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2012/09/01

耳嚢 巻之五 狐痛所を外科に賴み其恩を謝せし事

 狐痛所を外科に賴み其恩を謝せし事

 

 田安の御外科(ぐわいれう)に横尾道益といへる、親道益は長崎の産なりしが、何卒東武へ出て家業をも立んと兼て願ひしが、大願故其事遲々せしが、或る時壹人の男來りて療治を乞ひし故、其病を見しに肩に打庇ありければ、則藥を與へけるに日數過て癒ければ、厚く禮を述て金子二百疋持參せしを、道益斷りて、御身は旅の者にて難儀の由最初咄し給へば、我等施藥になしたればとて悔る事なし、旅用の費となし給へと返しければ、厚く禮を述て達て留め置給へといひしが、去にても御身はいづくの人なるやと尋ければ、彼男申けるは、今は何をかつゝみ侍らん、某は狐也、江戸市ケ谷茶の木稻荷の邊より、遙々此所へ使に來る者なるが、途中にて石瓦を打付(うちつく)る者有て思わぬ怪我をなしたり、御影にて快氣いたし明日は歸り侍る也、御身は江戸表へ出府の心願あれど今迄事調はざりしが、來年來り給ふ長崎奉行の因縁にて江戸へ出給ふべし、江戸へ出給はゞ市ケ谷の何屋の裏に何某といへる者、是はたのもしき者なれば、是へ便りて安危を極め給へといひて立去りぬ。不思議の事に思ひ居たりしに、翌年在勤の奉行、腫物の愁ひありて道益が療治を受(うけ)快氣を得、江戸出を進めて翌年交替の節同伴なしける故、彼道益は馬喰町邊に落つき店など借りけるに、早速より療治も相應にありて暮しけるが、或夜の夢に彼男來りて、此所は萬全の地にあらず、一兩日の内市ケ谷へ引移り給へといひし故、實(げに)も長崎にて彼男の言ひし事ありと、早速市ケ谷に至り彼裏店の何某尋ければ、亭主大きに驚、此程茶の木稻荷御身の事を度々の夢想也、御世話申べしとて右最寄所々承りて、龍慶橋邊へ地面を借りて道益を差置しに、程なく暫く住し馬喰町邊は火災ありて燒失しぬ。彌々彼稻荷を信じけるに、無程(ほどなく)田安へ被召出(めしいだされ)、今は心安く醫業なして有りしが、彼妻まのあたり狐と物言かわせし事を、予が知る望月氏に語りしと咄ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。定番で類話の多いポジティヴな狐狸返礼の妖異譚。

・「田安」第八代将軍吉宗次男宗武を家祖とする、将軍後嗣を出す資格を有した御三卿(ごさんきょう)の一つ。田安邸は江戸城田安門内(現在の北の丸公園及び日本武道館付近)にあり、同地が田安明神(現在の築土(つくど)神社)の旧地であったことに由来する。共時的記述(執筆推定の下限寛政九(一七九七)年)であるから、当時の当主は一橋徳川家二代当主徳川治済五男、第三代徳川斉匡(なりまさ 安永八(一七七九)年~嘉永元(一八四八)年)。天明七(一七八七)年に田安徳川家の屋敷と領地を相続している。田安邸は彼の相続まで長く当主空席で空屋敷となっていた。

・「横尾道益」不詳。田安家侍医クラスならば名が残って当然であるが、実在の現役医師ならば仮名とし、周辺の固有名詞も誤魔化すであろう。そこをフル・ネームで出し、しかも御三卿田安家侍医と明かし、その妻の一人称的論拠まで最後に附す辺り逆に老望月氏の悪戯っぽい作り話ででもあったのかも知れない。また、ここで田安家が実名で出るのも、もしかすると、故なしとしないかも知れない。実は、永く条件を満たさなかった故に空席であった田安家に、突如、徳川斉匡の相続がなされたことには、御三家である徳川(尾張)宗睦(むねちか/むねよし)や徳川(水戸)治保の強い反発(御三卿一橋徳川家庶子の斉匡の田安家相続は御三卿を創始した吉宗の意向であった将軍庶子による相続という条件に背いていた)があった。老中松平定信は養母宝蓮院(吉宗次男で御三卿田安家初代当主徳川宗武の正室)の遺志であるなどとして説得したとされるが、こうした批判的な事実を踏まえた上での、実名配置であった可能性もないとは言えまい。とすれば、横尾道益なる医師は存在しなかった可能性が高く、寧ろ、この話は、偏えに江戸で人気の茶の木稲荷の宣伝効果を持つ話として、俄然、稲荷神社とそれを管理した八幡宮の一種の商業戦略として見直すべきであろう。

・「道益斷りて」ここで彼が「二百疋」(二千文で現在の二万円相当)の施療代を固辞した理由が本文では今一つ、明白でない。現代語訳では、そこを論理的に納得出来るよう翻案してあるので注意されたい。

