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2012/09/12

耳嚢 巻之五 死に增る恥可憐事

 死に增る恥可憐事

 

 寛政八年の秋、墮落女犯(によぼん)の僧を大勢被召捕(めしとらへられ)、或は遠流又は日本橋にて三日晒(さらし)の上にて本寺觸頭(ほんじふれがしら)へ引渡しに成りしが、右の内に元安針町(あんぢんちやう)の名主にて、遊興に長じて名主役勤難(つとめがた)く、養子と哉(や)らんへ跡をとらせ、其身は向ふ嶋とやらんに蟄居して暮しけるが、彌々遊所へ入り込み金錢を失ひ、知音(ちいん)親族も合力(かふりよく)だにせねば、世のはかなきを見限りて、旦那寺に至りて止(とどま)るを不用(もちゐず)、強て受戒を乞ひて得度剃髮をなし、芝邊の寺に納所(なつしよ)などし、或は雲水行脚等も致しけるが、夏の暑さ凌難(しのぎがた)く、水邊の茶屋に至りて一杯の酒に鬱(うつ)をはらしけるが、風與(ふと)遊所近き故賑しきに踏迷ひ、初めは酒呑んと妓女樓へ登り、半ばには酒の相手のみとて妓女を呼びたるが、終りには遂に雲雨(うんう)の交りをなし、去るにてもかくいぎたなき所業、佛租師匠へ對してもあるまじき事と思ひ切りしが、又煩惱心起りて一度墮落なすも二度も同じと、或日又彼妓女樓に至りしに捕られける。彼僧の吟味の折から申立候由。日本橋晒の場所は安針町と隣れる所なれば、古への同名主又は知音近付(ちかづき)も多からんに、右の者に見られんは死罪に成(なる)よりは遙に苦しからんと人の語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。以下の注で明らかなように、本件は相当に有名な大量破戒僧検挙事件であることが分かる。……煩悩即菩提……とは参らぬものじゃて、いつの世も……

・「死に增る恥可憐事」は「死に增(まさ)る恥(はぢ)憐れむべき事」と読む。

・「墮落女犯の僧」ウィキの「女犯」より、まず概要を引用する(引用ではアラビア数字を漢数字に代えた)。『仏教の修行は煩悩や執着を断つためのもの』であることから、古来『戒律では僧侶に対して女性との性的関係を一切認めていなかった。この為、寺法のみならず国法によっても僧侶の女犯は犯罪とされ、厳重に処罰されることになっていた』(これを不邪淫戒と言う)。但し、これは時代によって差があり、『破戒僧は奈良時代や江戸時代には比較的厳しく取り締まられたのに対し、鎌倉時代や室町時代には公然と法体で俗人と変わらない生活を送る者も少なくなかった』という注が附されている。なお、『一方で戒律には男色を直接規制する条項が無かったため、寺で雑用や僧侶の世話をする寺小姓や稚児を対象とする性行為が行われる場合もあった』。その後、『日本では、一八七二年(明治五年)に太政官布告一三三号が発布された。僧侶の肉食妻帯が個人の自由であるとするこの布告は、文明開化の一環として一般社会および仏教界によって積極的に受容された。現在では僧侶の妻帯は当然のこととみなされ、住職たる僧侶が実の子息に自らの地位を継がせることを檀家から期待されることも多い』、とある。以下、正に本件を含む大量破戒僧捕縛事件のケースを掲げた「女犯に対する刑」を引用する。『女犯が発覚した僧は寺持ちの僧は遠島、その他の僧は晒された上で所属する寺に預けられた。その多くが寺法にしたがって、破門・追放になった模様である。 例えば、江戸市中であれば、ふつう日本橋に三日間にわたって晒されることになっていた。寛政八年八月十六日には六十七人(六十九人とも)の女犯僧が、天保十二年三月には四十八人の女犯僧が晒し場に並ばされたという。また文政七年八月には、新宿へ女郎を買いに行ったことが発覚した僧侶六人が、日本橋に晒されたと記録されている。さらに、他人の妻妾と姦通した女犯僧は、身分の上下にかかわらず、死罪のうえ獄門の刑に処された』。なお、ここには記されていないが、浄土真宗の僧は教祖親鸞が肉食妻帯を許し、自らも妻帯したことから、正に恋愛妻帯から過ぎた「墮落女犯」と看做されない限りに於いてはこの処罰対象から外れていたということは余り知られているようには思われないので、ここに記しておく。また、間歇的に僧の多量検挙が行われたという事実を見ても、当時の潜在的な女犯僧は逆に猖獗を極めていたと考えた方がよいであろう。ただ、この「堕落女犯の僧」の中には、幕府が執拗に弾圧し続けた、国家を認めない日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派の僧などの非合法・反社会的『淫祠邪教』(と幕閣が判断する宗教集団)・反幕的宗教集団などの宗教的被弾圧者も含まれるので注意されたい。なお、本件を含む事例については永井義男氏の「江戸の醜聞愚行 第三十九話 無軌道な僧侶」も一読をお薦めする。

・「日本橋にて三日晒」罪人の晒し場は日本橋南詰東側にあった。著名な歌川広重作「東海道五十三次」の冒頭「日本橋朝之景」で、右手板塀の蔭になって、橋のこちら側の袂に犬二匹おり、尻だけを見せているが、この隠れた犬の覗いている河岸に晒し場があったのである。

