耳嚢 巻之五 腹病の藥の事
腹病の藥の事
腹を下し候藥を知行より來りし者進(すすめ)けるゆへ、如何なる品也(や)と尋けれ ば、鰹をこくしやうにして給(た)べれば立所に癒)いゆ)る由。田舍人の丈夫成るもの抔の事にや。いぶかしながら爰に記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:二項前の「疝氣胸を責る藥の事」の民間薬方譚と連関。
・「知行」根岸鎭衞の知行地は底本解題によれば、上野国緑野(現在の群馬県多野郡の一部)・安房国朝夷(あさい)二郡(現在の南房総市の一部及び鴨川市)の内で采地五百石とある(天明七(一七八七)年)。これはもう房総半島先端外房の後者と考えて間違いない。
・「こくしやう」「濃漿(こくしょう)」で、味噌味で濃く仕立てた汁物。特に鯉こくなど、魚類を素材としたものを言うようである。なお、「濃漿」を「こんづ(こんず)」と読む場合があるが(「濃水(こみづ)」の転訛)、これは、①米を煮た重湯(おもゆ)。②粟や糯米(もちごめ)等で醸造した酢。早酢(はやず)。③酒の異称。④
濃い汗。大粒の汗の謂いとなり、異なるので注意。非常に塩分がきつくなり、逆に腹に優しくない感じはする。根岸もそこで引いた(訝しんだ)のであろう。
・「鰹」カツオに多量に含まれるニコチン酸とニコチン酸アミドから成るナイアシン
(Niacin:ビタミンB複合体でB3とも称する。熱に強く水溶性。)は糖質・脂質・タンパク質の代謝に不可欠で、循環系・消化系・神経系の働きを促進する働きがあり、胃腸病の薬剤として使用されている。
・「給(た)べ」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
腹下しの薬の事
私が腹を下したことが御座った折り、たまたま知行所安房朝夷(あさい)から参っておった者が聴きつけ、
「……よう効きまするもの、これ、我らが里に、御座いまする。」
と勧める故、
「如何なる薬じゃ?」
と訊いたところ、
「ただ鰹を濃漿(こくしょう)にしてお召し上がりになられれば、これ、たちどころに癒えまするぞ。」……
田舎人(びと)にて、元来が胃の丈夫なる者なんどならばこそ、それで効く、とでも、言うのであろうか? 訝しきことながら、一応、ここに記しおくことと致す。