・「茶の木稻荷」新宿区市谷八幡町にある太田道灌公御勧請になる江戸城西の鎮護とされる市谷亀岡八幡宮境内、石段左方中段に鎮座する茶木稲荷神社。同八幡宮公式HPの記載によれば、弘法大師の創建になり、ここ稲荷山の地主神である保食神(うけもちのかみ)=稲荷大神を祀ったもので、『御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰があります。古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居ましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗がありました。特に眼病の人は一七日、或は三七日二十一日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したということです』とある。また、『旧幕時代には、大名旗本並に遠近の士民の崇敬が篤く、御本殿・拝殿をはじめ、鳥居・石水舍・石段・玉垣・燈籠・こまいぬ等、境内の諸設備に至るまで次第に完備。境内に現存する数百年前からの金石の奉納物に刻まれた文字を見ても、武芸者・文人墨客より諸商諸工に至るまで、あらゆる方面にわたり、その地域は江戸の市内は勿論、遠方の人々も含んでおり、今にいたるご利益に対する評判の大きさが感じられます』ともある。

・「長崎奉行」先の考証から、天明七(一七八七)年着任の末吉利隆から永井直廉・平賀貞愛・高尾信福、寛政九(一七九七)年離任の中川忠英の何れかである。当時の長崎奉行は基本二人制で一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替した。

・「實(げに)」は底本のルビ。

・「龍慶橋」諸注より何より、雑司が谷散人氏の「歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記」の「系統番号15番 その10」を引くに若くはない。『首都高速の飯田橋入口脇を過ぎると、目白通りから後楽園方面への通りが分岐する新隆慶橋があり、そのすぐ先に隆慶橋が続きます。新隆慶橋は、数年前に架けられたばかりの新しい橋ですが、隆慶橋の方は神田川の中でも比較的古い橋といわれ、創架年代は定かではありませんが、古くは立慶橋、龍慶橋などの表記も使われました。流蛍橋と書かれた文献もあるといわれます。かつて大奥側近の右筆大橋隆慶の居宅が近かったことに因む橋名で、そもそもはこの人物の名が立慶、龍慶など様々に表記されたと伝えられます。歌舞伎や講談で隆慶橋といえば、旗本水野十郎左衛門に殺害された幡随院長兵衛の死体が流れ着いた場所としても知られます。隆慶橋の対岸側は、ここ数年の再開発ですっかり街の様相が変わり、それまで見られた小さな民家や商店の密集した都電時代からの景観は、一掃されました』とある。文句なしの完璧な「龍慶橋」解説である。

・「望月氏」根岸のニュース・ソースの一人で、特に詩歌に一家言持った人物である。「卷之四」の「聖孫其のしるしある事」「螺鈿の事」「老人へ教訓の哥の事」に登場する老儒学者と同一人物と考えてよい。この後の「卷之五」の「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも、和歌の薀蓄を述べている(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が打撲傷の療治を外科医に頼みその恩に深く報いた事

 

 田安斉匡(なりまさ)殿の御屋敷の、外科侍医に、横尾道益という御仁がおられる。

 同名の父道益は長崎生まれであったが――息子であった彼は、何としても天下の江戸へ出でて、外科医として華々しく開業したいもの、とかねてより願って御座ったが、資金・力量ともに大願なること故、なかなか実行に移す機会も訪れず、時はただ無為に打ち過ぎてゆくばかりで御座った。

 ある時、一人の男が来診して、彼に療治を乞うた。

 診察してみると、肩に激しい打撲傷が認められ、男も非常に痛がって御座った故、とりあえず術薬を施したところ、数日のうちに無事全快致いたによって、男は厚く礼を述べ、金子二百疋を持参した。が、道益はこれを固辞し、

「――御身は旅のお人にて、甚だ難儀なされし由、最初にお話しになられた。――故に我ら、それを聴いて――医師としての生業(なりわい)として、ではなく――全くの好意によって――報酬のことなど一切考えずに、で御座る――この必ずしも至当とは思われぬ施術処方を致いて御座った。――それが思いの外、美事に快癒なされたは――これ、貴殿御自身の持っておられる、類まれなる壮健によるものと申してよろしい。――我らが施術の仕儀の故にては、これ、御座らぬ。――されば、我らが施術施薬の出費は、快癒とは必ずしも関わるものにては、これ御座らる。――さればこそ、療治の代(しろ)を頂かざることは、これ、何の悔いも――御座いませぬ。――それは、まず、旅の大事なる費用として、とって置かるるが、よろしゅう御座る。」

