耳嚢 巻之五 三嶋の旅籠屋和歌の事
三嶋の旅籠屋和歌の事
いつの頃にやありけん、京家(きやうけ)の雜掌(ざつしやう)江戸へ下るとて三嶋の驛に泊りしに、右旅泊の宿、食(めし)湯の拵へすとて殊の外竈(かまど)の煙り籠りていぶせきを、彼雜掌叱り咎めければ、あるじかく詠ておくりし、
賑しきためしにゆるせしばしばも眞柴の煙り絶ぬ宿りを
彼雜草奇特のよしは答へしが、和歌には疎くありけるや返歌もなかりしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「鄙賤の者倭歌の念願を懸し事」の和歌譚で連関。
・「旅籠屋」は「はたごや」と読む。
・「雜掌」公家や武家に仕えて雑務従事者。
・「賑しきためしにゆるせしばしばも眞柴の煙り絶ぬ宿りを」読み易くすると、
賑(にぎ)はしきためしに許せしばしばも眞柴(ましば)の煙り絶えぬ宿りを
「ためし」は好個の例。「しばしば」は副詞「頻りに」の意と次に出る「柴」の掛詞で、薪などに用いる雑木である「眞柴」(「眞」は美称の接頭語)も、「増し」(益々繁盛する)を掛けていよう。
――お蔭さまにて、よき旅籠(はたご)として繁盛致しておりまする例しなればこそ、どうか、お許し下されませ……かくもしばしば真柴(しば)焚く、その煙りの絶えぬ、この宿りを――
・「奇特」は「きとく」「きどく」と読み、言行や心懸けなどが優れ、褒めるに値するさまを言う。
■やぶちゃん現代語訳
三島宿の旅籠屋主人和歌の事
いつの頃の話で御座ったろう――京の御公家の雑掌(ざっしょう)、主人公事(くじ)がために江戸へ下る途次、三島の駅に泊まったところ――暖簾をくぐったのが宵前なれば――旅籠(はたご)内にては煮炊きやら湯屋(ゆうや)の支度致さんとて、殊の外、竈の煙(けぶ)り、これ、籠って噎せ返るほどの煙たさであった。――それがまた、座敷内まで流れ入ってえも言われぬ有様であったが故――この雑掌、宿の者を叱り飛ばし、厳しい口調で咎め立て致いた。
すると、それを聴いた宿の亭主が、かく歌を詠んで、雑掌の元へと詫びの文(ふみ)を送った。
賑しきためしにゆるせしばしばも眞柴の煙り絶ぬ宿りを
これを読んだかの雑掌――流石に公家の雑掌なればこそ――
「――ようでけて、おじゃる。――」
とは答えたものの……己れ自身は和歌には疎くて御座ったものか……遂に返歌も御座らなんだとのことで『おじゃる』。