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2012/10/03

耳嚢 巻之五 不思議に人の情を得し事

 不思議に人の情を得し事

 

 予が許へ常に來る小川氏の同心の隱居長兵衞といへる者語りけるは、世の中には不思議の事もありけり、彼(かの)長兵衞が甥に御掃除を勤けるが、兩親永煩ひして父は相果母妹のみ成しが、纔(わづか)十五俵の御宛行(あてがひ)の内、父の長病にて誠(まこと)危急旦夕(たんせき)にせまりし故、母は長兵衞世話なして再緣させけれど、兄弟の者寒暑の凌(しのぎ)もなりがたく、御掃除の御奉公も成がたければ、妹を賣て今日を凌べしと進むる者あれど、遊女奉公にうらんも便(びん)なしと歎き悲しみしが、長兵衞儀或日用事有て兼て心安くせし大貫(おほぬき)の許に至りて四方山の物語の序(ついで)、此事の哀成(あはれなる)事を語りしが、襖を隔(へだて)て聞きける者ありて、夫(それ)哀成事也(なり)とて其日立別(たちわか)れしが、翌日右襖越しに聞たる男尋來りて、右妹を賣れる相談一兩日見合可然(みあはせしかるべし)とて、又兩三日過て金子何程あれば勤もなるやと尋ける故、僅(わづか)四兩程の事と述(のべ)ければ、則(すなはち)懷中より右金子を出し與へて、是は我等の金子にあらず、さる町家の者のかゝる事を聞て不捨置(すておかざる)仁(じん)ある故、御身の物語をせしに此金子を贈りたる也、必(かならず)姓名を隱しぬれば名前は語らざれ共、我等の念(ねん)なれば受取りて給はるべしといひし故、志の忝(かたじけなき)を述て則其身幷(ならびに)兄の請取手形して遣し、さるにても今の危急を救ひ給ふ事忝し、向ふにて名を隱し給はゞ外へは洩すまじ、我も天道への禮儀なれば其禮を述度(のべたき)と言しに、然らばとて其名を教ける故、右の者案内にて呉服橋邊の格子作りにして貧しからざる家へ至りければ、亭主出て挨拶をなし、我等はむかしは大鄽(おほみせ)を商せし身分なれど、身上(しんしやう)しもつれてみせをも仕廻ひけるを〔此者明和の頃迄本町筋にて(大丸越後屋といゝし呉服鄽と云(いふ)。)〕、此度御身に金子の世話せし人の情にて、一日深川邊へ蟄居せしを、諸家の貸金又は勝手の世話抔して今如此(かくのごとく)暮しける也、右我身幷此度の娘の難儀救ひしは右親方なれど、名前は至て隱しぬれば語らず、人の難儀を救ふ事を願望(ねがひのぞむ)故かく取計(とりはからひ)しと語りし故、厚く禮謝して別れしが、右娘をも彼(かの)呉服橋の者世話して水戸の家中へ奉公濟(すみ)なさしめ、長兵衞も貧家ながら衣服調度世話をなしけるが、彼(かの)施人(ほどこしびと)よりや又は呉服橋の男なるや、夜具ふとんの類ひを取揃(とりそろ)へて奉公先へ送り、不思議に世話に成しと語りぬ。右は陰德を專ら執行(とりおこな)ふ者なるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「小川氏の同心の隱居長兵衞」不詳。「小川」姓も「長兵衞」もここまでの「耳嚢」には登場しない。途中に登場する長兵衛の古馴染み「大貫」なり人物も不詳。この「大貫」という固有名詞の登場は、やや唐突である。これ、実は当時の「大丸」越後屋のアナグラムではあるまいか?

・「御掃除」掃除之者(そうじのもの)は江戸幕府職名の一つ。江戸城内の御殿の清掃を主な任務とした役職で、使い走りや物資運搬にも従事した。目付の支配、御中間・御小人・御駕籠之者・黒鍬之者とともに五役(ごやく)と呼ばれる職であった。役高(本文で言う「宛行(あてがひ)」扶持。以下の石高よりはよい)は概ね十俵から十二、三俵で一人扶持、譜代席で白衣勤め。定員は約一八〇人前後(時代によっては二〇〇人以上だったこともある)。これを三組に分けて組頭を置き、更にこれを三人の掃除之者頭が統括した。世襲制(以上は主にウィキの「掃除之者」に拠った)。

・「念」確かなこと。事実として確認した証明のこと。

・「呉服橋」江戸城外濠の橋名。現在の千代田区と中央区八重洲一丁目(現在の呉服橋交差点)にあったが現存せず、町名もなくなって、交差点の名称のみが残る。

・「身上しもつれて」「しもつれる」は「為連れる」と書き、元は「しもぢれる」(「為捩(しもじ)れる」)で、することがねじれて上手くいかない、事が円滑に運ばない、こじれて悪くなる、商売が左前になる、といった謂いを示す。

・「〔此者明和の頃迄本町筋にて(大丸越後屋といゝし呉服鄽と云。)〕」は珍しい割注で、更に( )の部分は、底本右に『(尊經閣本)』で補った旨の傍注がある。訳では出したくないので。ここに訳しおく。

