耳嚢 巻之五 女力量の事
女力量の事
阿部家の家來何某の妻、ちいさき女成(なる)が、容貌又善きにあらず醜にもあらず。至て力强く、或時夫は番留守(ばんるす)成るに、右留守といへる夜には下女の方へ忍びおのこありしを、風與(ふと)聞付て憎き奴(やつ)かなと、彼(かの)忍び入る所を捕へて膝の下に敷(しき)て、何故(なにゆゑ)夫の留守に忍び入しや、不屆(ふとどき)成る仕方也(なり)と、片手に女を捕へ引居置(ひきすゑおき)ければ、大の男手を合せ詫(わび)ける故、以來右躰(てい)の猥(みだら)成る事あらば活(いき)ては置かじと折檻なして放しけるとぞ。又或日同長屋へ呼(よば)れて行しに、玄關は普請(ふしん)有て勝手口より入らんとせしに、右勝手口に米を三俵積置(つみおき)て通りふさがりし故、あるじの妻出て下男を呼て片付けさせんとせしに、取片付て通りませんと、右米を兩手に引提(ひきさげ)て中を通りしと也(なり)。怪力もあるもの也(なり)と人の語り侍る。
□やぶちゃん注
○前項連関:話柄自体に特に連関を感じさせないが、シークエンスの周縁の人々が驚き呆れる気配は妙に繋がる。
・「阿部家」「卷之四」の「修行精心の事」の底本鈴木氏注で「阿部家」を安倍能登守(忍城主十万石)の他、同定候補として四家を挙げておられる。
・「奴」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ヤツ」とルビを振る。
・「引居置(ひきすゑおき)ければ」の「すゑ」は底本にもルビがある。
・「通りません」(近世語。丁寧の意を表わす助動詞「ます」未然形+推量の助動詞「む」の音変化「ん」の連語)現代語にも残る話し手の意志を丁寧に表わす「ませう(ましょう)」と同じ。なお、「ます」は、「参らす」(「まゐる」+使役の助動詞「す」)が室町期に変化して生じた謙譲・丁寧語の「参らする」が、発音上で「まらする」「まいする」「まっする」などと変化、更に活用・意味の上で「申す」の影響も受けて「ます」となったものであるが、その「ます」の活用も近世初期にあっては初期変化形の「まらする」の影響から「ませ・まし・ます(る)・まする・ますれ・ませ(い)」というサ変型であったものの、近世中期以後は終止形・連体形が「ます」に代わるようになった(以上は主に小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
■やぶちゃん現代語訳
女強力の事
阿部家の家来何某(なにがし)の妻と申す者……容貌は……ふむ……これ、美しくもないが、また醜くも……御座らぬ。ただ……途轍もない――怪力――で御座る。――
ある時――その日は夫が勤番に当たって留守で御座った――夜更け、下女が自分の部屋へ好いた男を忍ばせんとしておったを、妻女、ふと、怪しき物音にて聞きつけ、
「憎(にっ)くき奴(きゃつ)かな!」
と、その男――まさに下女の手引きにて、まさに部屋へ忍び入らんとする――そのところで捕え、忽ち、
――ギュッツ!
と、男をば、片膝の下に敷き据え、
「何故(なにゆえ)夫の留守に忍び入ったかッ! 不届きなる所業なりッ!」
と、高き大音声(だいおんじょう)にて叫ぶ、その時、
――グイッツ!
と、間髪を入れず、その片手には、
――ベッタ!
と、傍らの下女を捕えて床に引き据えつけて御座った。
大の男、手をすり合わせて詫びた故、
「……以後、斯くの如き猥らなる所業あらば――そなた――生かしては、おかぬ!」
と低き音(ね)にて告げるや、
――ビッシッ! バッシッ!
と、さんざんに手刀平手に打擲(ちょうちゃく)折檻の上、やっと放免致いた……とのことじゃ……
また、とある日のことで御座る。……
かの妻、同じ長屋の夫同僚宅へと呼ばれて参った。
すると、先方宅の玄関が、これ、修理中で御座ったによって、その脇の勝手口より入らんと致いたところが、その勝手口には、これまた、たまたま米俵が、これ、三俵も積み置かれて行く手を塞いで御座った。主の妻は大急ぎで奥方より走り出でて、俵越しに下男を呼びつけ、片付けさせんと致いたところ、
「妾(わらわ)が片付けて通りましょう。」
と軽くいなすや、その俵三俵(たわらさんびょう)……片手には……何と、二俵!……両手にヒョイ! ヒョヒョイ! と、子猫をそっ首で摘まむかの如(ごと)、引っ下げて、路地の肩へ子供の積み木の体(てい)にて重ねて隙を作る……と……後は……しとやかに家内へと通った……とか。……
「……いやはや! これぞ、怪力、いやさ、女強力(ごうりき)というものにて御座るじゃ!」
とは、さる御仁の語った話で御座る。