北條九代記 右大將賴朝創業
○ 右大將賴朝創業
爰に右大將源朝臣賴朝は淸和天皇十代の後胤左馬頭義朝の三男なり。後白河院の御宇保元三年二月に生年十二歳にして皇后宮權少進(ごんのせうしん)に補(ふ)せられ、右近少監上西門院藏人になされ、二條院平治元年十二月十四日右兵衞佐に任ぜられ、源家貴顯の時至りける所に、同じき十二月二十七日父左馬頭義朝は右衞門督藤原信賴に賴まれ、謀叛に與(くみ)して、淸盛の爲に没落して、東國に赴き、長田莊司に討たれ給ひぬ. 賴朝は十四歳にして、彌平兵衞宗淸に生捕れ、殺さるべきに定りしを、池禪尼にたすけられ、伊豆國蛭が小嶋に流され、伊藤入道祐親が館におはします。祐親是を殺しまゐらせんと計りければ、伊藤を忍出(しのびいで)て、北條時政を賴みて入り給ふ。時政、即ち我が娘政子を合せて婿とす。斯(かく)て二十餘年の星霜を送迎へて、賴朝既に三十四歳に成り給ふ。治承四年四月に高倉宮の令旨を給はる所にその事露顯して、源三位賴政入道父子一族共に宇治の平等院にして、平家の爲に討たれ高倉宮は光明山の鳥居の前にして流矢に中(あたつ)て、御命を落し給ふ。平家大に憤り、今度令旨を受し諸國の源氏等悉く追討すべき由聞えければ、賴朝仰けるは「平家の討手を受て防がんとせば、今の世に誰(たれ)か味方に參る者あらん。徒(いたづら)に手を束(つか)ねて死を待つより外の事有べからず。遮(さへぎつ)て平氏追討の策(はかりごと)をめぐらし、運命を天道に任すべし」とて、北條時政と密談し、藤九郎盛長を使とし、累代源氏の御家人をぞ招かれける。土肥、岡崎、佐々木、工藤、宇佐美、加藤の輩(ともがら)召(めし)に應じて參向(さんかう)す。八月十七日の夜、八牧(やまきの)判官散位兼隆を討て、それより北條を出て、相州土肥郷に赴き、其勢三百餘騎にて石橋山に陣取り給ふ。大庭三郎景親、俣野五郎景久、梶原平三景時、曾我太郎助信、以下三千餘騎にて襲掛る。賴朝の軍敗績(はいせき)して、佐奈田與一、武藤三郎討死す。賴朝は椙山(すぎやま)に登り、伏木(ふしき)の中に隱れ給ふを、梶原平三是を知ながら助け奉る。軍(いくさ)散じて、北條時政、土肥實平、近藤、岡崎尋ね逢ひ奉り、土肥の眞名鶴が崎より舟に乘り、賴朝既に安房國に渡り給へば、三浦介義澄以下迎へ奉り、小山、豐嶋、下河邊(しもかうべ)の輩御味方に参りぬ。甲斐の源氏武田太郎信義、一條次郎忠賴起立(おこりたち)て、旗を揚たり。千葉介常胤は三百餘騎にて賴朝の御陣に参向(まゐりむか)ふ。賴朝今は漸く軍兵を儲け給ふ。其勢都合六百餘騎いづれも一騎當千の勇士として二心なき忠節の人々なれば、たのもしくぞ思ひ給ひけれ。
[やぶちゃん注:「高倉宮」。以仁王のこと。三条高倉に邸宅があったことから、こう別称された。
「敗績」は、大敗して今までの功績を失うこと。
「伏木の中に隱れ給ふ」底本の頭書きには『虛説といふ』とあり、現在知られる一般的な話柄では、現在の湯河原町山中にある洞窟「しとどの窟(いわや)」とする。
「豐嶋」底本では「てしま」とルビするが、採らない。]