耳嚢 巻之五 櫃中得金奇談の事
櫃中得金奇談の事
予が召仕ふ者、母は四ツ谷とやらん榎町(えのきちやう)とかやの與力に親族ありしが、彼者來りて彼老姥(ろうば)に語りし由。寛政七八の頃の事とや、同組の同心、隣町の同心の許より古き櫃(ひつ)を金壹歩(ぶ)とやらんの價にて買ふ約束をなし、彼賣主は用事ありて他へ出し留守へ、同心來りて娘に價ひを渡して、翌日取に遣しける故、娘に申付て右櫃を取出し渡させけるに、使に行し者も同心のゆかりの者なれば、よく改めて渡し給へと念比に斷けれど、彼櫃は年古く藏の角(すみ)に打込(うちこみ)て、用にも不立(たたざる)故拂ひ候事なれば、中には何もなしとて、猶蓋を取り塵など拂ひて使に渡しけるに、買得し者右櫃を引取り、或ひは洗ひ又は拂ひ掃除抔し引出しをも引出しけるに、内に隱し引出あれば是を取出さんとせしが、いかゞしけるや出兼(いでかね)けるを、兎角して引出しけるに、古き紙に包し金廿五兩ありし故大に驚き、一旦價を以調たる櫃の内の金なれば我物也、打捨置(うちすておく)べきと思ひしが、さるにても我は櫃をこそ買ひたるに、思わずも此金有(ある)を沙汰なく取らん事天道の恐れありとて、則(すなはち)賣主へしかじかの事を語りて右金子を遣しければ、賣主も大にあきれて、右櫃は先祖より持傳へたるが、父祖なる者貯置(たくはへお)きしや、子孫にかたらざるゆへ是迄右の金ある事を知らざりし、さるにても他へ賣拂ひなば一錢も手に入間敷(いるまじき)に、正道なる御身へ賣りし故父祖の惠みを得しと悦びて、其禮謝を與へけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:愛人を離縁させるつもりで夫に飲ませようとした呪(まじな)いの薬を自分が飲んで仕舞い……から、古くてしょぼい櫃からごっそり大金が……というどんでん返しで何となく連関する感じがある。「縁切榎」と冒頭の「榎町」も、根岸の意識に中では、連関なしとも言えぬかもしれぬ。但し、岩波版の補注に「役者芸相撲」(享保四(一七一九)年刊)『大坂之巻に古仏壇を買い大金を得る話あり。類話多く、講談にもなる』とある通り、話柄としては如何にもなステロタイプで、私などは実はあまり面白いと思うておらぬ。
・「櫃中得金奇談の事」は「櫃中(ひつちう)に金(かね)を得る奇談の事」と読む。
・「櫃」被せ蓋がついた箱のこと。古くから収納容器として多用されている。底面外部に脚が付いていないものを倭櫃(わびつ)、四本または六本の脚のついたものを唐櫃(からびつ/からうと)と呼ぶ。宝物・衣服・文書・武具等を納め、運搬の便宜や内容物を湿気や鼠・食害虫から守るために用いられた。また、唐櫃は遺体を収容する棺にも用いられたことから墓石下の遺骨を納める空間(納骨棺)を、「からうと」から「カロート」と称するようになった(ウィキの「櫃」を参照した)。
・「榎町」現在の新宿区北東部に位置する町。
・「金壹歩」「歩」は「分」に同じ。江戸時代の平均的な金貨で換算すると、現在の一万六千五百円程度。
・「角(すみ)」は底本のルビ。
・「金廿五兩」江戸時代の平均的な金貨で換算すると、櫃の買値の実に百倍の百六十五万円に相当する。
■やぶちゃん現代語訳
櫃中より金子を得る奇談の事
私が召し使(つこ)うておる者――その者に、四谷だったか榎町だったかで、与力をしておる親族が御座って――その与力が、彼の老母に語ったという話の由。
……寛政七、八年の頃のこととか申す。
我らが同組の同心が、隣町の同心より古びた櫃(ひつ)を金一歩とやらの値で買い取る約束を成して御座った。
櫃を買った同心が売主の同心方へと代金を届けに参ったところ、売り主は所用あって外出して御座った故、留守の同心の娘に代金を渡し、明日、使いの者を受け取りに遣わす故、櫃を渡しおくよう命じておいた。
翌日、使いの者が参ったによって、売主の同心は娘に櫃をとり出ださせて渡したところ、たまたま、その使いの者も、この売り主の同心の知れる者で御座った故、
「ようく、中なんど、改めてお渡し下されよ。」
と念を押して口添え致いたが、売り主は、
「……何の。この櫃は、遙か昔から我らが屋敷の蔵の隅に、投げ込まれたままとなって御座った、我ら方にては何の役にも立たぬ代物にて御座ればこそ、売り払うことと致いたものにて御座る。中には、何(なあんに)も、御座らぬて。」
と言いつつ、如何にも気のない風にて、一応は蓋を取って中を検ため、被った塵埃なんどを払って、使いの者に渡して御座った。
かくして櫃を買った側の同心は、手元に着いたこの櫃を、或いは洗い、又は汚れを拭うなんど致し、中に作り込まれて御座った引き出しを引き抜くなど致いては、念入りに掃除して御座った。
ところが――ふと見ると――その引き出しの奥に――更なる隠し引き出しがあるのに、これ、気がついた。
それを更に取り出だそう致いたが、これが、どうしたものか、なかなか出て来ぬ。
四苦八苦して、漸っと引き出だいてみたところが――これ――中に――何やらん、古い紙に包んだものがある。
……それを開いてみれば、
――何と!
――金二十五両!
これ、転がり出でた!
同心は吃驚仰天、
『……我らが一旦、値(あたい)を以って買い入れた櫃の……その内なる金子なればこそ……これも――我らがもの――じゃ。……まんず、このまま黙っておれば、よい、て……』
と思うたものの、
『……いやいや! 我らは「櫃」をこそ買(こ)うたのではないか! それだのに、思い掛けずもこの大枚のあるを見出だいたのじゃ。その金子を黙って己れの物と致すは、これ、天道に背くというものじゃて!』
と思い返し、その日の内に自ら、売り主の同心宅を訪れ、しかじかの事情を語った上、持参した金二十五両の包みをそのままに返して御座った。
これを聴いた売り主も、大いに呆れた体(てい)にて、
「……いや……この櫃は先祖代々、持ち伝えて御座ったものじゃったが……この大枚の金子は、これ、かつての父祖なる者が、貯え置いた金子なのでも御座ろうか……子孫には一切語られて来ずなれば……全く以って、これまで、この大枚がそこにあったとは、これ、知らず御座った。……それにしても……他の誰彼(たれかれ)へこれを売り払っておったならば……一銭も、これ、我が手元には戻らなんだに違いない。……正直なる御身へ売ったればこそ……父祖伝来の恵みを、これ、得ること、出来申した!……」
と悦んで、その謝礼にと、かの二十五両から相当の金子を割いて渡いた、とのことで御座る。