耳嚢 巻之五 和歌によつて蹴鞠の本意を得し事
和歌によつて蹴鞠の本意を得し事
京地の町人にて、名も聞しが忘れたり。飛鳥井家の門弟にて蹴鞠の妙足(めうそく)也し故、惣紫(そうむらさき)を免許あるべけれど、町人の事故裾紫を發し給ひけるを、彼者欺きて、
紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ着る
かく詠じければ、別儀を以、惣紫をゆるされけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「探幽畫巧の事」と技芸譚で連関。
・「蹴鞠」私の守備範囲にないので(私は皆さんが熱中するサッカーも一切興味がない)、大々的にウィキの「蹴鞠」を大々的に引用して勉強する。『平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技』。中国起源で紀元前三〇〇年以上前の戦国時代の斉(せい)で行われた軍事訓練の一種に遡るとされる。漢代になって、十二人のチームが対抗して鞠を争奪し、「球門」と呼ばれるゴールに入れた数を競う遊戯として確立、『宮廷内で大規模な競技が行われた。唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。またモンゴル帝国の遠征にともなって東欧や東南アジアにも伝来したと言われている。東南アジアでは現在でも蹴鞠が起源といわれているセパタクロー(蹴る鞠という意味)が盛んである』。『蹴鞠競技はその後、中国本土では次第に廃れていき、宋代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。やがて貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠をおぼえて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、明初期には蹴鞠の禁止令が出され、さらに清における禁止令で中国からはほぼ完全に姿を消した』。以下、本邦での歴史(アラビア数字を漢数字に代えた)。『蹴鞠は六〇〇年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来したとされる。中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり(『日本書紀』)、これがきっかけで六四五年に大化の改新が興ったことは広く知られている。ただし、「鞠を打つ」=蹴鞠と解釈されたのは、『今昔物語集』・『蹴鞠口伝集』などの後世の著作であり、「鞠を打つ」=打鞠(打毬)すなわち今日のポロのような競技であった可能性も否定出来ない。『本朝月令』や『古今著聞集』には、大化の改新の五十六年後にあたる文武天皇の大宝元年五月五日(七〇一年六月十五日)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記しており、この頃に蹴鞠が伝来したという説も存在する』。『蹴鞠は日本で独自の発達を遂げ、数多の蹴鞠の達人を輩出し』た(そうした名足の中でも有名なのが、平安後期の希代の名人と称され、後世の蹴鞠書で「蹴聖」と呼ばれる公卿藤原成通(しげみち 承徳元(一〇九七)年~応保二(一一六二)年)で、伝承によれば『成通が蹴鞠の上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てた。その誓いを成就した日の夜のこと、彼の夢に三匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れ、その名前(夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ))が鞠を蹴る際の掛声になったと言われている。この三匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津の平野神社と京都市の白峯神宮内に祭られている。また、その名前から猿田彦を守護神とする伝承もあった事が『節用集』に書かれている』)。『平安時代には蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになり、延喜年間以後急激にその記録が増加することになる。貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。辛口の評論で知られる清少納言でさえ、著書『枕草子』のなかで「蹴鞠は上品ではないが面白い」と謳っているほどであった』。『蹴鞠は貴族だけに止まらず、天皇、公家、将軍、武士、神官はては一般民衆に至るまで老若男女の差別無く親しまれた。特に後白河院に仕えた藤原頼輔の名声は高く、子孫がこれを良く伝えたために難波・飛鳥井両家は蹴鞠の家として知られるようになった。蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることは無かった』。『室町時代には、足利義満や義政が蹴鞠を盛んに行ったこともあり、武家のたしなみとして蹴鞠が行われていた。土佐の戦国大名・長宗我部元親が天正二年(一五七四年)に定めた「天正式目」では、武士がたしなむべき技芸として、和歌や茶の湯、舞や笛などとともに蹴鞠が挙げられている』。『しかし室町時代の末期に織田信長が相撲を奨励したことで、蹴鞠の人気は次第に収束していったといわれる。しかし蹴鞠の文化が消失した中国とは異なり、現代でも伝統行事として各地で蹴鞠が行われている』。以下、「ルール」。『蹴鞠は、懸(かかり)または鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木。)で囲まれた三間程の広場の中で実施される。一チーム四人、六人または八人で構成され、その中で径七~八寸の鞠をいくたび「くつ」をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦があった』。競技する『場所には砂を敷き、四隅、艮にサクラ、巽にヤナギ、坤にカエデ、乾にマツを植える。周囲の鞠垣は本式では七間半四方、広狭で三間四方までにする。東に堂上(どうじょう)の入り口、南に地下(じげ)の入り口、西に掃除口がある。懸の樹木はウメ、ツバキなど季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣との間を野という。