耳嚢 巻之五 在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事
在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事
予が許へ來る栗原何某と言る浪人語りけるは、急用有て下總邊へ至るべしと、江戸を立て越ケ谷の先迄至りしに、右道筋秋の頃にて出水(でみづ)して、本海道は左もなけれど、右横道は田畑溝河(みぞかは)往還共に一面に水出て、中々通るべきやうなければ、右泊宿(とまりやど)にて亭主幷(ならびに)所の者を招きて、急ぎの用事にて下總のしかじかの所迄參るなれば、何卒船にて成(なり)とも右出水の所を通るべき便あらば渡し給へと賴ければ、承知して右船賃の極(きはめ)をせしが、金壹兩壹歩の由申ける故、餘り高直成(かうぢきなる)儀、尤(もつとも)難儀を見掛(かけ)て高料(かうりやう)に申事と思ひけれども、詮方なく右金子持出し、請取の書付を所役人一同差出可申(さしいだしまうすべき)旨申ければ、書付の儀免(ゆる)し呉候(くれさふらふ)樣申けれども、右書付なくては難成(なりがたし)、内々の事に候とも、我等歸り候ての勘定もあれば、(是迄の通道中)書付は是非書呉(かきくるる)樣望(のぞみ)しに、右の者共何か相談ありとて、其座を暫く退(のき)て壹人出(いで)、大にお見それ申候、代金には及び不申(まうさず)、御船を申付候由丁寧に申候間、夫は心得違なるべし、我等は御用抔にて通る者にあらず、私用にて罷越す者成りと斷(ことわり)けれども、何分不取用(なにぶんとりもちひず)。隱密役人の廻村(くわいそん)とも見けるや、何分見損じ候由にて合點せざれば、彼者も大きに困りて、右躰(てい)にいたし若し公儀役人など來りなば、似せ役人などゝ疑ひを受んも難計(はかりがたき)故、色々其譯斷けれ共不取用(とりもちひざる)故、然上(しかるうへ)はとて所の役人を呼(よび)て、しかじかの事に難儀の由委敷(くはしく)語りければ、是迄應對せし者を叱りて、渠等は事を不辨(わきまへざる)故難儀を懸けし事、高瀨(たかせ)其外は御用の程も難計間難手放(はかりがたきあひだてばなしがたし)、されど某(それがし)所持の田舟(たぶね)あれば是にて送らんとて、所の船頭に申付(まうしつけ)事故(じこ)なく彼(かの)心ざす所迄返りて、船賃を尋しに鳥目(てうもく)百文給申(たまはりまうす)べしといひし故、骨折也(なり)とて貮百文與へけるが、暫し右の事にて難儀せしと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「桑原何某」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場しない。
・「在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事」は「ざいかたのものこころえちがひにひとのがいをひきいださんとせしこと」と読む。
・「越ケ谷」現在の埼玉県越谷市。当時の「下総」は現在の千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県の東辺・東京都の東辺(隅田川の東岸)に当たり、実は越谷自体が戦国期まで下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属する地域で、古く南北朝期までは藤原秀郷の子孫下野国小山氏の一門下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園でもあった(但し、江戸初期に太日川より西の地域を武蔵国に編入したのに伴い、元荒川より北の地域が武蔵国に編入されている)。当時の越ヶ谷宿は日光街道の宿場として栄えた(以上はウィキの「越谷市」を参照した)。
・「壹兩壹歩」一両の価値は算定しにくいが、後の鐚銭の私の推定値から逆算すると、大凡、一両は二万四〇〇〇円から高く見積もっても五万円程度、「歩」は「分」で一両の1/4として、三万円~六万三〇〇〇円辺りを考えてよいか。これでも、十分、とんでもないぼったくりの金額である。
・「(是迄の通道中)」底本には右に『(尊經閣本)』で補った旨の傍注がある。
・「右書付なくては難成、内々の事に候とも、我等歸り候ての勘定もあれば、(是迄の通道中)書付は是非書呉(かきくるる)樣」これは私の推測であるが、在方の者どもは、彼の書付への拘り、「内々の事」「勘定」「是迄の通道中」という意味有りげな言葉に反応したように見える。そもそもこの時、彼は浪人であったのか、なかったのか、また、この前の役所に提出するというのが、何を目的としたものなのか。私事と言っているから、旅費が公的に支出されるとも思われない。関所を越える訳でもないから、実際の旅行証明が必要であった訳でもあるまい。にも拘らず、何故、そうした提出を必要としたのであろう? それとも、実はこの浪人のこの意味深長な彼の言いや、「勘定」「書付」というのも、高額を吹っ掛けてきた彼らへの、意識的な機略ででもあったたのであろうか?……識者の御教授を乞うものである。
・「何分見損じ候」の「見損じ」は見誤る、認識を誤るの意で、これは相手の直接話法で、「何ともはや、お見それ致しました」という卑小の謙譲表現である。
・「高瀨」高瀬舟。河川や浅海を航行するための船底を平らにした木造船。
