耳嚢 巻之五 小がらす丸の事
小がらす丸の事
右小がらす丸の太刀は、曩祖(なうそ)より傳りしや、伊勢萬助(まんすけ)に寶として所持なるを、御具足師岩井播磨近頃見たりし由。播磨は古實を糺す事を常に好む癖有しが、家業の事にも委(くは)しき由。帶とりの革を見て、是は古きものなれど忠盛淸盛などの品にあらず、足利時代の革なるべしと目利(めきき)せしかば萬助手を打(うち)て、能(よく)も見たる哉(かな)、添狀(そへじやう)に應仁の頃此太刀修復せし事ありとて書記(かきしる)しあれど、其後は手入の沙汰もなきが、不思議は此太刀今以(いまもつて)サビを生ぜずと申けるゆへ、中(なか)ごを見れば朽(くち)も入(いり)て甚(はなはだ)古びしが、其刄(そのは)はいさゝかのさびもなく、不思議は三寸程切先(きつさき)の方諸刄(もろは)なる由。伊勢の家にてはつるぎ太刀と唱へる由語りし由。予が許へ來る望月翁のいへるは、つるぎ太刀とは何と哉(や)らん可笑しき言葉なり、萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし、然れば古き言葉也。(と語りぬ。)
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「小がらす丸」平家重代の名刀とされる小烏丸。刀剣類は私の守備範囲ではないので、以下、ウィキの「小烏丸」よりその殆んどを引用させて頂く(アラビア数字や記号の一部を改変した。なお、引用元に『集古十種』よりの図がある)。『刀工「天国」作との説があり、「天国」の銘があったとの伝承もあるが、現存するものは生ぶ茎(うぶなかご)、無銘で』、『日本の刀剣が直刀から反りのある湾刀へ変化する過渡期の平安時代中期頃の作と推定され、日本刀の変遷を知る上で貴重な資料である。一般的な「日本刀」とは違い、刀身の先端から半分以上が両刃になっている独特の形状を持つ。これを鋒両刃造(きっさきもろはづくり、ほうりょうじんづくり)と呼び、以降、鋒両刃造のことを総称して「小烏造(こがらすまるつくり)」とも呼ぶようになった』。茎(なかご:後注参照。)『と刀身は緩やかな反りを持っているが、刀身全体の長さの半分以上が両刃になっていることから、断ち切ることに適さず、刺突に適した形状となっている』。『刃長六二・七センチメートル、反り一・三センチメートル、腰元から茎にかけ強く反っているが、上半身にはほとんど反りが付かない。鎬は後世の日本刀と異なり、刀身のほぼ中央にあり、表裏の鎬上に樋(ひ)を、棟方に掻き流しの薙刀樋(なぎなたひ)を掻く。地鉄は小板目肌が流れごころとなり、刃文は直刃(すぐは)で刃中の働きが豊かなものである』(刀剣用語の解説は省略するが、引用元の図を参照されれば概ね意味は分かる)。『刀身と併せて、柄・鞘共に紺地雲龍文様の錦で包み、茶糸平巻で柄巻と渡巻を施した「錦包糸巻太刀拵」様式の外装が付属しているが、この外装は明治時代の作である。寛政十二年(西暦一八〇〇年)に編纂された「集古十種」には「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」(後述)より転載された蜀江錦包の刀装の絵図が収録されており、現在の外装はそれらを参考に作り直されたものとみられる』。伝承では『桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、「小烏丸」の名はその大鴉の羽から出てきた』ことに由来するという。『後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の重宝となる。壇ノ浦の戦い後行方不明になったとされたが、その後天明五年(一七八五年)になり、平氏一門の流れを汲む伊勢氏で保管されていることが判明し、伊勢家より刀身及び刀装と伝来を示す「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」の文書が幕府に提出された。この「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀」は伊勢家より徳川将軍家に献上されたものの、将軍家はそのまま伊勢家に預け、明治維新後に伊勢家より対馬国の宗氏に買い取られた後、明治一五年(一八八二年)に宗家当主の宗重正伯爵より明治天皇に献上された』。『現在はこれが皇室御物「小烏丸」として、外装共に宮内庁委託品として国立文化財機構で保管されている』。『正倉院宝物の直刀の中には鋒両刃造のものがある。御物の「小烏丸」の他にも「鋒両刃造」の太刀は幾振りか現存しており、各地各時代の刀工が研究のため写しとして製作していたようである』。戦前、『「小烏丸」は時の天皇より朝敵討伐に赴く将に与えられた、という故事に基づき、日本陸海軍で元帥号を授けられた大将に下賜される「元帥刀」の刀身にも、「鋒両刃造の太刀」の様式が用いられていた』。『現在でも「鋒両刃造の太刀」は現代刀の様式の一つとして作刀されているものがあり、上述の「元帥刀」の他にも「靖国神社遊就館」の展示刀や新潟県新発田市の「月岡カリオンパーク」内の「カリオン文化館」の展示品(人間国宝認定刀工の天田昭次の作刀)などを見ることができる。数は少ないながら、刀剣店で取り扱われる刀剣類としても時折見られる様式である』とある。