禁裏、仙洞、皇族、将軍家ならびに家元はマツばかり四本、また臨時には枝またはタケを用い、切立(きりたち)という』。『開始には、まず下﨟の者が第四の樹の下からななめに進み、中央から三歩ほどの所で跪き、爪先で進み、鞠を中央に置く』。『一座の中に師範家がいると第一の上座、すなわち一の座、または軒というのを、その人に譲り、第二、第三と身分に従って懸にはいり、樹の下に立つ。ただし高貴な人がいると軒を譲り、師範家は第二となる。禁裏、仙洞などで御前ならばみなが蹲踞し、他の家ならば堂上は立ち、地下は蹲踞する。人数がそろったら第一から立ち、立ちおわると、第八の者が進み、中央に置かれた鞠から三歩ほど手前で蹲い、蹲いながら進み、右手拇指と人差指とで執皮を摘み、鞠を右に向け、左手を添え、腰皮を横に、ふくろを上下にし、蹲ったまま三歩退いて立つ。第七の者が進み出て、中央から三歩ほどの所に立って第八に向かうと、第八から第七に鞠を蹴渡す。第七から第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八と一巡、蹴渡しおわると、第八からまた第一すなわち軒に渡す。軒は受けて上鞠(あげまり)といって高く蹴る。それから随意に蹴る。一人三足が普通で、一は受け鞠、二は自分の鞠、三は渡す鞠である。八人立ちのときは、八境といって中央から八個に区分し、一区を一人の区域とし、その域外に蹴出すとその区域の者が受けて蹴る』。使用された『鞠は革製で、中空である。シカの滑革(ぬめかわ)二枚をつなぎあわせ、そのかさなる部分を、腰革、また「くくり」という。また取革といって、べつに紫革の細いのをさしとおす』。『種類は、白鞠、生地鞠、燻鞠、唐鞠がある。白鞠は鞠を白粉で塗ったもの。生地鞠は生地のままのもので、白鞠に対する。燻鞠は燻革で製したもの。唐鞠は五色の革を縫いあわせて製し、中国から伝来したときの鞠のかたちであるという』。『『今川大草紙』によれば、「鞠皮は、春二毛の大女鹿の中にも、皮の色白で、爪にて押せば、しわのよる皮を上品とする也」』とある、とする。『なお、日本語でサッカーのことを「蹴球(しゅうきゅう)」と呼ぶのは、明治時代にヨーロッパから来た外国人が居留地でその競技に興ずる姿を見て、日本人が「異人さんの蹴鞠」と呼んだこと』に由来するのだそうである。
・「京地」は「けいぢ(けいじ)」と読んでいるか。帝都を言う「京師」(けいし)の濁音化した「けいじ」に「地」の字を当てたものか。
・「飛鳥井家」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「蹴鞠」によれば、蹴鞠の公家の流派の内、『難波流・御子左流は近世までに衰退したが、飛鳥井流だけはその後まで受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーを中心とした球技・スポーツの神とされて』毎年四月十四日と七月七日には蹴鞠奉納が行われているそうである。
・「惣紫」総紫とも。蹴鞠が上達した者に対して飛鳥井・難波家から特に下賜されて着用が許された紫の袴のこと。武家には総紫、町人には紫裾濃(むらさきすそご:紫色を、上方は薄く、下方になるにつれて濃くなるように染めたもの。)の袴が許された。画像は「風俗博物館」の「蹴鞠装束と蹴鞠」を参照されたい。
・「免許」これは師から弟子にその道の奥義を伝授すること、また、その認可を認めた印を言う。
・「裾紫」前注の「紫裾濃」に同じい。
・「紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ着る」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
紫の數には入れど染殘(そめのこ)す葛(くず)の袴のうらみこそしる
の異形で出る。因みに私は、このバークレー校版の和歌の方が響きがいいように思う。
「葛の袴」葛布の袴。葛布(くずふ)とは、クズの繊維を紡いだ糸で織った布。古くはフジ・コウゾ・麻などとともに庶民の衣料として用いられ、また高貴の人の喪服として用いられることもあったらしい。但し、その後の葛布と称するものは、経糸に絹・麻などを用い、緯糸をクズ糸で織ったものが多く、これは中世以降の正式でない場合の袴などに用いられ、水干葛袴(すいかんくずばかま)という決まった服装名もあった(以上は「世界大百科事典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に、『葛の葉を掛ける。葛の葉が風に吹かれ白い裏を見せることから、「葛の葉の」は「うらみ」にかかる枕詞』ともなっている、とある。所謂、安倍晴明の母とされる妖狐葛の葉、信太妻(しのだづま)伝承の、
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
に基づく。以下、私なりの通釈を示す。
――願いに願った名誉の蹴鞠の免許の紫袴――これを下される一人とはなったものの……ああっ、葛の裏葉のように、染め残した如、だんだんに白うなっておる情けなき紫裾濃(むらさきすそご)の袴であって……かの、正しき惣紫の袴でないことが、如何にも、恨めしいこと……その恨めしさを、私は心に纏うていることよ……
なお、長谷川氏は、医師で俳諧師でもあった加藤曳尾庵(えいびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)著「我衣」(わがころも:寛永より宝暦までの世態風俗を記した書の抄出と化政期の同種の風聞などを編年体で配した随筆。)の五に、戦国大名で歌人で蹴鞠も得意とした『細川幽斎の事として小異ある歌を出す』と記されておられる。
■やぶちゃん現代語訳
和歌によって蹴鞠惣紫下賜という本意を得た事
京師(けいし)の町人で、名も聞い御座ったが失念致いた。
この者、蹴鞠の名家飛鳥井家の門弟にて、蹴鞠の達人にて御座った故、惣紫(そうむらさき)の袴を免許さるるべきところ、かの者、町人であったが故に裾紫(すそむらさき)の袴を以って下賜認可となさった。
ところが、かの者、このことをひどう嘆いて、
紫の数には入れど染残す葛の袴のうらみてぞ着る
と詠んだによって、このこと、飛鳥井家にても伝え聴くことと相い成り――殊勝なる蹴鞠執心なり――とて――別儀を以って、特に惣紫をお許しになられた、とのことで御座る。