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2012/10/17

耳嚢 巻之五 陰凝て衰へるといふ事

 陰凝て衰へるといふ事

 

 右藤田元壽へ右尼の語りけるは、近年吉原町(まち)次第に衰へて不繁昌に成し事、譯こそあるべき也、吉原町は江戸の北方に當りて陰地也、陰地陰を集めて渡世なせる事故、古へ庄司勘左衞門右曲輪(くるわ)取建(とりたて)ける頃より、廓中に井戸を掘る事を禁じ、廓外より日々汲事(くむこと)にてありしが、いつの頃にや、江戸町に住(すめ)る丁子屋(ちやうじや)といへる遊女屋、右の事にも心付ざりしや、當時の便理(べんり)を思ひて掘拔井(ほりぬきゐ)を拵(こしらへ)けるを、追々見及(みおよび)て今は廓中に數多(あまた)の井戸を掘りしが、陰に陰をかさねければ、土地の衰へしもことわり也と言しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話の藤田元寿聴取になる数奇な運命の尼ごぜの語りの続話。

・「吉原町(ちやう)は江戸の北方に當り」吉原では「京町(きょうまち)」以外は「町」は「ちょう」と呼ぶ(本注で参照したウィキの「吉原遊廓」にそうある)。この話は当時の江戸庶民が読んでも「おや?」っと思う疑問がある。何故なら、吉原は当初、当時の海岸に近い日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町付近)とよばれる(葦=葭(よし)の茂る原であったことから「吉原」と呼称)にあり、ここだと江戸城の真東に当たるからである。明暦三(一六五七)年一月の明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ(但し、幕府による移転命令自体は前の年の明暦二年十月に出されていた)。以下は元吉原創建当時の話から始まっており、北で陰地というのは当て嵌まらないからである。なお、新吉原も細かく言うと真北ではなく東北に当たる。おや? 正に鬼門だ。そうか! 江戸の鬼門は実に数多の遊女たちによって鉄壁の守りがひかれていたのか!

・「北方に當りて陰地也、陰地陰を集めて渡世なせる」陰陽五行説では「北」は陰、「女」も陰であるから、新吉原は重陽ならぬ重陰の劣性の地と生業(なりわい)だと言うのである。

・「庄司勘左衞門」底本には『(尊經閣本「甚左衞門」』という傍注が附される。ウィキの「吉原遊廓」には元誓願寺(豊島区南長崎にある寺か)前で遊女屋を営んでいた『庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)』とある(但し、底本の鈴木氏注には、『北条氏に仕えたが、小田原没落後江戸柳原に住んだ』とあってやや齟齬がある。因みに鈴木氏の注にある没年と享年から彼の生没年は天正四(一五七六)年~正保元(一六四四)年である。名前は現代語訳では正しいものに変えた)。以下、ウィキの記載で略史を辿る。天正一八(一五九〇)年八月一日の家康の江戸に入府後、『江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる』(江戸中期のデータでは人口の三分の二が男性という記録があると記す)。『そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようにな』ったが、『江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後』、慶長一七(一六一二)年に、この庄司甚右衛門を代表として、陳情が行われ、そこでは、

 一、客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

 二、偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

 三、犯罪者などは届け出る。

という三つの条件を示して受理され、元和三(一六一七)年になって『甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある』。明暦の大火後の六月には『大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転し』、新吉原が開業する。その後、寛文八(一六六八)年に行われた江戸市中の私娼窟取締りで娼家主五十一人、遊女五百十二人が検挙されて新吉原に移されたが、『これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた』とある。『明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。一方で、次第に主に東北地方から身売りされた少女達が遊女になるようになり、昭和年間には大半が東北地方出身者で占められるようになっていった。彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、年季を明ける率は極度に低いものであった。まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために遊女を購った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀であった。結果、大半の遊女が生涯を遊廓で終えることとなった。この背景には農民層の貧困が存在していた』。『戦後、純潔主義を掲げるキリスト教女性団体である婦人矯風会の運動などによ』る、昭和三二(一九五七)年四月一日に売春防止法の施行によって『吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身』した、とある。

・「廓中に井戸を掘る事を禁じ」陰陽五行説では「水」も陰である。

・「江戸町に住る丁子屋といへる遊女屋」岩波版長谷川氏注に『新吉原江戸町二丁目に丁字屋があった』と記す。幾つかの記録を見ても、この丁字屋は新吉原からのものと思われ、ここから尼の話は場所が新吉原に移っていることになる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 陰が凝りて衰えるという事

 

(前話の続き)

 藤田元寿へ、この尼は、次のような話も致いた。

「……近年、吉原町(よしわらちょう)は次第に寂(さび)れて、往時の繁昌は見る影も御座いませぬが、これには、訳が御座います。……

……吉原町は江戸の北方(きたかた)に当たって、これ、陰地で御座います。その陰の地に陰なる女性(にょしょう)らを集め、生業(なりわい)と致いたこと故、その昔、庄司甚右衛門なるお方が、かの廓(くるわ)を葭原(よしはら)として創建致しました頃より、廓内(くるわうち)にては井戸を掘ることを禁じ、廓の外より水は汲むことと定めて御座いましたが……それがいつの頃で御座いましょう、江戸町(ちょう)に店を構える丁子屋とか申す遊女屋が、こうした訳も心得ず御座ったものか、当座の便利をのみ思うて、掘り抜きの井戸を拵えましたのを周囲も見及び、これを真似て、どこもかしも、廓中に数多(あまた)の井戸を掘りまして御座います。……陰に陰、更に今一つ陰を重ねたことなれば、土地の衰えたも、これ、理(ことわり)に御座います。……」

と申した、とのことで御座る。

(後日に続く)

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