鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 五大堂/梶原屋敷/馬冷場/持氏屋敷/佐々木屋敷
五 大 堂
海道ヨリ北ノ河向ヒニアリ。明王院大行寺ト云。眞言宗也。本寺ハ御室仁和寺也。本ハ大藏谷ニ有テ、賴朝ノ所願所也卜云。東鑑ニ文應二年正月廿一日、五大尊堂ヲ建立、幕府ノ鬼門ニ相當ル。六月廿九日二供養トアリ。平經時、重テ修造ス。本尊ハ不動、筑後法橋作ナリ。或云、願行ノ作ナリト。近比マデ五大尊トモニ有シガ、四ツハ燒失シテ不動ノミ殘レリ。
明石一心院卜云モ舊跡ニテ、光觸寺ノ南ノ谷、柏原山ノ下ニアリトゾ。
好見月輪寺卜云モ舊跡也。光觸寺ノ北ノ谷ニアリトゾ。
大慈寺ノ舊跡ハ五大堂卜光觸寺ノ間ノ南ノ谷ニアリ。此三ケ寺ノ事ハ具二束鑑ニ見へタリ。
梶
原 屋 敷
五大堂ノ南、道ヨリ北ノ山際ニアリ。梶原平藏景時ガ舊跡也。
[やぶちゃん注:景時の通称は「平藏」ではなく「平三」。]
馬 冷 場
梶原屋敷ノ北ノ山下ニ、生唼・磨墨ノスソシタル所也土石。岩窟ノ内三水アリ。
[やぶちゃん注:「生唼・磨墨」は「いけずき」「するすみ」と読み、源頼朝の持っていた名馬。「平家物語」の「宇治川の先陣争い」で知られ、生唼(「生食」「池月」とも書くが、後者なら「いけづき」となる。名の表記が変わるのは馬主の身分の違いを憚った変名と思われる)は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に、それぞれに戦闘に先立って与えられた。「生唼」とは、馬でありながら生き物に喰らいつくような勇猛なる馬の意、「磨墨」は墨を磨ったようなあくまで深く玄(くろ)い毛並の意である。「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の条に「御馬冷場(ヲンムマヒヤシバ)」として出るが、特にここでは「生唼」の名の由来を記したかったので特に注した。]
持
氏 屋 敷
馬冷場ノ前、梶原屋敷ノ東ノ芝野也。是ヲ時氏屋敷トモ基氏屋敷トモ云。土俗ニハ公方屋敷卜云テ、持氏將軍ノ屋敷也卜云。光觸寺へ近シト云へバ持氏ノ屋敷ナルべシ。時ハ持ノ字ノ篇ヲ誤リ、基ハ持ノヨミヲ、ヲ云誤ルナラン歟。大友興廢記ニ持氏屋敷トアリ。公方代々ノ屋敷也。
[やぶちゃん注:伝承の字音の誤伝考証をここで光圀本人が行っているところに着目したい。彼は優れた考証家であったのだ。「大友興廢記」は「新編鎌倉志」の引用書目にも載るが、杉谷宗重著になる四百年に及ぶ豊後大友氏の興廃を記した史書。寛永十二(一六三七)年頃の成立か。剣巻及び二十二巻二十三冊。大友氏の興廃を描く。八十歳の杉谷の父と老翁の話をもとに書かれたとされる。]
佐々木屋敷
馬冷場ヨリ西ニアル芝野也。是ヨリ滑川ノ端(ハタ)ヲ通リ、淨妙寺・杉本ノ觀音ノ前ヲ歴テ、歌橋ト云小橋ヲ渡リ、灯時ニ雪ノ下ヲ過ギ、英勝寺ニ至テ寺主ニ見へ、終ニ春高庵ニ入ヌ。時既戌ニ近シ。江府ヨリ近侍ノ者來リ迎ヘ、酒ナド勸テ喜ブ。漸ク江邸ニ至ル心地シテ長途ノ勞ヲイコヘヌ。三日辰起、上衣下裳シテ英勝寺ノ佛堂ニ詣リ、拈香作禮シ、方丈二入テ齋膳ヲ喫シ畢リ、庵ニ歸リ上衣ヲ脱シテ馬ニ乘ジ泉谷ニ到ル。
[やぶちゃん注:「戌」午後八時。
「江邸」は「がうてい(ごうてい)」で江戸の上屋敷のことか。
「辰」午前八時。この日の光圀の旅程はなかなかの強行軍で(たった一日で上総から金沢に入って八景近辺、更に朝比奈を越えて英勝寺までの旅程である)、また、翌三日の朝には御老公御自ら騎馬して精力的に歷覧しているさまが活写されている。これ――ドラマの黄門様をたった一回の鎌倉で演じている本人――という気がしてくるから不思議。]