究会」の西光三氏の手になる「縁切霊木譚―中山道板橋宿縁切榎について」で読める。是非、お読み戴きたい。
・「是を與(あた)ふればいか程の中(なか)も忽(たちまち)呉越の思ひを生(しやうず)」の部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
是を与ふればい膠漆(こうしつ)の中も忽ち胡越(コえつ)の思ひを生(しょう)ず
とある。「膠漆の中」はニカワとウルシで強力な接着効果を持つことから、非常親密な仲を言い、「胡越の思ひ」は中国古代国家である北方の胡と南方の越が互いに遠く離れて疎遠であったことに譬えた語。「膠漆」の方がいいが、後者は極めて仲が悪い意の「呉越」の方がよい。
・「羹物」「羹」「羹もの」「熱物(あつもの)」で、魚・鳥・野菜などを入れた熱い吸い物。
・「板元」は料理場(板場)または料理人(板前)のこと。
・「居(すは)りて」は底本のルビ。
・「いとゐ給ふ」はママ。「厭(いと)ふ」であるから、正しくは「いとひ給ふ」。
・「給(たべ)なん」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
板橋辺りにある縁切榎の事
本郷辺りに――名も聞いておるが、あえて記さぬ――一人の医師がおる。今もおる。
療治も上手く、繁盛致して相応に暮らして御座ったらしいが、根は残忍非道なる気質(たち)の者であったらしい。
妻なる者は、これ、まっこと、貞淑な女であった。
ところが、この医師、家内にあって下女を愛し、秘かに関係さえ持つようになっておった。
妻は、その事実を、実はよく知っておったのだが、決して妬(ねた)み嫉(そね)みを露わにすることは、これ御座らなんだ。
ところが、この下女、それをよいことに、日増しに驕り昂ぶり、医師は医師で、下女に溺るるあまり、家業も疎かとなって、もうその頃には、自身では病者の家(うち)へ往診することも、これ、とんとのうなってしもうたによって、日に日に家は傾いてゆくばかりで御座った。
流石に妻もこれをうち嘆き、ここにあった、幼年より何かと世話致いて成人させた弟子の青年を秘かに呼び、秘めて御座った夫の所行の一切をうち明けたところが、この青年も至って真っ正直なる者にて――実は兼ねてより彼自身、師の御乱行を見て見ぬ振りを致いて参ったのであったればこそ――恩ある女主人と、手に手をとって、かくなる有様にとみに心痛めることと、相い成って御座った。
とりあえず、彼の発案にて、下女の宿方の親族へ、内々、
「……何やらん、娘ごのことに付きて家内にてよからぬ噂のこれある由……若き身空なればこそ、分別、というものが大切に御座ろう。……」
と、弟子自らが注進に参ったのだが……これもまた、これといった効果の現わるることなく……ただただ、そのままに打ち過ぎて御座った。
そうこうしておる内、ある、かの弟子、町方の往診先にて、ふと、
「……板橋辺りに『縁切榎(えんきりえのき)』というものがあり、剥ぎ取ったその樹皮を相手に飲ませれば――これ、どれ程親密で離れ難く愛し合(お)うておる仲の者にても――忽ちのうちに激しく憎み、たち別れたき思いを生ずる……」
という話を聴きつけた。
帰って師の妻に話したところ、
「……どうか一つ、その榎を、採ってきてお呉れ!」
と青年に申し付けた。
彼はその夜のうちに、忍んで板橋へと馳せ至り、何とか、かの榎の皮を引き剥がすと、それを持ち帰ることに成功した。
その深夜――青年は、これを薬研で緻密な粉に加工する。……
翌未明――青年と女主人は、これを如何にして医師並びにかの下女にこっそり飲ませることが可能かについて相談する。……
翌朝――女主人は、朝餉の羮物(あつもの)に、かの粉を秘かに仕込む。……
……ところが……ここに、当家に永く仕えておった板場の男が、これを見て御座った。
『……奇妙な粉……奥方の怪しげなお振る舞い……これ、若しや……毒殺?!……そ、その仕儀にては、これ、あ、あるまいかッ?!……』
と疑って内心、吃驚仰天!
