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2012/09/26

スーパー8は真正の20世紀少年映画である

昨日、J.J.エイブラムスの「スーパー8」(2011)を観た。製作にはスティーヴン・スピルバーグが加わっている。

本作は、その精神の根っこで当然、スピルバーグ的世界である。
無論、SF好きの僕としてはスピルバーグの代表的作品は、概ね見てきたつもりではある。
しかし、意外の感を受けられるかも知れないが、彼の作品のどれが好きか、と訊かれると、僕は黙らざるを得ない。
何故だろう?
あの概ね大団円のハッピーエンド(だから敢えて印象に残ったものと言われれば、そうでない「激突!」を挙げるかも知れない)で――愛によって結ばれてゆく家庭――男女や人と異類との霊感的交感――という「お定まり」の教義に――どこか、僕の内なる、異教的とでも言うべきものが、呟くように嘘臭さを訴え続けているからであろう(これは丁度、宮崎駿と庵野秀明との関係に似ている。私は宮崎作品を「優れている」とは認めるが、素直に好きだととは、どうしても言えない。但し、これは宮崎が手塚の追悼で手塚を批判したことへの永遠に忘れ難い恨みを持っているからでもある)。

「スーパー8」は、そのスピルバーグ禅師から法灯を許されたJJの、正当法嗣の御旗を掲げた作品と言える。そう言うと、如何にも僕は『厭な映画』と感じているのだと思われるかも知れない――が――正反対である。――

舞台である1979年は、僕が教員になった年だ。
浦沢の「20世紀少年」とは9年の差があるから、時代としての比較をするのは土台無理ではある。
スーパー8なんどで映画作りをする中学生がいる世界は、僕の小学校5年の時(昭和45(1967)年当時)の――GIジョーや「サンダーバード」の秘密基地を持っている友達以上――ということになろうから、やはり天下の物量米帝と高度経済成長で汚れ切った環境を公害対策基本法(同年発布)でお茶濁ししていた日本とでは、土台、比較にはならぬ。
但し、1970頃の当時の都立外山高校では、既に学生運動を主題とし、恋と自己の出自に葛藤して自殺する少女を主人公とした文化祭8ミリ映画を撮っていたし、そこには会社社長が高校生で本物の外車リンカーンに乗って登場するぐらいだから、こういうオタク金持ち少年は本邦にもいたということは言える(私は、その年に生徒の文化祭に向けての「模範的映画作品参考鑑賞」として、これを職場で生徒と一緒に見た。ただ、その製作費は驚愕の数十万(製作当時で)であった。担当教師は流石にその金額だけはお茶を濁して生徒たちには告げなかった)。
……因みに、僕はそれほど物量の貧困さの中にいたのか、と言えば、必ずしも、そうではなかった。僕の本棚には母が買って呉れた中央公論社の「世界の文学」と「世界の歴史」が、学研の百科事典や小学館の学習図鑑そして怪獣図鑑と一緒に並んでいた。「スーパー8」のジョーは鉄道模型に凝って、彩色で経年処理を施していたが、僕も御多分に漏れぬ模型少年で、サンダーバードや戦闘機、SF模型、「宇宙家族ロビンソン」のロボット「フライデー」も作った(これはモーターによる可動式で首と手足が動き、高価なものだった。祖母にお年玉として買って貰ったのを覚えている)。ただ、メインのプラモ趣味が少々変わっていて、解剖模型であって、「人体の驚異」や「忠実なる犬」といったキモいやつを何週間もかけてプラカラーで彩色したりした。溶剤のシンナーで気持ちが悪くなったことや、春の光の射す縁側で母が手伝って呉れたのを、今、懐かしく思い出す……

……ともかくも、「スーパー8」のエンディングは――仄かに異星人とのコンタクト――共感を匂わせて――僕がその心理的内実に於いて「嘘臭い」と感じさせる大団円ではある。……

……しかし――しかし、私は映画「20世紀少年」を見るなら――「スーパー8」を薦めたいのである……

何故か?

簡単だよ、「スーパー8」は、終始、真正の『20世紀の少年』という少年たちの牽引する物語だからだ。

実写版「20世紀少年」の持つ、作品全体を覆っている拭い難い悲哀は(その点が漫画という二次元作品ではずーっと遙かに希釈されているのであるが)――プロットを牽引するのが最早、「少年でない」そこらへんの、テレビでなさけないCMに出てくる唐沢寿明なる「オヤジ」であり――如何に田辺修斗君があの懐かしい「20世紀の少年」を演じても、それはフラッシュ・バックの幻影に過ぎないものとして矮小化、否、無化されてしまうからなのであろう、と僕は感じている(それは、原作・映画共に後半のともだちランドのグラウンドにて確信化されてしまうと言える)。

スピルバーグ信仰を信じない僕としては――実は――悔しいけど――「スーパー8」は真正の20世紀少年だ――という印象を、僕は強く持ったのである。
 
 

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