・「田舟」稲刈りの際でも水を落とすことが出来ない田(沼田)での稲刈りに用いた農耕用の木造船。底の浅い箱のような形をしおり、稲を乗せて畦まで運ぶ便を考えて、底は箱の長手方向に少し湾曲させて造船されている。
・「鳥目百文」鐚(びた)銭一文は凡そ現在の三円六〇銭から五円程度で、三六〇~五〇〇円、二百文では七二〇~一〇〇〇円となる。この謂いからは、田舟タクシーの通常料金(なんてものがあったとすればだが)は恐らくは、距離にはあまり関係がなく、五〇〇円以下が相場であったのだと私は考える。
■やぶちゃん現代語訳
田舎の者が心得違いを起こして旅人に害を働かんとした事
私の元へしばしば参る、桑原何某と申す浪人の話で御座る。
「……かつて拙者、急用の御座って、下総辺りへ参らんと、江戸を立って越ヶ谷の先まで辿り着きましたが、この先の道中筋、秋の頃にて、出水(でみず)致いて御座って――日光本街道沿いは、そうひどうは御座らんだが――我らが向かわんとする所へ通ずる、これ、横道なんどはもう、田畑も溝も川も道も、見分けのつかざるほどの、一面水浸しにて、とてものことに、徒歩(かち)にては行かれようものにては、これ、御座らなんだ。
そこで、かの足止めされた旅籠にて、その亭主や所の村人なんどを呼び招き、
「拙者、これ、火急の用向きにて、下総の××まで参る途中で御座る。何卒、舟なんどにても、かの出水致いておる場所を通り抜けることの出来る方途、これあらば、お渡し下されい!」
と頼みましたところ、彼ら、承知致いた故、早速に船賃を決めてくれ、と申しましたところが、何と、一両一分、と平然とほざいて御座った故、我らも、
『……あまりと言えばあまりの高値(こうじき)……我らが困窮困憊と知っての吹っ掛け、理不尽なる高料(こうりょう)に申すことじゃ!……』
と思うと、向かっ腹も立ち申したが、危急の折りなればこそ、仕方なく、黙って金子(きんす)を差し出だし、
「なお――受取の書付を。――しかるべき我らが住まうところの役所役人へ、本旅程の経費一式、これ、提出致さねばならぬ故、の。」
と申しましたところが、
「……い、いえ、……書付の儀は、こ、これ、ご、ご勘弁の程……」
と申します故、
「何を申す。拙者方、書付なくては、どうもこうも、ならぬわ! この度のことは、これ、内々の旅にては御座れど、我ら帰って御座った後の勘定の事も、これ、御座れば――いや、ここに至るまでの道中にても、同様の仕儀を致いて参った故――書付だけは――これ、是非とも、書いて貰わねば、ならぬ!」
と気色ばんだところ、彼ら、何やらん、急にそわそわしだし、
「……ち、ちょいと、相談ごとが、御座いますんで、へぇ……」
とて、その場を立って御座った。
暫く致いて、中の一人だけがやって参り、
「……大変にお見それ致しやしてごぜえやす……へぇ、お代金には、これ、及びやせん……お武家さまのお船、これ、すぐに申し付けて、ご用意致しやすで……」
と、掌を返した如く、妙に慇懃なる様子なれば、
「……そなたたち――何か誤解して御座らぬか? 我らはただ、書付さえ貰えばよい、と申して、おる。――我らは、御用で通ろうという者にては、これ、御座ない。――あくまで、私用にて、先方へ参らねばならぬという者じゃぞ?!」
と諭しまして御座るが、これもう、我らが話には、いっかな、とり合(お)おうとは、致しませぬ。……これ、どう見ても……我らを、隠密役人の極秘裏の廻村(かいそん)か何かとも勘違い致いたものか、
「……へへぇ、っ!……いやもう……大きに、お見それ致しやして御座りまするぅ……」
と平身低頭するばかり、我らが言いを聴く耳持たざる体(てい)……。
いや、これには拙者こそ、大いに困って御座った。
……もし、このまま知らぬ振りを致いて船に忠度、基い、ただ乗り致し、その後に、もし、御公儀の御役人などが来たってでもせば、今度は、我らが逆に、贋(にせ)役人と、疑いを掛けられんとも限りませぬ。
さればこそ、そうした事実を縷々述べて、彼らの誤解を解かんと致しましたが、もう、彼らの思い込みは、これ、化石したようなもので御座る。いっかな、馬の耳に念仏、で御座った。
我らも時間が御座らぬ。
「然る上は!――」
とて、我ら、かの地の下級官吏を、これ、有無を言わさず、宿へと呼び出ださせ、
「――かくかくしかじかのことにて、大層、難儀致して御座る!」
と委細を語ったところが、これを聴いた役人、これまで応対して御座った者どもを全員その場に呼び出だし、一喝した上、
「――この者ども、事を弁えざるによって、貴殿には難儀をお掛け申した。――高瀬舟などは、御用にて用いらるることが御座る故、当役所方より舟を御用立て致すことは、これ、出来兼ね申すが――某(それがし)が私(わたくし)に所持して御座る田舟(たぶね)が、これ、あり申す。――これにて、先方へと送らせましょうぞ。」
とて、地元の船頭に申し付け、無事我らは、目指す下総の在所へと送って貰うことが出来申した。
田舟を返す折り、船賃を尋ねましたところが、
「……へえ……多分ながら、この出水の折りなれば……鳥目百文頂きとう、存じます……」
と申して御座った。
「骨折りじゃったの。」
と、倍の二百文を渡しまして御座います。……
……いやはや、随分、あれやこれや、難儀致しました……」
と語って御座った。
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