『……ど、どうしたら、よかろうかッ?!……』
と思い悩んだ末に、
「……そうじゃった、……御庭の手水鉢(ちょうずばち)に、水を入れておかねばならん、な。」
と平気を装って独りごちつつ、厨房(くりや)から庭へと回ると、秘かに縁側へと御主人(おんあるじ)にお声掛け申し上げた上、今朝見た一部始終を語った。
無論、夫も、
「な、な、何とッ!!……」
と吃驚仰天じゃ……
さても――朝餉の段と相いなる。
夫は膳に向って座ったが、羮物には手をつけようとせぬ。
妻は、
「……かねてよりお好きな羮物……今日は如何(いかが)してお嫌いにならるる?」
と訝しんで、頻りに椀を進める。
進められれば進めらるるほど――いよいよ夫は――否んで椀を取りも、せぬ。
されば、妻は思わず、
「……かくもお進め申し上げております御好物の羹物を、これ、忌み嫌いなさるるは……まさか……毒にても入れ込んでおるやに、お疑いになっておられまするかッ?! そうと致しますれば――これ、我らが身も立ち難く存じまするッ!――」
と言葉もきつく詰め寄って、またしても強いて、進める。
なれど――いっかな――返事も荒らかに――夫はまた、それを、拒む。
されば、遂に妻の怒りが爆発する。
「――然(しか)らば、毒入りとお思いかッ?!――然(しか)れば、我らが食うてみしょうッツ!――」
と言い放つや――
かの夫の羹物の椀をぐいッと摑み――
呷るが如く――
一息に飲み干してしもうた……とのことじゃった…………
……はい……
……縁切榎の摩訶不思議なる効験(こうげん)は……
……これ絶大で御座る……
……この一件によって……
……いよいよ二人の仲は致命的な破局を迎えまして……
……かの夫婦は、これ、離縁致いた、とのことで御座る……。
手賀沼のこだまとあそぶ雉子かな
[やぶちゃん注:この「雉子」は「きぎす」と読んでいよう。]
日の奥も見らるる雉子の聲聞けり
[やぶちゃん注:こちらは「きじ」と読んでおく。]
必要を感じて夕刻、テクスト化した。ネット上に存在しないようだ。但し、「バルタザアル」本文自体は僕はテクスト化していない。青空文庫版をご覧あれ。
*
「バルタザアル」の序
自分も多くの靑年がするやうに、始めて筆を執つたのは西洋小説の飜譯だつた。當時第三次新思潮の同人だつた自分は、その飜譯の原文をアナトオル・フランスの短篇に求めた。「バルタザアル」の一篇がそれである。
今、新小説記者の請に應じて、自分はこの譯文を再剞劂に附する事となつたが、それにつけても思ひ出すのは、まだ無名の靑年だつた新思潮同人の昔である。その頃はたとひ如何なる大作を書いたにした所で、天下の大雜誌が我々同人の原稿を買ふ事なぞは絶對になかつた。が、今ではこの片々たる舊稿さへ、二度も日の目を見る機會を得たのである。公平か、不公平か、自分は唯往時を追懷して、苦笑を洩すより外に仕方がない。
時代は遠慮なく推移するものである。だから恐らくは自分の小説の如きも、活字にさへ容易にならない時が遲かれ早かれ來るのに相違ない。が、自分はその時もやはり現在のやうに苦笑を洩して、一切を雲煙の如く見ようと思ふ。その外に自分は時代に對する禮儀を心得てゐないからである。
生温いとも、不徹底とも、或は又煮え切らないとも、評するものは勝手に評するが好い。自分は唯その前にも、同じ苦笑の一拶を與へようと思つてゐるものである。
*
「剞劂」は「きけつ」と読む。「剞」は曲がった刀、「劂」は曲がった鑿(のみ)の意で、本来は彫刻用の小さい刃物を言い、転じて版木を彫ること、上梓の謂いとなった。
……芥川龍之介よ――君の盟友の久米らの作品を普通の本屋で探すとなると――これはアクロバット並の困難さだ――でも――90年以上経っても――君の小説は磐石だ――いや――芥川龍之介という現存在は――今も僕らに『確かな』「ぼんやりした不安」を語りかけ、問い続けているではないか――僕もさしずめ――君の福音書の一人――と思っているのだ……
怪異の事
下總國關宿(せきやど)に大木の松杉ありしが、享保の頃とかや、一夜のうちに二本の木を梢へに結び合せ置しと也。俗にいふ天狗などいへる者のなしけるにや。今に殘りあると彼城主に勤し者の物語り也。
□やぶちゃん注
○前項連関:虫から松杉へ異類怪異譚で連関。所謂、白居易の「長恨歌」で知られる、連理の枝、連理木である。二本の樹木の枝若しくは一本の樹木の分かれた枝が再び癒着結合したものも言う。自然界においては少なからず見られる現象で、比翼の鳥のようにあり得ない現象ではない。特に一つの枝が他の枝と連なって癒着し、綺麗な木目が生じたものが祥瑞として縁結び・夫婦和合の信仰対象となってきた。同木及び近接した同種間ではしばしば起こり、単に支え合う形で繋がって見えるケースも含め、各地で霊木とされる。異なった品種間でも起こるが、このケースのようにマツ目マツ科マツ Pinus の類とマツ目とは言うもののヒノキ科スギ亜科スギ属である Cryptomeria japonica とが、しかも一夜のうちに連理化するというのはあり得ない。天狗ではない、ことを好む何者かが、人為的に柔らかな小枝を正に「結び合せ置」いた、それが枯れ腐らずに、両木ともに成長し、互いの枝の間の間隙が枯葉や砂埃によって充塡されて、連理状に見えて残ったものと考えられる。勿論、そうした現象が自然的に発生することもあり得ないとは言えない(しばしば伝わる石割松の方が、石から松が生えたようで現象的に見れば、昔の人にはもっと奇異であったろう)。ただの悪戯というより、それが客寄せとなれば、当時の経済効果は計り知れない。土地の人々が一様にグルとなって行った企略であった――などと考えると、想像される前後のシチュエーションも楽しめるではないか。なお、本話は呪(まじな)い系の記載を除くと、「耳嚢」の中でも極めてあっさりと書き成したところの、奇譚の最短話と言ってよいであろう。
・「下總國關宿」関宿町(せきやどまち)。千葉県の最北に位置し、旧東葛飾郡に属していた。町の北端は利根川と江戸川の分流点に近く(利根川水系の治水と水運を目的に江戸初期に行われた利根川東遷事業によるもの)、水運の要衝として栄えた。平成一五(二〇〇三)年に野田市に編入。
・「城主」関宿藩の城主は話柄の享保当時から幕末まで久世氏。根岸のニュース・ソースで旗本の勘定奉行・関東郡代の久世広民は名前から見て(久世家当主は歴代「広」の字を名に含む)、この久世家一族と考えてよく、本話の採録もそのルートである可能性が高いように思われる。
■やぶちゃん現代語訳
怪異の事