鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鹽嘗地藏 /乞情報!「明道ノ石佛ノ放光ノ事」
鹽嘗(シホナメノ)地藏
光觸寺ノ門前、海道ノ北ノ瑞、辻堂ノ内ニ石像アリ。六浦ノ鹽ウリ、鎌倉へ出ル毎ニ商ノ最花トテ鹽ヲ供スル故ニ云也。或云、昔石像光リヲ放シテ、鹽賣打タヲシケル故ニ云卜也。明道ノ石佛ノ放光ノ事、思合セ侍ヌ。五大堂二到ル。
[やぶちゃん注:「最花」初穂料のこと。
「明道ノ石佛」不詳。安土桃山時代の僧に光空明道(こうくうみょうどう)なる人物がいるが、関係あるか? 識者の御教授を乞うものである。【二〇一三年一月二十五日追記】「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を戴いたが、これは、全くの私の凡ミスであった。「新編鎌倉志卷之二」の「鹽甞地藏」の項に記載があった。以下に引用すると、
異域にも亦是あり。程明道、京兆の鄠(う)の簿(ぼ)に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々(としとし)傳へ云ふ、其の首光(ひかり)を放つと。男女集まり見て晝夜喧雜たり。是よりさき政(まつりごと)をなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧を詰(なじ)つて云く、我聞く石佛歳々光を現ずと、其の事有(あり)や否や。僧の云く、これあり。明道戒めて云、又光を現ずるを待ちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事(ゆくこと)あたはず。まさに其首を取て、就(つい)て是を見るべしと云ふ。是よりして又光を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。
大陸の故事の引用であった。「ひょっとこ太郎」氏のメールには『朱子学を極めた光圀としては、朱子学・陽明学の源流と言われた程顥ていこうに私淑していたと考えられますので、こんな逸話を知っていたのかも知れません。あるいは、注釈なしで書いているところから、江戸時代の武士階級なら誰もが知っている有名な逸話だったのでしょうか。私は、聞いたこともない逸話ですが。』とあった。因みに、程顥(一〇三二年~一〇八五年)は北宋の儒学者で、明道先生と称された朱子学・陽明学の源流の一人である。「ひょっとこ太郎」氏に謝意を表する。]
]
« 鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(4)トタテグモ »