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2012/09/11

耳嚢 巻之五 探幽畫巧の事

 探幽畫巧の事

 

 朽木(くつき)家となん、探幽が書(かけ)る松に鶴とやらんの重器あるよし。右時代に素人(しろうと)にて久住(くすみ)六郎左衞門といへる名人の畫書(ゑかき)有りしが、朽木におゐて探幽が書る松に鶴の繪を見て不面白(おもしろからざる)由あざけりし故、探幽來りし時主人其(その)咄しをなしければ、久住が言へる尤(もつとも)也(なり)、認直(したためなほ)さんとて書直して置しを又久住に見せければ、宜(よろしき)由にて強て賞美もせざりし故、又探幽を招きてしかじかの事と語りければ、又書直すべしとて認直しけるを、重て久住に見せければ、大に感賞して、探幽は誠に奇妙の畫才也(なり)、同じ畫を三度迄我意なくして書直し、形樣何もかわらで自然に其妙ありと悉く賞翫したる由。依之(これによりて)今朽木家の重寶と成(なり)けるよし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。技芸奇譚シリーズ。

・「朽木家」丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)の福知山藩藩主主家。本話柄を事実と仮定し、以下の注で示すように「久住六郎左衞門」が絵師久隅守景の誤りあったとするならば、これは寛文一二(一六七二)年以後延宝二(一六七四)年の出来事(後注で検証試算の理由を述べる)となるが、その当時の藩主は初代朽木稙昌(たねまさ 寛永二〇(一六四三)年~正徳四(一七一四)年)となる。彼は万治三(一六六〇)年に父(朽木元綱の死去によって翌年、家督を継いで土浦藩第二代藩主となったが、寛文九(一六六九)年には丹波福知山藩に加増移封されている。文化の発展にも尽力したとあるから、彼が探幽や守景と親交があったとしても(あったことを確認したわけではない)、おかしくはない(以上の朽木稙昌の事蹟はウィキの「朽木稙昌」に拠った)。なお、本記載執筆推定の寛政九(一七九七)年頃の当主は第八代藩主朽木昌綱で、朽木家は明治まで福知山藩主であった。

・「探幽」狩野探幽(慶長七(一六〇二)年~延宝二(一六七四)年)狩野派を代表する早熟の天才絵師で、狩野孝信の子で狩野永徳の孫に当たる。『慶長一七年(一六一二年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和三年(一六一七年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和七年(一六二一年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い』。二二歳の『元和九年(一六二三年)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、五十歳を過ぎてから実子・守政が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、六代後の子孫である狩野探信守道とその弟子沖一峨を僅かな例外として殆どなかった』。『若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出した。この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能である。その一方、大和絵の学習も努め、初期の作品は漢画の雄渾な作画精神が抜け切れていないが、次第に大和絵の柔和さを身に付け、樹木や建物はやや漢画風を残し、人物や土波は大和絵風に徹した「新やまと絵」と言える作品も残している。江戸時代の絵画批評では、探幽を漢画ではなく「和画」に分類しているのは、こうした探幽の画法を反映していると云えよう。粉本主義と言われる狩野派にあって探幽は写生も多く残し、尾形光琳がそれを模写しており、また後の博物画の先駆と言える』。『探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されている』。(ウィキの「狩野探幽」から引用、アラビア数字を漢数字に代えた)。

