北條九代記 鎌倉草創付來歷
○鎌倉草創付來歷
上總權介廣常は當國の軍勢二萬餘騎を引率して、隅田川の邊に參向す。賴朝の仰に「廣常が遲參の條、心得難し。後陣にありて、御下知を守るべし」となり。この大軍にて、馳參らば、定て喜び給ふべきかと思ひし所に、却て遲參を咎めらるる事大量の英機あり。いかさま天下を治むべき人なりと恐入てぞ感じける。千葉介軍(いくさ)評定の中にして、賴朝へ申入られけるは、「今此御陣所はさせる要害の地にあらず、讐敵不慮に襲ひ來らば、防難(ふせぎがた)かるべし、相摸國鎌倉こそ曩祖(なうそ)の勝跡とて地形(ちぎやう)堅固なり、陸の手賦(てくばり)、海の通路、四方の國郡に便宜(びんぎ)あり。軍兵を集むるに分内(ぶんない)廣く、兵糧の運漕心のまゝに候。抑(そもそも)此所を鎌倉と名付くる事は昔大職冠鎌足公は常陸國に誕生し、都に上りて、宮中に仕奉(つかうまつ)り、次第昇進して、家門榮え、天智天皇八年に藤原の姓(しやう)を賜り、入鹿の逆臣(げきしん)を討(うつ)て、天下を靜め、内大臣に補任(ふにん)せられ、威勢四海に耀き、聲德八荒に盈(みち)ち給ふ。其宿願の喜(よろこび)として、常州鹿嶋に詣で給ふ歸洛の次(ついで)、相州由井の郷に宿し、その夜夢の告(つげ)に依(よつ)て、守(まもり)の鎌を大倉の松岡に埋(うづ)み給ふ。是に依て鎌倉とは名付け候なり。鎌足公の玄孫染屋太郎時忠と云ふ者忠孝武勇(ぶよう)の譽(ほまれ)あり。文武天皇の御宇より聖武皇帝の御世に至るまで、鎌倉に居住して東八ヶ國の追捕使(つゐふし)たり。後に平貞盛が孫上野介平直方(なほかた)任に應じて下り住みける所に、伊豫守賴義相摸守になりて下向の時、貞方が女(むすめ)を妻(めあは)せて賴義を婿とす。八幡太郎義家その腹に誕生し給ひ、成人して陸奧守に任じ、征夷將軍に補(ふ)せられ御下向ありける所に、直方即ち鎌倉を義家に讓り奉りしより以來、源家累代の領知として御家人は多く東國に充満(みちみち)たり。然れば佳運(かうん)を天下(あめがした)に開き先祖を雲の上に顯(あらは)さんには、誠に慶(めでた)き勝境(しようきやう)にて候」とぞ申されける、賴朝大に甘心(かんしん)し給ひ、總州鷺沼の陣旅(ぢんりよ)を拂(はらつ)て軍兵三萬餘騎を率(そつ)して、隅田川を渡りて、武藏國に入り給へば、畠山、葛西、足立の人々馳付(はせつ)きたり。相摸國に著き給ふ前陣は、畠山次郎重忠、後陣は千葉介常胤なり。軍兵追々加りて、幾十萬とも知難し、先(まづ)鎌倉の民屋(みんをく)を點じて、御座として入れ奉る。その外の輩(ともがら)は谷に塞(ふさが)り、山に満(みち)て、思ひ思ひに陣を取る。治承三年十月六日鎌倉山に花開けて瞻々(にぎにぎ)しくぞなりにける。同十一日賴朝の御臺政子を大庭平太景義迎へ奉りて、鎌倉に入れ給ふ。めでたかりける事どもなり。
[やぶちゃん注:「八荒」国の八方の果て。全世界。
「總州鷺沼」現在の千葉県習志野市津田沼の一部。
「治承三年十月六日」は「治承四年」の誤りである。]