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2012/09/11

粂仙人吉野花王 又は 反道成寺としての感慨

昨日、国立劇場文楽公演の午前の部に行く。

「粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)」

以下の梗概で参考にした今回のパンフレットには、寛保三(一七四三)年八月に大坂豊竹座で初演され、この『五段目の「吉野山の段」は前年に初演された歌舞伎『雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)』の鳴神上人の件(くだり)を踏襲したと思われますが、これは『太平記』の説話を謡曲にした『一角仙人』を典拠としており、文楽ではそれを『今昔物語集』などで紹介された久米仙人に置き換えてい』ると解説するのだけれど――いや! これは、何より! その外題からも分かる如く、「道成寺」の痛烈なインスパイア浄瑠璃、

「日高川入相花王(ひだかがはいりあひざくら)」

性を取り換えた、反「道成寺」とも言うべき怪作なのであった。以下、梗概を私なりに纏めてみたい。

ここでは女の脛をを見て天から落ちた粂仙人は、聖徳太子の兄粂皇子(くめのおうじ)という設定になっており、優れた弟が政治の表舞台で活躍しているのを無念として仙人となっている。
弟への復讐のため、秘術によって竜神竜女を深山の滝壺に封じ込めて旱魃を齎したばかりでなく、三種の神器をも奪取して滝の下手の岩宮の中に隠し置いており、彼はこれらの出来事を、太子の不徳によるものと喧伝し、世を奪わんと画策しているのである。

そこに夫に死に別れ、形見の衣を禊ぎするためと称して美女「花ます」が訪れる。
二僧はそれを禁ずるものの、興味を持った仙人に求められるままに「花ます」は夫とのなれ初めから初め、河を渡渉して夫と邂逅する語りでは裾を上まで捲くって襦袢の下の足を見せ(!)――本舞台では久米仙人のパロディであるから例外的に花ますは女ながら足を持っている!)――お色気たっぷりのセクシャルな話柄(!)で久粂仙人と弟子の二人僧を翻弄(この辺りは「道成寺の狂言パートのパロディに相当)仙人に至っては、興奮のあまり(!)、上手上方にしつらえられた結界の須弥壇から落下して失神してしまうのであった(これは久米仙人伝承のパロディであると同時に、乱拍子から鐘入りの過程の巻き戻し逆再生のパロディにも感じられた)。

すると「花ます」は口移し(!)で滝の水を仙人に胸を合わせて(!)含ませて(!)目覚めさせる。

仙人は「花ます」に仙術を破りに来た間者の疑いを持ちはするものの、尼となるという「花ます」のために、二僧に道具を麓まで取りに行かせ、二人きりとなる。

「花ます」は俄かに癪(しゃく)を起こす。
その痛みを和らげようと、さすらんとして(!)「花ます」の胸に手を差し入れて(!)その鳩尾に触れた(!)瞬間、仙人は破戒を言上げして、胸に飛び込んだ「花ます」を抱く(!)のである。

「花ます」の望むがままに夫婦盃を交わす内、酔った仙人は天下を奪う企略を告白、三種の神器の在り処から、竜神封印の背後の滝の前のさし渡された注連繩が旱魃を齎していることなんどを、べらべらべらべら喋ってしまう。
そして、荒行の上に飲みつけぬ酒に泥酔した仙人は、須弥壇に入って四方の簾を下して寝てしまう(ここが正に「道成寺」鐘入りの情けないパロディであることは言うまでもあるまい)。

さて、無論勿論「花ます」は、やはり聖徳太子の命によって行法を破り、三種の神器奪還のために遣わされた間者であって、ここで仙人に詫び言を言いつつ(契りを誓った故の女の色気の名残である)も、下手の嶮しい窟を登り、神器を見つけ、その宝剣を擲って、美事注連繩を切断、秘術を破る(この女だてらの活劇部分が実に実に清々しい)。

龍神がするすると天に昇り(ここの演出、日本中の竜神竜女であるから、無数に出して欲しかった)、激しい雷電と豪雨の中(書割の懸垂だが、音響が優れる)、簾が巻き上げられる(ここの演出も「道成寺」同様に総ての簾をゆっくりと同時に巻き上げる方法を採って欲しい)と、怒髪天を衝いた仙人が怒りの形相、紅蓮の炎の図柄の衣装となって、六方を踏んで下手へと「花ます」を追ってゆく――

これを「道成寺」の男版、逆回転映像の反「道成寺」と言わずして――何と言おう!

これは
――珍しい、ぎりぎりの「手技」の、恐るべき――ロマン・ポルノ文楽――であると同時に――
夏演目に相応しい
――素晴らしい――鬼となった男の怨念の――ゴシック・ホラー文楽――である。

豊松清十郎の「花ます」は、まずは非常に良かった
登場後の二度目の鉦打ちを端に外した後、激しく汗を吹き、右手した奥から眉間に皺を寄せて三打目を確かに響かせて打った努力を僕はまずは讃えるものである(今回も最前列下手やや前の座席であった)。
しかし、おやまの使い手たるものは――あんな怖い顔をしてはいけない。
たとえミスっても、もっと平然として「娘の心情」を貫く面(おもて)であってこそ、ミスは気づかれぬ。
また、アクロバティックな後半部では、「花ます」の対象行為としてのアクション自体は殆んど瑕疵なく、美事にこなしたものの、やはり、激しい動きの中、頭(かしら)と左右の腕と下半身が、ばらばらな動きとなってしまって、「しなやかな仮想の女体」が感じられなかったのが惜しい。
向後も精進され、頑張っていただきたい。応援する。

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