・「本寺觸頭」単に「触頭」とも。幕府や藩の寺社奉行支配で各宗派ごとに任命された特定の寺院を指す。寺社奉行と本山及びその他末寺などの関連寺院との間の上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。室町幕府に僧録が設置され、諸国においても大名が類似の組織をおいて支配下の寺院の統制を行ったのが由来とされる。寛永十三(一六三五)年の寺社奉行設置に伴い、各宗派が江戸若しくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹(かんさんさつ:関東の曹洞宗宗政を司った大中寺(下野)・總寧寺(下総)龍穏寺(武蔵)の三箇院。)が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った(以上は主にウィキの「触頭」に拠った)。

・「安針町」現在の中央区日本橋室町一丁目内。町名は慶長五(一六〇〇)年に豊後国佐志生(さしう:現在の大分県杵市大字佐志生)に漂着した、オランダ東印度会社所属のリーフデ号のイギリス人航海士ウイリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)年)の日本名である三浦按針(みうらあんじん)に由来する。後に幕府の通商顧問として日英貿易に貢献した彼は、この日本橋近くに邸宅を構えていた。なお、彼の立場は秀忠の代に至って本格的な鎖国政策で不遇となり、名目上の天文官として平戸に軟禁、失意のうちに五十六歳で没している。

・「納所」納所坊主。寺院の会計や庶務を取り扱う下級僧。

・「雲水行脚」という言辞を用いていることから、彼は禅宗の僧であったと考えられる。「雲水」は現在、禅宗の修行僧の意であるが、元来は「行雲流水」の略で、禅僧が雲や水のように一所に留まることなく、各所を経巡って修行をすることを言う。「行脚」も禅僧が修行のための諸国修行の旅をすることを指す。

・「雲雨の交り」「雲雨の情」とも。男女の交情、特に肉体関係を言う。宋玉「高唐賦」の楚の懐王が高唐に遊んだとき、朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山(ふざん)の神女を夢みて、これと契ったという故事に由る。

・「彼僧の吟味の折から申立候由」当時、根岸は公事方勘定奉行であったが、破戒僧の管轄は寺社奉行であったから伝聞となっている。

・「日本橋晒の場所は安針町と隣れる所」「安針町」は日本橋北詰近くで、「日本橋晒の場」のからは橋を隔てて直近二百メートル圏内にある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 死に勝る恥の憐れむべき事

 

 寛政八年の秋、堕落女犯(にょぼん)の僧を大勢召し捕え、或いは遠流、或いは日本橋にて三日の間晒された上、本寺触頭(ふれがしら)へ引き渡されて各個処分と相い成った。

 

 その晒しとなった内の一人に、元は安針町(あんじんちょう)の名主で――しかし、遊興が昂じて名主役を満足に勤められずなって役を退き……家も養子迎えなんど致いて跡をとらせた上……己れは向島辺りに蟄居して暮らしておったが……その後は、これ、いよいよ遊所に入れ込み……果ては当家の家産をも食い潰し……昔馴染みや親族も、最早、一切の援助を致さずなったによって――世の儚さを見限って旦那寺へと参ると、親しい住持の止めるのも聞かず、強引に受戒を乞いて得度剃髪をなし、芝辺りの寺にて納所(なっしょ)なんどを致いて、時には行雲流水諸国行脚の修行なんどにも出でて御座ったという。……

 ところが、この夏のこと、あまりの暑さの凌ぎ難く、行脚の途次、とある水辺の茶屋に憩うた。

……そこで……つい……一杯の酒に手を出して憂さを晴らいてしもうた。……

……と……

……その茶屋近くに……遊所が御座って……その賑やかな三味やら小唄やら女たちの笑い声やらが聴こえて来る。……

……と……

……そこで――思わず仏道の道を、これ、踏み迷うてしもうた。……

……初めは、

「――酒を呑むだけじゃ……」

と胆に銘じ――妓楼へ登った。……

……が……

……半ばには、

「――酒の相手ををさすだけじゃ……」

と胆に銘じ――妓女を呼んだ。……

……が……

……果ては――遂に雲雨の交わり――これ、成すに至って……しもうた。……

「……あはぁッ! 何たる、寝穢(いぎたな)き所業!……仏祖師匠に会わせる顔とて、これ、ないッ!……」

と殊勝に心内(こころうち)に懺悔致いた。……

……致いたが……それも一時――

……直きに、またぞろ、煩悩心が鬱勃として湧き起って、

「――一度、堕落すも、二度も……これ、同じことじゃ……」

と……とある日、またしても妓楼へ登った。……

……ところが、そこで運悪く、召し捕えらるるに至った、とのことで御座った。

 以上はこの僧の吟味の折り、自身の申し立てに拠った事実なる由。

 

「……さても……日本橋の晒しの場所は、橋を挟んで安針町のすぐ隣りに御座れば……昔の同輩で御座った名主、又は昔馴染みやら近付きの者やらも多う御座ろうに……かの者どもに、晒された我が身を見らるるは、これ――死罪になるよりは――遙かに苦しくも辛いことにて、御座いましょうほどに……」

と、ある人が語って御座った。

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