耳嚢 巻之五 頓智にて危難を救し事
頓智にて危難を救し事
或日若き者兩人連にて、柚(ゆず)の多くなりしを見て、取て家土産(いへづと)にせんと、餘程の大木なれば右柚を盜取るべき工夫をして、壹人は樹の下に立、壹人は右の樹に登りけるが、登る時は右柚を取べきに心奪れて兎角して登り、取ては下へ落し木の元に立て男拾ひて懷へ入しが、最早程よき間(あひだ)下り候樣下より申ければ、心得候とて彼木を下りんとせしが、柚は尖(とげ)ある木故足手を痛め、中々下りがたきとて殊外難儀せしを、下に立たる男飛(とぶ)べき由を教へけれ共、高き木なれば中々眼くるめきて飛(とば)れざる由を答へければ、下の男も込(こま)りて如何(いかが)せんと思ひしが風與(ふと)思付きて、盜人々々と聲を立ければ、上なる男大きに驚き木の上より飛下りける故、手をとりて早々彼場を立去りけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。洋の東西を問わずある、寓話ではあるが、全体は能狂言を意識しているように思われる。「柚子盗人(ゆずぬすびと)」ととでも名付けたくなる。台詞をそのように意識して訳してみた。
・「柚は尖ある木」双子葉植物綱ミカン目ミカン科ミカン属ユズ
Citrus junos Siebold の幹には、恐ろしく鋭く大きな棘が多く突出している。例えばこちらの栽培業者の方のページの写真で確認されたい。なお、学名の命名者は御覧の通り、かのシーボルトである。
・「込りて」底本には右に『(困)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
頓智にて窮地を救った事
ある若者の二人連れ、柚子のたわわに実って御座る木を見つけた。
一人が、
「このゆずを取って、家土産(いえずと)と致そう。」
と持ちかけて御座った。
かなりの大木であったによって、この柚子を盗み取る算段と致いて、ゆず、基い、まず、一人は木の下に立って、今一人は、この木へ攀じ登って御座った。
登る時は、かの柚子を取ることばかりに気が急(せ)いて御座った故、難儀をものとも致さず、登り遂(おお)せ、取っては下へ落とし、千切っては投げ落といて、木の元(もと)に御座る今ひとりの男は、それらを拾うてはポン、受けてはポンと、懐へと入れて御座った。……
「最早、程よい数なれば、降りて参らるるがよかろう。」
と、木の下に御座った男が申す。
「心得て御座る。」
と、かの木の上の男、木を降りんと致いたが、柚子はこれ、恐ろしき棘の多き木で御座るによって、手足を、したたかに痛めたによって、
「……なかなかに、降り難くてある……」
と、殊の外、難儀致いて御座った故、木の元へ御座った男は、
「飛び降るるがよかろう。」
と教えて御座った。ところが、
「……高き木なれば……なかなかに、目の眩(くら)めきて、飛べざる……」
とて、答えたによって、木の元の男も困り果て、
「如何(いかが)はせん。」
と思うて御座ったが、ここに咄嗟の思いつきにて、
「――盗人(ぬすっとう)!――盗人じゃあぁ!」
と大きに声を立てて御座ったによって、木の上なる男は、これ、
「すはッ!」
と、吃驚仰天――気が付けば天狗の如、宙を舞って――飛び降りて御座った。
されば二人……手に手を取って早々に……かの地をば……あっ……去りにけり……去りに、けり……