(この者は明和の頃まで、本町筋にて「大丸越後屋」と称した呉服店であるという。)

「大丸越後屋」現在の大丸百貨店の前身である大丸越後屋について、岩波版長谷川氏注に『大丸屋正衛門の店は一時閉店の危機があったという。これか。』と注する(但し、ここにあるような閉店が実際にあったものとは思われない。ここが本話が大丸発展史の中の、戦略的都市伝説の一種である可能性を窺わせるところである。この噂はそれが事実でなくとも、「大丸越後屋」の印象を高めることになるからである。

 大丸越後屋の創始者下村彦右衛門正啓(元禄元(一六八八)年~寛延元(一七四八)年)は伏見生。十九で古着商を継ぎ、享保二(一七一七)年に伏見に小店舗大丸屋を創業、享保一一(一七二六)年に大坂心斎橋に共同出資の呉服店を開き、その後も各地に店舗を拡充、寛保三(一七四三)年に江戸大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に江戸店を開店した。その辺りの経営戦略とポリシーを日本経済新聞社と野村インベスター・リレーションズの共同運営のIRマガジン二〇〇五年新春号第一六八号に載る「先駆者たちの大地 株式会社大丸」の以下のページから引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『大丸の進出計画は、開店の七年前である一七三六年(元文元年)から開始され、開店五年前の一七三八年(元文三年)に、正啓は江戸の同業者を訪ね、取引を約束して京呉服を送った。その荷物のなかに、○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷が何枚も同梱されていた。大きく便利な風呂敷だったため、取引先の使用人たちはこの風呂敷を頻繁に背負って歩き、やがて江戸の町々で大丸屋の名前が知られるようになった。こうして大丸屋江戸店開店は江戸中で大きな評判になった』。『正啓の商売のなかでPRとサービスは大きなポイントなのだが、江戸店開設の際にも新しいサービス「大丸借傘」が開始された。店の客だけでなく、にわか雨に困る通行人にも大きな商標のついた傘が貸し出された。このサービスは江戸店から全店に拡大されて継承され、明治の終わり頃まで大丸の名物となっていた』。『PR手法のアイデアだけでなく、正啓の商売は最初から革新的だった。大文字屋の創業当時、支払いは半年または一年計算の掛け売りが主流であったが、正啓は大阪出店と同時に「現銀掛け値なし」の商いを始めた。掛け値とは利子を含めて実際の売り値より高くつけた値段のこと、また大阪では通貨が銀だったため現銀とは現金のこと。つまり現金で定価販売することを意味している。店としては資金の回転が早くなり、それだけ安く売ることができるため、客にとってもメリットが大きい。また小口買いができるようになったため、顧客層は富裕層から一般大衆に広がり、マーケットはしだいに拡大していった』。『こうした正啓の先進的な経営の中核にはひとつの哲学があった。それが「先義後利」である。この言葉は、中国の儒学の祖のひとりである荀子の「栄辱篇」のなかに出てくる「義を先にし、利を後にする者は栄える」という節から引用したもので、現代の言葉で言い換えれば「顧客第一主義」ということである。すべての経営活動をこの精神を根本理念として統合する、いわばコーポレート・ガバナンスをこの時代に取り入れていたという意味で、これは革新的な経営手法であったといえる。この言葉は大丸の精神の根本となり、現在も企業理念として受け継がれている』とある。但し、時代的に見て本話の主人公は彼ではあり得ない(話柄の冒頭は現在形で語られているが、執筆推定の寛政九(一七九七)年春前後では彦右衛門正啓が亡くなって四十年近くが経っているからである)。――しかし、確かにこの謎の御仁は、正しく彦右衛門正啓の法嗣であり、彼の経営哲学「先義後利」が、ここに確かに生きていると言える。

・「勝手の世話」武家や町家のマネージメントや経営相談。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不思議に人の情けを得た事

 

 私の元にしばしば訪ねて参る――小川氏の同心を致いておる、隠居の長兵衛とか申す者が御座る。

 その者が、

「世の中には不思議なることの、これ、あるもので御座るよ……」

と語り出す。……

 

……我らが甥御(おいご)に江戸城内御掃除之者を勤めて御座った者がおりましたが……両親ともに、これ、長患い致いて……果ては、父の相い果て、病弱な母と若き妹の三人暮らしと相い成って御座った……が、僅か宛がい扶持十五俵の内、父が長患いに大枚の金を使(つこ)うて借金だらけ……まっこと、これ、危急存亡の期(とき)に御座った。

……母は何とか、我らが世話致いて再縁させましたれど……兄妹らは、これ、寒暑の凌ぎもなしがたく、兄の御掃除役の御奉公にさえ差し支えの起る有様なれば、

「……妹を売って、糊口を凌ぐしか、あるまい……」

と勧むる者もおったが、

「……我ら二人きり……妹を遊女奉公に売らんは、これ、余りに不憫……」

と歎き哀しみ、飢え凍えて御座った。……

……さて、ある日、我らこと、とある用事の御座って兼ねてより心安うして御座った『大貫(おおぬき)』なる御仁の元を訪れましたが……四方山(よもやま)の物語の序でに、我らが甥御の哀れなることをつい愚痴りました。……その時、襖を隔てた部屋におられた、大貫氏の客人と思しいお人が、我らの話を聴いて、襖越しにて、

