生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(8)/了
以上述べた通り、敵の攻撃を免れるには隱れることは最も有功であつて、大概の動物は必ずこれを試みるものであるが、たゞ隱れて居ることによつてのみ身を護る動物では、身體の形狀・構造にもこれに應じた變化が現れ、恰も寄生動物などの如くに、運動の器官と感覺の器官とは少しづつ退化し、生殖の器官は發達して、子を産む數は比較的に多くなるのが常であるやうに思はれる。
「たこ」・「いか」の類は敵に逢うたとき身を隱すに一種特別の方法を用ゐる。即ち濃い墨汁を出し、これを海水に混じて漏斗から吐き出すのであるが、かくすれば海水中に遽に大きな不透明な黑雲が生ずるから、「たこ」・「いか」の體は全く敵から見えなくなり、黑雲が漸々薄くなつて消え失せる頃には、已にどこか遠くへ逃げ去つた後であるから、敵は如何ともすることが出來ぬ。「たこ」・「いか」の胴を切つて見ると、腸の側に多少銀色の光澤を帶びた楕圓形の墨嚢があるが、これを少しでも傷つけると、忽ち中から極めて濃い墨が流れ出てそこら中が眞黑になる。このやうな特別の隱遁術を用ゐて身を守るものは、全動物界の中に恐らく「たこ」・「いか」の類より外にはなからう。
[やぶちゃん注:ここでは、過去に私がブログで書いた「蛸の墨またはペプタイド蛋白」という記事を以って注に代えたい(少し加筆してある)。
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――蛸の墨またはペプタイド蛋白――
イカスミは料理に使用するが、蛸の墨はタコスミとも言わず、料理素材として用いられることがないことが気になった。ネット検索をかけると、蛸の墨には、旨味成分がなく、更に甲殻類や貝類を麻痺させるペプタイド蛋白が含まれているからと概ねのサイトが記している。
では、それは麻痺性貝毒ということになるのであろうか(いか・タコの頭足類は広い意味で貝類と称して良い)。一般に、麻痺性貝毒の原因種は有毒渦鞭毛藻アレキサンドリウム属
Alexandrium のプランクトンということになっているが、タコのそのペプタイド蛋白なるものは如何なる由来なのか? 墨だけに限定的に含まれている以上、これは蛸本来の分泌物と考える方が自然であるように思われる。ただ、そもそも蛸の墨は、イカ同様に敵からの逃避行動時に用いられる煙幕という共通性(知られているようにその使用法は違う。イカは粘性の高い墨で自己の擬態物を作って逃げるのであり、タコは素直な煙幕である)から考えても、ここに積極的な「ペプタイド蛋白」による撃退機能を付加する必然性はあったのであろうか。進化の過程で、この麻痺性の毒が有効に働いて高度化されば、それは積極的な攻撃機能に転化してもおかしくないようにも思われる。しかし、蛸の墨で、苦しみ悶えるイセエビとか、容易に口を開ける二枚貝の映像は見たことがない。また、蛸には墨があるために、天敵の捕食率が極端に下がっているのだという話も聞かない。
更に、このペプタイド蛋白とは何だ? 化学が専門の知人にも確認したが、ペプタイドとペプチドはPEPTIDという綴りの読みの違いでしかない。しかし、更に言えば彼女も首をかしげたように、「蛋白」という語尾は不審だ。そもそも、ペプチドはタンパク質が最終段階のアミノ酸になる直前に当たる代謝物質なのであって、アミノ酸が数個から数十個繋がっている状態を指すのであってみれば、この物言いはおかしなことになる。彼女は、その繋がりがもっと長いということかしらと言っていたが、僕も、煙幕が張られているようで、どうもすっきりとしない。調べるうちに、逆に蛸壺に嵌った。
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「遽に」「にわかに」。]