・「曩祖」先祖。祖先。「曩(ノウ)」は、先・昔・以前の意。
・「伊勢萬助」伊勢貞春(宝暦一〇(一七六〇)年~文化九(一八一三)年)は有職故実家。万助は通称。江戸生。父貞敦(さだたけ)は現在、伊勢故実家で最も知られる伊勢貞丈の養子で、母は貞丈の娘であった。父が病身のため惣領を辞し、明和五(一七六八)年に貞春が嫡孫承祖として家督相続人となった(諸書が貞春を貞丈の子と記すのはこれによる)。天明四(一七八四)年、貞丈の死去により食禄三〇〇石を継ぎ、寛政元(一七八九)年御小姓組御番勤となる。家学を継承して門人の求めに応じて貞丈の著書を刊行した。本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年の前年寛政八年には幕命を受けて「武器図説」を編集している。国学者屋代弘賢は彼の門人である(以上は「朝日日本歴史人物事典」の白石良夫氏の記載に基づく)。伊勢氏は藤原道長全盛の時代に遡る桓武平氏の平維衡(これひら)の流れを汲む氏族で、室町期には政所執事を世襲、江戸期には旗本として仕えて武家の礼法「伊勢礼法」を創始、有職故実の家として知られていた(以上はウィキの「伊勢氏」に拠る)。
・「岩井播磨」岩波版長谷川氏注に『幕府御用の具足師』とある。
・「帶とり」は太刀の鞘の足金物(あしかなもの:太刀の鞘上部にある、この帯取りの革緒(かわお)を通す一対の金具。足金(あしがね)とも単に足とも言う。)と、腰に巻く佩き緒とを繫ぐ紐。飾り太刀や細太刀では紫革又は藍革、野太のこと。野太刀(大型の太刀である大太刀の別称)では燻(ふす)べ革・白革などを用いる。
・「忠盛淸盛」平忠盛とその長子清盛。
・「應仁」西暦一四六七年から一四六九年。
・「中ご」茎(なかご)。刀身の柄に被われる部分。呼称は柄の中に込めるに由来。「中心」とも書く。
・「三寸程切先の方諸刄なる」「小がらす丸」の注に見たように『刀身の先端から半分以上が両刃』であり「三寸」(約九センチメートル)では如何にもおかしい。谷川士清纂「和訓栞」(安永六(一七七七)年~文化二(一八〇五)年刊)の「たち」(太刀)の項には以下のように記す(底本は早稲田大学図書館古典籍総合データベースの画像を視認した。一部に濁点と句読点を打って読み易くした)。
〇小烏のたちハ、平家の寶とする所にて、今、伊勢氏傳ふる所は、もと一尺ばかりは、よにつねの平つくりの刀にして、末は両刃(モロハ)也。きつさき尖れるとぞ。
とある。一尺(約三〇センチメートル)なら、先の『刃長六二・七センチメートル』の凡そ半分で一致する。「寸」は「尺」の誤りであろう。現代語訳では「三尺」とした。
・「望月翁」「卷之四」に登場した根岸のニュース・ソースの一人で儒学者。特に詩歌に一家言持った人物で、この二つ後に現れる「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも和歌の薀蓄を述べており(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)、ここでもエンディングに和歌絡みの薀蓄で登場している。
・「つるぎ太刀」「つるぎたち」と本来は濁らない。鋭くよく切れる刀、若しくは単に刀の意でも用いる古くからの語である。
・「萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし」「剣太刀」は以下の和歌の例を見れば分かる通り、そのものとして詠み込まれるのではなく、枕詞としての用法が圧倒的に多い。刀剣は身に着けるものであるから「身」「身にそふ」「み」、名刀は本小烏丸の如く命名するのが常であるから「名」「汝(な)」「な」、刀は研ぐから「とぐ」などに掛かる。これらの例を「万葉集」で見る(引用底本は講談社文庫版中西進「万葉集」を用いたが、私のポリシーに則り、正字に代えてある。また、訳は私のオリジナルである)。まず、有名どころでは巻二の一九四番歌、「柿本人麿の柿本朝臣泊瀨部皇女(はつせべのひめみこ)と忍坂部皇子(をさかべのみこ)に獻れる歌一首」に現れる。これは川島皇子(天智天皇の第二皇子)逝去後に妃泊瀬部皇女(天武天皇皇女)へ忍坂部皇子(天武天皇皇子泊瀬部皇女は同母)が献じる歌を人麻呂が代作したものらしい。但し、和歌自体の語り掛ける主体は泊瀬部皇女である。
飛鳥(とぶとり)の 明日香の川の 上(かみ)つ瀨に 生ふる玉藻は 下つ瀨に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 嬬(つま)の命(みこと)の たたなづく
柔膚(にぎはだ)すらを 劒刀(つるぎたち) 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は沾(ぬ)れて 草枕 旅寢かもする
逢はぬ君ゆゑ
当該箇所「か寄りかく寄り 靡かひし 嬬の命の たたなづく