・「松に鶴」は「松鶴図」は定番の画題で、探幽の描いたものも多く残るが、この話柄の二度書き直して完成させたという曰くつきの代物が現存するかどうかは不詳。

・「久住六郎左衞門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『久須美(くすみ)六郎左衛門』とし、その長谷川氏注には、『不詳。あるいは久隅守景の通称を誤り伝えるか』とある。私は不学にして知らない絵師であるので、以下、ウィキの「久隅守景」からほぼ総てを引用させていただく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『久隅守景(くすみ もりかげ、生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派の絵師。通称は半兵衛、号は無下斎、無礙斎、一陳斎。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者。娘に閨秀画家として謳われた清原雪信がいる。その画力や寛永から元禄のおよそ六十年にも及ぶ活動期間、現存する作品数(約二〇〇点)に比べて、人生の足跡をたどれる資料や手がかりが少なく謎が多い画家である』。『通称を半兵衛といい、無下斎、無礙斎、一陳翁、棒印などと号した。若くして狩野探幽守信の門に入り、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義と共に四天王と謳われた。後の『画乗要略』(天保八年(一八三一年)では、「山水・人物を得意とし、その妙は雪舟と伯仲、探幽門下で右に出る者なし」と評されている。前半生は狩野派一門内の逸材として重きをなした。その現れに、探幽の妹・鍋と結婚していた神足常庵の娘で、探幽の姪にあたる国と結婚し、師の一字を拝領して「守信」と名乗っている。この時期の作品で最も早いのは、寛永一一年(一六三四年)の大徳寺の江月宗玩の賛をもつ『劉伯倫図』(富山市佐藤記念美術館蔵)である。他に寛永一八年(一六四一年)、狩野尚信、信政と共に参加した知恩院小方丈下段之間の『四季山水図』や、瑞龍寺の「四季山水図襖」八面(高岡市指定文化財)が挙げられる。この時期は探幽画風を忠実に習い、習作期間に位置づけられる』。『守景には一男一女がおり、二人とも父を継いで絵師になったが、寛文一二年前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事が続く。これが切っ掛けとなって狩野派から距離を置き、後に金沢に向かい、そこで充実した制作活動を送った。彼の代表作である『夕顔棚納涼図屏風』(東京国立博物館蔵)や『四季耕作図屏風』(石川県立美術館蔵 重要文化財)はこの時期の作品と推定され、農民の何げない日常の一コマや生業のさまなどを朴訥な作風で描き、守景独自の世界を切り開いた。晩年は京都に住み、古筆了仲の『扶桑画人伝』(明治二一年(一八八八年)刊)では、藤村庸軒らの茶人と交わり茶三昧の生活を送ったと記されている。しかし、制作活動は最晩年に至るまで衰えず、『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』(大倉集古館蔵 重文)など老いを感じさせない瑞々しい作品を残している。元禄一一年(一六九八年)に庸軒の肖像画を描いたとされ、この後に亡くなったと推定される』。『師・探幽とは異なり、味わいある訥々な墨線が特徴で、耕作図などの農民の生活を描いた風俗画を数多く描いた。探幽以後の狩野派がその画風を絶対視し、次第に形式化・形骸化が進むなかで、守景は彼独自の画風を確立したことは高く評価される。彼の少し後の同じ狩野派の絵師で、やはり個性的な画風を発揮した英一蝶と並び評されることが多い』とある。

 さて、もしもこの「久住六郎左衞門」が彼だとすれば(その可能性は強いと私は思う)、この叙述と本話柄を並べた時、若い時(寛永一八(一六四一)年以降直近)の『探幽画風を忠実に習』っていた頃のエピソードとは当然思われず、後に『狩野派から距離を置』いた時期と考えてよい。その時期を一先ず解説文に即して寛文一二(一六七二)年『前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事』を契機としたとするならば、

 寛文一二(一六七二)年以後の直近を最上限

と置ける。ところが、狩野探幽は、

 延宝二(一六七四)年に死去

しているから、本話が事実とするなら、探幽の最晩年のたった二年間のこととなる。当時、七十歳を越えたていた探幽を考えると現実性は低いが、一応、試算の結果として示しておく。しかし、彼らの経歴と、その複雑な画工としての交差を考えると、確かにこの話は、面白くなる。久住六郎左衛門の名はママとしつつ、その実、彼を久隅守景とし、そういう確信犯の中で現代語訳してある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 探幽の画力の巧みなる事

 

 福知山藩藩主であらせらるる朽木家のことで御座ったか――狩野探幽の描いた『松に鶴』の名画が御座る由。

 探幽と同時代の者にて久住(くすみ)六郎左衛門と申す、素人ながら、名人の絵描きが御座った。

 たまたま訪れた朽木殿の御屋敷にて、この――曾ては久住の師であったことも御座る――探幽の描いた『松に鶴』を見た。すると、

「……面白うない、の――」

と一言吐いて、嘲った。

 後日(ごにち)、探幽が朽木家へと参った折り、当代御当主であらせられた稙昌(たねまさ)殿が、その久住の話をなさったところ、

「……久住で御座るか……かの者がそう申すも……これ、尤もなることに御座る。――一つ、認(したた)め直しましょうぞ――」

と、探幽は、その場にて再筆を加えた。

 さてまたの後日、再参致いた久住にかの絵を見せたところが、

「……まあ宜しゅうは御座るが、の――」

と一言申したのみで、強いて賞美の詞(ことば)も、これ、御座らなんだ。

 またまたの後日に、稙昌殿が再び探幽を招いた折りに、この度の話をまたしても、仔細にお話になられた。

 すると探幽、

「……それはそれは。……ふむ。……今一度、これ、認(したた)め直さずんば、なりますまい――。」

と申すや、またしても即座に再々の筆を加えた。

 さてもまたその後日、稙昌殿が重ねて久住を呼んで再々の加筆を施したところの絵を見せたところが――この度は――久住、痛く感じ入ったさまにて――

「……探幽殿は、まっこと、奇体にして神妙を持った絵の才人じゃ!……同じ絵を三度まで……しかも……我が意にあらず、描き直しながら……その形容――実は一部たりとも、何も変わっておらぬではないかッ! にも拘わらず――それでいて――自ずと――その神霊の妙味が絵から立ち上っておるではないかッ!……」

とあらん限りの賛辞を惜しまずに御座ったと申す。

 これより、今に至る迄、この探幽の『松に鶴』は、朽木家の重宝となった由に御座る。

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