生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(1)
二 隱れること
隱れるといふ中には、敵に見える場處から敵に見えぬ場處へ移ることと、平常から見えぬ場處に止まつて居ることとがあるが、兩方ともに動物界にはその例が澤山にある。巧に隠れることは、敵に食はれぬ法の中で、最も有功なしかも勞力を費すことの最も少い經濟的なものである。しかし、またこれを探し出すことを専門とする動物が必ずあるから、隱れたりとて決して全く安全とはいはれぬ。但し、隱れなければ數百數千の敵に襲はれるべき所を、隱れて居るためにわずかに二三の特殊の敵に攻められるだけで濟むのであるから、隱れただけの功能は勿論ある。その上獅子・虎の如き無敵の猛獸でも、安心して休息するためにはやはり隱れ場處を要するから、動物中で眞に隱れる必要のないものは、恐らく大洋の表面に浮んで居る「くらげ」の如き種類の外にはなからう。
[やぶちゃん注:クラゲが生物で唯一、隠れる必要のない生物である、という丘先生の叙述は何やらん、哲学的で面白いではないか。]
敵が近づけば忽ち隱れる動物は頗る多い。これは見える處から見えぬ處へ移るのであるから逃げるのの一種であるが、そのとき即座の鑑定によつて適當な隱れ場處を求めて逃げ込むものと、豫め隱れ場處を造つて置き、常にその近邊のみに居て、敵が見えれば忽ちそこへ逃げ歸るものとある。海岸の岩や石垣の上に澤山走り廻つて居る船蟲は、人の影を見れば直に最も近い割目に這ひ込むだけで、別に巣の如き定まつた場處はないが、砂濱に多數にいる「小がに」は各自に一つづつ孔を穿ち、常にその近くに居て、若し人が來り近づくと、皆一齊に自分の穴に逃げ込む。潮の干たときに、鋏で砂粒を挾んで餌を求め食ふ擧動が、恰も招く如くであるから、俗に「潮招き」と名づける。走ることが極めて速で、且穴が近くにあるから、捕へることは頗る難い。狐・狸でも兎の類でも、追はれれば直に穴に逃げ込むもの故、これを獵するには特に足の短い獵犬の助けを借らねばならぬ。
[やぶちゃん注:「潮招き」は、丘先生は砂浜海岸に棲息する小蟹類(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ
Ocypode stimpsoni やスナガニ科コメツキガニ亜科コメツキガニ Scopimera globosa など)の砂泥からの摂餌行動を、土俗で広義に「潮招き」と呼ぶ、と叙述されているのであって、これは、所謂、狭義の種としてのスナガニ科スナガニ亜科のシオマネキ属 Uca 類を指しているのではない点に注意されたい。因みに、シオマネキ類のオスが大きな鋏脚を振る「潮招き」行動、ウェービング(waving)は、摂餌行動ではなく、求愛行動である。]