生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(5)
[隱れがに]
敵に對して身を守るためには、岩や木や土の中に隱れるものの他に、生きた動物の體内に假の住居を定めるものがある。「はまぐり」「たいらぎ」の貝の中には往々小さな「かに」が居るが、この「かに」は常に肉の間に隱れて居て、殼の開いて居るときでも外へ匐ひ出さぬ。しかし、ただ場所を借りて居るだけで、貝の血を吸ふのでもなく肉を食ふのでもないから、決して寄生とは名づけられぬ。支那の古い書物には「※蛣」という名で[やぶちゃん注:「※」=「虫」+(「嗩」-「口)。]、この「かに」のことが出て居るが、その説明を見ると、「はまぐり」には眼がないから、敵が近くへ來ても知ることが出來ぬが、かかる場合には※蛣が常に宿を借りて居る恩返しに、鋏で輕く貝の肉を挾んで警告すると、貝は急に殼を閉ぢて貝も「かに」も共に敵の攻撃を免れると書いてある。これは素より想像であるが、全く類の異なつた二種の動物が共同の生活をして居るのを見て奇妙に思ひ、考へ附いたことであらう。常に貝の内部に住んで居て、生活の狀態が稍々寄生動物に似て居るから、幾分か寄生動物の通性を具へ、甲は柔く、足は短く、體は丸く肥えて、眼は極めて小さい。卵を産むことの頗る多いのも、やはり寄生動物と相似て居る。或る種類の「なまこ」を切り開いて見ると、體内からこれと同じやうな「かに」の出て來ることが屢々ある。
[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目原始短尾群Thoracotremata(トラコトレマータ)亜群カクレガニ上科カクレガニ科Pinnotheridaeに属するカニ類の総称。同科の種の殆んどは貝類等の他の動物との共生性若しくは寄生性を持つ。甲羅は円形乃至は横長の楕円形を呈し、額は狭く、眼は著しく小さい。多くの種は体躯の石灰化が不十分で柔らかい。本邦には四亜科一四属三〇種が知られる。二枚貝類の外套腔やナマコ類の総排出腔に棲みついて寄生的な生活をする種が多く、別名「ヤドリガニ」とも呼称する。一部の種では通常は海底で自由生活をし、必要に応じてゴカイ類やギボシムシなどの棲管に出入りするものもいる。以下に示す基準種の属名
Pinnotheres から「ピンノ」とも呼ぶ。丘先生の言われるように、宿主の体を食べることはないが、有意に宿主の外套腔や体腔等の個体の内空間域を占拠するため、宿主の発育は阻害されると考えられ、この点から私は寄生と呼ぶべきであると思っている(以上の記載は主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」及び平凡社「世界大百科事典」の記載を参考にし、以下の種記載は主に前者に拠る)。以下に貝類に共生する代表種三種と本文最後に示されるナマコ共生性の一種とその近縁種一種の計五種を示しておく。
カクレガニ亜科オオシロピンノ
Pinnothres sinensis
甲長は♂四ミリメートル以下、♀一四ミリメートル以下。乳白色の甲羅の表面は平滑で辺縁部には歯(ギザギザの突起)はない。カキ・イガイ・アサリ・ヒメアサリなどの外套腔に寄居する。分布は房総半島以南九州まで。
カクレガニ亜科カギヅメピンノ
Pinnotheres phoradis
最もよく見かけるピンノ類で、歩脚の指節(先端部の節)は短く鉤爪状になっている。アサリ・ハマグリ・イガイ・アズマニシキ・ヒオウギなどの外套腔に寄居する。
カクレガニ亜科クロピンノ
Pinnotheres boninensis
上記のカギヅメピンノ
Pinnotheres phoradisに似ているが、歩脚の指節が長く、生時は紫黒色をしている。ケガキ・マガキなどカキ類の外套腔に寄居する。分布は東京湾から紀伊半島及び小笠原諸島。
マメガニ亜科シロナマコガニ
Pinnixa tumida
甲長は七ミリメートル以下。鉗脚(第一脚)の長節(頭胸部に最も近い長い節)には長い軟毛は密生する。可動指(鉗脚の尖端の鋏の外側部分)の内縁には一個の大きな歯(隆起した突起)を持つ。歩脚は第一・第二対に比して第三対が際立って太い。浅海の砂泥底に棲む棘皮動物門ナマコ綱Apodacea 亜綱隠足目カウディナ科シロナマコ Paracaudina chilensis の総排泄腔に寄居する。分布は函館湾・陸奥湾・男鹿半島より記録されている。
マメガニ亜科ラスバンマメガニPinnixa rathbuni
上記のシロナマコガニ
Pinnixa tumida に酷似するも、本種は環形動物門多毛綱フサゴカイ目フサゴカイ科 Loimia 属チンチロフサゴカイ Loimia verrucosa の棲管内に寄生するも、時として大群で海面上を群泳することがある。
参照した「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」には、ラスバンマメガニPinnixa rathbuniの最後に記した群泳行動について、『カクレガニ科の他の種類についてもしばしば観察されており、交尾行動と関係があるらしく、群泳のあと、カニは海底に降りてそれぞれの宿主との共生生活にはいるものと考えられている』とある。
『支那の古い書物には「※蛣」という名で、この「かに」のことが出て居る』〔「※」=「虫」+(「嗩」-「口)〕は「璅蛣」「瑣蛣」とも書き、「璅蛣腹蟹」という語も検索に掛かる。これは、幻想的博物誌「山海経(せんがいきょう)」の注釈者として知られる西晋・東晋の文学者郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)の代表的文学作品「江賦」や、南北朝の陳代(五五七年~五八九年)の作として本草書で引用される沈懐遠「南越志」(現物は消失)に出るが、丘先生の言うような内容のものを見出し得ないでいる。是非とも識者の御教授を乞うものである。]