北條九代記 鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮
○ 鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮
大庭平太景義に仰せて、鎌倉小林郷の北の山を點じて、宮所を造營し、鶴ヶ岡の八幡宮を落慶す。賴朝この間精進潔齋し給ふ。然るにこの宮所の事本所(ほんじよ)を改(あらため)て新地に遷し奉らんは神慮如何(いかゞ)はからひ難し、只神鑒(しんかん)に任せらるべしとて、賴朝自(みづから)御寶前に於いて御鬮(みくじ)を取り給ひければ, 小林の郷に遷り給ふべき由三度まで同じ御鬮の出たりける故にさては神慮も納受あり、危(あやぶ)み奉るべからず」とて、未だ華構の飾(かざり)には及ばすといへども、茅茨(ぼうじ)の營(いとなみ)形(かた)のごとくに修造せらる。抑この八幡宮と申すは古(いにしへ)後冷泉院の御宇伊豫守源朝臣賴義勅(ちよく)を承りて、安部貞任征伐の爲東國に下向ありし時、懇祈(こんき)の旨有て康平六年秋八月竊(ひそか)に石淸水の八幡を勸請し、宮所(みやどころ)を鎌倉の由井郷に建てられたり。其後永保元年二月に賴義の長男陸奥守源朝臣義家修理を加へ、崇祀(あがめたてまつ)り給ひけり。今又是を小林の郷に遷し奉らる。本の宮居をば下の若宮と號し、今の鶴ヶ岡をば上の若宮と申し奉る。往初(そのかみ)平家世を取て年久しく、幣帛(へいはく)を獻(さゝ)ぐる人も自(おのづから)稀なりければ、宮居いつしか神閑(かみさ)びて漸く荒に就き侍りしに、賴朝鎌倉に入り給ひてより、修造遷宮の事を營み、即ち走湯山(そうたうさん)の住侶(ぢゆうりよ)專光坊良暹(りやうせん)を當宮(たうぐう)の別當職にぞ補(ふ)せられける。御燈の光(ひかり)は神威を顕(あらは)し、宮前の花は神德を表す。讀經の聲は砌(みぎり)に響き、振鈴(しんれい)の音は雲に通ひ、蘋蘩蘊藻(ひんぱんうんさう)の供(そなへ)、鼓笛名香(こてきめいかう)の薫(かをり)玉の殿宇(みあや)に潔(いさぎよ)く、朱(あけ)の瑞籬(みづがき)に充満(みちみち)たり。賴朝頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、禮奠(れんてん)信仰丹誠を凝し給へば、その外の輩(とこがら)高きも卑(いやし)きも參詣禮拜せずと云ふ者なし。神慮定て納受(なうじゆ)新(あらた)に、源家擁護の眸(まなじり)は、遠く平氏の凶惡を退治し、国衙垂跡(こくがすゐしやく)の惠(めぐみ)は、近く軍士の勝利を施與(せよ)し給ふものなりと、有難かりける神德なり。
[やぶちゃん注:標題「鶴ヶ岡八幡宮」の「ヶ」には、底本では明らかな濁点が附されている。以降にも散見するが、以後本注は略す。
「蘋蘩蘊藻」「蘋蘩」は浮草と白蓬(しろよもぎ)、「蘊藻」(「おんそう」とも読む)群がる藻の意であるが、ここでは数多の神饌の穢れのない食菜類を指している。
「殿宇(みあや)」読み不審。「みあらか」の誤りか。「御殿」と書いて「みあらか」と読み、宮殿・殿舎を意味し、これも「御在所(みありか)」の転訛である。
「神慮定て納受新に」神もまた、この新しい神宮寺の建立をお納めになったのを契機となさって、の意。
「国衙垂跡の惠」「国衙」は極めて広義の、日本各地の国庁によって支配された正当な国土の謂い、「垂跡」はその日本に神が衆生済度のために仮の神や人の姿となって現われて統率し、それら全国を正しく安定させる恩恵の謂い。
「施與」恵みを与えること。]