柔膚すらを 劒刀 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ」は、「……藻の如く、何度も何度も親しくく寄り添うてはともに横になった夫のあなた、その柔らかな気持ちのいい肌えさえも、亡くなった今となっては、太刀を身に添えるように寝ることも出来なくなってしまった故、漆黒の闇の夜には、二人だけのものであったあの寝間もすっかり荒れ果てております……」といた謂いであろう。また巻二の二一七番歌、入水自殺した采女への、同じく柿本人麻呂の挽歌「吉備の津の采女の死(みまか)りし時に、柿本人麿の作れる一首」の、
秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか
栲繩(たくなは)の 長き命を 露こそば 朝(あした)に置きて 夕(ゆふべ)は 消ゆと言へ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓(あづさゆみ) 音(おと)聞く吾も おぼに見し 事悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 劒刀 身に副(そ)へ寢けむ 若草の その嬬(つま)の子は さぶしみか 思ひて寢(ぬ)らむ 悔しみか 思ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと
当該箇所「敷栲の 手枕まきて 劒刀 身に副へ寢けむ」は、「幾重にも布を重ねた枕のような柔らかな手枕を交わし、太刀を身に添えるように寄り添って寝た、懐かしの貴女」の意である。その他、六〇四番歌、
劒大刀(つるぎたち)身に取り副ふと夢(いめ)に見つ如何なる怪(け)そも君に相はせむ
――女である私が、太刀を身に添えて臥す夢を見ました。この不思議な夢は、何? 貴方さまの御覧になった夢と、夢合わせをしてみたいわ……
巻第四の六一六番歌、
劒大刀名の惜しけくもわれは無し君に逢はずて年の經ぬれば
――名刀の銘など、私は惜しくは、ない――そなたに逢わず、もう、何年の経ってしまった絶望の中では……
であるとか、巻第十一の二四九八番歌、
劒刀諸刃の利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依りなむ
――二人の寝床に添えた貴方太刀の諸刃の鋭い刃を、踏んでしまって死ぬるのなら死にます、もう、貴方さまのお側に寄り添ったのだから、永久に貴方さまを頼りと致しましょう……
及びこれの相聞と思われる次の二四九九番歌、
吾妹子(わぎもこ)に戀ひし渡れば劒刀名の惜しけくも思ひかねつも
――愛しいお前に恋続けたから、太刀の刃(刀の刃(やいば)を古くは「な」と呼称した)――我が名を惜しむ――という男の甲斐性も忘れてしまいそうだよ……
二四九八の同工異曲男ヴァージョン(と私は思う)、同巻の二六三六番歌、
劒大刀諸刃の上に行き觸れて師にかも死なむ戀ひつつあらずは
――太刀の諸刃の上にぐいと当たって触れ、ずぶり斬! と、死ぬのなら死んでしまいたいものだ! かくも恋に苦しんでなどいないで……
巻二十の四四六七番歌の大伴家持の歌、
劒大刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ淸けく負ひて來にしその名そ
――太刀のをいや増しに磨くがよいぞ! 古えより連綿と背負うて参ったその銘刀を!
これは一見、即物的だが、実際にはこの歌は同族の者が讒言で失脚した際の義憤の歌であり、大伴一族の家名のシンボルとして詠まれている。
以上ように、望月翁の言う「二三ケ所」どころの騒ぎではなく、「万葉集」での用例は甚だ多い。
・「(と語りぬ。)」底本では右に『(一本)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
小がらす丸の事
かの知られた平家重代の銘刀『小がらす丸』の太刀は、これ、先祖より伝わったものか、伊勢萬助殿の家で家宝として所持されておるもので御座るが、最近、幕府御用の具足師岩井播磨が見たとの由。
播磨は何にあれ、故実を糺すことを何より好んで、それを趣味と致いておるが、これ無論、家業の武具刀剣のことにも頗る詳しい由。
その彼、『小がらす丸』実見に際して、その帯取りの革紐に、まず、目をつけた。
「――これは古いもので御座るが――まず、忠盛・清盛といった頃の品にては、これ、御座らぬ。――まあ、一見した限りでは、足利時代の革で御座ろう。」
と一瞬にして目利(めき)き致いたところが、万助、手を打って、
「――流石じゃ! この「小がらす丸」には添状があって、そこには応仁の頃、この太刀を修復致いたことが、これ、書き記してあった。……なれど……その後は手入れもなされずに参ったものと思わるるが……これ、不思議なは、この太刀、今以て錆を生ぜずにある、ということじゃ……」
と申した故、播磨が茎(なかご)を確かめて見たところ、茎(なかご)の方は流石にすっかり朽ちて甚だ古色蒼然と致いておったが、その抜き放った刃(やいば)には――これ、聊かの錆も御座なく――不思議なは、実に三尺ほど切先の部分が諸刃であった由。
伊勢家にては『つるぎ太刀』と呼び習わしておるとの由。
以上のことを、私の元へしばしば来たれる望月翁に話したところ、
「……『つるぎ太刀』とは、屋上屋の如くにて、何とやらんおかしい言葉のようにお感じになられましょうが……『万葉集』に、『つるぎ太刀』と詠み込んだ歌、これ、二、三箇所に見えますればこそ、これ、古き詞(ことば)にて御座る。」
と語って御座った。