と答えたが、男はいっかな肯んぜず、重ねて礼を述べては、

「――いえ、たって、この金子はお受け取り下されよ――」

と引かない。

 そこで、道益は、この男、施術の初めより、ただ者とも思えずあったれば、

「……それにしても……御身は何処(いずこ)の――人(ひと)――にて御座るか?……あの打身も、見たことも御座らぬ、ひどいものにて……ただの打身とは、これ、思えぬもので御座ったのだが……」

とそれとなく話を向けると、かの男は、

「……先生は命の恩人なればこそ、最早、隠すべくも御座らぬ。……某(それがし)実は――狐――にて御座る。……江戸市ヶ谷の茶の木稲荷の辺より、はるばるこの長崎まで、さる稲荷神の御使(みつか)いとして長崎へと参った者にて御座るが……途次、獣の姿なる我らに、無体に石瓦を打ち付ける者が御座いまして……いや、不覚にも思わぬ大怪我を致しまして御座いまする。……しかし、先生の御蔭を以て、こうして傷も癒え、快気致しました故、明日には江戸へ戻らんと存じまする。……

……時に先生……先生は江戸表へ出府なさるという心願、これ、お持ちで御座いますな……しかし乍らそれは、今まで遂に叶わずにおられた――いえ、我ら狐なれば、人の御心内を察することは、これ、容易なことにて、これ、御座る。……

……なれど――来年、こちらに来らるる新しき長崎奉行の御方との御縁に拠って――江戸へ出ずること、これ、叶いましょうぞ。……

……而して――江戸へお出での折りには――必ず、市ヶ谷の■屋の裏店(うらだな)の●▲という男――これは、まっこと頼もしき男なれば――この者を頼みとして、先生の――『安全と危機』を――これ、究めらるるが、よろしゅう御座いまする。……」

と徹頭徹尾、謎めいたことを独りごちて去って行った。

 道益は、

「……我らが江戸出府の心願を言い当てたことといい、……奇体なる予言の数々……最後の意味ありげなる言葉……いや、まっこと、不思議なることじゃ……。」

と思った。

 ところが――翌年のこと、着任早々の長崎奉行が腫物を病み、諸医の療治を受くるも、これ、一向思わしからず、たまたま道益の療治を受けたところが――あっと言う間に全快致いた。

 すると気をよくした奉行は――道益に江戸へ出ずることを勧める。――翌年の奉行交代の折りに――目出度く、かの奉行に伴って、念願であった江戸出府を果たすことが出来た。

 江戸に着いた道益は、まず、馬喰町辺りに落ち着いて、施療所を兼ねたお店(たな)などを借りて早速に開業致いたところ、患者も相応にあって何とか開業医としての生業(なりわい)も立たんと覚えた。

――と――

――そんなある夜の夢に、かの男が来たって、

「――ここは『万全』の地にては、これ、御座らぬ。――一両日の内、市ヶ谷へ引き移られよ!――」

と告げたところで目が覚めた。

 そうして、考えた。

 すると、かの長崎での男の最後の言葉が蘇って来る。

『……江戸へお出での折りには――必ず、市ヶ谷の■屋の裏店の●▲という男――これは、まっこと頼もしき男なれば――この者を頼みとして、先生の――『安全と危機』を――これ、究めらるるが、よろしゅう御座いまする……』

「……そうじゃ!……長崎にて、かの男の言ったことを、忘れておった!……『市ヶ谷の男』……私の『安全と危機』を見究める……!……」

と、その日、早速に市ヶ谷へと赴き、件の裏店の●▲を訪ねたところが、初対面ながらも、思い切って奇体なる一部始終を語ったところが――当の亭主は、目ん玉をひん剥いて驚き、

「……いや! 実は、ここんとこ、シっきりなしに、儂(あっし)の夢に、信心しておりやす茶の木稲荷の、そのお狐さまが出て来やして! へえ、あんさんの名(なあ)の、『道益』てえ名(なあ)を、これまた何度も何度も、繰り返(けえ)してお告げになるんでござんすよ!……いや! これで、合点が参りやしたぜ! ここは一つ! 儂(あっし)にお世話させておくんなせえ!」

と――その日の内に、この亭主が近隣を駆け回り、竜慶橋辺りに土地を借りると、即日、道益をそこへ引っ越させたのであった。

 ところが……移り住んで幾日も立たぬ内に……暫く住んで御座った先の馬喰町周辺は……火事が御座って丸焼け……すっかり焼け野原となって御座った。……

 道益は、いよいよ、かの茶の木稲荷への信心を厚く致いて御座ったところが、今度は、又してもほどなく――天下の御三卿田安斉匡殿の御目に留まって召し出され――

――さても今は、安泰にして、江戸にても、よう知られた名医となって御座るよ。……

 

 以上は、道益の妻なる者が、

「――夫道益は、まっこと、目の当たりに、その『狐』と、ものを言い交わしたので御座います。――」

と、私の知人である望月氏に直接語ったと、これはその望月氏の直談で御座る。

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