芥川龍之介 正直に書くことの困難 《芥川龍之介未電子化掌品抄》
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月発行の『婦人畫報』に「藝術家としての婦人」の大見出しのもとに表記の題で掲載された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本の総ルビは本作に限っては五月蠅いものでしかないので、総て省略した。因みに私が読み違えた箇所は「前人」の「ぜんにん」のみであった。踊り字「く」は正字に直した。なお、勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」の同作の項で熊谷信子氏は『本格的な恋愛小説を描いていない芥川が、なぜ女流作家の恋愛小説に言及したのか、その真意の追求が待たれ』、また『大正時代文壇に登場してきた女流作家の描いた小説、芥川と関係のあった秀しげ子と片山広子の創作内容の考察も必要であろう』と述べておられる。【二〇一二年一〇月二一日】]
正直に書くことの困難
女の書いた文藝に對するものは、勿論、男の書いた文藝である。すると、女の書いた文章が、男の書いた文藝に異る所以は、つまり、男が女に異る所以でなければならぬ。男が女に異る所以は、單に、性の問題である。男女兩性の差は、勿論、戀愛にばかりあらはれるとは限らない。政治論にも、哲學論にも、或はまた、風景論にも現はれ得ることは、事實である。しかし、最も直接にあらはれるものは、やはり、戀愛でなければならぬ。或は、戀愛を書いた作品でなければならぬ。けれども、古來戀愛を取扱つた女の作家は、比較的、男らしい女が多いやうである。サッフォはいふをまたず、例へば、ジョルジユ・サンドでも、色男のミュツセやショパンよりも、寧ろ、男らしいくらゐである。この、男らしい女の書いたのではでない、即ち、女らしい女の書いた戀愛小説があつたら、さぞ、われわれ男には面白いだらうと思つてゐる。
しかし、これは論ずるは易く、行ふは難い問題に違ひない。正直に書けとか、眞實を怖れるるなとかいふことは、如何なる文藝批評家でも、公然と口にする言葉であるが、さて何が眞實だか、どうすれば正直に書けるかといふことは、事實上、容易にわからぬものである。そこで先づ、前人の眞實を怖れなかつたり、正直に書いたりした例を求める。それから、その例の示すやうに、正直に書いたり、眞實を怖れなくなつたりする。ところが、女の場合には、そのお手本になるものが、男らしい女と來てゐるのだから、いよいよ眞賓を怖れなかつたり、正直に書いたりすることが、困難になるわけである。しかし、その困難にうち勝たなければ、全然、男と別方面に出た作品を作ることは出來ないわけである。けれども、これは、男と別方面――即ち、横の廣がりの上に、新機軸を出す問題である。縱の高さ――即ち、男と同じ方面に、女の作家の手腕を揮ふことも、勿論、出來ない次第ではない。僕は、女の腦味噌は、必ずしも、男の腦味噌よりも、少いといふことを信じてゐない。だから、この縱の方面にも、女の作家の出ることを期待してゐる。尤も、女は男よりも、虛僞本能に長じてゐるから、存外、女らしいものを書くよりも、男らしいものを書く方が、手つ取り早く出來るかも知れない。