鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺
光觸寺〔或ハ光澤寺工作ル、非ナリ〕
光觸寺ハ道ヨリ南ノ端也。山號モ光觸山卜云。開山ハ一遍上人、藤澤ノ末寺也。光觸寺卜額アリ。後醍醐天皇ノ宸筆也。本尊ハ阿彌陀也。長ハ法ノ三尺卜云、靈佛也。脇立ハ勢至、湛慶作、觀音、安阿彌作ナリ。
順德院ノ御宇、建保三年ニ源實朝ノ婢妾村主ノ氏女卜云者、運慶ヲ賴テ此彌陀ヲ作ラシム。彌陀ノ四十八願ニ准ジテ四十八日ニ成就ス。又湛慶・安阿彌ヲシテ、同體ノ彌陀三像四十八日メノ同時工作リ畢ラシム。氏女持佛堂ニ安置シテ萬藏法師卜云者ヲシテ、常ニ香華ヲ捧ゲシム。後寓歳法師ガ勸(スヽメ)ニ因テ、男女佛道ニ歸依シ、薙染シテ遁去ル者多シ。氏女怒テ火印ヲ以テ寓歳ガ頰エアテケル時、此彌陀身替ニタチテ左ノ頰燒タリ。因玆(茲に因りて)寓歳罪ヲユルサル。氏女懺悔シテ佛師ヲ召テ廿一度迄火痕ヲ修理スレドモ成就セズ。今ニ燒痕アリト云ドモ、時既ニ闇シテ見へズ。俗ニ頰燒阿彌陀卜云也。委クハ縁起二見へタ[やぶちゃん注:底本には編者により『(リ)』と送られている]。縁起二卷、筆者ハ藤爲相、繪ハ土佐ナリトゾ。究テ奇絶ナル繪ナリ。跋ニ文和第四暦暮秋下旬權大僧都靖嚴トアリ。縁起ヲ寄進スル由ヲ書ケリ。厨子ハ持氏將軍ノ寄進ナリトテ、誠ニ昔ノ風彩殘テ見ユ。初ハ田代ノ阿闇梨卜云者、比企谷[やぶちゃん注:底本には編者により『(ニ)』と送られている]〔或ハ岩ニ作ル〕藏寺卜云寺ヲ立テ、此佛ヲ安置ス。其時ハ天台宗ニテ有シヲ、持氏ノ屋敷へ近キ故ニ、此所へ移シテ時宗ニナルト也。尊氏・氏滿・滿兼・持氏ノ位牌アリ。堂ノ前ニ小祠アリ。熊野權現ヲ勸請シタリトナリ。
[やぶちゃん注:「源實朝ノ婢妾村主ノ氏女卜云者」の「婢妾」は下女兼側室の謂いである。こうはっきりと書かれたもの見たことがないが、考えて見れば村主(すぐり)という父姓を示し、他の伝承では「町の局(つぼね)」という房号が示され、尚且つ、運慶を始めとする当代の名仏師に彼女自ら作仏を命じ得るというのは、これ、相当な地位でなければならぬことになる(私の偏愛する頰焼阿彌陀について私が今日までこの事実に思い至らなかったことに慚愧の念を覚える)。
「後寓歳法師ガ勸ニ因テ、男女佛道ニ歸依シ、薙染シテ遁去ル者多シ。氏女怒テ火印ヲ以テ寓歳ガ頰エアテケル」というカタストロフへのプロットも微妙に「新編鎌倉志卷之五」の「光觸寺」に載る、現在、人口に膾炙するものと異なる。寧ろ、当該注で示した「沙石集」の信心者の少女のストーリーからの推移過程が窺われて興味深い。是非、比較されたい。
「闇シテ」「くらくして」と訓じていよう。
「文和第四暦」正平十(一三五五)年。
「靖嚴」不詳。この奥書の寄進文は「新編鎌倉志卷之五」や「鎌倉攬勝考」にも載らない。
「〔或ハ岩ニ作ル〕藏寺」の右上方には『像ヲ歟』という傍注がある。これは割注の上に本来は字があったが、恐らくは書写の中で失われたか判読が著しく難しくなり、昔の書写した人物が「像」の字が「藏寺」の割注の前にあったか、と書き添えたものと思われる。くどい様だが即ち、「像藏寺」は或いは「岩藏寺」にも作る、の謂いである。正しくは恐らく現在の山号である「岩藏」であろう。因みに、これについては後掲される「田代觀音」の条も参照のこと。]
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