「……それは……如何にも哀れなることじゃ……」

と呟かれて御座った。

 その日は、その後、大貫氏との用も済んで、帰りましたが、その隣室の御客人のお顔だけは、その憐憫のお声掛けとともに、覚えて御座った。

 さても翌日のこと、まさに、その大貫氏屋敷の隣室に控えておられた御仁が、これ、我らが元へと訪ね来られ、唐突に、

「――お武家さま、昨日の甥御さまの、あの妹御(いもうとご)を売らんとする話で御座るが――これ、一両日、見合わせておくなさるよう、お伝え願(ねげ)えやす。――」

と言うや、さっさと踵を返して帰って御座った。

 そうして三日経つと、またかの男が参った故、たまたま我が家を訪ねて、向後のことを語り合(お)うて御座った甥御も同席させ、会(お)うてみたところが、男は単刀直入、甥に、

「――お武家さま、失礼乍ら、有り体(てい)に申しやすが――金子は、これ、如何程御座らば、御役目を続くるに足りやすかな?」

と訊ねる故、甥御が、

「……は、はい……四両ほども、御座れば……」

と答えた。と、男は即座に懐中より、その四両ほどの金子をとり出だいて、我ら二人に向かい、

「――お武家さま方、これは我らが金子にては、これ、御座らぬ。――さる、町家のお人で――こうした話をお聴きになると、これ、そのまま捨て置くことのお出来になれねえ――そうさ、仁(じん)のみ心を――これ、お持ちになられた、とあるお方が御座って――そのお方に、先般のお話を致しやしたところが――そのお方より、この金子を賜って御座った。――そのお人は――これ訳あって、決して姓名を明かさざるが常のお方なれば――名前は申しませぬが……いや! これらのこと、これ、我らが確かにこの耳で聴き、この手で受け合(お)うて認め致いたことなればこそ――一つ、この金子はお受け取り、願(ねげ)えやす。」

と申しました。

「……お、お志し!……まっこと! 忝(かたじけな)い!!……」

と我らと甥御と連名にて受取の手形を書し、かの男に渡して御座ったが、我ら、

「……いや、それにしても、この危急を救うて下されたこと……これ、何と申しても忝きことにて……先様(さきさま)にて御名をお隠しになられておらるるとあらば……これ、決して外(ほか)へは漏らしませぬ故……どうか一つ、天道(てんどう)に則(のっと)る礼儀なればこそ! 是非、この御礼をば、述べとう御座る!」

と申しましたところ、かの男は、

「……さらば……」

とて、そのお方の名(なあ)をお教え下すった。

 そうして、その男の案内(あない)にて、二人してその御仁に挨拶に参ったので御座る。

 さても、その場所は……まあ、細かくは申せませぬが……呉服橋辺りの……格子窓の、貧しからざる町家へと至りまして……そこな亭主の現われて挨拶致いたところ、その御仁の曰く、

「……我らは……昔は大店(おおだな)を張って商いを致いておりました身分の者にて御座いました……が……その商いも左前となり、店をも畳んで仕舞(しも)うたので御座います……が……ほうれ、この度、お武家さまに、金子貸借の世話を致しました、この、こちらのお方の、深いお情けにて……一旦は深川辺に閑居致いておりましたものの……今は諸家への金子貸付、勝手方の世話なんどを致いてかくの如く、何とか暮らして御座います。……なればこそ……私を救うたは、このお方で御座います。……この度の娘御の難儀を救うたも、この親方に救われた我らの成したことなれば、これ……娘御を救うたもまた、この親方にて御座います。……ところが実は、このお方もまた、名前は固く秘しておらるれば……御名を語らず……されば、我らもそのお蔭に御座れば、やはり、と申す次第にて御座いまする。……ともかくも、このお人は、人の難儀を救うことをのみ願い望まれて……このようなる取り計らいを、なされておらるるので、御座いまする……」

と語って御座った。

 我らと甥御と、ともかくも、厚く礼謝致いて、そこを辞して御座った。

 その後も、かの妹、かの呉服橋の者の世話にて、目出度く、水戸の御家中へ屋敷奉公なさしめて下すって御座ったじゃ。また、その奉公の折りには――いや、勿論、我ら方も貧家ながら、姪御の衣服やら調度やら、可能な限りは、買い揃えなんど致いたので御座るが――例の……奇特なる親方の方か、それとも、かの呉服橋のお方かは分からねど、夜具・布団の類いを、これ、取り揃えて奉公先へとお贈り下された。……いや、もう、全く以って……不思議に世話になり申したじゃ……。」

 

と語って御座った。

 この不思議なる二人の者は、これ、所謂、陰徳を専ら執り行(おこの)うを己(おの)が信条と致す者なので御座ろう。

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