耳嚢 巻之五 奇藥ある事
奇藥ある事
予が許へ多年來れる醫師に與住玄卓(よずみげんたく)といへるありしが、或る病家重病の癒しを歡び、家法の痢(り)の藥を教けるが、唐艸(たうさう)にも無之(これなく)、和に多くある草一味(いちみ)也。此比(このごろ)一兩輩の病人に與ふるに神(しん)の如しと咄しぬ。藥名は醫者故聞ん事も如何と其儘に過ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。五番目の「痔疾のたで藥妙法の事」から薬事連関。原料や処方の詳細が記されず、効能もただ「痢」とあるのみで、医事記録としても価値が認められない。
・「與住玄卓」「卷之一」の「人の精力しるしある事」の「親友與住」、「卷之三」の「信心に寄りて危難を免し由の事」の「與住某」と同一人物であろう。「卷之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する、根岸の医事関連の強力なニュース・ソースである。底本の鈴木氏の先行注に『根岸家の親類筋で出入りの町医師』とある。
・「藥名は醫者故聞ん事も如何」というのは、恐らくこの原料の植物が、中国の本草書に不載であるだけでなく、本邦の本草書にも記載されていないか、記載されていても効能や処方が異なるかし(純粋な毒草として、薬効なく毒性のみが語られている可能性も含む)、また、與住自身がその薬について詳細を話したくない素振りを見せたのでもあろう(玄卓がその後に死んだのでもなければ(そんな様子は感じられない)、ここで「其儘に過ぬ」と言ったのには、そうした主に玄卓側の無言の要請が感じられるのである。さすれば、それほど神妙なる効能があり、若しかすると誰にでも採取・調合出来てしまうようなシンプルなものであった可能性も高い。
・「唐艸にも無之、和に多くある草一味也」とはその生薬の原料植物が日本固有種であることを示していると考えてよい。
■やぶちゃん現代語訳
奇薬のある事
私の元へ永年通うておる医師に与住玄卓という者がおる。
とある大家(たいか)の重病人を療治平癒致いたところ、大いに歓ばれ、謝金とは別して礼と称し、家伝の止瀉薬の製法を伝授されたという。
大陸の本草書にはその植物の記載がこれなく、本邦にのみ、それも数多く自生する草の一種であるという。
「近頃、数人の痢病患者に処方致しましたが、その即効はまっこと、神妙で御座った。――」
とは本人の話。
医師に、その独自に使用しておる薬名や原材料・処方の仔細を訊ねるというのも――しかも諸々の本草書などにも載らぬ秘薬となれば――これ、如何かと思うた故、そのままにうち過ごし、今もって、その『草』とは何か、残念ながら、分からず仕舞いのままにて御座る。